なかったことにしてください  memo  work  clap
天 球 座 標 系



 目の前に広がる光景を夢だと全力で否定してみる。しかし何度瞬きをしても同じ光景が続き、純子は
それが現実であることを痛感させられる。
 繰り返される噂の中で、赤平の手の早さを純子は知っていた。誰と寝たとか、「合コンでお持ち
帰りされた」などという噂は常に付きまとっていた。
 それでも現場を見ない限りは信じないと決めていたし、純子には他の女に取られる心配などしていな
かったのだ。
 自分とは同じ「才能」という絆で結ばれている、そう信じていた。
「・・・何、してるの?」
純子の震える声に、赤平は鷲掴みにしていた船田を吹っ飛ばした。船田は両手を後ろで縛られている
せいか、バランスを崩して机に激突して倒れた。
「ううっ・・・」
「昴?!」
赤平はバツの悪そうに、反り立った性器を素早く納めた。
 むき出しになったままの船田に、脱がせたセーターを投げつける。
「早く、着ろ」
「・・・解いてくれませんか・・・」
船田は起き上がると、後ろ手を見せた。赤平は舌打ちして自分が縛ったケーブルを解く。
 縛りから解放されると、船田は手早く散乱した服をかき集めた。しかし焦りと羞恥からか、ジーンズ
に足が入らない。船田はよろけて机に身体をぶつけた。赤平はイライラしてそれを見ていた。
「着替えたなら、出てけ」
「・・・昴!」
純子の咎める声を無視して、赤平はノートパソコンの前に向かっていた。
 船田はベルトを適当に締めると、荷物を持って脱兎のごとく駆け出した。船田の涙でぐしゃぐしゃに
なった顔が純子の脳裏にべたりと張り付いた。
 船田が研究室を出て行くと、そこは一気に静寂が訪れた。純子は相変わらずその場に立ち尽くして
いたし、赤平はノートパソコンの前でイライラと足をゆすっていた。
 純子は自分が激昂してもいい立場にあるにも関わらず、あまりに非現実的な場面を目撃してしまった
所為で、「怒り」を忘れてしまったかのようだった。
「す、昴・・・?」
赤平の返事はない。その代わり、ダンと拳で机を殴りつけると大きなため息を吐いた。
 実際ため息を吐きたいのは純子の方だ。目の前で起きた光景の弁解の一つでも聞きたいくらいなのに
純子には震えて言葉に出来なかった。
 カタカタとキーボードの叩く音と共に、赤平が背を向けたまま言った。
「純子、コーヒー」
「え?」
「コーヒー淹れろ。この部屋乾燥して、喉、ガラガラすんだよ」
機嫌の悪いときの赤平は何時もこうだ。例え自分の方に明かに非があろうとも、赤平は謝ったりしない。
そういう人間だ。純子は言いたいことも言えずに唇をかんだまま、コーヒーメーカーをセットした。
 コポコポという水の沸いていく音と香ばしい香りが部屋に漂い始める。しかし純子の心は少しも安らぐ
ことはなかった。
 不安と緊張で汗ばんだ手をミニキッチンの流しで洗う。どう切り出そうか迷っていた。水の冷たさに
指の先の感覚を失いそうになる。肘の辺りまで痛みが走ってやっと水から手を離した。
 そこへ、赤平の独り言が飛んできて、純子は赤平の背中を見た。
「あった!これか!・・・ったく、こんなところに隠しやがって・・・」
赤平はノートパソコンからサーバーにログインし、船田の隠したプログラムを探し当てたのだろう。
 それを開くと、赤平は自分の書いたプログラムが改ざんされていることにひどく腹を立てた。
「何してるの・・・?」
純子が恐る恐る後ろから話しかけると、赤平は鬱陶しそうに振り返った。
「アイツが、俺のデータ盗みやがったから、回収してんだよ。ったく何小細工してんだ、あのバカ」
先程、扉の前で垣間見ていた会話から、純子にもなんとなく理解は出来る。データに細工をして、それを
取引に船田が赤平から「写真」を取り返そうとしていたことも。
(写真・・・)
純子ははっとして赤平を見る。そうだ、彼は写真を返して欲しいと言ったのだ。そしてその後で赤平は
もう一度写真を撮った。
 船田の卑猥な写真を。
 意識が急激に戻ってきた気がした。麻痺していた感情が戻って、純子は声を荒げた。
「しゃ、写真って何!?昴、船田君にいつもあんなことしてたの?ねえ!?」
「・・・」
「ねえ!?何なの!?さっきのあれは何?!あんなひどいこと・・・最低!自分が何してたのか分かっ
てるの?ここ、大学よ?卑猥だわ!・・・ひどい。昴、私まで裏切ってるのよ!」
純子は机の上に放置されたままの赤平の携帯電話を見つけると、手に取った。
 すかさす写真を見つけて、純子はそれを突きつける。
「信じられないわ!!なんで、こんなことしたの!?」
「うるさいっ!」
赤平は純子から携帯電話を取り上げる。尚も純子が食い下がると、赤平はその怒りを携帯電話にぶつけた。
ばきっという音と共に、真ん中でそれは真っ二つに折れた。残骸は机の上に叩きつけられた。
「これで満足かよ!?」
「そうやって、なんでも逃げるの!?」
金切り声に、赤平は耳を塞いだ。頭を掻き毟ると、その顔を上げて純子を睨んだ。
 逃げることもできず、追い詰められた巨体は自分の悪行を棚に上げて、純子に手を上げる。
「うるさい」
純子は平手で殴られた。大きな手は耳を掠って、頭がくらくらする。
「・・・っ」
「お前には関係ない」
「関係ないことないわ!私は昴の彼女じゃないの?」
「は、今更何言ってんだ。お前、今までだって見て見ない振りしてきたんじゃねえのかよ!」
真実を知る怖さから逃げ出していたのは確かだ。だが、それを理由にいわば赤平は逆ギレしている。
 純子は自分が信じた男への愛情が醒めていくのをひしひしと感じた。
「・・・昴の事信じてたのよ。なのに・・・何で・・・」
赤平が憎いのか、自分の愚かさが悔しいのか純子は分からなくなった。ただ高ぶった感情で涙が溢れる。
「なんだよ、何が言いたいんだよ」
「なんであんなことしてたの!?船田君、男の子よ!!自分がやってることわかってんの?!何よ!
何が不満だったのよ!?」
赤平と身体を重ね合わせることは純子にとってそれほど重要なことではなかったが、自分以外の人間を、
ましてや男を抱いた赤平に「彼女」としての「おんな」としてのプライドが傷つかないわけはない。
 ところが、赤平は純子のヒステリックな叫びを鼻で笑った。
「はっ、なんだ。お前も溜まってんのか?ちょうどいい。俺もあんなところで寸止め喰らってイライラ
してんだ。俺の部屋来いよ。抱いてやる」
赤平は椅子に座ったまま、純子の腰に手を回す。子宮のあたりに口付けされて、純子はカっとなって
その手を無理矢理外した。自分の性欲の捌け口だとでもいわれた気がしたのだ。
「何よ!最低!」
「その最低の男の彼女を気取ってんのは、どこのどいつだよ」
純子は後ずさりした。
 この男が怖い。純子が感じた初めての恐怖だった。周りの友人に散々忠告された。「付き合うなんて
止めな」そう言われる度、自分は、自分だけは彼の事を理解できるからとそう言い続けた。
 純子には赤平の思考が全く分からない。自分1人を愛していてくれているとは思ってはいなかったが
それでも「恋人」と呼べるくらいにはそこに愛があったはずだった。
 赤平はそんな純子の態度にイライラして身体を逸らした。そうして、純子を無視するかのように、再び
パソコンに向かうと、船田の細工したプログラムを睨んでいる。
 純子はゆっくりと後ずさりして、備え付けのミニキッチンにぶつかった。コーヒーは既に湧き上
がっており、温かい湯気が立ち上っていた。
 純子は自分を落ち着かせるために深く呼吸を繰り返した。この男と対峙していると自分の思考の方が
おかしいのではないかと錯覚してしまう。
 彼はそれほど強い。自分の感情など舐め取られてしまう。
しかし、純子はここで引く訳にはいかなかった。あんな現場を見て、許せるほど、恋人としてやって
いけるほど、心が丈夫にはできていない。
 あるいは、日ごろの周りからの噂を聞いていなければ、純子の心はもう少し寛大になっていたかも
しれない。だが、純子にはそれをするには疲れすぎていた。
 純子は沸きあがるコーヒーの湯気を見つめた。湯気はすぐに冷たくなって周りの空気に溶けた。重たい
空気が身体をまとう。
 沈黙は純子の心を一層暗くした。
赤平は先程から独り言のようにプログラムに向かって文句を言っている。
「俺の作品を台無しにしやがって」
その言葉に純子は反応した。毒を喰らわばというわけではなかったが、純子は最後の砦すら壊してし
まいたくなる。
 もう、こんな思いは沢山だ。
「ねえ・・・昴」
赤平の反応はない。純子はもう一度赤平の名を呼ぶ。
「ねえ、昴、聞いて」
「・・・なんだよ」
赤平はぞんざいに返事をする。純子はその背中を見つめたまま呟いた。
「昴、日高君のプログラム盗んだってホント?・・・それに日高君のプログラムに細工して壊したって・・・」
「・・・誰に言われたんだよ、そんなこと」
「日高君、本人に・・・」
途端、赤平は笑い出した。純子にはそのおかしさが分からなかった。
「何・・・」
「はっ、アイツ、俺にやられたことが悔しくてお前にまでそんなこと言ってるのか。馬鹿なヤツだ」
「昴・・・?」
赤平は首だけ純子を振り返った。その顔は卑しく歪んで見えた。
「そうさ、このプログラムだって、半分はアイツから盗ってやったヤツさ・・・まあオフレコにろよ。
お前だから特別に教えてやったんだからな」
純子の心に一筋の痛みが走る。
「ホントなの・・・?」
「ふん、それがどうかしたのかよ」
赤平は、純子が口外しないと信じているのか、それ以上は興味なさそうに、純子から顔を逸らした。
 沸々と身体の奥から湧き上がってくるのは、今度こそ「怒り」だった。何よりも許しがたい事実。
純子は赤平の女性関係にさほど執着していなかったのは、純子の根幹にある赤平への思いが「才能への
尊敬」だったからだ。
 なのに、赤平はそれですら簡単に裏切ってしまった。自分で努力して勝ち得た才能だと思っていた。
どんなに迷っても、躓いても、自分で手に入れることに拘っていたはずだった。少なくとも純子が出会った
頃の赤平はそんな人間だった。
「才能だけは・・・信じてたのに・・・」
純子の言葉は赤平には届かない。何故、赤平が日高からプログラムを盗むことになってしまったのか
純子には知りえなかったが、理由などどうでもよかった。
 赤平が自分の神聖を汚した、それだけで十分だった。
 純子はハンカチを添えた手で注意深くコーヒーメーカーから赤平のマグカップにコーヒーを注いだ。
それから、赤平が此方を振り返らないことを確認しながら、かばんに入ったままの「魔の粉」を取り
出す。そのときの純子にはためらいはなかった。
 スプーンでかき混ぜると、それは音もなく溶けた。
赤平は相変わらず画面を見たままだった。純子は深呼吸を繰り返す。後は程よく冷めたころに、赤平が
一気に飲み干せる程冷めたころに、これを差し出すだけだ。

 そして、その「間」はやってきた。
 純子の元にヒ素がなければ、あんな現場を見なければ、或いは日ごろから噂を耳にしてなければ、
繰り返される過去への仮定はどれも虚しい。
 震える手をおさえて、コーヒーカップを渡す。ハンカチをもったままの手に赤平はさしたる疑問を
もたなかった。
「そんなに、熱いのかよ」
「・・・もう少し、冷めてからの方がいい・・・」
「じゃ、そこ置いとけ」
純子はただひたすら見守った。そのときには自分の元に送られてきた粉が「ヒ素」であることなど
知りもしなかったが、どこかで確証していた。「この粉で人が殺せる」と。
 しかし、その一方で、殺してしまったらどうしようという迷いもあった。純子はただ、目を覚まして
欲しかったのだ。
 「目を覚ます魔法の粉」であって欲しかったのだ。

 赤平が、そのコップに口をつけた瞬間、純子は「あっ」という叫びを喉の奥で止めた。赤平は先程の
船田との行為の所為か、よほど喉が渇いていたらしい。程よく冷めた液体は赤平の喉を潤していった。
「・・・?!」
ダンとコップを叩きつける音に純子は後ずさりした。
 しかし、赤平は何事もなかったようにキーボードを叩き出した。
 なんだ、ただの悪戯なのか、純子は落胆と安堵の気持ちが一気に押し寄せてきて、そしてその「間」も
去っていった。
 残ったのは「本当に殺さなくてよかった」という自分の行動への懺悔。話し合えばその理由も分かる、
純子はそう思った。少なくとも、その時にはもう殺意なんてものはどこにもなかった。
 しかし、そうではなかった。魔の粉は、時間差で攻撃してきたのだ。
数分の後に赤平の様態は変貌した。唸りだしたかと思うといきなり、そこで嘔吐しはじめたのだ。
「じゅ、純子・・・?!」
安堵が一瞬の内に恐怖へと摩り替わる。
「きゃあぁぁっ」
口を押さえ、純子は入り口のドアまで逃げ出す。赤平は浅い呼吸で純子を見る。
「お、お前・・・何か・・・」
赤平は口と腹を押さえ、その場に倒れこむ。その拍子に机から携帯電話が落ちてきた。カツンという
音と共にそれは蹲る赤平の手元に届く。真っ二つに折れて壊れた携帯電話では助けを呼ぶこともでき
ない。それを手にして、赤平はまた吐いた。
「くそう・・・なんだ・・・これ・・・じゅ、純子・・・助けて・・・」
床の上で這い蹲る赤平と目が合って、純子は自分の鞄を抱きしめた。逃げるしかない。頭を掠めたのは
それだけだった。
「じゅ、んこ・・・」
純子は赤平の声に耳を塞ぎ、研究室から飛び出す。ドアに背を付いて、肩で呼吸をする。扉の内側からは
うめき声と、純子を呼ぶ声がする。
 純子は目を閉じた。
嘘だ。全て嘘だ。夢だ。現実じゃない。この中で起きたこと全てをみなかったことにしよう。
純子の神経はそこへと到達する。
そうして、「この中の出来事に蓋をする」つもりで思わず鍵を掛けてしまったのだった。


「・・・今の話、もう一度聞かせてもらえるかな」
純子はその声に肩を震わせた。驚いて春樹が振り返ると、そこには春樹から事情聴取を行った刑事が
立っていた。
「あ・・・」
そして、隣には唇を噛み締めたまま青白い顔の船田が他の刑事に支えられるようにして立っている。
「船田先輩・・・」
「全部、話したよ。・・・朝霧さん、ごめんなさい。僕があなたにヒ素を送りつけました・・・」
純子は目を見開いて、船田を見る。しかし、大きく息を呑むと、一言「そう」と頷いた。
 純子にも船田の気持ちが理解できたのかもしれない。
刑事が前に出る。そして純子の肩を抱き上げると、純子は大人しくそれに従った。
「あの・・・朝霧さん・・・!」
春樹にはもう、掛ける言葉が残っていない。
 純子は力なく振り返る。
「ごめんね、進藤君」
「・・・謝るなら俺じゃなくて、赤平先輩に言って下さいっ・・・!」
好きだったからこそ、純子は赤平を許せなかった。けれど、許せなくても殺めていい命などどこにも
ないはずだ。
 春樹の拳に力が入る。
「昴には、ずっと謝り続けてるけど・・・わたし達、あまりに離れすぎてるから・・・届いてないでしょうね」
純子の流した涙の意味を、春樹は考える。
 後悔。少なくとも、今はそれを感じているはずだ。
純子は刑事に促されて歩き出した。その後を、船田も続いた。春樹はその背中に慌てて声を掛ける。
「船田先輩!一つだけ、聞いてもいいですか?あのメッセージの本当の意味は・・・」
船田は立ち止まった。
「君達の方が詳しいんじゃないの?天球座標系」
「座標系を変えれば、違うものが見えてくる――見方を変えれば、犯人が分かる」
「そう、その意味を込めて書いてみたけど。ちゃんと伝わったみたいだね・・・」
船田からため息が漏れた。
「居場所が欲しければ、天球の中に閉じ込められて、星座になるといい。そうしたら、毎晩ちゃん
と、その居場所を胸を張って主張できるからね。自分はここに居るって。誰を傷つけることもなく
誰にも傷つけられることもなく。自分という存在を誰にも邪魔されずに証明できるからね」
船田は振り返ることなく出て行った。
 残された春樹はただその場に立ち尽くすしかなかった。







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