なかったことにしてください  memo  work  clap

 その年の夏はやけに暑かった。
外気に触れた途端噴出す汗を何度も拭い、柚樹は待ち合わせの場所へと向かう。これから夏休みの補講
のために学校に行かなければならなかった。
「あー、朝から補講なんて、だりぃ」
 午前中だというのに、照りつける太陽は厳しく、暑さで体力がどんどん取られていくようだ。
「おはよ、柚樹」
待ち合わせの駅で、1人待っているのは、柚樹の彼女、奈津子だった。
「おはよー。暑い・・・」
「もう、しっかりしてよ、バスケ部キャプテン」
奈津子は柚樹のしっとりと汗ばんだ背中をどんと叩く。
「痛ぇよ。・・・それに、俺、もう、キャプテンじゃないし」
先週の夏の大会で柚樹たち3年はユニフォームを脱いだ。県大会3位の成績は、弱小だった
バスケ部にとって大きな励みになり、柚樹は叱咤激励をとばし、後輩にそのポジションを譲った。
「奈津子は、午後から部活?」
「うん、そう」
奈津子はブラスバンド部員だ。夏の大会は終わっていたが、学校祭で引退するのが慣例のブラスバンド
部員は、まだまだ部活三昧の日々だった。
「柚樹は午後からどうするの?」
「そうだな・・・奈津子が部活終わるまで図書室で待ってる」
「えらいっ」
奈津子はにっこり笑って柚樹を見上げる。
「まあ、受験生だしな」
一応、と柚樹は呟く。午前中は奈津子と同じように3年生の先生有志による補講を受け、午後からは
奈津子の部活を待つために図書室で勉強をする。これが、ここ一週間の柚樹の生活だった。
 部活を辞めた喪失感は、大学受験の忙しなく追い立てまくられる空気にかき消されている。
午後の図書室は、そんな空気を大量に醸し出していると、柚樹は思った。そして、昨日のことを
思い出す。ほぼ初めてに近いくらいで入った図書室にもやっと慣れた昨日、柚樹は1人の人間に出会った。
 出会ったというよりは、目撃したくらいのレベルでしかないのだが。
外の暑さを忘れるくらいに図書室はクーラーが効いて、心地よい。そして、彼の周りもそれに溶け込む
ようにひんやりしていた。
 初めは何の気もなく、彼の向かい側に座った。座ったときに一度ちらっと顔を上げたので、柚樹は
遠慮がちに聞いた。
「あ、ここ、いい?」
「どうぞ」
彼は一言だけそう言うと、すぐに教科書に目を落とす。柚樹も、机の上に午前中の課題を広げ、勉強を
始めた。
 初めの10分こそ、真剣に向き合っていた課題も意味不明の数式の羅列にすぐに根を上げてしまう。
(・・・数列ってなんの役にたつんだよ・・・)
課題プリントの上でシャーペンをとんとんと落としながら、柚樹はふと顔を上げた。
 目の前に座る学生はサラサラと音が聞こえそうなほどプリントに大量の数式と説明を書き込み
解を作り上げている。
 柚樹は教科書から彼が解いている問題が「数C」であることを知る。
(数Cってことは理系か・・・どおりで見ない顔だ)
柚樹は彼の手元から視線をずらしプリントの右上の名前の欄を見る。そこには素っ気無い字で
「イシダ」と書かれていた。柚樹は掠め見るように改めて石田の顔を見る。涼しげな目元が
印象的だ。
 柚樹はその姿を何故だかぼうっと火照る顔で眺めていた。
「・・・って柚樹も思うでしょ?」
「え?あ・・・うん」
「もう、柚樹、ちゃんと聞いてる?」
奈津子は呆れたように柚樹を見上げる。
「聞いてる、聞いてる。流石奈津子は俺の彼女。いい女だ」
柚樹は殆ど上の空で奈津子の肩を抱き寄せる。
「・・・暑いよ、もう」
奈津子は肩に回された柚樹の手をぱしっとひっぱたく。
「エッチなことばっか考えてると、大学落ちるよ」
柚樹もそれには笑いながら、へいへい、と嫌そうに返事を返す。
「じゃあ、部活終わったら図書室、行くね」
「ああ」
奈津子とは教室の入り口で別れた。
 奈津子は理系の女だ。文系の自分とはほぼ共通点はない。部活は運動部と文化部、得意な教科は
柚樹が英語、奈津子は物理。
 何もかもバラバラな自分と奈津子がどうして繋がってられるのか、柚樹は不思議だった。
(惰性・・・)
その一言は口にしてはならない気がして、柚樹は奈津子の消えた教室を眺める。そして、心の中
だけでため息を吐くと、自らも教室へと入った。

 補講は実に退屈だった。意味不明の記号が黒板に羅列されている。昨日からの引き続きの数列だ。
柚樹はコンピュータのようにその一つ一つをノートに書き写す。
「・・・よって、n=2以上の時は、Σを使って・・・」
教師の言葉もどこか別の国(それどころか、別の次元)の言葉に聞こえる。
(クソ、Σって書き順、どう書くんだ?)
柚樹は熱さで麻痺しかけた脳みそでそんなことを考えている。教室はあまりの暑さで歪んで見える気が
した。回りを見渡せば、とろんとした瞳で自分と同じようにノートに黒板の字を書き写す生徒や、
下敷きをパタパタ仰いで暑さを凌ぐ者が殆どで、真剣に問題を解く者は極僅かだった。
(所詮、文系の数学なんてみんな適当だよな)
柚樹は自分も同じようにバタバタと下敷きを仰ぎながら、午前の苦痛な時間をなんとか乗り切った。

 午後になって、柚樹は図書室へ向かった。なんとなく足早になる自分に言い訳をしながら。
(別に、会いたいわけじゃない)
それでも彼が居ることを願っている自分にどうやって収集をつけていいのか分からなくなる。
図書室の扉を開けると、冷たい空気が一気に自分の身体に吹きかかってきた。柚樹は一度深呼吸を
吐くと、辺りを見渡す。
 そこだけ、静かで透き通っている、と柚樹は思った。
柚樹はその正面が昨日と同じように空いていることを確認すると、一直線にそこに向かった。
他にも席は空いているのに、自分がそこに吸い寄せられていくみたいだった。
 柚樹が正面に座ったとき、石田は僅かに顔を上げたようだが、柚樹はそれに気づかなかった。
高鳴る胸の鼓動を抑え、柚樹は平静を装って席に着く。昨日と同じように、目の前の人間は
涼しそうな顔をして数学の問題を解いていた。
 柚樹はぎゅっと目を閉じる。この動悸は、何かに似ている。邂逅してみなくても柚樹には分かった。
新学期のクラス替えや、初めて友達に声を掛けるときの期待や緊張とは明らかに違う。
 そう、それはまるで・・・。
(はっ、男相手に、何考えてるんだ、俺は)
柚樹に勿論その気はない。ないどころか、現に奈津子という彼女までいるのだから、男子学生
相手にありえない、と柚樹は否定するが、ぼうっと火照る自分の頬は嘗て奈津子に抱いた気持ちと
さして変わらないことも確かだ。
 これが一目惚れというのなら、とんだお笑い種だと、柚樹は思う。
泣きそうな笑いを浮かべながら、その日、柚樹はなんども石田を掠め見ながら、数学の課題を
片付けた。

 夕方になって、奈津子が図書室にやって来きた。柚樹は勿論何もなかった振りをして席を立つ。
席を立った瞬間、石田は顔を上げて、こちらを見た気がしたが、それは柚樹を見たのか、奈津子を
見たのか、柚樹には判断できなかった。
「勉強、はかどった?」
「あー、疲れた。はかどったかどうか、微妙だけど、教室で勉強するより、涼しくてマシ」
「ホントよね、なんで図書室だけクーラーがあるのかしら。教室にも入れてくれたらもう少し
午前中の補講だって、快適に受けれるのに」
「だよな」
 帰り道はやたらと気が重かった。
あたりはすっかり暗くなっていたが、夜風は生ぬるく、歩けば額に汗がじんわり滲んだ。柚樹は
奈津子の白い制服が暗闇に浮かび上がるのを見ながら、その隣を歩く。
 自分より頭一つ分小さな彼女は、付き合い始めた当時は知的で美人だと思った。今でも、奈津子は
頭のいい女だと思う。そして自分に対して自信を持っていることも、柚樹のことを大切に思っている
ことも、柚樹は肌で感じている。
 それだからこそ、裏切ることはできないと、柚樹は胸の締め付けるようなこの思いを早急に片付けて
しまわねばならないと思った。
「明日は、雨ね」
奈津子は空を見上げて言った。柚樹も釣られて見上げると、空一面に広がる雲が月を消したり出したり
している。この生ぬるい風は雨風なのだろうか。
「そういえば、柚樹の前に座ってた人って」
柚樹は自分の思いを見透かされたかと思って瞬間身体が硬直した。聡明な彼女ならありえない
ことでもない。
「・・・え?」
柚樹は出来るだけ冷静を装って聞き返す。声が上ずるのはなんとか抑えられた。
「知り合いか?」
「・・・うん、多分、石田君。同じクラスなの」
「へえ、そう」
「石田君も勉強始めたのねー。スポーツバカみたいなイメージがあったから・・・。あ、でもサッカー部
も大会終わったのかな。みんな受験生だもんね・・・。私もおちおちしてられないなぁ」
奈津子の話を聞いて驚いた。石田はサッカー部のレギュラーだったのだ。がたいの良さからして
運動部だろうとは思っていたが、室内とグラウンドの部活は殆ど接触がない。柚樹は彼の存在を
知らなかった。
「奈津子は、その石田君とやらとは仲いいのか?」
「うーん、別に。隣の席になったことがあるから、ちょこっとしゃべったことはあるけど、石田君って
スポーツ万能なくせに、すごくシャイなのよ。女の子としゃべってるところ、あんまり見たことないかな。
まあ、その前に、女の子が殆どいないんだけどね、うちのクラスは」
奈津子はしゃべりながら、ふと足を止めた。
「・・・どうした?」
「ここ、家建つんだ・・」
奈津子は空き地を指を差しながら言った。空き地には材木が運び込まれていた。夏の初めまでは
大量に草が生い茂るただの空き地だったのに、今はすっかり綺麗に刈られ、家が建つのを待ちわびて
いるようだった。
「そういえば、この道通るの久しぶりだな」
「うん、そうね。・・・ここね、花が咲いていたの」
「花・・・?」
「そう、花。春の終わりくらいにね、薄紫の小さな花」
「それが、どうした?」
「野春菊っていうの。・・・なんだか、柚樹みたいだなって思って」
「なんだ、そりゃ」
「ううん、ただ、そう思ったの」
奈津子は困ったように笑って歩き出す。柚樹は暗闇の空き地を振り返り、そこに咲いていた花を
思い出そうとしたが、うっそうとした名も分からぬ緑の草が目の前に広がっただけだった。

 次の日はやはり雨になった。
柚樹は午後には図書室にいて、そして石田の前に座っていた。作為的だと、石田もそろそろ気づき
始めているはずだ。それでも、自分の浅はかな欲望を止めることは出来なかった。
 石田を観察しながら、柚樹は気づいたことがある。彼は時々眠っていた。柚樹は、眠った後の
彼の寝顔をこっそり見続けた。
 整った目鼻立ちと、長い手足。日に焼けた肌が白いシャツから伸びて、健康そうだ。大きな掌は
シャーペンを持ったままだらっとしている。
 柚樹は多分見惚れていたのだと思う。そうでなければ、石田が目を覚ましてこちらを見ていることに
暫く気づかなかったことはない。
 視線が合った途端、身体が熱くなった。耳の先まで真っ赤になっているんじゃないだろうか、柚樹は
慌てて課題プリントに目を落とすが、早く打つ鼓動は相手まで伝わっている気がした。
(違う・・・そんなんじゃない・・・)
否定するという作業は、対象の感情を明確にすることだった。柚樹は「石田に一目惚れをした」という
事実を否定しながら、石田に対する感情が恋愛の対象であることを否が応でも認識せざるを得なかった。
 目だけをこっそり上げると、石田はもうこちらを向いてはおらず、もくもくと問題集を解いていた。
 どんよりとした空。ざあざあと雨が降る。遠くで一つ、雷の音がしていた。



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