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楽園アンビバレンス


 1.警鐘と息吹1




”パァン!”



スターターピストルの軽い爆発音が鳴り響いて、塚杜郁生(つかもりいくみ)と彼の先輩
である花里駿也(はなざとしゅんや)は同時にスターティングブロックを蹴った。
地面から手を離すと溜めていたエネルギーを足の筋肉に注ぎ込み、力強く地面を蹴る。高回転
で3歩目を踏み出したところで、郁生はいつもと違う感覚を味わった。
身体が軽い。ふわっと浮いた気がするのは一瞬だったが、地面を蹴る足には確かな手応え
を感じる。
「!?」
時間の長さがバラついているようだ。足を出すまではスローモーションのようにゆっくり
で、地に足が着く瞬間に猛スピードで流れていく。味わったことのない感覚に、郁生は自
分がおかしくなったのかと思ったが、動かしだした身体を止めることはできなかった。
「いける!いいぞ!」
監督の怒鳴り声まで明確に耳に届き、郁生は自分の身体は絶好調なのだとやっと思い知る。
一歩離れたところで自分を客観的に見ているような不思議な感覚だった。
「おい、塚杜、駿也を抜くんじゃないか?!」
「速ええ!」
普段なら全く気にしない外野の声がダイレクトに聞こえてくる。郁生の身体の筋肉がピクリ
と震えた。いつもなら、もっと遠くにいるはずの駿也の背中が目の前に見えたのだ。
郁生は身体中のエネルギーをかき集め、足を動かす、前に進む、走る、ただそれだけの為に
全てを注ぎ込んだ。
(これ……いける……!?)
いつもは全く捉えられない駿也の背中に触発され、郁生は到達したことのない世界へと足
を踏み入れようとしていた。
「しゅうっ……くぅっ……」
心臓が一気に苦しくなり、かき集めたエネルギーがこのまま爆発して身体が吹っ飛ばされ
そうな気がする。
それでも、郁生はこの苦しみを手放そうとは思わなかった。乗り越えた先に駿也のいない
世界がある。手に入れたいと思っていた景色が、今日ついに現実のものになると思うとこの
苦しみすら幸せに思えるのだ。
(あ、あと……すこし…)
力強いスライドで数歩進むと、一気に駿也との間を縮めた。陸上トラックを蹴る足音が胸
を締め付ける。ついにこの日が来たのだと思うと初めて勝負して負けたあの日からの記憶
があふれ出そうになった。
「あっ……」
駿也の身体が隣に並んだ。駿也は隣に郁生が並んだことを確認すると、引き離そうと加速する。
郁生も振り切られないようにスピードを増した。自分の中にこんな力があるということに
驚愕しながら、郁生は駿也についていく。身体がふわりと軽くなった気がした。
「!?」
「塚杜、抜いたーーーー!!!!」
「やりよった!」
駿也の身体が、二歩後ろに下がった。抜いたと思うだけで身体が芯から燃えるように熱く
頭の先までぴりぴりと痺れた。
「くぅっ……」
あとはゴールテープを切るだけだ。郁生は最後の力を振り絞って手を振り上げて、ゴール
を目指す。
ふと、そこで郁生は自分がおかしいことに気づいた。身体のコントロールが効かないのだ。
制御できない速さで走っている所為だった。それはまるで坂道をブレーキの壊れた自転車
で転げ落ちるような感覚だった。無理に止まれば倒れるし、慣れないスピードに恐怖すれば
ハンドルを行きたい方向へと向けられないのだ。
「うっ!?」
それでも郁生はスピードを緩めるという選択肢を捨てた。ここで止めてしまえば、駿也に
二度と勝てない気がするのだ。
郁生は普通でない感覚を味わいながらも、前しか見ていなかった。
ただ、その違和感は身体にも届いていて、もつれそうになる足を無理矢理前に出したとこ
ろで、郁生は目の前が真っ白になった。
耳鳴りと同時に膝に激痛が走った。何が起きたのか分からず、自分が転倒したことにも気
付かなかった。
「うわああああああ!!!!」
目の前の景色が変わる。見ていたギャラリーたちも、何事かと目を見開いた。
ゴールまであと1メートル。郁生は膝を抱えると、その場に転がって喚きだした。
「塚杜!?」
「おい!!大丈夫か!塚杜!」
「誰か!担架!」
身体も限界を超えてしまった。ゴールを目前に、郁生の夢は散ったのだった。





「うぁあ!?」
郁生は目を覚ますと、腹筋の力で一気に起き上がった。凄く嫌な夢を見ていたような気が
するが、跳ね起きた衝撃で、どんな夢であったのか思い出せなくなってしまった。
「ああ!もう!」
寝汗でぐっしょりになったシャツを見ても、やはり嫌な夢を見ていたのだろうと郁生は
思う。それを一気に脱ぎ捨てると、郁生は再びベッドの上に転がった。
10月も終わろうとしているのに、気温はまだ高く、代謝のいい郁生は未だにTシャツ一枚
で寝起きしている。枕元に置いてあったタオルで身体を拭くと郁生はストレッチを始めた。
左足を上げ、膝を引き寄せる。ハムストリングスを伸ばして身体の硬直を確認した。
「ふぅ……」
膝にはまだ少し痛みが残る。3ヶ月前、郁生は陸上部の練習中に膝を壊してしまったのだ。
季節は秋になり、徐々に夏の暑さを忘れかけているが、郁生の膝はあの夏のままで止まって
いるようだった。
「焦るな、か……」
身体を壊したことのある先輩に必ずそう声を掛けられるが、郁生は大して焦っているつもり
はなかった。



郁生は社会人陸上部のスプリンターだ。H電機に入社して2年目。2回目の夏を経験し、同じ
陸上部の3つ年上の先輩、花里駿也の背中をついに捉えたその日、郁生は膝を壊してしまっ
た。トレーナーや医者と相談した結果、手術は回避し、リハビリで膝周りを強化していく
方向でまとまったのだ。
だから、リハビリに多少の時間がかかるのは承知していたし、この際だから筋力トレーニ
ングにも励むことができると、郁生は前向きに考えていた。
郁生はベッドから降りると、ゆっくりと大きな呼吸で身体を伸ばす。身体中に酸素を送ると、
細胞一つ一つが目覚めていくのが分かる気がした。
続けて上腕筋を伸ばすストレッチに取り掛かかった。アスリートとしての習性が無意識の
うちに身体を動かしていて、郁生は普段からぼうっとしていることがない。それは怪我を
してからも一緒で、朝起きてすぐにでも、身体を動かし始めたくなるのだ。
上半身のストレッチが終わると、床に足を広げ、下半身のストレッチに入る。丹念に伸ばして
自分の筋肉と静かな対話を繰り返した。
「痛っ」
ふくらはぎを伸ばしたところで郁生はピクリと身体を揺らした。昨日の筋力トレーニング
は少々ハードなもので、筋肉痛を起こしていたのだ。
郁生はふくらはぎを優しくさすった。この筋肉痛を乗り越えれば、破壊された組織が再生し、
さらに強固な筋肉となって郁生の身体を作り上げてくれる。
この筋肉の破壊と再構築の過程が郁生は好きだった。自分の身体をいじめ抜いて手に入れた
最高のご褒美だと、郁生は思う。
怪我で思うように走れない日々でも、こうして獲得していけるものがあると思うと郁生は
少しもいじけた気分にはならなかった。
郁生はストレッチが終わると、2階の自室を出た。郁生は実家に両親とともに暮らしている。
少し昔の流行りで言えば「パラサイトシングル」と呼ばれる部類だ。大学時代は寮で過ごした
所為か自炊は壊滅的だし、食生活にも気にかけている郁生にとって、母の作る料理は何より
ありがたかった。
「おはよう」
キッチンに降りていくと既に朝食が用意されていて、母親が忙しなく動き回っていた。
「あら、今日は早いのね」
「ちょっと早く練習行こうと思って」
「そう。朝食出来てるわよ」
「ありがと」
郁生は茶碗に山盛りごはんを付け、さっさと朝食を取り始める。テレビでは芸能ニュース
が流れていたが、さっぱり耳に入ってこなかった。





H電機陸上部に所属する社員は、基本的に陸上部以外の仕事をしない。一応所属先がそれぞれ
用意されているが、郁生は入社してから仕事納と新年の挨拶以外殆ど顔を出したことがない。
自分の机があるのかも怪しいくらいだ。それでいて、社員と同じように給料をもらい福利厚生
を受けている自分たちを、影でこっそり給料泥棒だと呼んでいる社員がいることも郁生は
知っていた。
汚名は結果で返すしかない。テレビに映るような一流のアスリートになれば誰も文句は
言わないはずだ。人のために走るわけではないけれど、外野の雑念から解放されるためにも
郁生は今より速く、強くなりたいと思っていた。
「おはようございますっ!」
陸上部の部室のドアを開けると、同じスプリンターで郁生の先輩である駿也がスウェットに
着替えているところだった。
「うっす、塚杜」
「おはようございます!今日は久々暑いっすね」
「湿度が低いから夏より走るのにはいい日だ。塚杜は今日もウェイト?」
「そうっすね」
駿也の言葉通り、今日も郁生の主な練習メニューはウェイトトレーニングと膝のリハビリだ。
郁生が返事をすると、駿也は一瞬眉を潜めて言葉を飲んだ。郁生が訝しげに横を向くと、
駿也は何事もなかったように笑った。
「そうか。……なあ、塚杜。今日の夕方暇か?」
「ええ、特に用事はありませんけど」
「うちのヤツがお前が怪我したっていうの知って心配してるんだ。手料理振舞って元気付
けさせたいから、是非うちに呼んでって煩くて」
「莉子さんが?」
「お前のファンなんだと」
「初耳です」
「塚杜は顔がいいからな。モテるだろ」
「駿也さんが言うとイヤミにしか聞こえませんよ」
「あはは、そうか。じゃあ、今日、練習終わったら家来いよ」
駿也は白い歯を見せて笑いながら、ロッカールームを出て行った。





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