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楽園アンビバレンス


 4.幻を狩る者




若見瑛は手元のケータイを呆然と眺めていた。
『瑛を愛してたけど、救えなかった。ごめん。愛してる』
大学付属の植物園、温室の管理室で瑛はそのメールを受け取った。仕事を締め帰り支度を
している最中、ポケットの中のケータイが揺れた。
こんな時間にメールをしてくるのは安永くらいだ。どうせすぐに返事をする必要もないと
思い、瑛はポケットからケータイを引っ張り出すこともせずに、戸締りををして部屋を出た。
11月の夜は肌寒く、薄手のコートをきっちりと閉め、瑛は足早に自宅マンションへと急いだ。
その所為で瑛はズボンのポケットに入っているケータイを取り出すのが遅れてしまったのだ。
瑛がそのメールを確認したのは、着信があってから1時間もあとのことだった。
差出人は紛れもなく自分の恋人で、先週も昨日も会っていた人物からだった。
「まさか……」
瑛には嫌な予感があった。恋人の最近の様子を思い出すと身震いがする。虚ろな目で見つめ
られ「幸せって何だろう」「自分はもうダメかも」と独り言の様に呟いていた。
瑛はケータイのアドレスから恋人の名前を探し出す。コールしようとしたところで瑛は一瞬
躊躇った。恋人との約束は「夜は絶対に電話をしない」だからだった。

「勿論分かってる。ルールは守るよ」
「ごめん、瑛、愛してる」

あの時、瑛の恋人は心から苦しそうな顔をしていた。仕方のないことだ。瑛と恋人の関係
は制約された中でしか実現できないのだから。
それを承知で恋人は瑛に声をかけたのだし、瑛も受け入れたのだ。

「あいつとは別れる」
「無理だよ」
「家、出るつもりだから……」
「嘘。出来るわけないでしょ」

瑛の恋人には配偶者がいた。瑛は一度だけ媒体を通して見たことがある。自分とは似ても
似つかない活発で健康的な女性だった。
そう。瑛の恋人は男だ。女の恋人を持ったこともなければ、女性と身体を重ねたこともない
が、瑛は自分がゲイなのだというはっきりとした自覚がもてなかった。
瑛の身体をこんな風にしたのは、思春期に出会った安永という男で、彼によって始めて経験
させられた甘美がいつまでもしつこく身体に残り、瑛はそれをさらに自分で貪るように
なってしまった。だから、自分がはっきりと同性を好きだと思うよりも先に、痺れるような
甘さに飢えて男に身体を求めていると言った方があっているような気がするのだ。
今の恋人も、何人目の男なのか瑛ははっきりしない。過去、付き合ったと認知できる男を
カウントする趣味もなく、行きずりなど忘れている相手だっている。
「随分だらしのない下半身だ」
安永に鼻で笑われたが、この身体にしたのは他でもない安永だ。
瑛は飢えているのだ。この身体の渇きを満たしてくれるものを。自分を救ってくれる人を、
無意識に探しては切り捨てていく。
恋人との会話がいくつも思い出されては消え、瑛はついにケータイを手に取ると、恋人に
コールした。





恋人の死を知ったのは、朝のニュースだった。ケータイのコールは繋がらず、ついには電源
さえも切られてしまった。
瑛はキリキリする胃を抑え、ソファに座ってケータイを見つめていた。いつの間にか夜が
白け、辺が明るくなり始めると、瑛は無意識にテレビをつけていた。
雑音で少しでも自分の気持ちを沈めたかったのかもしれない。けれど、テレビが瑛にもた
らしたのは、小さな平穏ではなく、最後通牒だった。
「今朝は大変ショッキングなニュースからお伝えしなくてはなりません。サッカー元日本
代表の西口健人さんが、昨夜、公園の噴水の中で倒れている所を近所に住む男性に発見され
緊急搬送されましたが、病院で死亡が確認されたとのことです」
一瞬のことで耳を疑い、瑛は身体を起こして、上がる心拍数を手で抑えてテレビの画面に
食いついた。
「繰り返しお伝えします。西口健人さんが昨夜、噴水の中で倒れているところを発見され
搬送先の病院でお亡くなりになりました」
聞こえている音の意味が分からなくなる。健人が死んだ?それは誰?どういうこと?頭の
中で言葉がうまく組み立てられないままでいると、テレビは視覚の暴力で瑛を一気に絶望
の底へと突き落とした。
画面のテロップには「サッカー元日本代表、西口健人(30)自殺か!?」と表示され、瑛
は否定する全ての材料を失ってしまった。
「嘘……うそ、うそ……嘘だ!!」
握りしめていたケータイをテレビに投げつけ、クッション、リモコン、手当たり次第、瑛は
辺に投げつけた。
「いやああああああああっ」
瑛は叫びながら頭を掻きむしり、ソファに頭を何度も打ち付けた。
やがてその衝動が収まると、瑛のテンションは一気に下がった。のそっと立ち上がると独り言
の様にブツブツと呟きながら、部屋の中を徘徊する。
扉の引き出しをいくつも開け閉めし、やっと見つけたものを鷲掴みにして引き出した。
パラパラと手の中から落ちていくのは常備薬の睡眠薬。
瑛は誰にも聞こえないほど小さな声で呟きながら、薬を取り出していく。
「自分だけ、狡い。自分だけ……自分だけ……狡い」
瑛は掌に溜まった薬を一気に口に入れると、もう目覚めなくてもいいと本気で思いながら
身体の中に沈めていった。





ぼんやりと浮かぶ白い天井が自分を別の世界へと連れ出してくれた気がした。けれど急速
に戻ってくる意識の中で、瑛はまたしても自分が「ここ」に存在していることを実感せず
にはいられなかった。
また死ねなかった、というのが正直な感想で、助かったことに一ミリも感謝の気持ちが浮
かんで来なかった。
そして、その絶望感が身体をすっぽり包み込むと、瑛はやっと自分の周りで起きたことを
思い出した。猛烈な吐き気と胃痛に襲われていた。それでもこれをやり過ごしたらあちら
側にいける気がしていた。けれど、超えることは叶わなかった。
「やっぱり運ばれてたんだ……」
ベッドの上で身体をよじると、腕の先のチューブが揺れた。チューブの先には白色の液体
がぶら下がっていて、否が応なく体内へと侵入してくる。生かされていると痛感せずには
いられなかった。
ここへ運んだのは、おそらく安永であろう。どうせ電話が通じないのを察知して、わざわざ
自宅まで確認に来たのだ。余計なことを、瑛は心底辟易して再び目を閉じた。





瑛は無事退院した。このまま退院することなく一生病院のベッドに縛り付けられていれば、
現実を目にしなくてすむんじゃないかと淡い期待を抱いていたが、医師は容赦なく瑛を
大荒れした現実に突き返した。
数日ぶりに大学へ出勤すると、研究室の周りでも色めいた噂が立っていて、瑛の元にも簡単
に運び込んでくれた。
「連れ込んだ男にエイズを移された」「薬中で廃人になった」「ヤクザの愛人でボスを
巡って本妻と一戦交えてた」「副業にしてる「ウリ」が大学にバレて懲戒免職になった」
どの噂も切って捨てるようなもので、瑛は一々否定するのも面倒なほど呆れながら研究室
へと入っていった。
「おはようございます」
研究室には既に院生の吉野陶子がいて、研究室の雑務をこなしていた。陶子はT大園芸
学部の大学院生で、4年ほど前から瑛の研究室に通っている。スレンダーな美人で、研究室
をいつも明るくしてるれる光のような存在だと言われていた。
「おはよう、吉野さん」
「お体の方はもういいんですか?」
陶子には体調を崩して入院したと安永が連絡したらしく、瑛のところにも陶子から何度か
連絡があり、自分がいない間も研究室が円滑に進むように手配してもらったのだ。
「ありがとう。休み中色々してもらってごめんね」
「それは全然構わないんですけど。ゼミ動かしてくれたのは研究員の方達ですし。それより
大丈夫なんですか?」
「もうすっかり。働きすぎはよくないって身をもって証明しちゃったね」
瑛はよそ行きの笑顔で陶子に微笑んだ。安永が過労が原因で体調を崩して入院したのと、
陶子に伝えた所為で、瑛もそれに合わせたのだ。
陶子は研究室の外をちらっと振り返り、首をすくめた。
「……私も過労だってみんなには伝えておいたんですけど」
「はは。僕の噂は相変わらずだね。もう少しユニークな噂は立たないのかな」
「……そうですねえ。私なら、青い睡蓮の培養でM大の教授と論争になって刺されたとか
流しちゃうかな」
陶子はふふっと笑って瑛を振り返った。
「吉野さんのも笑い事にならないよ」
瑛も諦めたような笑をこぼして陶子を見る。さほど背の高くない瑛と、女性にしては背の
高い陶子は視線が殆ど一緒だ。その視線が一瞬絡んで、静かに解けた。
勿論、瑛は陶子がそんな噂を流すことはないと知っているし、陶子もそれを分かっている
いるから言える冗談だ。
瑛は陶子に対して心は開いてはないけれど、信用はしていた。
それは陶子の日頃の研究に対する姿勢やこざっぱりとした性格を知っているからだけでは
ない。瑛はいつの頃からか、陶子が、明朗な性格の中に時々みせる鬱々とした闇を知って
しまったのだ。闇を宿すもの同士が分かる匂い。自分の中の後ろ向きな気持ちにシンクロ
して、瑛は陶子のことをこちら側の人間だと確信し、そして一定の信頼を置くようになった。
闇を宿す人間は思考は似ているから信用できるのだと瑛は思っていた。
陶子には間違いなくどす黒い感情がある。それが何かは分からないけれど、純真な女性と
もてはやしている男達には分からない暗黒を瑛は感じていた。
陶子は完璧な笑顔で微笑むと瑛にコーヒーを淹れた。それから思い出したように声を潜ませた。
「そういえば、先週の終わり頃から横沢さんと大野さんという刑事さんが3度も訪ねて来ら
れました」
「刑事?」
「はい、ちょっと聞きたいことがあるって言ってましたけど……」
聞き覚えのない名前だ。いくら自分が後ろ向きな人生を歩んでいるからと言っても警察に
世話になるような生き方はしていないつもりだ。
不満げな顔で陶子の入れてくれたコーヒーに口を付ける。飲み終わらないうちに、無遠慮に
研究室のドアがノックされた。
「はい」
「先週から何度も申し訳ありません。大野です」
瑛は思わず陶子へ視線をやった。陶子は眉をしかめさせ席を立つと研究室のドアを開けた。
「何度もすみません、大野です。若見瑛先生は……」
大野と名乗る刑事が中を覗き込もうときょろきょろしていると、瑛はすうっと表情を消して
研究室の扉の前に立った。
見るところ、大野は新調したてのスーツに身体を包まれているような新米の刑事で、刑事
としての威厳はどこに隠されているのかと問いたくなるような腰の低さを見せていた。
「私が若見瑛です」
大野はその姿に驚いて固まってしまった。瑛はわざとらしく、相手を値踏みする顔で大野
を見上げ、男の色気をふわりとまとわりつかせた。
こういう男を退けるには手っ取り早い方法だ。けれどその色目が今回ばかりは裏目に出て
しまった。
ダン、といきなりドアが全開になって、後ろからもう一人男が現れたのだ。
「なんだ今日はいるんじゃねえか」
アウトローなオーラを出している男は刑事特有の嗅覚と視線で瑛を見下ろすと小さく鼻で
笑った。
瑛は再び無表情になりもう一人の男を見上げる。
「何かご用ですか」
「へえ……」
男は含んだ表情で瑛を舐めるように見た。細く張り詰めた緊張が走り、視線が合った所で
二人は密かな探り合いをする。先に視線を外した方がこの勝負の敗者だ。しかし、先攻する
のも得策ではなく、相手の出方次第でどのようにも転がれなくてはならない。
自然に呼吸し、自然な仕草で髪をかき上げる。瞬きすら計算された行動で、お互いの手の内
をチラつかせては隠した。
その一瞬とも永遠ともとれるような攻防を破ったのは陶子だった。
「先生、お茶用意しますね」
瑛は救いの手を差し伸べてくれた陶子に小さく微笑むと、ありがとうを言った。陶子はその
意味を理解したのか、ただ頷いて、刑事たちを中へ招き入れた。
「こちらにどうぞ」
緊張の糸をいきなり切られた刑事は面白くなさそうだった。
「先週から何度か顔を出させてもらってる、横沢です」
アウトローな男は横沢という刑事で、形ばかりの礼儀と言わんばかりに、部屋に通される
前に名刺を差し出した。
瑛もポケットから名刺を出して頭を下げた。
陶子の用意したお茶を一口手をつけると、横沢はさっそく本題を切り出した。
「世間話していてもしかたない。我々がここに来た理由を話そう」
横沢がちらっと陶子に視線を送ったので、陶子は瑛を振り返った。
「彼女がいたら困る話ですか?」
「話を聞きに来ただけだから、いても構わないが、あんたの方が聞かれたくないかもし
れんよ」
「……」
陶子は手早く荷物をまとめた。
「私、温室の方に顔出してきます」
「よろしくね」
瑛が陶子を見送ると、横沢は手帳から一枚の写真を取り出した。
そして、瑛の前に差し出すと
「西口健人、知ってるな?」
威圧的にそう言った。



「彼が何か……」
鈍器で後頭部を殴られた気がした。やっと均衡を取り戻してきたはずの精神がグラグラと
揺れ始める。
西口健人は自分の恋人で、つい数日前にこの世から消えたのだ。自分を置き去りにして。
「彼は自殺したと報道されてます」
大野が遠慮がちに言った。
そんなことは重々承知だ。否定できるものなら全力で否定したいが、日本中が彼の葬儀を
垂れ流しにたのだ。否定する余地はなかった。
自殺した男を追って、彼らは何を探りに来たのだろうか。何を探られてもやましい事は何
一つないが、気持ちのいいものではない。瑛の本能が守れと警告を鳴らした。この男は自分
を狩りに来たハンターだ。
「知ってますよ。それと僕にどんな関係が?」
ねっとりとした視線で二人を見上げ、瑛は妖しげに微笑んだ。大野は再びその視線を向けられ
身体を硬直させた。
「へえ?」
横沢は幾度の修羅場を乗り切った自負があるのか、まるで猫が絡んでくるくらいの気持ち
であしらう。
「この事件はただの自殺ではないと一部で言われていることは?」
瑛は一瞬、目を見開いた。初耳だ。ただの自殺ではないとはどういうことなのだろう。
心臓がきゅうっとひねり上がり、微かに手が震えた。それでも、瑛はスタンスを変える
ことなく分厚い仮面を被り続けた。
「知りませんね。自殺でなければ事故か何か?」
「西口健人からは薬物が検出されている。アルコールで酔った上に睡眠導入剤を服用し、
何らかの理由で噴水に入った。死因は溺死だ」
「自殺か事故かわからないってわけですね」
「いや、自殺に見せかけた他殺、もしくは自殺を唆した人間がいる可能性だってある」
横沢が牙を剥いた気がした。獰猛な狩人の視線が瑛をえぐる。自分の後ろを見透かして
いるような目が気に入らない。瑛は応戦した。
「彼を殺して得する人間なんているんです?」
「西口健人と妻との間には、女性問題に関する確執があったとされてる。けれど、それは
事実ではない。なにせ、西口健人の不倫の相手は女性ではなく、れっきとした男だった
からな」
横沢達は自分と西口健人の関係をどこまで把握してきているのだろう。
「他人の性嗜好をとやかく言う権利はないと思いますけど?」
「勿論。そんなことは問題じゃない。問題なのは『西口健人は泥棒ネコに殺された』と言う
証言がいくつか出てることだ」
瑛はおかしくなって笑い出した。
「それが僕だと?」
「俺たちはそれなりの当たりをつけて来てる」
「それは、あなた方刑事の勘というものですか?でしたら、残念ですが、僕からお話する
ことは何もありませんよ」
「若見さん、あんた昨日までどこにいた」
「……病院ですけど」
「どこか具合でも悪かったんですか?!」
大野が驚いて瑛を見る。瑛は大野に微笑んだ。
「胃を洗浄されてたんですよ。睡眠導入剤とアルコールを多量摂取したせいでね」
流石に瑛のセリフに横沢も目を剥いた。
「なんで……」
「何故?簡単なことですよ。恋人を失って絶望に暮れた。よくあることじゃないです?」
さらりと流すと、一層横沢の瞳が鋭くなった。
「心中でもしたかったのか」
「僕が睡眠薬を多量摂取したのは恋人を失ったからですよ。それとも、僕が自殺幇助でも
したと?」
「だとしたら困ったことになるな」
「証拠も何にもでませんけどね。こういう時、アリバイですか?ああいうのも聞いていく
んです?いいですよ、いつからでもお話しますよ」
門扉を開いているようで、中には一歩も入れる気のない瑛の様子を見て、横沢は首を振った。
「埋まらんな」
呟くと、出した写真を手帳に戻した。一旦引くつもりらしい。長期戦になりそうだと予感
した横沢は態勢を立て直すのだろう。
「今日は若見さんの顔を見に来ただけだから。恋人がいなくなって辛い時に悪かったな」
「え、あの、横沢さん?!」
展開が読めず、席を立った横沢に大野が慌ててついていく。
「し、失礼しました!」
「聞きたいことがあればいつでもどうぞ」
苦虫を潰したような表情の刑事を瑛は微笑みながら送り出していた。





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