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楽園アンビバレンス


 3.終末のアリア




翌日、珍しく遅刻気味の駿也が部室のドアを開けると、殆どの部員が揃っていた。
郁生は着替えを済ませてストレッチをしている。
「おはようございます」
ドアの音で振り返った郁生が威勢良く声を揚げた。
「うっす」
「駿也さん、昨日はどうもごちそうさまでした」
郁生に頭を下げられて、駿也は軽く手を揚げた。
「こっちこそ、遅くまで付き合わせて悪かったな」
「楽しかったですよ。莉子さんは綺麗だし料理うまいし、沙耶ちゃんは可愛いし、ホント
理想な家族っすよね、駿也さんのところは。羨ましいっす」
郁生が感嘆の思いを漏らしているところへ、他の部員が興味深げに話に加わってきた。
「塚杜、駿也さんの家で飯食わせてもらったんか」
「えー!お前だけずるい。駿也の嫁さん、めちゃくちゃ美人だし料理うまいし、俺も呼べよ」
「だよな。莉子ちゃん美人で、沙耶ちゃんなんて更に可愛いし、恵まれすぎだ」
メンバーの賞賛に、郁生が照れくさそうに頷いている。
「すんません、俺だけで。莉子さんの手料理ホントうまかったです」
「自慢するな!」
先輩部員に突っ込まれて、ニシシと笑う郁生に駿也は内心複雑な思いを抱いていた。自分
はまだ理想の男のままでいられている。よくできた嫁、愛くるしい娘、誰もが羨む家庭を
自分はまだ守っていられる。それを自覚して安堵する一方、自分の中でじわじわと何かが
崩れているのも分かっていた。
この闇は誰にも知られるわけにはいかない。自分には守らなければならないものが多すぎる
のだから。
「駿也さん、今度は俺も誘ってくださいよ」
「あ、俺も!」
「ずるいぞ!俺も混ぜろ」
「はいはい。またな」
部員達の声に駿也は心の闇を瞬間で隠した。仮面をかぶり直し、よくできた男に戻る。
「着替えたヤツはさっさと練習行けよ」
「うぃーっす」
一番に立ち上がった郁生が部室のドアを空けた。外は見事な秋晴れだった。





その日は朝からどんよりした雲が漂っていて部屋の空気も冷たかった。駿也はベッドから
起きると、スウェット姿のまま一階のダイニングへと降りた。ダイニング続きのリビング
には、既に娘の沙耶が起きていて、おもちゃを引っ張り出して遊んでいた。
「おはよ、沙耶」
「パパはおそいね」
沙耶は無邪気に笑って駿也の膝にまとわりついてくる。駿也は沙耶を抱っこしたままソファ
に埋もれるとテレビの電源を入れた。
「さや『いいの』みたい」
沙耶の言う『いいの』とは子供向けの教育番組のことだ。駿也は沙耶をぎゅっと抱きしめると
体中をくすぐった。
「だーめ、パパ、天気予報見ないと」
駿也がリモコンでチャンネルを変えていると、そのニュースはすぐに目に飛び込んできた。



「それにしても驚きです。そして悲しくて仕方がありません」
困惑の表情を浮かべた司会者がテレビに向かって訴えていた。駿也は画面右上のテロップを
流し読みすると、一瞬パニックになった。
「え!?」
「どうしたの、パパ」
「……」
背筋にぴきっと痛みが走った。これは何かの間違いではないのだろうか。いや、本当だった
としたら、なんで?なんの所為で……?
駿也の表情が固まって画面を凝視していると、キッチンの奥から莉子が顔を出した。
「あら、駿也さん起きてたの?ご飯できてるから……」
声をかけた莉子はテレビの前で呆然としている夫を見て眉を顰めた。
「どうかしたの?」
莉子がわざわざリビングまでやってくると、駿也は弾けたように我に返った。
「……西口健人が死んだって」
「ああ、これね。朝からずっと報道してるわよ」
「なんで!?」
「よくわからないけど、公園の噴水で溺死してたみたいよ」
「嘘だろ……」
画面のテロップが切り替わって「サッカー元日本代表、西口健人(30)自殺か!?」と表示
されている。駿也の唇が青ざめて行くのが莉子にもわかった。
「どうしたの?顔色悪いわよ?あなた西口健人のファンだった?」
「いや、ファンというかちょっとした顔見知りで……」
「え!?初耳!!」
莉子は西口健人が死んだことよりも夫が日本代表と知り合いの方がビッグニュースらしく
どこで出会ったとか、どういう知り合いなのか仕切りに聞いてきた。
「……大学の同期でT社の陸上部の谷山って覚えてる?」
「谷山さん、知ってるわよ」
「西口健人もT社所属なんだよ。谷山は社で運動部有志の会作ってたんだ。で、西口健人
もそこにいた。谷山がその有志の会で飲んでる時、たまたま俺も同席することになって、
それから何度か会ったんだ。だから親しいほど知ってるわけじゃないよ。でも全くの他人
でもない……」
「初めて聞いた!何で言ってくれないの」
「莉子は西口健人なんて知らないと思ってたから」
「有名人なら別よ。教えてくれたら自慢できたのに。ねえ、それよりも朝ごはん食べるで
しょ?用意できてるわよ」
莉子はテレビの中の有名人の死をそれほど惜しむことなく、さっさとキッチンへ引っ込んで
しまった。
駿也は浮かない顔のままじっとテレビを見つめていた。
西口健人とは親しい間柄ではない。けれど、全く別の場所で、全く別の彼と遭遇した時から
駿也は西口健人と見えない糸で繋がっているような気がしていたのだ。
「なんでだよ……」
頭を抱えて駿也は吐き捨てる。死を悼むというよりも怯えているようだった。
駿也は最後にみた西口健人の生気の抜けた顔が蘇って、頭の中を支配していったのだった。





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200X.11.6.アサヒスポーツ新聞

サッカー元日本代表、西口健人(30)自殺か!?

昨夜11時頃、自宅近くの公園で、サッカー元日本代表の西口健人さんが噴水の中で倒れて
いる所を近所に住む男性が発見、110番通報したが、搬送先の病院で死亡が確認された。
他の目撃者によると西口さんはかなり酒に酔った状態で、公園で大声を出して暴れていた
のだという。
男性が発見した時には、噴水に倒れ込んでいたが、着衣などに乱れは無く、事件性は薄い
とみている。
遺書などは見つかっていないが、西口さんは、成績不振などを悩んでいたようで、今期は
スタメンから外されることもあった。
また、西口さんは半年ほど前から妻の亜里沙さんと別居していた。
警察は事故、自殺両面から調べている。

行きつけのバーの店主
「最近、よく一人で飲みに来てました。昨日も、9時ごろに来てましたが、そのときには
かなり酔っていた状態でした。ジンを一杯だけ飲んで帰られましたが、暴れるというよりも
落ち込んでるような感じでしたよ。最近は一人で沈んでることが多かったように思います」

所属のチームメイトのコメント
「信じられない。昨日まで、一緒に練習してきたのに・・・・・・離婚するとかしないとかで、
揉めていたのは知っているけれど、それで思いつめる程悩んでいたようには見えなかった。
昨日もちょっと飲みにいくと行っていつもと変わらなかった。自殺なんて考えられない」



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「駿也さん、見ました!?」
「何が」
「これですよ、これ!」
郁生が指しているのはスポーツ新聞の一面だ。極太の字で「自殺」と見え、西口健人の事
であることが一目でわかった。
「朝ニュースで見たよ」
「俺、ショック……」
「なんだ、塚杜は西口健人のファンだったのか」
「ファンと言えるほど熱心じゃないですけど、好きな選手だったんで……」
「……そういえばなんとなくお前とタイプが似てるかもな」
「そうっすか?」
「前向きで、多少挫折しても、這いつくばってでも復活するっていうのがな」
駿也がちらりと郁生の膝を見下ろすと、郁生は苦い顔になってため息を吐いた。
「西口健人って怪我して復帰したけど、そのあと成績不振だったじゃないですか。記事には
それに悩んでたんじゃないかって……」
故障したアスリートは誰だって出口の見えないトンネルを、この先に出口があると信じて
進んで行くしかない。孤独で、苦痛の道だろう。それでも西口健人は復活した。屈強な精神
で乗り越えたのだと駿也は感心したのを覚えている。
けれど、復活した表舞台の後ろで、歯車が別のものを動かし始めていたとしたら……。
駿也は自分の思考にぶるっと震えた。
「駿也さん?」
「……塚杜、お前は死ぬなよ?」
言われて郁生は大きく目を見開いた。
「俺がそんな後ろ向きな人間に見えますか」
「はは、分かってるって」
郁生が右足を摩る。夏に痛めた右足ふくらはぎの怪我の状態は回復に向かっていると本人
は言っているが、今季はこのままリハビリに消えていくだろう。
けれど、郁生は不貞腐れることなく、筋トレや丁寧なストレッチを繰り返している。そんな
前向きな姿を見ているほど、得体の知れない怖さを感じてしまうのだ。
真っ暗闇のトンネルの中、見つけたのが出口ではなく逃げ道だったとしたら……。
惹かれてはいけない手にすがりついてしまったら、郁生はどうするだろうか。自分はどう
すればいいのだろう。
見つけてしまった邪な光に背を向け、暗闇の中を歩き続けられる強い人間など本当にいる
のだろうか。僅かに自分を正当化する言葉を思い浮かべてみても、胸が痛むだけだった。
「死ぬな、よ」
呟きは郁生に届く前に消えた。





日付が変わる頃に滑り込んだ自宅は明かりも消え、しんと静まり返っていた。
車を降りると真冬の寒さが瞬間で体を冷やしていく。世間はもうすぐ年の暮れで、駿也も
慌ただしい日が続いていた。
駿也は鍵をゆっくりと開け、滑り込む様に足音を消して玄関に入った。コソコソしている
つもりはないが、自然と足音を忍ばせてしまう。ゆっくりと歩いてリビングの電気を付け
た瞬間、駿也はその光景にぎょっとした。
「莉子?!」
とっくに眠っていると思った莉子が奥のダイニングでテーブルに付いていたのだ。
暗闇の中でぽっと浮かび上がる妻の顔が穏やかでないことに駿也はすぐに気づく。それでも
駿也は平静を装って莉子に話しかけた。
「ただいま。起きてたんだ」
その言葉に莉子はいつもの優しさからは想像できない表情になって駿也を睨んだ。
「一体何時だと思ってるの!?」
「莉子……」
「前は絶対こんなことなかった。飲み会に行ってもこんな遅くならなかった。それなのに
この数ヶ月で生活はめちゃくちゃ。連絡しても電話に出ない。どこにいるのか分からない。
駿也さん最近変よ!!どうしちゃったの?」
「電話に出なかったのは悪かった。だけど、別に疚しいことは何にもない」
「じゃあどこに行ってたのよ!!」
「だから言ったじゃないか。若見さんのところだって。あの人は昔からの知り合いで、自分
にとっては兄みたいな人なんだよ。お前にも紹介しただろ」
自分の行き先に偽りはない。今日もそしてこのところ帰宅が遅くなる日はからなず彼の所
に行っているからだ。
「あの人、今ちょっと苦しい状況に置かれてるって前にも話したよな?だから少しでも
元気になってもらいたいって話をしにいってるんだ」
「他人でしょ?ましてや30すぎた男の人を励ますって何よ!!気持ち悪い」
莉子はあからさまに嫌悪感を見せた。その態度に駿也は自分の聖域を汚された気がして
思わず声を荒らげた。
「若見さんは他人だけど他人じゃない。この気持ちは莉子には分からない」
その言葉は莉子の妻としての自尊心を傷つけるのには充分だった。
「どうせ……どうせ私はただの他人よ!!あなたの育った環境だって境遇だって分かりっ
こないのよ」
莉子は顔を覆い、涙が溢れそうになる瞳を押さえた。小さく咽び泣く姿に駿也の罪悪感と
疲労感が一気に押し寄せてくる。
「……ごめん、今のは言いすぎた」
嗚咽は小さくなり、リビングは再び静寂に包まれる。遠くから時計の秒針の刻む音が聞こ
えてくると、莉子の動く気配がした。駿也が振り返ると、莉子は真っ赤な目をきっと開いて
駿也を見上げていた。
「……駿也さんは若見さんに唆されてる」
「莉子!?」
莉子は何かを掴んでいるのだろうか。いや、掴まれたところで莉子の描いた答えとは違う
はずだ。自分にはやましいところは何もない。この関係はまだ正常なのだから。
白と黒の境界線上を綱渡りしているようなものだけれど、黒でなければ、まだ莉子に対して
真っ直ぐでいられると駿也は自分を信じ込ませた。
そんな上ずった心を見透かすように、莉子は駿也の心臓目掛けて言葉の杭を打った。
「女を……妻を甘く見ないで頂戴」
硬直したまま動けなくなった駿也を、莉子は冷ややかな目で見詰め、そして一人寝室へと
去っていったのだった。





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