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楽園アンビバレンス


 14.はじまりのおわり1




開けた窓からは虫の音が聞こえては途絶え、しんとした次の瞬間にはまた不快な音を立てて
郁生の聴覚を刺激した。郁生は閉じた瞼をさらにきつく締める。
眠れないのは羽の音だけではない。内側から湧き上がる感情に郁生は眠気をかき消されて
しまったのだ。
「大体、何を庇うってんだ」
横沢の言葉にひとり恨みがましく答えたところで、この怒りは収まりそうになかった。
庇ったわけではない。ただノートの存在を隠しただけだ。いや、隠したのではない。
「ノートは見つからなかった」と言っただけだ。事実、あの晩鞄を覗かなければ、郁生は
陸上日誌の存在を知らなかったのだ。
だから、これは庇うとか庇わないとかの次元の話ではない。若見瑛の存在は関係ないのだ。
言い聞かせる一方で、とっさに陸上日誌の存在を「忘れた」のは、あの中身が駿也の秘密
と大きく関係しているに他ならないのだと郁生は認めざるを得なかった。
郁生は仰向けに寝転がっていたベッドから起き上がり、枕元の陸上日誌を手に取った。中身
は駿也の字で家族への苦悩が綴られている。郁生は薄暗い中、表紙に目を落とした。
『お前も同罪だからな』
横沢のセリフは郁生の心を動揺させた。
若見瑛は警察に捕まるような犯罪者なのだろうか。陶子はあの男を「恋人を自殺に追いやる
力がある」と言っていた。駿也も瑛の所為で自殺に追い込まれたとしたら?
刑事よりもはやく、駿也と若見瑛の関係を自分の目で見極めたい。駿也は本当にあの男に
惹かれて、破滅の道へ向かっていったのか。
刑事に対する怒りは夜中続き、郁生は浅い眠りを繰り返す中で朝を迎えた。そして一つの
結論に達する。
「始業前にもう一度、会う。会って今日こそ話を聞く」
郁生は5時の空に向かって小さく背伸びをした。





週初めと思うには区切りの悪い朝だった。郁生は休みを引きずりながら車に乗り込むと、出来る
だけ小さな音でエンジンを掛けた。大通りに出るまではまだ街は眠っていた。
アクアラインをくぐり抜け、海ほたるを目でやり過ごしながら、郁生は木更津の市街地へと
入っていく。ここ数日で慣れつつある道順を追い、郁生はT大へと急いだ。
T大は朝日を背負っていた。希望に満ちた未来を指し示すように研究棟が輝き、新鮮な空気
が力強く開いた木々の葉を揺らしている。郁生の予想に反して、正門は既に開いており、すん
なりと中へ入ることができた。昼夜問わず大学に通う学生がいるのだろうか。瑛の研究室
へと向かう途中で白衣姿の学生とすれ違った。眠そうな目をこすりながら缶コーヒーを啜って
いる。見分けのつかない若い白衣の男女に出くわすたび、郁生は場違いな自分に小さくなる。
ここは自分のテリトリーではない。入ってくるなと拒絶してくるように思えた。学生と何人
かすれ違う中で、郁生は呼び止められた。
「塚杜君?!」
驚いて顔を向けると、顔のない学生と同じように白衣を着た吉野陶子の姿があった。



「どうしたの?」
「昨日、結局若見瑛さんと会えなくて……」
「会えなかった?!」
「閉園時間で締め出された。でも、どうしても話を聞きたくて出勤前に来ちゃった」
「いなかったって……おかしいなあ。……それで、塚杜君の先輩はまだ?」
「うん。手がかりなし。だから余計に若見瑛さんには話を聞きたくて」
「そう。心配……」
陶子の顔がにわかに曇る。自殺の話をした手前、責任を感じているのだろうか。
「朝早くにごめん」
「ううん、私は大丈夫だけど」
陶子は朝食用のサンドウィッチと野菜ジュースを手にしていた。郁生が陶子の手元に目を
落とすと、陶子は少し恥ずかしそうに答えた。
「昨日からの実験で泊まり込んでるの。目の下、クマ出来てるかも。……やだなあ」
「実験?泊まり込みなんてあるんだ。じゃあ、他の白衣の子達も?」
「ええ。夜の実験がメインでやってる子は泊まり込む子もいるわ」
「みんな勉強熱心だなあ」
郁生が感心して言うと、陶子は首を振った。
「みんな一人が淋しいだけ」
「そういうもん?」
「夜の実験がメインの子がこんなにいるはずないもの。ここへ来れば誰かはいるからね」
「ふうん……。それって吉野さんも?」
「……かもね」
軽く交わされて、陶子は歩き出す。郁生はおいてけぼりを食らいそうになったところで陶子
が振り返った。
「先生に会っていくんでしょ?」
「いるの?」
「昨日の実験は私一人だったけど、実験の経過見てくれるって言ってたから、きっとそろそろ
来る頃よ」
「待たせてもらってもいい?」
「もちろん。でも、なんで先生と会えなかったのかしら。お客さん見えてたから、夕方まで
温室にいたはずなんだけど」
「お客さん?」
「そう。馴染みの業者。4時頃だったかな。温室に案内したの」
「……3時まで探したんだけど、会えなかった」
言いながら、郁生は腹の底でギリギリと痛い音を鳴らした。佐伯が「ヤスナガ」と呼んだ男
の存在さえなければ、郁生は温室の隅々まで探し回ったかもしれない。あの男が温室の奥へ
と続く扉に結界を張ったのだ。
郁生は奥へ進めなかった。ただひたすら出てくるのを待つしかできなかったのだ。
夕方まで温室にいたということは、あの『関係者以外立ち入り禁止』の扉の向こうに瑛は
ずっといたということなのか。閉館ギリギリの3時まで粘った自分が悔しくなる。
郁生は陶子の後について研究室へと入った。
「あ!思ったより時間経ってる」
「え?」
「そこ座って待ってて。お茶、実験片付けてきてからでもいい?」
陶子は手にしたサンドウィッチと野菜ジュースを乱暴に机の上に置き、研究室の更に奥の扉
へと走っていった。
「ううん、俺のことは大丈夫だから!」
郁生は奥に向かって声を掛けたが、返事は返ってこなかった。
手持ち無沙汰になった郁生は、壁にかかった時計を見上げた。時間は7時を過ぎていた。出勤
まであまり時間がない。フレックスにしてもここにいられる時間は限られている。
若見瑛、早く来い。郁生は念じながら時計を睨みつけた。



一瞬気が抜けた瞬間に、研究室のドアが開いた。静かな足音で入ってくる男に郁生は思
いっきり姿勢を正した。
「!?」
目が合うと、相手はおもむろに驚いた顔を向けた。無理もない。いるはずのない人間が
研究室の椅子に座っているのだから。
数秒固まっていたが、先に動いたのは先生の方だった。
「おはよう。今日も吉野さん?」
瑛は急激に先生の顔に戻して郁生を見下ろした。
「おはようございます。いえ、今日は……」
瑛の切り替えに圧倒され、言いよどんでいると、奥から実験器具を手にしたまま陶子が出てきた。
「先生、おはようございます」
「おはよう。どう?」
「順調です。結果も期待できます」
「そう、それは良かった。……で?」
冷ややかな目が一瞥する。郁生は背筋が凍りつく気がした。陶子はその視線を暫く凝視して
いたが、事務的な口調でやりとりを続けた。
「塚杜君が、いなくなった先輩のことでもう少しお話を聞きたいそうです」
「そう。でも、駿也がいなくなったのはびっくりしたし、悲しいことだけど僕には本当になんの
手がかりもないんだよ。役にたてなくてごめんね」
先生らしい口調の裏側には郁生をテリトリーに入れないという強い信念を感じる。
「……そう、ですか」
引き下がるわけには行かないが、一筋縄ではいかない。郁生は再び時計を見上げた。時間
は無情にも過ぎていく。時間がないという焦りが郁生自らを追い詰めていった。
気まずい空気が漂い始めると、瑛は自分のデスクに向かっていく。引き止める言葉が浮か
ばず郁生は縋る気持ちで陶子を振り返った。
「あ、そういえば先生」
「なんでしょう?」
陶子は郁生の視線を無言で受け取ってくれたらしい。瑛がデスクにつく前に足を止めてくれた。
なんでもいい、この間に何か考えなければ……郁生が逡巡しているところへ、陶子のセリフ
は降ってきた。
「昨日の夕方、SI製薬の長谷川さん、いらっしゃってましたけど、お会いになりました?」
「!?」
その途端、郁生でもわかるほどの驚きを瑛は見せた。
「やっぱり先生、温室にいらっしゃらなかったんですか?4時頃、先生とアポとっているって
言われて、北口から温室に案内したんですけど」
「そんな約束は……」
手に取るように瑛の顔が青ざめていくのがわかる。大事な客だったのだろうか。陶子は
来客があったから温室に居たはずだと言っていたが、そうではなかったのだろうか。
「ほんとに……?」
瑛は口に手を抑え瞬きもせず陶子を見つめ返した。変容に陶子も驚き、自分の行為を意味も
なく謝った。
「すみません、いつも温室でお約束されていたので、昨日もそうだと」
「いや、いいんだ。彼は……」
「え?」
「彼は……長谷川君は僕に会えずにこっちに帰ってきたりしなかった?」
「いえ。なので、お会いしていたものだとばかり」
瑛は陶子の顔を見て暫く唇を噛み締めていたが、弾けるように研究室を飛び出していった。
「ちょっと、失礼」
「先生?」
「ええ!?」
その場に圧倒された郁生は呆然と見送るしかなく、気がついたときには半開きの扉が緩やか
に元の位置に収まろうとしていた。。
「塚杜君」
「……」
「塚杜君!!」
「え?……あ、はい」
「行こう」
「どこに?」
「温室」
「え?」
「追いかけるの。先生を」
「なんで?」
「……SI製薬の長谷川さん、決まって温室で約束するの。どういうことかわかる?」
郁生はゆるりと陶子を見下ろす。『温室の奥には若見瑛の専用の個室がある』そこに一人
で約束をつけるということがどういうことなのか。
「まさか!」
駿也が何番目の恋人なのかはわからないと安永は言っていた。そういうことなのか。
「その人が先生に会えずに連絡も取れていない、しかも、先生があんな血相変えて出て
行ったなんて、おかしいと思わない?」
「おかしいって!?」
「塚杜君の先輩もいなくなってしまったんでしょ?」
「いや、でも……」
一体、若見瑛のまわりの人間はどうなっているんだ。郁生は不快さが顔に出てしまった
ようで、陶子が苦い表情で頷いた。
「払拭したいなら、確かめるのが一番だと思う」



「植物園はね、一般のお客さんが入れる通常の出入り口の他に、大学関係者だけが入れる
専用出入り口があるの」
陶子は温室へ早歩きで進みながら後ろを歩く郁生に言った。
「温室の『関係者以外立ち入り禁止』の扉?」
「ええ、あの扉の向こうにいくつか研究室があって、その並びに専用口があるの」
「そうなんだ」
「この前、塚杜君に渡した許可証は、通常の出入り口から料金パスで入れる物なんだ
けど、私たちは専用口――裏口からはいれるIDカードを持ってるのよ。これをかざすと
ゲートが開く仕組みね。出るときはただの自動ドアだから誰かが中で開けていれば自由に
入れるっていうちょっと杜撰な作りなんだけどね」
「そう。それで?」
「SI製薬の長谷川さんは、大体は直接温室へ足を運ぶんだけど、時々鍵が空いてなかったり
すると、私が裏口から入れてあげてるの」
「顔見知りだった?」
「常連だった」
振り返る顔に郁生はぞろりと嫌な汗をかいた。常連客が足繁く温室に通うという意味を郁生
の脳は既に理解している。認めたくない自分の心にすがってみるが悲鳴を上げるだけだった。
郁生の表情を瞬時に読み取ったのか、陶子は素早く続けた。
「だから、そんな人が先生に会えずに、しかも会えなかったことを報告もしないで帰るな
んてちょっと気おかしくない?」
「そう……かな」
それこそ痴情のもつれで、自分たちの踏み込んではいけない領域の話が起きているのでは
ないのだろうか。
「先生は痴話げんかだけで、あんな血相変えて走っていく人ではないわよ」
郁生の考えを読んでいた陶子は、子供の言訳のようにツンとして答えた。
「そう……」
陶子は壁のセキュリティ画面にID証をかざして、温室の扉を開けた。
「ホントなら関係者以外立ち入り禁止なんだけどね。……付いてきて、こっち」
」 陶子に言われるがまま、郁生は温室の中へと進んだ。
扉の奥は実験用なのか数個の部屋が並んでいた。空調は効いているのだろうが、こちら側も
むわっとした空気が漂っている。植物の匂いと温室独特の生乾きの匂いの中に薬品の匂い
が混じっていた。扉のこちら側はけして楽園ではなかったのだと、郁生は少しだけ安堵
した。全て自分の思い過ごしだった。ここは健全な教育機関だ。
「先生……」
郁生の安堵とは裏腹に、陶子の顔色は悪かった。陶子が見つめる先を郁生も視線を追って
探した。
数個並んだ部屋の一番奥に、開け放たれた扉が見える。陶子の足は取り憑かれたように
そちらに向かって歩き出した。
「え、あの、古野さん……大丈夫?」
陶子は返事をしなかった。ただ、扉の前に来ると、「誰もいない」部屋を見て初めて顔
の筋肉を緩めた。
「温室の方に行ってしまったのかしら」
「行ってみよう」
陶子は郁生を連れて「関係者以外立ち入り禁止」の扉を内側から開けたのだった。





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