なかったことにしてください  memo  work  clap
天 球 座 標 系



「僕も、あの人と一緒に連れて行ってくれれば、こんなに苦しむことなかったのかな・・・」

 その言葉に最後の枷が外れたと、後になっても春樹はそう思う。
「ふざけんなよ!何お前まで一緒に傷ついてるんだ、馬鹿」
思った以上に要にきつい言葉が掛かってしまったが、それも仕方ないと思う。自分の押し留めてきた
気持ちまでもが一緒に流れ出したのだ。
 要は唖然としていた。幾筋かの涙が頬に張り付いたまま、声を張り上げた春樹を見詰めている。
「・・・」
何も言えない要に、春樹は乱暴に手元にあるティッシュケースを差し出した。気持ちが高揚している為か、
手が震えていた。
「泣いてる場合かよ」
要の一言に頭に来ていた。自分も死ねばよかったと、要は言っているのだ。自己嫌悪が生み出したその
言葉に、春樹は怒り、傷ついた。
 要は突然頭ごなしに怒鳴られて、零れた涙もそのままに春樹を見ている。
「要がどんな気持ちでいるのか、全くわからないわけじゃない。想像してみれば、そんな気持ちにも
なるんだろう、きっと。俺は要みたいな辛い過去があるわけでもないし、お前に比べればのうのうと
生きてきた人間に見えると思う。だけど・・・だから、言ってやるよ。他人から見ればお前の傷ついている
ことは、間違ってんだよ」
「間違ってる・・・?」
鼻を詰まらせながら、要は春樹の言葉を待つ。今まで出来るだけ触れないように、お互いそこからできるだけ
避けてきた話題に、春樹から踏み込んでこようとしている。
 要はやや構えながら、春樹の気持ちに耳を傾けた。
「俺が言うと、きれいごとにしか聞こえないだろうけど、宇宙は生きてる。助かったんだ。・・・要によって
助かったんだよ。助けた人間を恨むわけないだろ。火事の中で見たことは宇宙に言う必要もないし、それ
を黙ってることで要が傷つく必要も無い。お前は悪くないんだ」
お前は悪くない。父にも心療内科の医師にも言われた要には聞き飽きた言葉だった。何度他人に言われ
ても、自分の中の良心がそれを許さない。
 自分はこの傷を一生負ったまま過ごさなくてはならない。生き残ってしまった人間の責任として。要には
そんな気持ちが流れている。
 だが、春樹は首を振った。
「・・・多分、本当に誰も悪くない。要も、要の母さんも、宇宙の父さんも。誰も悪くはないんだ」
そう言った春樹の顔は要を諭してきたどの大人よりも優しかった。
「要の母さんだって、殺そうと思って本当にそんなことをしたわけじゃない。どうしようもなくて、苦しくて
その時の気持ちとタイミングがかみ合って、そういう偶然の中で起きただけなんだ。人は誰だって、誰かの
一番になりたいと思うし、それを実行しようとしてる。その気持ちが悪いわけじゃない。悪いといえば、
その場に有った『間』なんじゃないのか?」
要には、届くだろうか。春樹は伝えたくて、我慢してきたことをぶちまけている。要の心の闇に自分が踏み
込むことは、得策なのか分からなかった。踏み込むということは、引き返せなくなるということ。自分達の
関係もきっと変化する。
 だけど、いいか悪かで悩んでいても、要の心を引き寄せることなんて出来ない。自分の心にブレーキを
かけたままでは、要に近づけない。
 要を分かりたいと思う。誰かの一番になるのなら、それは要がいいと思うし、自分の一番は、要しかいない
と今ははっきり言える。
「自分まで連れて行ってくれたほうがよかったなんて、絶対に思うな」
後ろ向きの気持ちに、春樹は悔しくなる。
「そんなこと言われたら、俺はどうなるんだよ!再会して、嬉しかった俺の気持ちは、どう責任とって
くれるんだ?!」
要ははっとして顔を上げた。急激に目の前の現実に引き戻されていく気がする。
「お前に気持ち告げられて、悩んだり、苦しかったり、でも凄く嬉しかった俺の気持ち、全部踏みにじって
いくつもりかよ!」
「進藤・・・」
春樹は肩で大きく息を吐いた。もう置いていかれたくはない。自分の心を解放することに躊躇っている
場合ではない。
 要の瞳が再び潤み出す。泣き顔も宇宙そっくりだ。春樹はその姿を見て、語気を和らげた。
「俺には要の辛い過去を癒すことなんて出来ないし、言ってやれるのは慰め程度の事だけど、今、お前が
抱えてる辛いことの少しでも、要の肩代わりになれたらいいって思うのは、俺の勝手?」
覗き込むように見れば、要はやっとの事で口を開く。
「・・・進藤に、自分の心の弱さを見せたくなかった。昔から何一つ変わっていない、後ろ向きで自虐的な
自分の心を、進藤に見られるのが怖い」
体のいい取り繕った自分は、楽だ。自分の作った筋道を演じていたらいい。クラスメイトも周りの大人も
そうやって騙してきた。そうでなければやって来れなかったし、それを否定するつもりもない。
 それが、やっと出会えた思い出の中だけの人間に対しても、要は同じだった。新しく生まれ変わった
自分でいたい、そういう願望もあった。結局は心の奥底では何も変わってはいなかったのだけれど。
 春樹が要の腕を取る。真正面から見据えられて、要は心臓がとくんと飛び跳ねる。
「俺は、お前の隣にいて、支えにはなれないのか?」
春樹の歩み寄りが要にもわかる。今までそんなこと言われたこともなかったのだ。春樹が必死で自分の
気持ちに答えようとしている。それがわかると、要は余計に後ろめたさが増した。
「進藤まで、僕の詰まらない感情で、落ち込ませたり、悩ませたりしたくない・・・」
俯く要の頭の上から、また春樹の力強い声が響いた。
「俺は、お前のなんなんだよ!ただ思われて、そこに座ってる人形か?お前が俺に何か思うように、俺
だって、お前の事考えてる。お前の事で傷ついたり、辛くなったり、楽しかったり、嬉しかったり。ちゃんと
そういう感情、もってるんだぜ?わかってんのかよ」
飾り物じゃないんだぜ?そういわれて、掴まれた腕が熱くなった。その手に自分の手を重ねる。要は、ごめん
と一言呟いた。
「別に、謝るなって」
春樹の小麦色の手が要の手に絡む。春樹は、要がどれだけ目を背けようが、もう逃げるつもりはないらしい。
「お前の領域に踏み込むのは怖いよ。だけど、隣にいるのに、そんな厚い壁があったら、お前の事、何にも
支えてやれない。隣で要が傷つくのは嫌なんだよ」
春樹の手は冷たいのに、握られた手が熱く感じる。熱ではなく、思いが伝わってくるようだった。
「逃がして、くれないんだね」
要が最後の悪あがきで冗談めかして言う。戻るつもりはない。そう春樹は思う。
「言っとくけど、お前が最初に踏み込んできたんだからな」
不貞腐れながら言っているのは、1年の時の告白だろう。確かに高揚して、つい告白してしまったのは要
の方だった。
 あれから随分と経つのに、自分達の関係は何も変わっていない。ただ隣にいる、それだけだ。お互いを
深く知ろうと出来なかったのは、依存してしまう怖さがあったからだろうか。
 けれども、春樹はそれすらも受け止めようとしている。
「お前には俺がいる。だけど、宇宙にはお前しか頼る人間がいないんだぜ?」
「進藤・・・」
「俺は、お前がどんな風に罵られようが、犯罪者の息子だとか言われようが、俺は要の事ちゃんと
分かってるから。わかってて、傍にいるんだから。・・・俺はお前を裏切ったりしない」
やっとスタートラインに立てた気分だった。春樹もまた、自分をさらけ出す怖さを持っていた。関係が
崩れることは誰もが怖い。
 要に告白されてからも、春樹はどこかで自分の決めた領域からはみ出さないように必死でその距離を
保っていた。けれど、自分が踏み込まなくては、手に入れることもできないのだと、春樹は知った。
「俺は、そういう要も含めて、隣にいたい大切な人だと思う」
大切な人、その意味を思って要は俯く。春樹の精一杯の言葉だ。
「お前の辛いのは、俺が貰ってやるから、要は宇宙の気持ちを支えてやれよ」
春樹は強い。辛さを知らない無知の強さだと要は思っていた。だけど、春樹なら、きっとどんな辛いことが
あってもそれを乗り越えようと、真っ直ぐに捕らえようとする精神的な力強さを持っていると、要は感じた。
 自分が憧れて止まなかった、あの子どものころの春樹と、何一つ変わることなく、春樹は自分に心を開いて
くれている。手を伸ばしてもいいのだろうか。自分の中に抱きかかえてもいいのだろうか。
 自分の思いで春樹を汚したり、潰してしまわないか。
「抱きしめてもいい?」
「・・・聞くなよ、そんなこと」
照れくさそうに春樹が笑うと、要は炬燵から這い出して、春樹を抱きすくめた。冷たい両手に頬だけが異様に
熱い。鼓動の速さはお互いに伝わっているだろう。
「進藤、昔とちっとも変わらないね。真っ直ぐで、お節介で、頼りになる。正義の味方みたいだったよね」
「昔のことは、恥ずかしいから止めろよ」
こめかみにキスをすると、春樹が腕の中で身をよじった。
「大好きだよ、進藤が」
「・・・うん」
言葉は続かないけれど、春樹の気持ちは要には伝わっていた。
 要の手が春樹の頬を撫でる。擽ったそうに顔を上げると、要は春樹の唇を指でなぞった。かさついた感触に
春樹が身をすくめる。
 顔を背ける前に、要は春樹の唇を奪った。
それはどのキスよりも、今までで一番苦しかった。愛おしいと狂おしいは似ている。相手を破壊してしまう
ほど、欲してしまう。
 けれど、そんな要の気持ちを春樹は受け入れようとしていた。唇の隙間から漏れる息に合わせて、要の唇
を舐めた。春樹の差し出した舌を絡めとり、吸い上げて、そして押し返す。
 春樹の唇を開いて、口の中をかき回した。
コーヒーの僅かな香りと、春樹の唾液を味わいながら、要は鼻の奥がつんと熱くなる。目の前の愛おしい
人間を繋ぎ止めたい。自分の闇や不幸までも全て飲み込んでくれようとしている太陽のような春樹を。
 要は唇を離すと、もう一度しっかりと抱きしめる。腕の中の春樹は無抵抗で、要の華奢な身体に身を
預けていた。春樹の整髪剤の匂いが鼻腔を刺激する。耳たぶにも唇を寄せれば、仔犬のように春樹が小さく
唸った。
 はにかんだ顔で見上げられて、要はもう一度その唇にキスを落とす。
 歯止めが付かなくなりそうなキスに、春樹の腕がもがきだす。それを握り締めて、要は、後ろのベッド
に春樹を引っ張りあげた。
「え・・・」
仰向けに押し倒され、見たこともない角度で要を見上げている。華奢な腕のどこに、それだけの力がある
のだろうと、掴まれた腕の力に春樹は驚く。
 要の苦笑いが聞こえた。
「そんなに、怯えないでよ」
「べ、別に、怯えてなんか・・・」
春樹の顔に赤みが差して、その瞳が潤んだ。要の顔が近づいてきて、春樹の首筋に落ちる。赤い舌がするり
と筋を舐め上げた。
「んっ」
途端、春樹から小さな声が漏れる。今まで聞きたくても聞けなかった春樹の艶かしい声に、要の気持ちが
高ぶる。舐めあげた首筋を吸い上げると、小麦色の肌の上にもはっきりと分かるピンクの華が咲く。
「はあっ・・・か、要・・・?!」
重なる要を跳ね返すように、要の下で春樹が要の胸を押す。春樹には全てが初めての体験で、戸惑って
いた。今まで誰を抱いたことも、ましてや抱かれたこともない。
 首筋にキスマークを付けられただけで、こんなにも気持ちがクラクラしてしまうものなどかと、春樹は
甘い痺れに、困惑してしまう。
「・・・嫌?」
要の掠れた声に、春樹は首を横に振った。
身体を重ねることで、相手の心まで支配できるなんていうのは、幻想だ。だけど、お互いを深く知りたい
と願うことには違いなかった。
「進藤の事、抱きたい」
その行為をはっきり告げると、春樹は火照った顔のまま、要を見上げる。
「き、気持ち悪くないのかよ・・・?」
春樹も要も、思い出すのは、要の高校時代の体験談だ。
 好きだった彼女の上で吐いた要。母の思い出。フラッシュバック。自分が女がダメだと実感した瞬間を
要は再現している。春樹の上で。
 要は春樹の頬を優しく撫でながら、頷いた。
「女の子じゃなきゃ、いいみたい。っていうよりも、進藤だからいいのかな。・・・進藤のそういう顔見てる
と、ドキドキするよ」
「そういうって・・・どんな顔だよ」
「誘ってそうな顔かな」
「ばっかじゃねえの、誘ってなんか・・・」
それ以上は、要の唇で塞がれて、春樹は悪態をつくことが出来なかった。
 春樹を前にあの気持ち悪さは蘇らない。それどころか、春樹の淫らに乱れる姿を想像して、要は身体が
熱くなる。手に入れたいと切望したときから、長い長い時間をかけてやっとたどり着いた、そんな気までする。
 自分は、春樹がいるから不幸じゃない、そうずっと思って生きてきた。思い出の中の春樹。飾りものの春樹。
そしてそれを壊してまで、自分の隣にいると言ってくれた現実の春樹。
 要は押しのけようとしていた手を取り、その指に口付けする。現実の春樹の方が何倍も強くて魅力的だ。

要の手が、春樹のシャツに伸びたその時、炬燵の上の春樹の携帯電話が、着信のメロディーを鳴らした。
「・・・」
「・・・」
2人とも思わず見詰める。
「出れば?」
「うん」
要は春樹の上から退くと、春樹は机の上の携帯電話に手を伸ばす。見れば板橋からだった。
「・・・ったく、あの馬鹿」
春樹のため息に、どんな意味があるのか考えると要はおかしくて笑ってしまった。
「もしもし?」
『あ、進藤?お前、何か用事だったんだろ?』
電話の向こうでは、のん気そうに板橋がしゃべっている。
「そうだよ、遅せえよ、連絡が!」
『望月がそっちに行ってないのか?迎えにでも行ったのかと思ってたのに、いつまでも帰って来ない
から、お前のトコじゃないのかと思って』
「・・・いるよ、いるけど。帰ってきたなら早く連絡しろってーの、馬鹿」
『なんだよ、その言い方』
むすっとした声が返って来て、春樹はたじろぐ。思わず要を振り返って、ため息が出た。
「・・・間が悪いんだよ」
『は?何、取り込み中?喧嘩でもしてた?』
板橋のすっとぼけた声が、要のところまで響く。それには要も苦笑いになった。
「そうじゃないけど。・・・わかった、行くよ、見てもらいたいものがあって」
『時間掛かるのそれ?俺、忙しいんだけどさ』
忙しいのに、このタイミングで電話を掛けてくる板橋が憎らしくなる。
「いいから、見てくれよ。行くから」
春樹はそれだけ言うと、電話を切った。
 気まずい空気が2人の間を流れる。首筋に受けた要の唇からの熱が、今頃になってジンジンと熱く
疼く。恥ずかしくなって、春樹はそこを掌で抑えた。
「おあずけ喰らっちゃった」
ベッドから起き上がると、要が茶化して言った。春樹もベッドから降りると、要に背を向ける。
「・・・そんなの・・・いつでもできるから、いいだろ、もう・・・」
首筋まで真っ赤になっている春樹を後ろから抱きしめて、要は頷いた。
「うん。そうだね」
声が自然と笑いを含み、春樹も照れ隠しのように早口でしゃべった。
「さっさと、板橋のとこ行って、解析してもらおうぜ?・・・赤平先輩と関係あるかもしれないし、さ」
お互いに伝わる熱は未だ熱いまま。



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