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天 体 観 測 



 8月に入って初めてのサークルは、夏合宿についてのミーティングになった。春樹はテストや
自動車学校の試験のために、二週間以上前に隼人に試験用のノートのコピーを貰って以来、
サークルに顔を出していなかった。
 用事ができれば、ここにこない理由を正当化できると、春樹は不本意な気持ちで自分をなだめた。
こんな風に人を避けるのは好きではなかった。どんなときも真っ直ぐに向き合って、そうすれば
分かり合えると、春樹は今までそう思っていたのだ。
 それが上手くいかない。要の心に自分が着いていけない。人の気持ちは簡単に割り切れるもの
ではないのだと、春樹は実感として初めて分かった気分だった。
 春樹がサークル室に入ると、既に主要なメンバーはそろっていた。隼人がいつものように
片手を挙げて声をかけてくる。
「よう」
「おはようございます」
「後はお前と木久だけだ。早く座んな」
春樹は空いている席が要の隣と英恵の隣にしかないことを確認すると、仕方なく要の隣に
座った。
「うっす」
「おはよう」
要は春樹の顔を見ずに声だけをかけた。まるで昔の要の姿のようだ。
 春樹はため息を飲み込んで、机の上に視線を落とす。
「何かしてたんですか?こんなに机にいっぱい雑誌広げて」
「ああ、長野県の辺りの天文記事をスクラップしようと思ってさ」
見れば雑誌のあちらこちらが切り取られている。
「進藤も手伝ってくれ」
「いいっすよ」
「じゃあ、合宿の話がまとまったら、皆でスクラップの続きしよう」
「一真さん、今年は合宿、どこがいいっすかね」
「そうだなぁ、いくつか選んでみたんだけど」
一真がそう言って、合宿の候補地のパンフレットを鞄から取り出したときだった。
 風に揺られたかのように、ゆるゆるとドアが開いた。
「木久先輩ですかー?遅いから、始めてましたよ?」
武田が振り返りながら、そう言った。サークル室にやってくるのは木久くらいしか考えられなかった
からだ。
 しかし、武田は自分が予想していた人間とは全く別人が立っていて、驚いた声を出した。
「あれ、雛姫さんじゃないですか!どうしたんです?こんなところまで来て」
その声に釣られて一真と隼人が顔を上げると、硬い表情でその名を呼んだ。
「・・・雛姫?」
「雛姫ちゃん!」
春樹が驚いて振り返ったドアの先に雛姫が立っていた。真夏には似合わない蒼白で、虚ろな
顔つきで、こちらを見ている。
 5月の飲み会で一真の家で見た頃とはあまりにも形相が違いすぎて、一真や隼人が雛姫だと
言わなければ信じられないほどの変貌だった。
 身体から疲労感、いや絶望的な空気が漂っている。
春樹は一真と雛姫が別れたことを知らなかった。ただ、7月の半ば頃にこの部屋で一真が隼人
に対し、激高した現場を目撃していた。そして、それが雛姫に関することで揉めていたと言うことも
春樹は理解できた。
 雛姫はふらふらした足取りで部屋の中へ入ってくると、そのまま一真の方に近寄っていった。
「・・・やっぱり、最後にはここに来るのね」
「何しに来たんだ。部外者は立ち入り禁止なんだけど」
いつになく冷たく言い放った一真に春樹だけでなくサークルのメンバーも固まった。ただ隼人と
要だけが、居心地悪そうに顔を逸らしている。
「か、一真さん、そんな堅いこと言わなくてもいいっすよ、他ならぬ雛姫さんだし。サークルの
メンバーみたいなもんじゃないっすか」
重い空気を払拭しようとして武田がその場を取り繕うような言葉を掛けるが、一真は一蹴した。
「帰ってくれ」
そう言うと、一真は立ち上がって部屋から出て行こうとする。
「・・・一真、待ってよ。あたしの話、聞いてよ」
「聞く気になれない」
「何でよ」
「お前のしたことは、それだけのことだったんだよ!俺がどれだけ傷ついたか・・・いや
もういいよ。話したくない。帰ってくれ。お前が出て行く気がないなら、俺が出て行くまでだ」
途端、雛姫はその場に泣き崩れ、サークル室は一瞬の間に愛憎劇の舞台へと化してしまった。
 室内に雛姫のすすり泣く声だけが虚しく響く。誰もが着いていけない状況だった。
 春樹は左隣に座る武田に耳打ちされる。
「おい・・・この展開、一体どーしちゃったんだよ」
「さ、さあ・・・」
「・・・やっぱり、あの噂、本当だったのかな・・・」
「噂?」
「ああ・・・雛姫さんが・・・」
武田が言いかけたとき、雛姫が奇声を上げた。そして、狂ったように、机の上で広げられていた
数十冊の雑誌を、手当たり次第ばら撒き始めたのだ。それを避けようとして、座っていたサークル
のメンバーも立ち上がって、後ろに引いた。
(狂ってる・・・)
春樹は正気とは思えない雛姫の行動を目の当たりにして、動揺していた。一真の激高も、雛姫の
狂った姿も、人の持つ一面が顕著に現れただけのことだ。そういう感情は誰にでもある。春樹に
だって、心の奥底に見たくないと思っている感情がいくつも眠っている。ただそういうのを目撃
して、自分はただ呆然と立ちつくすしかないのだと、圧倒的な感情の配下では、自分はその感情に
縛られて、傍受するしかないのだと、春樹は思った。
 雛姫は散乱した雑誌の中から光るものを目にすると、肩で息をしながら、一真に向かって言った。
「もう、嫌っ・・・振り向いてもくれない、話も聞いてくれないなら、生きていても意味がないわ!!」
一真は憮然として雛姫を見た。春樹にはその感情が読めない。
雛姫は机の上で、雑誌をスクラップするように使われていたカッターを手に取ると、自分の左手首に
それをゆっくりと宛った。
「なっ・・・」
一真は目を丸くしてその行動を見張った。メンバー全員にも緊張が走る。誰もがその場を動けない
まま、雛姫の行動を見つめている。その中でただ1人、隼人は雛姫に声をかけてそれを止めよう
としていた。
「雛姫ちゃん、馬鹿なことは辞めろ」
隼人が近づこうとすると、雛姫はカッターを手首に当てたまま、後ろに下がる。
「近寄らないで」
「そんなことしても何にもならないんだぞ」
「何にもならなくてもいいの・・・もう、こんな辛いの嫌・・・」
雛姫の右手に力が入る。僅かに震えた刃先が白い肌に小さな赤い傷口を作った。
「っ・・・」
にじみ出る赤色に雛姫は少しだけ顔を歪める。
「や、辞めろーーーーーーーーーー」
その途端、扉近くにいた一真は春樹や要を押しのけて、雛姫に駆け寄った。
 お互い頑なに、こうと決めたことはやり通してしまう性格だということを十分に理解していた
はずなのに、一真は少しだけ雛姫を甘く見ていた。
 自分の中で渦巻いている雛姫への不信感があまりにも大きすぎて、こんな風に思い詰めている
ことまで気を回す気分にならなかったのだ。
 近づいてくる一真を確認すると、雛姫は躊躇うことなく右手を引いた。
銀色の凶器が皮膚の上を引っ掻くように進み、捲れた皮膚の間から、じわりと鮮血があふれ
出してきた。
「・・・雛姫っ」
「やめろっ・・・」
一真に続いて、隼人も駆け寄ったが、もう遅かった。雛姫の白いキャミソールもレースの
スカートも真っ赤に染まっていく。
 右手のカッターナイフが手からすり抜けてカツンと床に落ちた。
「うう・・・」
雛姫は顔をしかめて浅い呼吸を繰り返す。
「・・・一真がいないなら・・・死んだ方がましよ・・・」
「雛姫っ」
一真が雛姫身体を支えるように抱きしめる。雛姫はそれを見ながら、うっとりした顔で一真の頬に
手を当てる。
「ああ、やっと・・・こっち向いた・・・」
雛姫の血だらけの手が一真の頬に触れ、一真の顔にも血がべっとりと着く。
 一真の顔は強張ったまま表情を失くした。
(な、なんだよ、これ・・・。何かのデ・ジャ・ヴ・・・)
春樹はその光景を見ながら、どこかで感じた薄気味悪い恐怖を思い出す。
「あああああっ・・・・や、だ・・・・や、めろ・・・」
横を振り向くと、要が恐ろしい顔をして頭を抱えていた。
「要!?」
「う・・・うう・・・嫌だ・・・辞めて・・・お願い、おか・・・」
「か、要、しっかりしろっ」
「う・・うう・・・」
焦点の合わない目が閉じて、身体の力が抜けていった。要は意識を失ったのだ。
「要ーっ!!」
春樹は、その場に崩れ落ちる要をギリギリのところで抱きとめた。雛姫のリストカットと
要の変貌にメンバーは余計に混乱する。
 春樹も要を抱えたまま、恐怖で動けなくなった。
(要・・・)
その空気を、雛姫の狂気に呑まれた空気を壊すかのように、一真が叫んだ。
「きゅ、救急車だ!早く!!」
硬直していたメンバーの多くは、誰もその声に反応できなかった。隼人と一真が雛姫の腕を
止血する。
「ちっ・・・誰か・・・武田っ救急車だ、急げ!!」
隼人に名指しで呼ばれ、武田は慌ててポケットから携帯を取り出すと、震える手でボタンを押した。
119、たった3つの番号を押すだけなのに、武田は2度も間違えた。
「も、もしもし・・・」
うわずった声で、武田は救急車の手配を何とか済ませた。緊迫した中で隼人と一真が雛姫の
止血を黙々としている。ソファーに寝かせ、腕を上げると、雛姫の持っていたハンカチできつく縛る。
 2人とも、手馴れた手つきだった。
何分も経たないうちに、サークル室のドアが間抜けに開らいた。しんとした空気の中で、
誰もが早い救急車の到着に感心しかけたのだが、
「遅れて、すまない」
そう言って入ってきたのは木久だった。何も知らない木久をサークルのメンバー全員が振り返った。
「え?・・・何?」
「木久、いいから中入って、ドア閉めろ」
隼人が怒ったように木久に言う。木久は黙って、部屋に入ると、中の惨劇をみて、息を呑んだ。
「な、何があったんだよ・・・」
春樹の腕の中でぐったりしている要と奥のソファーに横たわる血まみれの雛姫を木久は交互に
見つめた。
「大丈夫だ、静脈が少し切れただけだ。血もすぐに止まる」
 一真がそう言うと、雛姫を寝かせたソファーから離れて、メンバーを振り返った。雛姫は気を
失っているようだったが命に別状は無いと分かると、誰も彼もがやっと、長いため息をついた。
「・・・望月も、寝かせた方がいいんじゃないのか?」
武田が、抱きかかえたまま、座り込んでいる春樹を見下ろして、そう言った。
「タクシー呼んで、病院連れて行きます・・・」
「病院?」
武田が訝しげに問う。
「ええ・・・まあ・・・。あの、タクシー呼んでもらえませんか?」
「まあ、いいけど・・・誰か、タクシー会社の電話番号、分かるやつ、いない?」
結局その場には電話番号を知る人間は誰も居らず、メンバーの1人が近くの公衆電話まで走って
電話番号を調べに行くことになった。
「病院に行くほどのことなのかねえ?」
武田は青白い顔の要を見ながら、不思議そうに呟いている。
 数分もしないうちに救急車が来て、サークル室の周りは野次馬がちらほらと集まってきた。
 救急車のサイレンで、周りは騒然とした。運ばれていく雛姫や、顔に血糊が着いたままの
一真や隼人を見て、周りの野次馬がざわついた。
 サークルのメンバーも救急車の前まで出てくると、隼人はメンバーに言った。
「いいか。お前等は部外者を部屋に入れるな。誰にも言うな。俺と一真は彼女に付き添う。
望月の方は、進藤に任せる。部室は、武田、お前鍵持ってるだろ?片付けたら戸締りして
今日は帰れ。いいな」
 それだけ言うと、救急車は雛姫たちを乗せてその場から離れていく。残されたメンバーは
周りの野次馬の目から逃げるようにサークル室に戻った。
「・・・ったく、一体どこの、昼ドラやってんだよ」
「あれ、何なわけ?」
「実は、一真さんの彼女を巡っての、隼人さんとの三角関係の清算だったりして」
「っていうかさ、ここでやるの止めてくれよ。これ、片付けるの俺達なんだぜ?」
メンバーは滴り落ちた血や雛姫がぶちまけた雑誌を目の前に大きなため息をつく。春樹はそっと
下唇を噛んだ。
「俺、タクシーが来てるかどうか、見てきます」
「正門のトコに呼んでおいたからな」
「はい」
部屋の外に出ると、眩しいほど太陽が照り返していた。春樹は長野の夏の暑さにげっそり
しながら、正門までの距離を汗が出るほどのスピードで走り始めた。
 今は何も考えたくない。ただ、そう思いながら。

 <<14へ続く>>




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