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楽園アンビバレンス


 8.招かれざる客




郁生は呆然と立っていることしかできなかった。全ての思考を強制的に停止され、目の前
にいる男を眺めること以外許されないかのような錯覚を引き起こす。
郁生に伸びた白い指はネクタイの歪みを直すとすぐに引っ込んで、二人の間には一歩距離
が空いた。
その一歩は、永遠とも思える深い溝のようでもあり、簡単に跨いでしまえるような小さな
ドブ川のようでもあった。
郁生は背筋が凍る思いをしていた。相手を怖いと思わせる方法は、威圧的に見せるだけ
じゃないのだ。距離感が掴めない相手というのは、前者を凌ぐ怖さがあると、郁生は肌身
を持って知った。
自分の現在だけでなく、過去も未来も崩れさせるのではないかと錯覚を起こさせる視線。
誘われるように、飲み込まれるように、そして突き放すような乾いた視線。自分は値踏
みするくせに、相手にはそれをさせようとしない鉄壁の防御を身にまとっている。
この男を相手にしなければならないのか。身体の奥で、本能が危険だと警告した。普通じゃ
ないオーラが漂っている。この人が駿也の行方を知っているとするならば、郁生はそれを
聞き出すことが容易いことではないことだけは確信した。
「僕に聞きたいことがあって、来たんでしょう?」
若見瑛は軽く腕を組んで郁生を見上げた。挑発的な声は頭の中に直接響いて、郁生の感覚
をじわりじわりと麻痺させていく。催眠術のように瑛の声だけが絶対命令になって、郁生
はぼうっと瑛を見下ろした。
瑛のバックに映える、薄水色の淡い睡蓮が郁生の記憶の中に刷り込まれていく。名も知ら
ないスカイブルーの睡蓮が、チカチカと視力を刺激して鈍い痛みを引き起こした。
「塚杜郁生君?」
再び名前を呼ばれ、郁生は一気に覚醒する。
「す、すみません」
郁生はポケットから名刺を取り出すと、ぎこちない動きで名刺を瑛に差し出した。
「わ、私、H電機陸上部部員の塚杜郁生と申します」
名刺を受け取った瑛は一瞬、瞳孔が開いたかのように目を丸くした。
「……」
「実は、こちらに伺ったのは、私の先輩であります花里駿也さんのことを教えていただき
たく思ったからでして」
「……んや……?」
口元を隠した瑛が何かを呟いた。やはり何か知っているのだろう。郁生は一気に事の経過
を話した。
会社を無断欠席したこと、家に帰ってこないこと、弟のところに置き手紙がしてあった事
など、ひとつ話す度、瑛の表情が固くなっていった。
郁生は、硬直したまま、瑛の顔を見下ろした。
「……ここに来たのは、あなたのところなら知ってるかもしれないと、あすたか園の施設長
が教えてくださったので……」
「いないよ」
「はい?!」
瑛の声は乾いていた。
「駿也はいない。僕は何も知らない」
「そう、ですか」
喉元にヒリヒリと引っかかる異物。郁生にもわかる違和感。次の言葉を紡ぐにはなんと言え
ばいいのだろう。駆け上る心拍数を抑えて、差し障りのない言葉を選んだ。
「最近は、会われたりしてないんですかね?」
何気ない郁生の言葉に、瑛の表情がまた変わった。
「なんでそんなこと聞くのかな?」
「え!?」
「そんなに駿也が心配?」
刺のあるセリフは、郁生のことを馬鹿にしているからなのか、それとも保身なのか、郁生は
見上げられた瞳を、負けるわけにはいかないと、見返した。
「もちろんです!大切な先輩ですから!」
言い切った郁生に、瑛は音もなく笑った。
「ふうん」
ガチガチに警戒心で固まっていた瑛のオーラが緩くなり、郁生を懐へと誘っていく。しか
し、その中は棘を差すような強烈な敵意が待っていた。
「君、駿也の何?」
「え!?」
瑛はまた郁生との距離を詰めた。指し伸ばされた手が郁生のネクタイを辿る。悪寒のよう
な、それでいて甘美な色を含んだ震えが背筋を走った。
自分の首元に目を落とせば、真っ白い指が自分の胸元をまさぐっているようで、郁生は
驚きから、硬直したまま目を離せなかった。

囚われた。

瞬間感じたフレーズに、郁生はまた震え上がった。この男は一体何者なのだろうか。
初対面でここまで人を惑わせる人間に郁生は出会ったことがない。
郁生が戦慄していると、瑛は郁生のネクタイを鷲掴みにして自分の元へ手繰りよせ、郁生
の耳元に口を近づけて低い声で囁いた。
「奥さんの、差金?」
「!?」
耳元に息が当たる。瑛の声が直接頭の中でこだまして、郁生は余計に判断が鈍った。
「ふうん、そういうことか」
「なっ……!?なっ何の話……ですか……」
絞り出した声は、裏返ってかすれて消えた。この場を完全に支配しているのは瑛で、郁生
は入り込んではいけない領域に来てしまったと本能が怯えた。
瑛の声は、抑揚が少なく、空気の中に溶けて消えそうな透明さがあった。その瑛の声が
少しだけ黒く染まる。
「駿也を失踪とか行方不明にして、僕と引き離そうって魂胆なんだ」
「なっ……何の話……!?」
「金で雇われた?それとも、弱み握られちゃった?」
ゾッとするほど冷たい声色と裏腹に、瑛の白い指が艶やかに郁生の胸で踊っている。
麻痺しそうになる思考を奮い立たせて、郁生はこの状況を懸命に分析した。
莉子――駿也の妻の言葉が蘇る。「どうせあの人のところなんだわ」
郁生もどこか確信していた駿也の不倫。不倫相手を想像することは難しかったが、少なく
とも駿也の不倫相手は「どんな女性」なんだろうかとは思った。
しかし、この状況を鑑みると、自分は根本的なところで違う想像をしていたと言うこと
ではないのだろうか。
「あのっ……駿也さんとあなたは……」
言いかけた郁生の唇に瑛が人差し指を押し当てる。冷たい指の感触に郁生の口も凍って
しまったかのように動かなくなった。
「知ってて聞くの?……それとも、君は踊らされてるの?」
彼は、知らないのだろうか。駿也の失踪を。それとも、知っているからこそ自分を誑かして
遊んでいるのだろうか。
探ろうにも、瑛の被ったベールはどれが本物なのかわからない人を惑わすもので、郁生は
瑛の真意を見つけられない。
冷たい笑が郁生を焦らせる。完全に飲み込まれてしまう前に郁生は瑛の手を振りほどいた。
「ホントに……!!本当に、駿也さん、昨日からいなくなっちゃったんです!!ケータイ
も繋がらないし、家にも帰ってこない。無断欠勤は初めてのことだし、家に無断で帰らない
ことなんて一度もなかったって言ってたんです!」
自然と息が上がって肩を揺らせながら郁生が訴えるが、瑛はまだそれを信じてはいないよう
だった。
「消息不明なんて……ありえないよ」
「なんでそんなこと言い切れるんですかっ!」
「知りたい?」
「勿論です」
もしかして駿也に近づける!?甘い予感が郁生の心を緩ませる。やはり彼は知っている
のだ。今は一刻も早く駿也の無事を確認してみんなに知らせなければ……
郁生は希望の目で瑛を見下ろす。
けれど、瑛は、郁生から二、三歩離れると白衣のポケットに手を突っ込んで微笑んだ。
「君には教えないよ」
「!?」
悪魔だ。この微笑みは優しさや愛情なんてものを掃いて捨てる無慈悲な笑だ。
郁生は瑛の顔を凝視していられなくなった。目を合わせるだけで、自分が何かに蝕まれて
しまいそうな錯覚に陥る。瑛の触れた胸や耳元はほんのりと甘い残り香がして、郁生は
それら全てを振り払ってしまいたかった。
唇を噛み締め、瑛へ向けていた視線は僅かにバックの睡蓮に移った。先ほどからチラチラ
と視覚に入っては痛みを引き起こすブルーの睡蓮だ。
「……」
睡蓮に視線を合わせれば、綺麗なブルーの睡蓮がポンポンと咲いている。まるで水上で咲く
花火のようで、なぜこれが痛かったのか郁生は不思議に思った。蕾が出来ているのは明日
にでも咲く花なのだろうか。
一斉に開花すればさぞ見ごたえある池になるだろう。目を細めると、水面が揺れている
ようだった。虫でも泳いでいるのだろうか。池の中は小さな波紋が幾つも出来、中輪の
睡蓮がしなった。
「……?」
胸がざわめく、その言葉が一番しっくりくる。ふと視線を外しただけの睡蓮に、郁生は
魂を抜かれてしまったように釘付けになっていた。今度ははっきりとフォーカスを睡蓮
に当て、青色を目の中に焼き込む。よく見れば、ブルーの睡蓮の一番端にひとつだけ更に
淡く、空気の中に溶けてしまいそうな花びらが他の睡蓮とは少し違う佇まいをしていた。
「っ……」
郁生はそれに呼ばれた気がして、息を漏らした。その視線を瑛が追っていたことも知らずに。
「!?」
はっと気がついたときは、瑛の表情は柔和なものになっていた。
「君、意外と見る目あるね」
「え?」
「今、あの睡蓮に心吸い取られてたでしょう?睡蓮にはそういう魅力があるみたいだから」
「……」
「ふふ、あの睡蓮は、ちょっとだけ特別」
「……そう、なんですか……」
「ここにしか咲かない、僕が開発した幻のブルー」
「え?」
「僕の分身」
「分身……」
自分は瑛の分身に心を吸い取られたのか。瑛は再び郁生の元へ歩を寄せて静かに言った。
「塚本郁生君は、とっても素直な人みたいだから、特別に教えてあげる。駿也に会ったの
は二週間以上前。あとは知らない。僕から連絡を取ったことは一度もないよ」
「そ、それ!本当ですか!?」
「嘘を伝えても仕方がないでしょ」
瑛が呟いたところで、瑛のポケットのケータイが揺れた。微かに聞こえるバイブレーション
の音が艶かしく郁生の妄想を駆り立てた。瑛と目が合うと、瑛はためらいながらもポケット
に手をやった。
「……駿也さんじゃ、ないですよね?」
「さあ?」
瑛は余裕の表情でポケットからケータイを取り出す。その表情が一瞬で凍りついたのを
郁生は見逃さなかった。
「まさかっ……!?」
目の色が違う。液晶の画面に目を落とす瑛の瞳孔が今度こそ開いたかのように見えた。
「……」
「あの……!!」
郁生の語りかけに、瑛は敵意むき出しの視線を向ける。何が起きたのだろうか。駿也に関係
あることだとしたら、なんとしても手に入れたい情報だ。
「駿也さん、なんですよね?!」
「……君には関係ない」
動揺しているのか、声が震えている。瞬きの数が増え、泣き出すんじゃないかと、郁生が
思わず差し伸べた手を、瑛は、明らかな拒絶だと分かるように叩き落とした。
「僕に気安く触らないで」
「若見さん!?」
驚いた郁生を尻目に、瑛はそう言い放つと踵を返して歩き出した。
「ええ!?あの!?」
話はまだ終わってないと郁生が呼びかけても、その背中は振り返ることなく、熱帯植物の
ジャングルのを捨てて温室の外へと消えていった。
「な、なんなんだ……一体」
郁生は花園の中に突如として一人置き去りにされてしまった。辺は静かで張り付くような
湿度で、郁生は窒息しそうになる。
胸のあたりに残る瑛の感触がいつまでも漂っているようだった。





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