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楽園アンビバレンス


 2.ニンフの棲む場所




「瑛、愛してる……」
その言葉に、若見 瑛(わかみ よう)は、巻きつかせた身体をだらりと剥がし、精気の
抜けた瞳を男に向けた。夏の暑さで更に蒸された温室は、いくらエアコンが効いているから
と言っても二人分の息が上がった個室は暑さで溶け出しそうだった。
「瑛、本当に愛してるよ」
男が再び語りかける。
「愛してたら、なんでもしてくれるの?」
「勿論、なんでもする」
男は滑舌良く返事をする。それとは対照的な表情を浮かべて瑛は首を振った。
「嘘ばっかり」
「本当だって。瑛の望むことならなんでもする」
大きな目でまっすぐに見詰められると瑛は目を逸らしたくなった。直球は苦手だ。どんなに
誠実な答えでも、頬を打たれるような痛みを受ける。
瑛はきめの細かい白肌を男の胸元に滑り込ませて、指で身体のラインを辿った。鍛えた筋肉が
指に心地いい。事後独特の甘さを醸し出した肌が吸い付いてくるようだ。強く押せば自分
の指と境界が融合してなくなるのではないかと錯覚しそうになる。このまま溶けてこの男
の一部になれたらなんて幸せな人生を送れるだろうと描いて、自虐的になった。
「どうせまた口ばっか」
「誓うよ。瑛に誓って、瑛の望む事、何でもする」
瑛は何でもすると言った男の台詞を繰り返し心の中で唱えた。自分の望むこと、それは
一体何なのだろう。自分は何を望んで生きているのか。生きることに何の希望も見出せない
でいる自分に、一体何が必要だというのか。
思考の迷宮に入りかけて、瑛は我に返った。
「じゃあ、奥さんと別れて」
「……」
「ほら、ね」
期待しないで呟くと、男は力強く瑛を抱きしめてきた。
「今、離婚に向けて話してる。彼女には申し訳ないけど、今は彼女より瑛の方が大切なんだ」
「……」
再び耳元で「愛してる」と男が囁く。瑛は切なそうな表情を作って男の頬に手を添えた。
「本気?」
「勿論」
「じゃあ、僕のために死んでくれる?」
「え!?」
男は驚いて瑛を見返すと、瑛は途端に妖しげな顔になった。
「ねえ?死ねるの?死ねないの?」
「瑛……?」
戸惑う男の身体を手繰り寄せ、瑛は耳元に唇を這わした。悪魔のような囁きの中で、瑛の
表情は一向に晴れることがなかった。
どうせ期待したって無駄だ。遂行してくれた人は誰もいない。瑛は冷たく言い放った。
「僕を愛するってことは、そういうことだ」
男はぶるっと身体を震わせた。





植物園の温室は、夏の暑さを更に鬱蒼とさせる湿度だった。中央に二つ並んだ大きな池
の中には、今が盛りといわんばかりに、赤や青、白や紫の花がいくつも咲き誇っている。
平日の昼間で訪れる人は殆ど居らず、ねっとりとした空気が音まで絡め取ったように静か
だった。
「ギガンティアが咲いたね、若見先生」
呼ばれて振り返ると、そこには顔見知りの老人が小学生の子どもを連れて立っていた。
「いらっしゃいませ」
若見瑛は物腰柔らかく、にこやかに笑って客を招き入れる。白衣の裾を揺らしながら二人
に近づくと、もう一度頭を下げた。
「お久しぶりですね。」
「ちょっと体調崩してたんだよ。でも、ほら、もう大丈夫。ギガンティアを見たら、元気
になった。間に合ってよかった」
老人はそう言って、60センチほどの高さで咲き誇っている青色の大きな睡蓮を指差した。
愛好家の中でも人気の高いブルーギガンティアという品種の睡蓮で、睡蓮の中では大きな
部類になり、一般家庭で育てるのは少々難あるものだ。
「今年も綺麗に咲いてくれました。見に来てくださってありがとうございます」
「これを見ないことにはね」
老人は目を細めてブルーの眩しい花を眺めている。その隣で小学生の男の子がつまらな
そうに突っ立っていた。
「お孫さんですか?」
瑛が声を掛けると、老人は頭を掻いた。
「学校が創立記念日とかで休みなんだけどね。この子の両親が仕事でいないもんだから、
私が一日子守なんですよ。でも、私はこんなとこにしか連れて来られないから、つまらない
みたいで」
「だって、ここ超暑いし」
子どもは不貞腐れたように呟くと、瑛も苦笑いを浮かべた。
「温室だから空調効かせてるけど暑いよね。でも、せっかく来たんだから一つくらい覚えて
いってくれると嬉しいな」
「こんな同じ様な睡蓮、見たって覚えられないよ」
孫が池の淵で咲いている赤い花を指すと、老人が首を振った。
「残念、こっちは蓮だ」
「えー、何それ。蓮と睡蓮って違うの?」
瑛と老人は顔を見合わせて、そして笑った。
「どこをどうみても違うだろうに」
「普通はそういう感覚なんですよ」
瑛は腰をかがめて、子どもの隣に並ぶと、池の中を指差した。
「蓮と睡蓮って難しいこと言うと分類上も違うけど、よく見てみるとちゃんと見た目も
違ってるんだよ。ほら見てごらん。この葉っぱ、まん丸でしょ?」
「うん」
「でも、こっちの池の葉っぱには切込みが入ってるよね」
「ホントだ」
「まん丸なのが蓮。切込みが入ってるのが睡蓮。これだけでも大きな違いだよね。それに
ここ見てごらん」
瑛は花びらのすっかり落ちた蓮の花を指した。
「なにあれ」
「何に見える?」
「シャワーの先っぽ」
「そうそう、そう見えるよね。花托っていうんだけど、これは蓮にしかないんだよ。それに
睡蓮の花の多くは水面で咲くけど、蓮の花は水面より高いところじゃないと咲かないんだ」
瑛の白く長い指が優しく花托を揺らした。
「へぇ、結構違う」
小学生は、感心したように頷いた。
「おじさん、すっごい詳しいね。ここの人なの?」
瑛が笑うと、老人がこらっと声を上げた。
「これ、おじさんじゃない、若見先生だよ」
「普段は大学で先生してるよ。ここは大学の付属植物園だから、こっちの管理もしてるけどね」
「なんだ、先生なんだ」
「はい。先生でした。ああ、そうだ、ちょっとこっちにおいで」
瑛は立ち上がると、先ほどの老人が立っていたところまで戻ってきて、ブルーギガンティア
を指した。
「じゃあ、おじいさんの大好きなこの花はどっち?」
「えーっと……睡蓮だ!」
小学生はじっと見詰めて、そして嬉しそうに答えた。
「そう。正解。これは、ブルーギガンティアっていう名前がついてるんだよ」
「ふうん……ギガンティア。難しい名前。……じゃあ、この睡蓮は?」
子どもは、池の隅においてある大きな園芸用のバケツを指した。中には、夏の青空に溶け
て消えてしまいそうな淡い青色の睡蓮が2つ咲いていた。
「これは、まだ名前がないんだ」
「どういうこと?」
小学生が首をかしげていると、老人も興味深そうに覗き込んだ。
「お?交配に成功しましたか。綺麗な青色ですな。熱帯スイレン、ですか?……あまり見かけ
ない感じですけど」
「いえ、熱帯性スイレンではなんです」
瑛ははにかみながら首を振った。
「!?まさか、これは……」
「ええ。まあ、そうです」
瑛が微笑んで答えると、老人はフルフルと震えて、その花に近づいた。
「い、生きてるうちに……青色の温帯スイレンが見られるなんて……!」
睡蓮は熱帯性スイレンと温帯性スイレンに分類され、本来、温帯性スイレンには青色は
ないとされてきた。
多くの育種家がその交配に挑戦してきたが、その道は険しく、青の温帯性スイレンは、
ブリーダーの夢となっている。
その幻の青い睡蓮が目の前に咲いているのだ。愛好家である老人が正気でいられるはず
がない。老人は暫く黙ったまま青色の睡蓮を眺めていた。
「おじいちゃん?」
「おめでとうございます……名前、楽しみにしてます」
老人は感動で目を潤ませながら呟いて、瑛の手を取った。
「はい、ありがとうございます」
透き通った瞳を細めて瑛も頷いた。





老人と孫が温室を出て行くと、また辺りは静かになった。瑛は交配したブルーの睡蓮の前
に跪くと、じっとその花を見詰めていた。
瑛がこの交配に成功したのは僅か数ヶ月前だ。生きることへ後ろ向きだった瑛がたった一つ
打ち込めたことが、この睡蓮の交配だった。自分の手で新しいものを生み出すという、生へ
の喜びは、自虐的にも思えたが、この作業をしている時だけは心が穏やかに凪いでいた。
しかし、このたった一つの夢が達成された今、瑛を縛る存在は何一つなくなってしまった。
この世に何の未練もない。例え愛してくれる人がいても、瑛にとってそれはこの世に繋ぎ
止めてくれる枷でなく、一緒に飛び立ってくれる相棒のようなものだった。
「……」
落とした息が睡蓮の周りに小さな波紋を作る。波紋は睡蓮の葉に当たって揺れた。
瑛の呼吸は周りの植物と同調しているかのように、その場に染み込んで、瑛自身も溶けて
なくなってしまいそうなほど、はっきりしない存在になる。消えてしまいたいという衝動は
いつも隣にあって、一人になればなるほど強くなった。



しんとした温室に、カツカツと乾いた靴の音が響いた。ピクリ、瑛の眉間が震える。止まり
そうなほどゆっくりと動いていた心臓が急激に活動を始め、その強さに苦しくなった。
「……」
瑛は乱れかけた呼吸を止める。胸の中で拳を握り、ぼやけていた意識を覚醒された。
「瑛は相変わらず老人と子どもには優しい」
「……っ」
テナーボイスと共に現れた男に瑛は秘かに唇を噛んだ。
「これってそんなに凄い睡蓮だったんだ?」
後ろから声を掛けられて、瑛はすり抜けるように立ち上がると、能面のような顔になって
男を見上げた。
「いつからいたんですか、安永さん」
「彼らが来るちょっと前からかな」
「盗み聞きなんて、悪趣味」
「瑛の趣味ほど悪くないだろう、この前の摘み食いはどうした」
安永と呼ばれた男は、ためらいも無く瑛の腰を引き寄せていやらしい笑いを浮かべた。
「……あなたには関係ない」
「そう?瑛が摘み食いを止めてくれないと、中々俺の番が回ってこないからな」
「あなたが順番を守っていることなんて見たことがない」
「それは心外だな。いつも瑛のご機嫌を伺いながら会いに来ているっていうのに」
「心にもないことばっかり」
安永は腰に絡ませた腕に力を入れ耳元で囁く。
「お前の身体がそろそろ疼いている頃だろうと気を利かせてやってるんだよ」
「別に……」
瑛は白い顔を伏せながらも、安永の腕を腰から外すことが出来ず、押されるままに、管理室
へと歩かされた。
咽るような湿度が纏わり付いてくる。安永は横目で睡蓮を見ながら瑛の耳元に口を寄せた。
「瑛、睡蓮の学名はなんだった?」
「Nymphaea(ニンフェア)です」
「ニンフェアねぇ。ニンフ。差し詰め水の妖精ってところか。水の妖精は人を惑わすん
だったかな。瑛にぴったりだと思わないか」
「思いません」
「自覚が無いのが一番性質が悪い」
安永は相変わらずにやにやと笑っている。瑛は今にも白衣のボタンを外そうとする安永の手
をぎりぎりのところでかわすので精一杯だ。
「待ってくださいっ」
「分かってるって。瑛がたっぷり乱れられるところまで我慢するよ」
安永の足が向かっている方角は管理室の一角にある「若見准教授専用個室」だ。瑛以外立
ち入り禁止の個室には数々の色の付いた噂が流れている。
「連れ込み小屋だってすれ違った学生が言ってたな」
おかしそうに安永が呟くと、瑛は興味なさそうに答えた。
「知ってる」
「自覚はあるのか」
瑛は押される背中にほぼ無抵抗になった。その瞳は、この後に起こるべき事情をとっくに
諦めた乾いたものだった。





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