なかったことにしてください  memo  work  clap




 硬直する武尊を前に、青年は驚きの表情を見え隠れさせながら言った。
「恋人じゃないの?」
「ち、違います!妻も娘もいるんです」
武尊は慌てて否定する。否定してから、青年が湊とどんな関係であるのか、やっと理解した。
湊が振られた相手、元恋人こそ、目の前の男なのではないのだろうか。
 そして、この青年は自分のことを湊の新しい恋人だと勘違いした。
 湊は「そういう人種」なのだ・・・・・・。
眩暈がする。いきなり突きつけられた現実に、目の前で風船を割られたようなショックが
走る。痛みは無いのに、心臓に悪い。
 ブルブルと顔を振っていると、青年は意地悪そうに目を細めて言う。
「じゃあ、バイで不倫?」
武尊は顔を真っ赤にした。
「そ、そういう趣味はありません!男をそう言う目で見たことなど一度もありません!」
この感情の大半は怒りだ。自分を「そういう人種」と同じにするな、という。
 武尊にゲイの免疫はない。友人の中にいなければ、遭遇したこともない。世の中にゲイと
いわれる人たちがいる事は理解していても、自分の世界の中にはいない事になっていた。
 気持ち悪いとかそう言う類の気持ちが沸いて来る前に、どう接していいのか分らない。
いうなれば、街中で外国人に外国語で話しかけられて戸惑ってしまうような感覚だ。
 自分の持っている常識が通用しない相手。
それは武尊の偏見だが、その偏見を正しく直してくれる人間は未だ武尊の周りにはいない。
武尊の態度を見て、青年も自分が勘違いしていたことに漸く気づき始めた。
「あんた、湊の何?」
「・・・・・・何って言われると」
何なのだろう。友達でも、勿論恋人でもない。湊との関係に名前をつけるとしたら、何と
言えばいいのか。知り合い。同居人。―――家族。
 はっとする。
湊は自分に「家族をしよう」と言ってはいなかっただろうか。
あれは、どういう意味が込められていたのだろう。
深読みをして、武尊は背筋がすうっと冷めていくのを感じる。
玄関の明かりに照らされて、暗闇の中で青年の顔が悪魔みたいに浮かんで見える。じっと
立っていると寒さで耳が痛くなった。
「あのさあ?」
目の前の青年は気まずそうになって声のトーンを幾分落としていた。
「湊、自分がゲイなこと隠してた?」
「・・・・・・ゲイなんですか」
「そうだね」
「今初めて知りました」
盛大な溜め息が、夜の闇に白く浮き上がる。バックで満月に近い月がやわらかい光を放って
浮かんでいた。
「じゃあ、俺不味い事言っちゃったな」
「・・・・・・」
青年が髪を掻き揚げる。武尊はその指を見ていた。この指が湊の身体を抱きしめたり、優しく
撫でていたのだろうか。
 思考の拒絶。武尊は想像する前に、顔を背けた。
しかめっ面の武尊に青年は面倒くさそうに言う。
「あんた、俺の言った事、なかったことにできない?」
「どういう意味ですか」
「俺がココに来た事、黙っといて。この荷物はあんたが帰ってきたら、玄関に置いてあった
ことに出来ない?」
青年は武尊の足元に落ちた紙袋と、転がった指輪を拾うともう一度武尊に手渡す。
 これは彼なりの湊への優しさだろう。
 聞かなかったことにして、今までと同じように湊に接することができるだろうか。武尊
にはその自信がない。
 武尊は躊躇いながら紙袋を受け取った。
「あんた達の関係がどんなのか知らないけど、悪かったね」
「・・・・・・」
「俺は過去の人間だから、忘れてくれよ。あんたも」
それだけ言うと、青年は武尊に背を向けて玄関を後にする。武尊はその背中に掛ける言葉
が見つからなかった。






「そんな事ってあるのか」
キッチンに戻ると、ダイニングテーブルに手渡された紙袋を置いてソファに深く座った。
頭がぼうっとする。本当に現実をみているのか不思議な気分だった。
 妻に他の男がいると知ったときも、物語の中で聞いたことのように初めは実感が沸かな
かった。こんな事は週刊誌やワイドショーで取り上げられるゴシップネタで、自分に降り
掛かる火の粉じゃない。冗談だ。悪い夢だ。そう思って最初は否定した。結局はそれは紛れ
もない痛い事実だったけれど。でも、湊がゲイという事実はそれ以上に現実味がない。
 夢でも見ているみたいだったけれど、急に家の中が居心地が悪くなる。
湊の使っているダイニングテーブルの椅子やグランドピアノ。今朝使っていたマグカップ
や箸。今まで平気で触っていたのに、今は触るのさえ躊躇ってしまう。
 心地よかったソファの座りも何度も座りなおしていた。
 心の狭い人間だと言われても仕方ないだろうけど、武尊は「ゲイの湊」を受け入れられる
程余裕がない。
 湊が帰ってきたら、どうしようか。どうしていられるんだろうか。武尊の気持ちが揺れる。
今までどおりにどうやって接しろというんだ。でも、湊が隠してきたことならば、気づかず
に、普通にしてあげる事が彼への礼儀だと、武尊の良心が囁く。
 雑誌に顔を埋めてこんがらがっている気持ちを何とか落ち着けようとするが、心が決まら
ないうちに玄関のドアは開いてしまった。




「ただいま」
「お、おかえり」
「やっぱり武尊さんの方が帰って来るの早かったね」
「ええ。ご飯、済ませちゃいました」
「そっか。あー、疲れた。そういえば、今日は月がきれいだったよ。お月見でもしたくなる
ような。あ、ドビュッシーの月の光でも弾こうかな。武尊さん知ってる?」
「いえ・・・でも、お月見はいいですね」
湊は鞄から教本を取り出すと、無造作にグランドピアノの上に置いた。それから数枚の資料
を手にダイニングテーブルに付く。
 武尊はドキドキしながらそれを見守った。
テーブルの上には先ほどの青年が持ってきた湊の「忘れ物」が置いてある。
湊は紙袋に気づくと、武尊の方を振り返った。
「何これ?」
「い、家に帰ってきたら、玄関の前に置いてあったんですけど・・・・・・」
「なんだろう?」
そう言いながら、湊は袋に手を掛ける。中を一瞬確認してその動作が止まった。
「これ・・・・・・」
「湊君の物ですか?」
「・・・・・・うん、まあ」
湊の表情は堅い。一瞥しただけで、それが何であるのか気づいたのだろう。袋の中を開けた
まま、何かを考えているようだった。
 武尊は平然を装う為に、雑誌に目を落としたまま耳だけ澄ませた。けれど、耳に心臓が
出来たみたいに、耳がビクビクして真っ赤になりそうだ。
「・・・・・・玄関に置いてあった?」
「ん?・・・・・・あ、はい。そう。なんか問題でも?」
「そう・・・・・・」
雑誌の隙間から湊を垣間見れば、湊は憂いに近い表情になっている。
 湊としても知られたくない事実なのではないのだろうか。自分に黙っていたという事は
ゲイである自分を隠したかったということなのではないのだろうか。
 自分の為、湊の為、この生活の為、武尊は青年との秘密を隠し通さなくてはならない。
「中、見た?」
「いえ」
「本当に?」
何かを見透かしたような視線に、武尊は耳の後ろが熱くなる。嘘は苦手だ。
「・・・・・・すみません。見ては無いですが、落とした拍子に指輪が転がってしまって」
これくらいは白状しても問題ないだろう。全くの嘘でもない。ただ、青年に湊の秘密を
聞かされて驚いた拍子に落としたという事を伏せただけだ。
 大丈夫。秘密は守れる。そう思って武尊は赤くなる顔を湊から微妙に逸らした。
「指輪・・・・・・」
袋の隅に転がる指輪を湊は拾い上げた。こんなもので縛れるとは思ってなかったけれど、
ささやかな自分達の証代わりに、お互い一番気に入ったものを贈り合った。おそろいで
つけれるほど強くなく、ゲイという性癖に後ろめたさはある。
 自分達だけに分る絆だったそれは、今湊の手の中に戻ってきてしまった。
 袋の中には自分がアパートに残してきた生活用品や、彼に貸したCDが見える。
「別に態々持ってこなくてもいいのに・・・。いっそ捨ててくれれば、こっちだって気が楽に
なるって言うのにね」
湊は武尊に同意を求めるわけでも無いのに、虚ろな表情のまま武尊を振り返った。
「指輪の処分には悩むところですよね」
「捨ててくれればいいんだ。返すなんて、残酷と思わない?」
「湊君はどうしたんですか」
「・・・・・・まだ持ってるよ。未練がましいね。あいつは、持ってる事も、捨てるっていう行為
すら拒絶して、僕に放棄してきたんだ。ホントずるいよね」
「大切な指輪だから、自分じゃ捨てられないんじゃないんですか」
「それがずるいって言うんだ」
「でも、無残に捨てることが出来ないっていうなら、それは彼の優しさなんじゃないんですか」
するっと出てしまった武尊の一言に、湊が過剰に反応した。
「武尊さん、今なんて・・・・・・」
「え?」
発言した武尊は暫く湊が何に対して反応したのか気が付かなかった。
 しかし、自分の言葉を反芻して耳が急激に赤くなっていく。


『それは彼の優しさなんじゃないんですか』


彼の・・・・・・。
「あの・・・・・・」
「・・・・・・武尊さんって本当に嘘が下手なんだね」
「えっと・・・・・・」
「来たんでしょ?本当は。あいつが」
湊の声が震えている。湊の顔も緊張で強張っていた。
「・・・・・・すみません。会いました」
「何で、そんな嘘を?」
「湊君が、そのゲイってことを黙ってたから、彼がそのことを尊重してくれと。湊君がゲイ
ということを知らなかったことにしてあげてって」
湊から大きな溜め息が漏れる。赤くなっていた頬が薄くなって、落ち着きというより諦め
の表情に変わっていた。
「この場合黙っててゴメン、って言うべきなのかな」
「あ、いえ・・・・・・」
「でも、誤解してほしくないんだけど、僕が武尊さんを拾ったのも、一緒に住もうって言った
のも、そう言う意味が含まれてたわけじゃないから。・・・・・・今はそう言う気分になれない
って言えば信じてもらえるかな。ゲイだからって、誰も彼もが恋愛対象になるわけじゃない
んだよね」
自嘲気味に湊は笑った。乾いた笑いが収まると沈黙になった。無言の中にキッチンの雑音
が野次馬みたいにがやがやと遠巻きに囁いている。
 湊は紙袋をダイニングテーブルにおいたまま、武尊の方に近づいてきた。傷ついたような
表情なのは、彼の行為のせいなのか、武尊の所為なのか。
 近づいてくると武尊の身体が瞬間強張った。
ピアノの前に来ると湊はピアノの椅子に座った。肩膝を抱えてそこに顔を預ける。半分
顔を隠して武尊を上目で見た。
「気持ち悪いのなら、出て行ってもいいよ」
「俺は別に」
「別にって事、ないでしょ。僕、ゲイだよ。僕と一緒にお風呂は入れる?」
「・・・・・・」
返答に困る質問をされて武尊は黙ってしまった。
「武尊さんもやっぱりそう言う反応なんだよね」
「俺は」
「うん。それが普通だよ。気持ち悪いって面と向かって言わないだけ良心的だって思うし」
顔を上げると、湊は唇を噛み締めて感情を抑えながら言った。
「中にはいるんだよ。何にも考えないで気持ち悪いって言える人が」
嘗て誰かに言われたことがあるのだろう。湊の痛みは武尊に伝わってくるが、武尊はそれに
付いて何も言えなかった。
「だから気にしないで。黙っていた僕も悪いんだし。嫌になればいつでも出てってくれれば
いいから、さ」
そう呟いた湊の顔は哀しそうだった。








「湊君がゲイ・・・・・・」
ベッドの中で仰向けになりながら、武尊は1人呟いた。
 嫌悪感が沸いてくるわけじゃないけれど、一瞬で湊に対する気持ちが変わった。一歩引いて
しまう。
 今朝と同じように、テーブルについても同じような穏やかな気持ちにはなれない。
肩が触れそうになって、思わず避けてしまった。瞬間の事だったから気づかれて無いと
思っても、自分の行動には明らかに湊への拒絶が感じられる。
 湊の使っていたもの、借りたタオルにすら躊躇いがあった。家中の物がひどく汚れている
ような錯覚がやってくる。
あの洗面所に置いてあった歯ブラシも一本は彼の物だ。
「通りで2本とも青と水色なのか」
妙に納得して、苦笑いが起こる。水色の歯ブラシを咥えて笑っているのは湊に似合いそうな
美人の彼女ではなく、あの青年だったのだ。
 気が滅入る。湊にはああ言ったものの、実際気にせず一緒に暮らしていくことなど出来そう
もない。
 自分の感覚はきっと普通なのだろうけれど、これ以上ここにいると、自分の反応は湊を
傷つけることになる。
 武尊は浅い眠りになる前に、この家を早々に出て行くことを決意していた。



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