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楽園アンビバレンス


 14.はじまりのおわり2




朝の光が温室の窓から注ぎ、神聖な場所のようにキラキラと輝いている。自然のスポット
ライトに照らされながら、郁生は陶子の後ろに続いた。
いつもと風景が違うのは、このキラキラのせいなのだろうか。そう思いながら大池の周り
を歩き始めて、郁生は漸く気がついた。
「あ、花が……」
色とりどりに咲いているはずの睡蓮の花が咲いていないのだ。
陶子はその発見に驚いてみせた。
「睡蓮の花って何時どれくらい咲くか知ってる?」
「いや、全く」
「大体ね、朝開いて夕方には閉じるの。それを3日〜5日続けて終わり」
すごく乱暴な説明だけどね、と断りを入れてくれたが、郁生にはそれで十分だった。
「今、この池で育ててるのは、少しだけ開花時間がおそいの。その変わり夜閉じるのも
ちょっと遅い」
「夜ふかしアンドねぼすけってことか」
郁生が陶子とそんなやりとりをしていると、また一つ睡蓮の蕾の集団の前にやって来た。
そこで郁生は先ほどよりももっと違和感を覚えた。
「あれ……?なんだろう、これ……」
何に引っかかるのか郁生には明確な答えが出せないまま、郁生が睡蓮を眺めていると
陶子も眼下の睡蓮に目を見張った。
「この睡蓮は、先生が『発明』した睡蓮なの」
「え?」
「世界で唯一の『青い睡蓮』なの」
「青い睡蓮っていっぱいあるような……」
「睡蓮ってね、温帯性と熱帯性に分けられるの。そして、温帯性には青い睡蓮がない。
塚杜君が見ている青い睡蓮は間違いなく熱帯性よ。唯一、ここにしかない温帯の青い睡蓮」
その説明で、郁生は始めてここで瑛と対面したときのことを思い出した。『僕が開発した
幻のブルー』とはそういうことだったのか。
空に溶けてしまいそうなほど淡く透き通ったブルーの花が瑛の後ろを静かに飾っていた。
郁生にはブルーの睡蓮の開発がどれほど難しいものなのか想像もつかなかったが、世界で
唯一ということは、それなりの重要な睡蓮であることは理解できる。
「この幻のブルーを巡っては、学会でもかなり問題になったりしてね」
陶子は複雑な表情を浮かべて呟いた。
「問題?」
「ひがみ、やっかみ、嫌がらせ。60近くの老年の教授がそんなことするのって思うような
ことまで、信じられない攻撃が待ってたの。先生、普段からあんな感じだから、余計に」
世の中の「先生」と呼ばれる人間がすることではない。けれど、郁生はどんな人間でも、
それがどんなに近い相手でも、醜い感情は生まれてしまうことを身をもって知った。
嫉妬の炎は良心を焼き尽くしてしまうのだ。
郁生は目を細めて幻のブルーを見下ろした。
「えっ……」
開花の時間なのだろう。先ほどよりも少しだけ花が膨らみ、奥の花は花弁がちらりと覗き
だしている。そこで、郁生の違和感は不吉な予感に変わった。
「どうしたの?」
「色が……違う。……気がする」
「日が経つ事に色あせてくることはしかたないけ……」
返事をした陶子も奥の花を見た瞬間、言葉を失った。
「これ……」
よく見れば花だけでなく、円形の葉の色もどす黒く変色しているものもある。
「何かの病気?」
尋ねると、陶子は泣きそうな顔をして郁生を見上げた。
「血痕!!」
「結婚?」
その発音の意味を理解できず、郁生は心にもなくボケてしまう。郁生がわかってない事に
少し苛立ちながら、陶子は郁生を睨む
「違うわよ!!血よ!血痕がここについてるのよ!!」
「なんで!?」
「わっ、私の方が聞きたいわ!!」
陶子の叫び声に水面が揺れた気がした。郁生は血痕が付着した葉を見下ろした。何故ここ
に存在するはずのない痕があるのだろう?長谷川という消えた人間との関係は?もしこれ
が彼のものだとしたら、誰がやったというのだろうか?
疑問ばかりが浮かび、頭の中がクエスチョンマークで埋め尽くされていくと、郁生も冷静さ
を欠いてきた。仕切りに深呼吸を繰り返すのは、無意識ながら平常を保とうとする癖だ。
郁生は血痕の先を探そうと、あたりを見渡した。
「これ……」
先に気づいたのは陶子だった。
「まさか……」
陶子が指したのはコンクリートで出来た池の縁で、拳ほどの大きさのシミが水生植物の影
になって出来上がっていた。水でこすり落とそうとしたのか、その形はにじみ、証拠でも
隠すように草に覆われている。
「今まであった?」
「わからない。でも、なかったような気もする……」
これも血痕だというのだろうか。黒ずんだシミは何かの生物のようにうごめいて見える。
一瞬のうちに、シミは郁生たちを地獄へと突き落とすかのような悪魔へと変貌した。脳裏
で若見瑛が誘うような目で自分を見ている。安永の冷めた瞳が郁生を嘲笑し、佐伯の落胆
した顔が見えた。
(違う、俺は、何もしていない!ただ、駿也さんを探してるだけなんだ!!)
郁生は奥歯を噛み締め必死で悪魔を振り払う。
「きゃああっ」
正気に戻してくれたのは陶子の叫び声だった。
「どうしっ……」
「塚杜君!!あれ何!?」
陶子が指差したのは、睡蓮の葉が重なり合う水面下にわずかに揺れている影だった。
「えっ……ああっ!!」
それは人の足の形に見えた。
青ざめた陶子は思わず郁生にしがみついていた。その腕は震えている、郁生は反射的に
陶子の背中を撫でた。
「本物?」
「わならないけど、人が死んでるとしても、マネキンが浮かんでるとしても、大学とし
たら問題じゃないの?」
「死体……」
「とにかく、誰かに知らせなきゃ」
「長谷川さんなの……?」
「わからないけど、俺ひとりじゃどうにもできないし。……若見さんはどこに行って……」
郁生は陶子の背中にまわしたままの手の力を静かに抜いた。途端、強い力で陶子に握り
返され、郁生は一瞬驚いて陶子を見下ろした。
「先生に……電話、してみる……」



若見瑛には連絡がつかなかった。その変わり震える背中を支えられながら陶子は大学事務局
へと連絡を取り、血相を変えて駆けつけた事務員が、真っ白い顔で警察に連絡し、パトカー
が来る頃には、大学は野次馬で大騒ぎになっていた。
警察官が手際よくブルーシートを張り、あとから何人も警察関係者がやってきては去って
行った。
「おい、どうだ!」
水中に入った制服姿の男に向かって刑事が声をかけている。
「男ですね。詳しく調べないとわかりませんが、新しいです」
「引き上げられるか」
「準備します」
瑛のブルー睡蓮を乱雑にかき分けて、捜査員が何人も池の中へ入っていく。
「邪魔だな、この葉っぱ」
捜査員の一人が瑛の睡蓮をひっくり返そうと手をかけたとき、郁生の隣で陶子が悲鳴をあ
げた。
「乱暴にしないで!!」
その声に捜査員の手が止まり、一斉に陶子へと視線が集まった。郁生も驚いて陶子を見下ろす。
陶子は泣きそうな顔で震えていたが、その瞳はまっすぐだった。
「そ、その睡蓮は世界にただ一つ、ここにしかない幻の睡蓮です。学術的価値の問題ではなく
本当に大切なものなんです。乱雑に扱わないでください」
震えながら郁生に縋りつき、陶子が訴えると、捜査員たちはお互いの顔を合わせ、肩で息を
落とした。
「了解しました。あなた方はこちらへ」
捜査員に促されて後方へと下げられると、池の中では引き上げの準備が着々と進んでいた。
現場のトップが大声をあげて指示を出している。郁生と陶子は発見した「物」が「者」で
あることを、じりじりと突きつけられていた。
「本当に、人が死んでるの……?」
「らしいね」
巻き付かれ腕に更に力が篭る。自分の腕を別の個体のように郁生は見下ろした。死体という強い
麻薬に脳の回路が麻痺しているのだと郁生はぼんやりと思った。
「長谷川さんじゃ……ないよね?」
その質問には答えられなかった。その代わり絡みついた腕をゆっくりと解くと、自分達は
何も分からない仲間だ、郁生はそう思いを込めて陶子の肩をぎゅっと抱いた。



「おはようございます。すみません、あなたたちが第一発見者の方ですか?」
声をかけられて振り向くと知った顔があり、お互い驚いたあとに警戒色の強い表情を浮かべた。
「……おはようございます、大野さん」
声をかけてきたのは昨日の夜も顔を合わせていた二人組の刑事だった。
「T大植物園って聞いて嫌な予感はしてたけど、まさか第一発見者があんただとはなあ」
童顔刑事の大野の後ろからいやみったらしく口を挟んできたのは横沢で、彼は郁生を第一
発見者というよりも重要参考人のような視線で睨んでいた。
「……見つけたくて見つけたわけじゃないです」
郁生が思わず愚痴をこぼすと、大野はやっと公僕の顔に戻して尋ねた。
「そうですよね。えっと、発見の経緯を詳しく教えていただけますか?」
陶子が簡潔に話すと、横沢は訝しげに二人を覗き込んだ。
「で?あれは誰だ?その長谷川って愛人か?」
飛躍する解釈に郁生が睨み返す。すかさず大野が横沢を止めた。
「横沢さん!」
「ふん。ほら、仏さん上がるぜ?」
捜査員が何人かで男を引き上げている。
「ほら、そっち、気をつけろよ!」
「はい!」
「3、2、1であげるぞ!!」
「はい!!」
捜査員の掛け声で、男は水から姿を現した。
「!?」
「長谷川さん……!」
男の顔が見えた途端、陶子は小さな声で叫んだ。郁生は一瞬、自分の見間違いかと思って、
陶子を振り返った。陶子は悲痛に歪んだ顔を手で覆っている。
この男は長谷川という営業マンなのか?
郁生は言葉を失った。思考回路全てが停止してしまった。どういう事なんだ。この人は、
誰なんだ。
SI製薬の長谷川?いや、そんなわけがない。だって、この人は……
「知り合いですか?」
大野が陶子を振り返る。
「馴染みのお客さんで、SI製薬の長谷川さんという方です」
いや、違う。この人は長谷川なんて名前ではない。
「本当ですか?」
「はい、間違いないと思います。昨日と同じスーツ姿だし……」
ちがう、ちがう、ちがう!!この人は、この人は……!!
陶子がそこまで言いかけたところに、変則的な足音が響いた。郁生以外の全員がその足音
に振り返る。そこには、顔色をなくした若見瑛が口を抑えて立っていた。
「あなたは」
大野が話しかける前に、瑛は遺体に向かって叫んでいた。
「駿也ぁぁぁっ!!」
郁生は固く握った拳を震わせた。
ああ、そうだ。駿也だ。この人は花里駿也。俺が探していた男。
気がつくと郁生の頬から幾筋も涙が伝い、コンクリートの地面を黒く湿らせていた。





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