なかったことにしてください  memo  work  clap
天 球 座 標 系



「ずっとじゃなくていいから、ここに、いさせて」
 楠木宇宙(くすのき そら)は目の前に呆然と佇む半分だけ血の繋がった兄に対して、ここに辿り着く
までにずっと決めていたことを吐いた。
吐く息が白く、目の前の兄が霞んで、宇宙は兄がどのような顔をしたのか確認できない。しかし、自分も
兄もテレビで見るような感動の再会という気持ちではないようだった。
 10年ぶりの再会は10年と言う年月を飛び越えさせるわけではなく、その存在を打ち消し続けた10年という
長い年月を否定するという意味だ。
 苦しんで築き上げた今までの道は脆く、一つ踏み外せば暗闇の中に吸い込まれてしまう。
宇宙は要を見た瞬間に、兄だと確認できた。自分によく似た顔であることもそうだが、自分の中の血が
懐かしさで騒ぎたったのだと思った。
 その兄は今、自分を前に表情を無くしている。驚き、戸惑い、もしくは、拒絶。受け入れられないのでは
と思った瞬間、宇宙は全身に震えが走った。

「要!」
春樹の少し怒ったような声で、要もそして宇宙も止まっていた時間が再開する。
「・・・寒いんだから、話があるなら部屋ん中でしろよ」
「あ、うん」
要が鞄から部屋の鍵を取り出すのを見て、春樹はほっとしたように言った。
「俺、今日は帰った方がよさそうだな」
「ううん、進藤も・・・」
要が不安げな顔をして春樹を見る。春樹は部外者の自分がここにいるべきではない気がしていたが、要の
そんな顔を見ると、放っておけなくなる。弟の方を見れば、そちらも不安定な表情をしていた。
「とりあえず、寒いから早く入ろうぜ」
春樹は出来るだけ明るい声で言った。
 久しぶりの要の部屋は相変わらず生活感がなかった。必要なものが少しずつこの部屋から春樹の部屋に
移動しているようだ。要の教科書もノートパソコンですら春樹の部屋においてあることがある。
 要はエアコンをつけると、お湯を沸かした。部屋の中は寒く、フローリングの足元から冷たさが身体
に伝わってくる。
「適当に座ってよ」
その言葉に春樹も宇宙も従った。ローテーブルに春樹と宇宙は辻向かいに座った。要は先ほどから一度も
宇宙と目を合わさない。春樹はそれが気になっている。いつだったか、春樹は要が弟についてこんなことを
言っていたのを思い出していた。
「僕は、宇宙が怖い」
「どう言う事だよ」
「きっと宇宙に再会したら逃げ出してしまいたくなる」
要はあの火事をずっと自分の所為だと決め付けている節があって、火事が原因で宇宙が不幸な人生を歩ん
でいるとするならば、顔向けできないと要は言っていたのだ。宇宙にとってみれば、自分の母と父と
片割れを一気に失ったのだ。いくら3歳の子どもとはいえ、その事情を知れば、きっと宇宙は家族を助け
なかった兄を恨むだろうと、要は本気で思っているようだった。
 そのことについて春樹は何も言えずにいる。勿論火事は要の所為ではない。火を消すことが出来な
かったのも、弟を助けられなかったのもどれも要の所為ではないとはっきりと言える。けれど、そう
言ってやっても、要の心を救うことはできないのだ。唯一救うことが出来るとすればそれは宇宙なの
かもしれないと、春樹は思う。
 要の心の闇は計り知れない。春樹は改めてそれを感じた。
「コーヒーでいい?」
要は振り返らずに聞く。春樹が宇宙を見ると力なく頷いているので、
「いいよ」
とその背中に向かって言った。
 要がマグカップを持って春樹と宇宙の前にそれを置く。そして、要は一呼吸つくと、宇宙の正面に
座った。
 何の覚悟を決めたんだろう、春樹は「兄らしい」顔になった要を見て思った。吹っ切ったというより、
新しく仮面を被ったような表情だ。
「大きくなったね、宇宙」
「・・・」
「13になったんだよね。中学生・・・」
「1年」
宇宙は顔を上げて兄を見る。覚えてるの?と小さな声がした。
「・・・宇宙の事は忘れたことなんて、一度もないよ」
だけど、要の返す微笑みは硬いと春樹は感じた。確かに忘れたことなど一度もないのだろう。罪の意識に
囚われ続けた10年。
 要は何故今頃弟が自分なんかに会いに来たのか、その気持ちを探っているのだ。
「よくここがわかったね」
「調べた・・・」
「調べるって」
宇宙は1拍間を置いた。自分の中で筋道を作っている。ここで間違えたら、追い出されてしまうと感じている
に違いない。
「僕、ずっとばあちゃんと2人で暮らしてたの」
「2人?・・・じいちゃんは?」
「僕が5歳の時に死んだ。あんまり覚えてないけど」
要が母の両親に会ったのはあの火事の起きた年の正月が最後だった。要は小学校4年で、母と弟2人を連れ
確か群馬の方に会いに行ったのだと思う。要とて、その祖父母の顔は曖昧だ。
「じいちゃん、死んだんだ」
実感の湧かない死だ。その言葉に宇宙は続くように言った。
「今年の6月にばあちゃんも死んだんよ」
そちらの言葉には悲しみが溢れていた。
「祖母ちゃんの遺品整理するの手伝ってたら、兄ちゃんの父さんから、ばあちゃんに宛てた手紙が何通も
見つかったんだ・・・そこに、ここの住所も書いてあった」
要は益々目を丸くした。自分の父が母の親に手紙を送っていたなど、要は知らなかったのだ。父は一体
自分の何を知らせていたというのだろう。
 続ける要の言葉は少し震えていた。
「今、どこに住んでるの」
「母さんのお兄さん夫婦のとこ・・・ばあちゃんが死ぬまでに数回しか会ったことがなかったけど・・・」
祖母が亡くなって、殆ど他人同然の叔父のところに引き取られたのだという。そこで宇宙の顔が曇った。
「ばあちゃんと暮らしてたときの方が、楽しかった・・・」
上手く行ってないのだ。どのようなすれ違いがあるのか要にも分からない。ただ、それで逃げ出してきた
というのなら、要はここで匿うことなどできないと思った。
「帰ったほうがいい」
「要!」
いきなりの拒絶に春樹が叫んだ。
「・・・こんなところにいても、宇宙の役には何一つたたない」
「役に立つことなんて、なくてもいい。ここに居たい」
宇宙は初めて食い下がった。なんとしても帰るつもりは無いらしい。少しの間だけでいいから、と宇宙は
続けた。
「宇宙は・・・僕に何を求めてるの?」
要には宇宙の気持ちが読めない。突然現れた弟は自分にとって脅威なのかそれとも自分を救ってくれる
存在なのかも見えない。要するに怖いのだ。
 宇宙は火事の事実をどれだけ知っているのだろう。火事の記憶は残っていないかもしれない。だが
そんな情報は嫌でも周りから入ってくるに違いない。そして、それを知って宇宙は何を思うのだろうか。
 不甲斐ない兄を、恨んだりしているのではないのか。要にとって宇宙は自分の理解を超えている存在で
出来るならば、もう二度と会いたくないと心のどこかでは願っていた。自分の知らないところで、出来る
限り幸せに暮らしていて欲しいと、もう自分に関わって不幸にならないで欲しいと、そう願っている。
「何も・・・。迷惑掛けないようにするから」
半泣きになった弟を見て、要はそこで自分の感情を押し殺した。これ以上弟を傷つけたくは無い。強張った
筋肉を緩めながら、要は宇宙に問いかける。
「じゃあ、せめて理由くらい聞かせて」
「理由・・・」
「そう、家出の理由。叔母さんと喧嘩した?叔父さんに何かされた?」
宇宙は首を横に振っただけで、言葉にはしなかった。要から思わず息が漏れる。
「どうやって出てきたの?ここの事言ってある?」
「ううん・・・」
預かった子どもが突然いなくなったら、兄夫婦も慌てるのではないのだろうか?要は自分の感情よりも冷静
になることを選んだ。
「理由も言えない、家族にも秘密。・・・宇宙にも思うことはあるだろうけど、それじゃ心配する人たちに
失礼だよ」
「でも・・・」
宇宙が思いつめていることがどれだけ重大なことなのか分からない。今の要にとってみれば大したことでは
ないのかも知れない。往々にして中学生の悩みなどはその程度のものだ。だが、それでも当人にしてみれば
自分の生活を変えてしまうほどの悩みならば、要は彼の思うようにさせてやりたくなった。
 弟の存在は自分にとって心をかき乱す存在だが、弟には幸せでいて欲しいと願うのもまたはっきりとした
思いだ。
「じゃあさ、暫くの間ならここにいていいから。宇宙の気持ちの切りが付くまでここにいればいい。だけど
せめて家の人にだけでも連絡しなよ」
宇宙の顔が強張る。それほどまでに叔父たちとの生活は上手くいっていないのだろうか。要は自分のことを
振り返る。確かに父親に引き取られたとき、自分だって実父なのに、関係はギクシャクしていたのでは
なかっただろうか。分かり合えるまで、何年もかかったはずだ。
「じゃあ、僕から言おうか?」
宇宙はそれもいい顔をしなかった。自分では信用されないのかもしれない、所詮大学生なのだから。要は
逡巡した後で、これしか方法はないだろうと告げた。
「・・・僕の父さんに連絡してみるよ。父さんから叔父さんに連絡するっていうのでいいだろ?・・・多分父さん
なら、ばあちゃんに手紙書いてるくらいだから、きっと分かってくれる。そっちの筋の方が相手も安心するだろ」
なんとしても居場所だけは伝えとかないとダメだよと要は宇宙を諭した。
 そうして、やっと宇宙が頷くと、要はポケットから携帯電話を取り出して、履歴から自宅の番号を呼び出す。
5回ほどのコールで電話は繋がった。
「もしもし、あ、父さん?久しぶり。仕事終わった?・・・うん。まあ、元気だよ。うん。・・・はは、大丈夫、
うん。うん、うん。・・・うん、って、いいよ、その話はまた後で。・・・何って?・・・あのさ、実は今、うちに
宇宙が来てる・・・。そうじゃなくて!・・・そう、その宇宙、弟。・・・」
要は宇宙を見る。宇宙の顔は先ほどよりも紅潮していた。
「・・・父さん、祖母ちゃんに手紙書いてたんだって?・・・それ見て、ここまで来たらしいんだけど。・・・
ああ、いいよ、別に。謝らないでよ。・・・ただびっくりしただけ。・・・祖母ちゃん死んだって・・・知ってた?!
・・・そう。今母さんのお兄さん夫婦のトコにいるんだけど・・・なんだ、それも知ってたんだ・・・。僕だけ
なんだね、知らなかったの。・・・あはは、別に拗ねてなんてないって。・・・それでさ、宇宙、何かあったみたい
で飛び出してきちゃったらしいんだ・・・」
宇宙は俯いている。その表情は春樹からも確認できなかった。
 うまく行っていないことは本当なのかもしれない。確かに考えてみれば、いきなり13歳の子どもを引き
取って自分の子どもとして育てるということは難しいことだろう。足しげく通っていた訳でもなく、年に
1度会えばいいほどの仲で、お互いのことも分からずに暮らし始めたのだ。上手く行かなくても当たり前
かもしれない。しかし、春樹にはそれ以上に宇宙はもっと大きな何かを抱えているように思えて仕方
なかった。家が嫌で逃げ出すのなら、友達のところでもいいのではないのか?どんな気持ちになるのか
想像もできない兄を頼るほどリスクを背負ったことなのだろうか?
 逆に言えば、兄に頼ることしか出来ないものを宇宙は抱えているのだと春樹は感じている。それが
何なのか、がっちりとガードされた心の中を春樹には覗くことは出来ない。
「・・・うん。・・・うん、・・・そう。・・・暫くここにいるように出来ないかな。ここか、もしくは父さんのとこ
にいるってことに・・・・・・ホント?・・・うん、分かった。ありがと。・・・うん。いいよ、じゃあ、ちょっと
宇宙に代わるよ」
要は携帯電話を宇宙に渡した。うちの父さん怖くないから、そう言って。
「もしもし・・・」
宇宙の声は相変わらず高く震えたような声だった。電話越しに要の父が何を言っているのかは分からないが
何かを呟く度、宇宙が頷く。そして、頷くたびに目に溜まった涙が零れ落ちた。
 父に連絡先を告げ、宇宙はもう一度要に携帯電話を渡した。宇宙の顔は幾分すっきりしているようにも
見えた。
「・・・もしもし?・・・ああ、僕。うん、じゃあお願いします。・・・あはは、大丈夫だって。うん、進藤も元気で
やってるよ。うん・・いるけど・・・。何、進藤にも代わりたいの?」
いきなり自分の名前が出てきて春樹はびっくりした。要の父とは何度か会ったことがある。板橋と同じくらい
ちょっと変わっていて、面白い人だった。春樹が固まっていると、
「進藤、代わりたくないって」
要は面倒くさそうに一言そう言って、それから電話を切った。
 ここの家族は相変わらず理解し難い関係だと春樹は思うが、今はそれも悪くないと思う。要の父が
これほど寛容でなければ、要はもっと救われていなかったに違いない。
 要の乾いた笑いで電話が切れると、部屋は一気に沈黙になった。
「あの・・・」
「うん。これで暫く、うちにいられると思うよ。多分、父さんが上手く言ってくれるだろうから」
「ありがとう・・・」
宇宙はそういったきり、抱えた膝に顔を埋めてしまった。彼はここに何を求めに来たのか。要は自分の採った
選択が正しいのか分からなかったが、大きく流れてくる運命には逆らえない気がした。
(ここで宇宙が何かを掴んでいくというのなら、僕もそれをここでみていよう)
これは要自身にも試練のような気がしている。
 春樹はそんな要の背中をぽんと軽く叩いてやった。
「・・・進藤?」
「じゃ、俺帰るわ。明日またメールするし」
そう笑いかけた要に、俺もいるんだからな、と春樹は視線だけで伝える。要はそれを受け取って、頷いた。
春樹は立ち上がりながら、宇宙にも声を掛ける。春樹にも弟がいるが、宇宙よりももう少し大きい。
 蹲った頭に手を乗せて、その手で柔らかくくしゃりと宇宙の頭を撫ぜた。
「兄ちゃんに会えて、よかったな」
要がその言葉に身体を揺らす。春樹はそれ以上は何も言わずに立ち上がった。そして、鞄を持って部屋を
後にしようとしたとき、抱き込んだ両膝に顔を埋めて宇宙が言った。

「確かめに来たんだ」
そう呟いた宇宙の言葉を春樹も要も理解できなかった。






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