なかったことにしてください  memo  work  clap
天 球 座 標 系



 春樹達は夕食を済ませるために、近くの定食屋に向かった。宇宙を挟んで3人、横一列に並んで歩く。
宇宙は先ほどから、ソワソワしていた。要とは頭一つ分違う宇宙は、俯くと更に小さく見える。春樹は
俯いた顔を覗き込んだが、宇宙は無反応だった。
 そうして定食屋へと歩き出した春樹達を前に、いきなり一つの影が飛び出してきた。
それが街灯の明かりに照らされてはっきりと正体を確認できると、隣に並んでいた宇宙が、さっと要の
後ろに隠れた。
 見れば、青年まで一歩手前といった形容の垢抜けきらない少年が、こちらに向かって歩いてきている。
明かに目標物を見つけた視線だった。
 宇宙が要のダウンジャケットの袖を握り締める。要は驚いて宇宙と向かってくる少年を交互に見た。
そして、ちいさく宇宙に向かって尋ねる。
「知り合い?」
宇宙は唇を震わせた。その唇が色を失くし、宇宙が動揺していることを春樹も要も感じる。一体目の前に
現れた人間は宇宙の何なのだろう。
 きつく釣りあがった瞳が獲物を捕らえたハンターの目に見えた。
「よう楠木。こんなトコまで逃げ出してたの?探すの苦労したんだぜ?」
変声期を過ぎたばかりの声は完全に下がりきっていなかった。しかし、その若い声は大人に負けない
ほどの迫力を持っていた。
 要は前に立ちはだかっている少年をしっかりと見詰めて、小声で宇宙に聞く。
「誰なの?」
「・・・部活の先輩」
震えた声は隣にいる春樹のとこに届くのがやっとなほど小さく掠れた。
「なあ、楠木。随分と冷たい態度じゃねえの?」
要の陰に隠れた宇宙を覗き込むように少年は言う。厭味交じりの口調は、人を陥れることに慣れている
ようだった。宇宙はこの人間から逃げるためにここに来たのだろうか。春樹は宇宙の怯えた瞳を見る。
この幼い2人にも感情の縺れが生じている。春樹は息を呑んで見守った。
 要は宇宙を背中に隠して、少年と対峙する。
「宇宙に何か用かな」
「・・・あんた誰だ」
宇宙を匿おうとする要に対しても少年は不遜な態度をとった。要はその答えに迷った。しかし、迷った
思いを全部飲み込んで、
「僕は、宇宙の兄だよ」
と言った。
 ダウンジャケットの袖を握る宇宙の手に力が篭る。少年の瞳は更に赤くなった。人を憎む目だ。
「はっ・・・。楠木追っかけてきたら、兄貴まで捕まえちまった」
「どういう・・・」
その言葉を遮って、少年はどす黒い感情をぶつけた。
「お前も、人殺しの息子なんだろ?」
「?!」
要は言葉を失くす。見れば要の顔も宇宙と同じように青白くなっていた。
「き、君は・・・」
「オレか?粕谷徹」
聞き覚えのない名前に、要は底知れない恐ろしさを覚える。人殺しとは間違いなく母の事だ。何故、それを
この少年は知っているのだ。
 少年は要のその様子を鼻で笑うと、こう続けた。
「・・・昔は杉下徹って名前だったけど」
記憶の中から蘇るその名前に、要は足が震えた。
 東京のあの古アパートに住んでいたころ、よく通ってきた男がいた。それは宇宙と星夜の父であり
あの日、母がわき腹を刺して殺した男。
 その人の名は、杉下と言ったはずだ。
「真逆・・・」
母と男が言い争っていた理由を要は後になってやっと理解した。

『あっちとは別れるって、ねえ、ちゃんと言ったでしょ?』
『言ったけど、今すぐじゃねえ、俺だって俺の生活があるんだ』

男と母は不倫だった。不倫の果てに出来た子どもが宇宙達で、杉下は妻と別れて要の母と結婚するつもり
だったが、今の生活を捨てることもできなかったのだ。
 それに耐え切れなくなった母は杉下を刺した。尤もそれを知っているのは要だけだ。その真実は母と
共に火の中に融けて消えた。最愛の弟を1人、犠牲にして。
 目の前にいる少年はその杉下の息子なのではないか?要はよくなっていたはずの火事の後遺症が発病
するのではないかと思った。身体が強張って動けなくなる。彼の心の闇に呑まれそうになる。
 ある日突然他人の女の家で自分の父親が焼け死んだのだ、粕谷徹が自分達をどれほど恨んでいるのか
想像に難くない。
「・・・杉下さんの息子・・・」
呟いた要に粕谷がにやりと笑った。
「当たり」
要が表情をなくす。目の前に宇宙が現れただけでも気持ちを揺さぶられていたのに、杉下の息子まで現れた
のだ。息苦しくなって、眩暈がした。
「なんだ、兄貴の方はちゃんと知ってるんだな」
「知ってるって」
「楠木、何にも知らなかったから、教えてやったんだよ、オレが。火事の事も親父のことも、全部な」
隣に立つ春樹も愕然としていた。宇宙と粕谷がどうやって出会ったのかは分からないが、粕谷は宇宙が
自分の父親を奪った人間として、恨んでいる。
 何も知らないまま育った宇宙に、いきなり残酷な真実を突きつけたのは粕谷自身だというのだ。宇宙が
逃げ出してきたのも分かる気がした。
「何がしたい・・・?」
「別に。ただ、兄弟として仲良くしようぜってオレは言ってるだけさ。な?楠木」
兄弟、その言葉に要も宇宙も顔を強張らせる。金縛りにでも遭ったかのように一歩も動けないでいる2人に
粕谷は皮肉な笑いで近づいて来る。
 その瞬間、春樹の身体は自然と動き出していた。
「何がしたいのかわからないけど、こういう近づき方はフェアじゃないよね」
粕谷の腕を取った。思っていた以上に粕谷は小柄だった。宇宙よりは大きいが、春樹よりも幾分か小さい。
「なんだよ、離せよ」
「こいつらに、危害加えるつもりなら、離すわけにはいかないけど・・・。粕谷君だっけ?あんまりひどいこと
するようなら、脅迫罪で訴えるよ?」
「関係ないのに、口出すんじゃねえよ」
粕谷が春樹を睨みつける。掴んでいた反対の腕が勢いよく振り回されて、春樹の頬にその拳が当たった。
春樹は顔を歪ませた。
「大切な人が傷ついているのに、黙ってられるかよ」
要の心の闇を自分では救うことができない。でも、だからと言って傷ついている人間を横に、傍観してるだけ
などと、春樹には我慢できなかった。その場しのぎでも降りかかる火の粉は振り払ってやりたい。
 そうして尚も睨み返していると、粕谷は春樹に掴まれた腕を無理矢理引き剥がして、後ずさりした。
「よ、余計なことするな・・・」
そうして、捨て台詞を吐くと、粕谷は闇の中に走り出す。
「あっ・・・待て・・・」
追いかけようとした春樹に要の声が制した。
「進藤!」
振り返ると、要は首を横に振っていた。
「・・・いいから。追いかけなくていいから・・・」
そういった要もその後ろで立ち尽くす宇宙も生気を吸い尽くされたかのような顔でいたので、春樹は
その場から離れられなくなった。
「・・・部屋、戻ろう」
掠れた声で言うと、二人は静かに頷いた。


 要のアパートに戻った3人は、炬燵に入り込んでから、無言で座り続けている。誰がどうやって切り出せば
いいのか春樹も要も迷っていたが、いい加減その沈黙に耐えられなくなって春樹が先に口を開いた。
「宇宙、ちゃんと話した方がいいと思うよ。粕谷ってヤツのこと」
宇宙は泣きそうな顔で春樹を見上げる。
「別に怒ったりしないし、そもそも宇宙が悪いわけじゃないんだろ?」
春樹は出来るだけ表情を和らげて宇宙を見る。宇宙は躊躇い、口の中で何度か呟いた後、やっと声を
搾り出した。
「・・・優しい先輩だったんだ、初めは」
「うん?」
そうして重たかった心の枷を外すと、宇宙は堰を切ったようにしゃべりだした。
 火事の後、宇宙は祖父母、要や宇宙の母の親に引き取られた。当時3歳だった宇宙は火事の事を殆ど
覚えていなかった。そしてまた、祖父母も宇宙に詳しくは語らなかったのだという。
 微かに残る兄――要の記憶が宇宙の全てだった。祖父母が教えてくれたことは、火事で両親が亡くなった
ということと、兄の要は別の親戚に引き取られたということ、そして双子の兄は火事で亡くなったと
言うことだけだった。
 当然祖父母にも、要の母と杉下の話は届いていたはずだ。しかし、彼らは宇宙に何一つ真実を語ること
はなかった。もしかしたら、それは頃合を見て話すつもりだったのかもしれない。しかし、祖父が亡くなり
そして今年の初夏には祖母も亡くなった。
 宇宙は母の兄夫婦に引き取られ、学校も転校することになった。そして、そこで出会ったのが粕谷徹だった
のだという。
 宇宙は陸上部に入った。粕谷はそこの陸上部の3年だった。同じ短距離走のフィールドで走る粕谷はかっこ
よかったと宇宙は言った。自分と同じで小柄なのに、風を切るように走る姿はすぐに宇宙の憧れになった。
「夏の大会で選手に選ばれて、その時、徹先輩すごく褒めてくれた」
大会で入賞して、粕谷に自分の後継者だと褒められた。宇宙は随分と粕谷になついたのだろう。そうして
粕谷ともどんどん親しくなって、お互いの家を行き来することもあった。そんな中で宇宙は粕谷の生い立ち
を聞くことになる。
 粕谷は幼い頃に父を亡くしたのだと言った。そしてずっと母と二人暮らしだったのだが、中学に上がる前
に病気でその母も亡くした。今は祖父母と暮らしていると宇宙に告げた。
 その生い立ちを聞いた宇宙は当然、自分との境遇を重ねた。同じように親をうしなった淋しさを共感したい
そんな気持ちだったはずだ。宇宙は粕谷に自分の話をした。小さな頃、東京に住んでいて、家が火事になった
こと、両親が火事で死んだこと。そして双子の星夜が犠牲になったこと。要という兄と生き別れになったこと。
 分かり合えると期待して告げたその告白に、粕谷の顔が曇った。
「最初から徹先輩も知ってたわけじゃなかった・・・近づいたのはただの偶然だったのに・・・」
最悪の偶然だった。粕谷は宇宙に昔から姓が変わっていないか確かめたのだという。
「・・・母方の姓は確かに楠木なんだ。でもあの事件で公表された名前は望月だった。その辺りはちょっと
複雑で・・・」
 隣で要が重い口を開いた。
「母さんと父さんが離婚したのは僕が小学校に上がった後だったから、僕の事を思ってか、僕は父方の
姓をそのまま残されたんだ。突然苗字が変わったりしたらやっぱりそれだけでもいじめの対象になるって
思ったんだろうね。でも、その後で宇宙と星夜が生まれて、母さんは何故かその2人にも望月の姓を名乗ら
せてたんだよ。理由も事情もわかんない。おまけにうちの表札は望月のままだったし。詳しく父さんに聞いた
ことがないから、何の意味があったのかわかんないけどね」
そうして、粕谷の中でも父を殺した一家は「望月家」とインプットされたのだろう。星夜という少し
変わった名前は粕谷の中にはっきりと残り、その名前が宇宙の口から出たときに、粕谷はその偶然を
疑った。そうして、面白いように重なり合っていく符号に、粕谷は目の前にいる宇宙が父親を殺した
火事の生き残りであることに辿りついてしまった。
 そこから、粕谷の態度は豹変した。
「訳分からなくなって・・・初めは無視されて、部室で僕の教科書とかなくなったり、靴捨てられたり。
僕、怖くなって部活にいけなくなったら、あるとき、呼び出されて、それで・・・本当の事、知った。火事で
死んだのは僕の両親に間違いないけど・・・徹先輩のお父さんだったってこと。僕は人殺しの子どもだって
言われた。だから、そんな生い立ちがあるから、叔父さんたちも僕の扱いに困ってるんだ・・・」
 新聞の紙面には事件の詳細は載らなかったはずだ。大きな記事にもならなかった。ただ、周りの住人の
間ではもっぱら無理心中じゃないのかとの噂があった。無理心中とすれば、当然要の母親によるものだと
世間では考えるに違いない。
 実際、火事の中で真実を見た要は、結果として無理心中と同じ状態になったと思っている。争っていた
はずみに刺したのは事実だが、火が回っている中で、男を大切そうに抱きかかえていたのは、逃げる気が
なかったからだ。
 要の心にも大きな傷を負わせた母の最期の思い出は、こんなところにまで余波をもたらした。
 宇宙の瞳からぼたぼたと涙が零れ落ちる。それが炬燵の机の上に落ちて、小さな水溜りを幾つも作った。
 それ以来、宇宙は粕谷に人殺しと罵られ、あるときには殴られたりもした。段々それがエスカレート
して、ついに宇宙は逃げ出したのだろう。
春樹は唖然とした。どうしてこの兄弟には辛いことばかり起きてしまうのだろう。何故家出をするのに
要の家を選んだのか、春樹は少しだけ分かった気がする。宇宙はどこに逃げていいのか迷ったはずだ。
友人の家に逃げ込んでも意味が無い。粕谷のいないところ、知らないところ、それだけを頼りに必死で
ここまでたどり着いたのではないか。結局は、その努力もむなしく、粕谷に見つかってしまったのだが。
「ねえ、そういえば、宇宙は今どこに住んでるの」
「高崎」
「群馬?」
「うん」
高崎と聞いて春樹はイメージが湧かなかった。長野から帰省するときに通過したことしかない。しかし、
新幹線に乗れば1時間足らずで長野までたどり着けることを考えれば、宇宙の家出は妥当なところなのかも
しれない。
「でも、なんで粕谷はここがわかったんだろうな」
「部活の友達に聞いたんだと思う・・・。僕、その友達のところで、インターネットで長野の地図調べさせて
もらったから」
その時に宇宙は親戚のところに行くといって要の住所の場所を調べた。粕谷はそれを目ざとく見つけて
ここまでたどり着いたのだろう。
「宇宙・・・」
要がティッシュを差し出しながら、宇宙の顔を覗く。
「・・・ここ、見つかっちゃったけど、どうする?」
この問題に解決なんて言葉はない。あるとするなら、粕谷が「諦める」だけだ。それまで宇宙は粕谷から
逃げ続けるしかないのだろう。
 しかし、宇宙は首を振った。
「ここにいたい」
鼻に詰まった声で宇宙は顔を上げると、要を見て、もう一度言った。
「もう少しだけでいいから、ここにいたい」
弱弱しい口調とは裏腹に要は宇宙の心の奥底に何かを秘めた感じた。自分の中で決着が付くまでは帰りたく
ないという気持ちは要にもよく分かる。
 幼さの抜けない宇宙でさえも苦しんで、現実に立ち向かおうとしている。要は益々後ろめたくなった。
全て自分の所為だ。あの時、自分さえまともに動けていたなら、誰も死なずに済んだはずだ。少なくとも
火事は防げたはずなのに。怖くて動けなかったという言い訳は通用しない。自分の所為で母と星夜は死んだ
のだ。助かった自分が申し訳ない。その所為で不幸な生活を送る宇宙に、要は心苦しい思いをしている。
そう思う一方で、せめてここにいる宇宙だけでもなんとか幸せでいて欲しいとも願うのだ。
「・・・宇宙の好きにするといいよ」
辛うじて笑って言った要には、殆ど余裕がなかった。




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