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楽園アンビバレンス


 1.警鐘と息吹2




駿也との出会いは大学時代まで遡る。郁生が大学に入学したての頃、陸上部のエースとして
大学陸上部を引っ張っていたのが駿也だった。インカレで入賞を果たし、老舗H電機陸上部に
スカウトされていったのだが、その後も何かと気にかけてもらい、その縁あってか、郁生も
H電機に籍を置くことになった。競技生命の恩人であり、尊敬する先輩でもあり、永遠に
勝てないライバルでもあり、郁生にとって頭の上がらない先輩であった。
駿也の家はH電機の陸上部から車で数分のところにある。新興住宅街を抜けると田畑が広が
り、昔からある大きな家が点在し始めた。駿也は義父から譲ってもらった土地に家を建て、妻と
愛らしい娘と3人で暮らしていた。
「ただいま」
駿也が郁生を連れて帰宅すると、妻の莉子(りこ)と娘の沙耶が玄関に迎え出た。郁生の
記憶では沙耶はもうすぐ3歳になるはずだ。
「お邪魔します。お久しぶりです。突然にすみません」
「塚杜さんこそ、無理言ってごめんなさいね」
莉子がニコリと笑って郁生を招き入れると、莉子の足にまとわりついていた娘が小さな声で
「だあれ?」
と母親の服を引っ張った。
郁生は屈んで娘、沙耶にも声をかける。
「こんばんは。沙耶ちゃん大きくなったね」
郁生に声を掛けられて、沙耶は恥ずかしそうに莉子のエプロンの中へと隠れた。駿也は笑い
ながら娘を呼び寄せると、軽々と抱っこして、柔らかそうな頬に自分の顔を擦り付ける。
沙耶は嬉しそうにきゃきゃっと笑って駿也の顔を叩いた。
「ほら、ほら!沙耶!これ、塚杜の兄ちゃんだぞ?沙耶のお気に入りのままごとセット
くれた兄ちゃんだぞ?」
娘に言い聞かせると、沙耶はきょとんとした顔で郁生を見つめた。
「さやの?おままごと?」
「沙耶ちゃんあのおもちゃ、遊んでくれてる?」
「……」
郁生が覗き込むと、沙耶はやっぱり恥ずかしそうに駿也の肩に顔を埋め、きゃきゃっと笑った。
絵に描いたような幸せな家族に、郁生は自分もこんな家庭が築けるのだろうかと漠然と思った
のだった。



夕食は莉子の豪華な手料理が振舞われた。
「うわあ……莉子さん、相変わらず凄い!」
「ふふ、上手とか手の込んだように見える料理を作るのが得意なのよ」
「いやいや、ホントうまそうですよ」
郁生がダイニングテーブルの前で驚いていると、駿也が沙耶を椅子に座らせながら言った。
「まあまあ、お前もまず座れ」
言われるがまま郁生も席に着くと、沙耶はもう目の前のご馳走に手を伸ばしていた。
莉子がタイミングを伺うように奥の部屋からワインのボトルを持ってくる。駿也に渡すと
駿也も嬉しそうな顔で驚いた。
「これ、残ってたか」
「一本だけね」
どうやら駿也のお気に入りのワインらしい。
「お前も飲むだろ?」
「あ、はい。いただきます。……それひょっとして高いヤツじゃないんすか?」
「はは、まあな」
「いいんですか!?」
「いいんですよ。こんな時のためにとってあるんですから」
莉子もにっこり笑って郁生に勧めた。美人で料理上手でできた嫁だと、陸上部では噂されて
いるし、実際何度か会って郁生もそう感じる。
現にこうして自分を絶妙のタイミングでもてなしてくれるし、きっと普段も「よくできた嫁」
と称されてるのだろう。
何も欠落したところのない絵に描いたような幸せな家族だと郁生は思った。
莉子が大皿の料理を取り分けていると、莉子は郁生の足について話題を振ってきた。
「そうそう。足の具合はどうなんです?私、塚杜さんが怪我されてるの知らなくて……
ごめんなさいね」
「いえ、そんなことは。それに怪我自体はかなり癒えてきてるはずなんで。まあ、焦りは
禁物だと言われてますから、筋トレで筋肉強化の日々ですけどね」
「じゃあ、復活したら今度こそ、駿也さんの脅威になるわけね」
うふふと柔らかい笑で莉子が駿也を振り返ると、駿也は一瞬眉間を震わせたが、すぐに首
を振って頷いた。
「うかうかしてられないのは確かだな」
「まだまだっすよ。俺の前には花里駿也という高く分厚い壁がそびえ立っているんですから」
「よく言う」
「ほんとっすよ。陸上だけじゃない、こんな完璧な奥さんがいて、その上人格者で……。
もうどこに突破口を求めていいかわかんないじゃないですか」
出来すぎた先輩に嫉妬すら沸かない気分だ。完全な敗北。勝てるわけがないという気持ちが
どこかにくすぶっていて、無意識的に勝負を逃げているのかもしれない。
駿也は屈託なく笑って郁生の言葉を流した。
「上には上がいる。日本の陸上界だけで見たって俺より上の走りをする奴はまだいるんだぞ?
弱気になっててどうするだ。目指すは俺じゃないだろう」
郁生にだって夢や到達したい目標がある。けれど全ては目の前にいる完璧な先輩に勝って
からなのだ。迂回するわけにはいかない壁だ。
「正直、気の遠くなる思いですよ……。ああ、美人の奥さんがいて、可愛い娘さんもいて
そんでもって、陸上界のトップを走り続けるなんて……なんて贅沢。一つくらい俺に譲って
欲しいくらいですよ」
冗談めかして郁生が言うと、駿也はさわやかな笑顔で郁生を見返した。
「あー、俺ってそんなに幸せなのか」
和やかで温かい家庭の一幕に自分もいられることに郁生はじんわりと癒されていった。



上等なワインを一本空けたところで、沙耶がぐずり出し、そろそろお開きの時間となりそうだった。
「ごめんなさいね、眠くなる時間で……」
「いえ、こちらこそ長居してしまい申し訳ないです。そろそろこれで……」
「いいんですよ、ゆっくりしてってくださいね。沙耶、ママと先にお風呂入ってこようか?」
莉子が立ち上がると、沙耶は駿也の足にまとわりついて腿に顔を埋めた。
「いやだもん、パパがいいんだもん!」
ぐずった沙耶を駿也は抱っこして立ち上がった。
「塚杜。悪い、ちょっとコイツ風呂いれてくる。お前ゆっくりしてけよ」
「いえ俺はこれで……」
「まあまあ、いいからいいから。沙耶、パパと風呂入るか」
駿也は一方的に言い捨てていくと、郁生は帰るわけにもいかず取り残されてしまった。
ダイニングテーブルで、くつろぐこともできずにいると、莉子がビールのセットを持って
来てくれた。
「ごめんなさいね。本当に自由すぎる人で……。もう一本どうです?」
「こちらこそ長居しちゃって……すんません、ありがとうございます」
郁生が素直にコップを受け取ると、莉子はビールを注いだ。風呂場から沙耶の笑い声が聞
こえる。家族の団欒時間に自分がいることへ肩身が狭い気分だった。一刻も早く帰りたい
と願っていると、ふと莉子が小さなため息を吐いた。
吐いた本人ですら気づいていないような小さな悲鳴を、郁生は偶然拾ってしまった。
驚いた顔を見せると、莉子も驚いて見返す。僅かな間の中にできた「異変」を二人とも
上手く流すことができなかった。
郁生は我に返ると、慌ててフォローに回った。陰った表情の莉子に愛想笑いで返す。
「すんません、莉子さんもお疲れですよね。こんな豪華な食事用意して貰って、本当に今日
はありがとうございました。駿也さんお風呂上がったら、俺すぐ帰りますんで、ゆっくり
休んで……」
取り繕っていた郁生を莉子は遮った。
「……最近、変わったと……」
「え?」
「あの人、何か変わったと思いませんか?」
「駿也さんが?……いや、特に思ったことはないですけど……」
「よく思い出してください」
突然の告白に郁生は嫌な胸騒ぎを覚えた。聞いてはいけないと警告されているのに、郁生
は莉子の言葉を流せなかった。
郁生は最近の駿也の様子を思い出す。走りに関しては変わったところは見られないと思う。
タイムはむしろ良くなっているくらいだし、それ以外の私生活に至ってはあまり交流しない
ので、変わったかどうか郁生にはわからなかった。
そもそも、駿也は練習が終わると、飲みに行ったりせず、そのまま家に帰ってしまうのだ。
そう思っていると、忘れようとしていた違和感が蘇ってきた。
「あ……」
「思い当たる節、あるんですよね?」
莉子は確信しているようで、曇った顔の中に刺さるような視線が痛かった。
「その……」
駿也は練習が終わると、寄り道もせず家に帰ると言っていたが、郁生は何度か自宅と反対
方向に向かって車を走らせている駿也の姿を見かけたことがあった。
たまたま用事があったのだとか、その時はさらっと流したのだが、高速の入口で駿也を
見かけたとき、郁生は見てはいけないものを見てしまったような気がして、無理に記憶を
閉じ込めたのだ。
不倫という言葉が頭の中をよぎって、すぐさま否定した。駿也に限ってそんな不貞を働く
わけがない。こんなに立派な家と出来すぎた嫁と、幸せの結晶に囲まれて、何が不満なんだ。
不満なんてあるはずがない。不倫なんてできるはずがない。
そう強く否定する一方で、郁生は自分の中に芽生えた卑しい感情に愕然とした。
(ぶち壊れてしまえばいいのに)
尊敬してきた人間に裏切られた気分と、ライバルの欠点を発見した嬉しさに、郁生の中にも
どす黒い感情が湧き上がってしまったのだ。
郁生は掌で拳を固く握り、出来るだけ冷静を装って言った。
「莉子さん、いつも一生懸命駿也さんをサポートし続けてるから、ちょっと疲れてるん
ですよ。大丈夫、駿也さんは毎日遅くまで練習して、ちゃんと普通に帰っていってますよ」
郁生は莉子を諭すように何度も頷いてみせた。
莉子は完全に納得してはないものの、広げた感情を自分の中にしまうことにしたようだ。
「すみません、こんな話しちゃって……」
無理矢理笑を作って笑おうとしている莉子を見て、郁生は悟った。
莉子が夕食まで作って自分を招いた本当の目的は、怪我の具合のことではなく、この話を
自分に探りたかったからだ。
郁生は悟って、言葉を失った。
こんなに仲睦まじく、幸せそうな家族に何が起きているのだろう。自分を巻き込むほど
切羽詰った関係なのだろうか。
郁生の背筋を汗が伝っていった。
「大丈夫ですよ、……まあ、万が一何かあったら、伝えますから」
「お願いします」
莉子は頭を下げた。歯車は回りだしてしまったのだった。





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