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楽園アンビバレンス


 8.招かれざる客




今しがた起きた出来事が全く飲み込めない郁生は、睡蓮の池の縁に長い手足を伸ばして腰
を掛けていた。
若見瑛という男が振りまいていった甘美で息苦しい空気は薄まりつつあるが、心と身体の
端々にはその痕跡がしっかりと張り付いて剥がれてくれなかった。
「帰ろ……」
駿也の手がかりだと教えられてやってきた先は、どう見ても怪しくて、何かを隠している
男。一筋縄ではいかないだろうし、このまま追いかけるのも得策ではない気がする。
とりあえず一度会社に戻って、監督に相談するしかないだろう。
「監督……昔から、駿也さん知ってたんだよなあ……」
学生ボランティアで施設に来てもらっていたと施設長は話していた。佐伯監督が学生の頃
というのだから、もう15年以上も前のことだ。
そんな昔からの知り合いならば、佐伯だとてさぞかし心配なのではないだろうか。
そして、あの瑛という男のことも佐伯は知っているのだろうかと考えて郁生は身体の芯が
熱く発熱する思いがした。
郁生は、瑛が消えた方向を目で追いながら溜息を吐いた。帰ろうとしているのに身体が
いうことを利かないのだ。逃げ出したくなるほどだったのに、いなくなれば、帰るのが
嫌になる。郁生は根底にあるものが何なのか考えるのも面倒くさくなっていた。



「邪魔するよ」
「こんにちは、失礼します」
静かな温室に異物が混入したのは、瑛の姿が消えてからまもなくのことだった。
「!?」
その出立ちはどうみても、平日の午前中を使って仲良く植物園に来た二人組という風には
見えなかった。30代後半と思しき男が黒いスーツで肩をいからせながらこちらに向かって
歩いてくる。
その後ろを若いスーツ姿の男がくせっ毛を揺らして付いてきた。
「……」
郁生が少し身構えると、二人組はそこに客がいた事に驚き、そのうちの一人は品定めでも
するかのような瞳で郁生を見下ろした。
お互いここにいるということに異質な感覚を覚えても、それ以上の探りは入れず、郁生は
自分の前を素通りしていく二人を見送った。
「いますかねえ、こっちに」
「研究室でこっち言われたんだ、温室の事務室じゃなきゃここしかないだろ」
「そうですけど……俺、あの部屋近づくの、なんか……」
くせっ毛の若い男は溜息を吐きながら首を振った。
「はっ、あの淫乱男がおっぱじめてるところと遭遇ちゃいました、て?」
「……勘弁してください、トラウマになりそうなんですから」
「こんな朝早くから盛ってたら、大学事務局にでも垂れ込んでおけよ」
「……やっぱり、俺が見てくるんですよね」
恨みがましくくせっ毛の男は黒スーツの男を見上げた。
「当たり前だ」
「たまには、横沢さん行ってくださいよ。俺ばっか……」
「万が一そこでおっぱじめてた時、俺が行ったら二度と開けてくれなくなるだろうが。
……おら、早く見てこい」
「分かりましたよ……」
くせっ毛の男は情けない声でジャングルの奥へと進んでいった。漏れ聞こえてくる話で、
人探しでもしているのだろうと郁生にも理解できた。そして、その探している相手が瑛で
あることもすぐにわかった。
ジャングルの奥から帰還してきたくせっ毛の男は、困惑した顔で横沢と呼ばれていたスーツ
の男に駆け寄った。
「横沢さーん、若見さんいません」
「居留守とかじゃねえだろうな?」
「そうかと思って、ドアに手かけたら、鍵が空いてたんです」
「いないのか。じゃあちょうどいいじゃねえか」
「……ダメっすよ!バレたら俺たちの方が不法侵入になってしまいますって!」
二人の会話に、郁生は思わず声を掛けていた。
「あの……!」
郁生の声に二人の男が驚いて振り返った。
「あの……ひょっとして、若見瑛さんをお探しですか?だったら、そっちには居ませんよ」
横沢は舐めるような瞳で郁生を見下ろし、くせっ毛男は柔らかそうな物腰で郁生の前に
立ち直した。
「若見さんとお知り合いの方ですか?」
「そうですね。知り合いと言えば、知り合いですかね。……つい1時間くらい前にお知り
合いになったばかりですけど」
「そうですか。それで若見さんはどちらに?」
「温室から出て行かれました」
郁生は瑛が出て行った方に目を遣った。もう残像すらないその人の影を思い出して、郁生
は胸がきりっと痛む。たった数分しか接触していないのに、郁生の心は嵐で壊滅的な被害
でも受けたかのような荒野になっていた。
郁生の視線を追いながら、後ろから横沢が割り込んできた。
「あんた、名前は?」
「は?」
郁生が驚いて二人を見上げると、くせっ毛の男は慌てて礼をした。
「申し遅れました、私神奈川県警の大野と申します」
大野が名刺を差し出して郁生を見下ろした。
「同じく、横沢だ」
警察という言葉で郁生は一気に身体に力が入った。睡蓮の池の縁から飛び上がって、大野
の前に食い入るように詰め寄る。
「刑事さん!?もう、動いてくれてるんですか!?」
信じられない。なんてラッキーなことだ。駿也は陸上界では名の知れた有名人だ。だから
警察も動いてくれたのだ、郁生の頭の中はそう結論づけた。しかし、目の前の小柄な刑事
は、困惑した表情を浮かべて横沢を振り返っていた。
「何のことでしょうか……」
横沢は鋭い視線を更に研ぎ澄ませて一歩郁生に近づいた。獲物を狙うハンターのような瞳に
郁生は足がすくんでしまったが、駿也を探してくれるという期待に郁生は怯んでいられな
かった。
「だって刑事さん達、駿也さんの失踪でここまで来たんですよね?」
今度は刑事たちが驚く番だった。
「なんだってぇ?」
横沢が枯れた声をあげる。大野は慌ててポケットから手帳を取り出して、メモを取り始めた。
「あの、よろしければお話聞かせてもらってもよろしいですか?」
「……違うんですか」
刑事たちの反応に郁生はがくっと力が抜けた。再び睡蓮の池の縁に腰を落とすと、頭をガシ
ガシをかきむしった。
「私たちが若見瑛さんに用事があったのは別件ですが、その駿也さんという方の失踪と
いうのは、どういった経緯で?」
郁生は泣きたい気持ちで顔をあげた。駿也が陸上界で有名だからといって、県内に何百人
といる家出人をそうそう見つけてくれるわけがないのだ。
けれど、ここで刑事に会ったのも縁かもしれない。これがきっかけで見つけてくれるかも
しれない。郁生は藁にでも縋る気持ちで吐き出した。
「お二人は、花里駿也という人をご存知ですか?」
「……」
大野はメモを取る手を止めると、無言で横沢を振り返った。大野の頬がピクリと動いた。
横沢は難しい顔のまま顎をしゃくる。二人の反応が駿也の名前を出したところからピリピリ
したものになっていたことに郁生は気づかなかった。
「そうですよね。陸上部ではそこそこ名の知れたスプリンターなんですけど、知らないですよね」
郁生は二人から顔を逸らし、自嘲した。世間で名が通るには陸上界で有名だけでは無理なのだ。
「それで、その花里駿也さんという方が、いなくなられたんですね?」
「はい」
「あなたは、花里駿也さんとどういったご関係で?」
「俺ですか?……私は、H電機で陸上をやってるものです。駿也さんは同じ陸上部の先輩に
当たります。昨日、会社を無断欠勤しまして……」
「心当たりはお調べになりましたか?」
「自宅に行きましたが、普通に出勤したと。それから駿也さんの弟さんのところに、気が
かりな手紙がありました」
「気がかり?」
横沢がかすれた声で聞き返す。郁生は首を振った。
「なんだか、自殺でもしてしまうんじゃないかって……」
「ここへはどうやって?」
「駿也さんは、ある施設の出身だそうで。施設まで行ってきたんですが、施設長が、ここ
の管理をされている若見瑛さんなら知ってるかもしれないとおっしゃっていたので。……
結局何もわかりませんでしたけど」
郁生が言葉を締めると、温室の中がしんと静まった。それから、遠くの方で機械音がして
温室の隅から細かい霧が吹き出した。郁生とつられて大野がそちらに目を奪われていると
横沢が相変わらず渋い表情で言った。
「で?あんたの名前、聞いてもいいか?」
郁生は振り返って、横沢の顔を見る。大野は「善良なお巡りさん」の代表に対して、横沢
はドラマにでも出てきそうな「裏のある刑事」だ。郁生は自然と身構えていた。
「……塚杜郁生です」
横沢は真っ直ぐに郁生を見つめている。何か問い詰められるのかと思ったが、横沢はただ
無機質な声で
「そうか」
と頷いただけだった。
郁生は詰問されているような気分で、段々とこの刑事に苛立ちを覚えてた。大野が先ほど
から小まめにメモをとり、その度、善人の顔で頷いているのも郁生は違和感と不快を感じ、
駿也を探してもらえるという期待よりも、この場から一刻もはやく立ち去りたい気分にさ
せた。
大野はメモ帳を閉じると、池の縁に座っている郁生に視線を寄越した。
「いろいろとありがとうございます。花里駿也さんの件、私たちがしっかりとお調べします
から、ここからは私たちにお任せ下さい」
「……」
そのセリフが郁生の中の引き金だった。大野のセリフは郁生の腹の底に溜まった鬱憤を一気
に爆発させた。
「塚杜さん?」
郁生は立ち上がると、大野の肩に手をかけて唾を飛ばしながら叫んでいた。
「捜索願出したんです!今日も朝から警察に連絡したんです!自殺かもしれないから早く
探して欲しいってお願いしたんです!……だけど、もう少し待ちましょうとしか言ってくれ
なかった。なのに、こうやって直接刑事に会えば、私たち任せて下さいだって!?都合
良すぎじゃないですか!!」
郁生は遣りきれない怒りを全て大野にぶちまけていた。大野が申し訳なさそうに呟く。
「捜索願だしてたんですね……」
「……だから!あなたたちが探してくれないから、俺が探してるんです!」
この怒りは駿也を探してくれない警察への恨みだけではなかった。思うようにいかない
生活の全てが一つの怒りをきっかけに次々と湧き上がって、自分でも止められない大きな
エネルギーが発生しているのだ。今もし、ここにナイフを手にしていたら、この刑事達
に斬りかかっていただろう。
「申し訳ございません。今後は私たちも全力で探しますので、どうぞ今一度ご協力お願い
しますね」
大野は、郁生に掴まれた腕を外した。言葉は優しかったが、外しにかかった手は、警官に
気安く触れるなという意思があった。
刑事を襲う場面を妄想して、郁生はすうっと背筋が寒くなった。
「すみません……よろしくお願いします」
郁生はそれだけ言うと、その場から歩き出していた。自分に残された道はこの人たちに
頼るしかない。自分が探すよりも、警察の方が有能で早いはずなのだ。
郁生がスポーツマンらしからぬ背中を丸めた姿勢で歩いていると、後ろから大野が追いかけ
てきた。
「あ、あの!最後にちょっと聞きたいんですけど……この人、ご存知でしょうか?」
見せられたのは色あせ始めた写真だった。そこに写っているのは郁生でもよく知っている、
いや、よく知っていたスポーツ選手だった。
「ああ、これ西口健人?」
サッカー元日本代表で、今から2年前に神奈川の自宅近くで自殺した人だ。大々的に報道
されていたから郁生だって覚えている。
彼が何だというのだろう。そもそもこの刑事たちは何を追って瑛に会いに来ていたのだろ
うか。この自殺した男に関係があるのか?そんな疑問を投げかけながら大野を見下ろすと
大野はさらに驚いたことを聞いた。
「彼とは知り合い?」
「冗談!……テレビで見たことあるだけです」
「じゃあ、花里駿也さんは、西口健人と知り合いだったりしませんか?」
「!?」
何か見えない糸が郁生の前にいくつも張り巡らされ、郁生はそれに手も足も絡め取られて
しまったかのような気がした。
「そんな話を、花里さんから聞いたことがありませんか?」
「……どうでしょう……有名人と知り合いなんて考えたことなかったんで……わかりません。
俺は、それほど駿也さんのプライベートを知ってるわけじゃないし、奥さんなら知ってる
のかもしれませんけど……」
「そうですか。ご協力、ありがとうございます。花里さんの件は私たちで全力を持って
捜索いたします」
大野は折り目正しく頭を下げる。郁生もつられて頭を下げると、今度こそ温室を後にした。





湿度の増した温室に残った二人の男もまた、立ち去った郁生の残像を見つめていた。
「くそぅ!なってこった!花里駿也まで失踪してたなんて!!」
横沢は郁生の座っていた場所を拳で殴った。
「これで、若見瑛は益々怪しくなってきちゃいましたね」
大野は瑛の「隠れ家」を振り返って苦い顔をした。横沢は悔しそうに舌打ちする。それから
顎をしゃくって、横沢も歩き始めた。
「横沢さん?!」
「今日は帰る。家出人データーベース、今すぐ、洗い直すぞ!」
「……はい!」
刑事の声は、温室の湿度の中へと静かに消えていった。





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