Beautiful_dreamer
夢の続きを見ていた。まどろみながら、もがきながら、追い求めながら―――。
2人掛けのソファに寝そべりながら、翔は携帯電話の着信メールを確認していた。
約束の時間までまだ2時間近くある。眠い目を擦すれば、小さく欠伸もでた。
一眠りしてから出かけよう。翔はすばやく返信すると、サイドテーブルに携帯を置いて、
目を閉じた。
テーブルの上には、携帯電話と翔が気に入って何年も使っているブランド物の財布。
それからプロ野球のチケットが静かに主人に呼ばれるのを待っている。
チケットには、今日の日付で試合日と、特別なマークが付いていて、それはこのチケット
が特別な客を招待していることを意味していた。
シーズン終了まで残すところあと数試合。ペナントレースの結果はとっくに出ていて、
この時期の試合は消化試合でペナントレースとしての価値など殆どないのだが、今日の
試合はプレミアが付いていた。優勝も出来ず、順位も決定したチームの試合なのに、だ。
ネットではオークションに掛けられたチケットが数倍の値をつけて競り落とされた。きっと
球場前でもダフ屋が何倍の値にして売りさばいているだろう。
翔はこのチケットを手に入れたときの事を思い出して、目を閉じたまま小さく笑った。
照れくさそうに手渡ししてきた彼の顔が脳裏に映っている。絶対見に来いとも、来て欲しい
とも言わなかった。唯一言、手に入ったから、とそう言った彼の顔を翔もまた照れくさ
そうに見ていた。
今日、ある一人の野手が引退する。それだけで、この試合の価値はただの消化試合では
なくなっていたのだ。
ある一人の野手――長年ファンに支えられた男。天才スラッガーとして、高校卒業
すると鳴り物入りでプロ野球界に入っていった男。三冠王までとって、打者として最高の
勲章を得た男。――野球の神様に愛され続けた久瀬亮太。
今日は亮太の引退試合だった。
この日を、こんなに穏やかな気持ちで迎えることができることを翔はにわかに信じられ
なかったけれど、凪いだような静かな日常の小さな幸福に翔は感謝した。
歩んできた道はけして平坦なものではなかった。亮太を許そうと決めたあの日からも
翔の心は浮いたり沈んだりを繰り返した。
小さないざこざは数えられないほどあったし、決定的に壊れてしまうと思ったことも
あった。
けれど、亮太と翔は乗り越えた。誰の手も借りず、今度は2人で。
そのときの事を思うと、翔は今でも胸がジクジクと痛む。けれど、乗り越えて手に入れた
平穏はどんなものよりも幸福だと感じた。
翔は今、とても穏やかな生活を送っている。不満や日々の中に潜むちょっとした恐怖に
怯えることもあるけれど、その膿すら愛そうと翔は歩んでいた。
生活も変わったし、亮太との関係も少しずつ変わった。言葉にするのは難しいけれど、
多分今一番良い距離なのだろうと翔は思う。
ふうっと、大きく息を吐くと、次の瞬間にはもうまどろみ始めていた。仕事が立て込んで
いて、ここ数日は睡眠時間が殆ど取れていなかったのだ。
コチコチと壁に掛かった時計の秒針の音が次第に大きく響きだす。ぐらんと目の前が
暗転した。
今日をオフにするためにひたすら仕事を詰めていたのだ。忙しさに更に輪を掛けて、社員
に、「目が血走ってる」とまで言われたほどだ。
しばし解放され、翔はあっと言う間に眠りに落ちた。
「なあなあ!21世紀へのメッセージ、何書いた?」
振り返ると、自分より頭の一つ分小さな慎吾が自分に向かってキラキラ輝かせた瞳を向けて
いた。これは小学生の慎吾だ。翔は小学生の頃の夢を見ているようだった。
慎吾はいつも天真爛漫で、自分達を明るくさせてくれる。今ではベテランの小学校の教師
をやっているが、翔の中の慎吾はいつまでたっても、小さくて、苛めるとすぐ怒って、
だけど根の優しい小さな男の子のままだ。
慎吾の隣には慎吾の幼馴染でいつもつるんでいる寿司やの息子、康弘。そして後ろには
生意気そうな顔の満と優しい悠。自分の隣にはバットをぶんぶん振り回している亮太の姿
があった。
七根小の悪ガキとして学校中の有名人だった6人。何故か彼らのやることは学校の中心
になって、彼らは同級生や下級生の憧れになっていた。
小学生の自分は慎吾の問いにニヤ付いて返事をした。
「慎吾の身長が伸びてるといいなって書いておいた!」
「ひどい!!何それ。そんなの翔に願ってもらわなくても、自分で伸びるもん!毎日牛乳
1リットル飲んでるんだからね」
「慎吾、腹壊す」
「牛乳だけじゃ背は伸びないと思うけどな」
満と翔に突っ込まれてぷうっと頬を膨らませた慎吾は亮太に話を振った。
「亮太はなんて書いたの」
「将来の自分へってヤツだろ?」
「うん。亮太の将来の自分って何て書いたのー?」
「リョウの将来なんて決まってんじゃん」
翔が口を挟むと、バットを振り回していた亮太も当たり前のように
「プロ野球選手」
と答えた。そして、亮太の周りの誰もがやっぱり当たり前のように受け取った。
「そっかー。やっぱりねー」
「翔だってそうだろ?」
亮太が振り向くと翔もニシシと笑って頷いた。
「まあね」
平成の世の中になって、バブルがはじけても、彼らの生活は変わることなく、ただ目の前
に広がる無限の可能性の中を駆け回っていた。
相変わらず6人で野球や探検やゲームをして、毎日がキラキラと輝いている。翔も亮太も
自分の先に続いている道を野球以外に見出してなかったし、回りもそう思っていた。
「俺さー、プロになって、36歳までに三冠王取って、そんで42歳で体力に限界を感じて
引退するんだ」
亮太がバットを素振りしながら得意気に言った。
「すごーい!そんな計画まで立ててるの?」
「亮太なら本当にやりそうだよね」
慎吾と悠が感嘆の声を上げる。
「でも、その前に甲子園で優勝しないと」
「出た、亮太の欲張り」
康弘が茶化す。野球に関して亮太は誰よりも貪欲だ。
「見てろよ、翔と2人で甲子園三連覇するから」
「俺もかよ」
亮太の平然とした発言に驚きながらも、翔はきっとそうなるんじゃないかと予感さえした。
「じゃあ翔も三冠王取るの?」
慎吾の問いに翔は首を振る。
「アホか。三冠王なんてどれだけ天才じゃないと取れないかわかってんの?俺なんか無理
無理!まあ、狙うなら、首位打者だな。・・・・・・でも、俺はきっとプロになれたとしても
33歳くらいで肩壊してそのまま引退だな」
どうせつまらない怪我をして駄目になるのがオチだ。無限の可能性の中にいても、どこか
冷めた自分がそう思わせる。
「そんな勿体無いこと言ったらだめだよ」
悠が悲しそうな顔をした。そこに割り込んで慎吾が喚いた。
「2人とも生涯現役がいいよ!」
「ばーか、んなこと出来るわけないだろ」
「そんなのわかんないじゃん」
その場にいた全員に突っ込まれても慎吾は口を尖らせてまだ自分の意見を言っていた。
「生涯現役の選手なんて今までに一人もいないよ」
「だって亮太も翔もすごいじゃん。だったら、これから亮太と翔がなるよ!」
必死で5人に持論を披露する慎吾に翔と亮太が呆れ返って否定する。収拾が付かなくなった
その場を康弘が仕方なくフォローを入れた。
「現役は無理かもしれないけど、監督同士で対決とか、同じチームで監督とコーチで日本一
になったりするのはあるかもしれないよな」
「それ!!」
満足げに頷いた慎吾に、翔は呆れながら笑った。
自分と亮太が監督同士て対決。夢にも思わないことを言われて、翔はうなった。
想像してみたけれど、40や50になった自分を思い描くことができなくて、翔の中に浮かび
上がったのはベンチで腕組みして、鬼の形相をしている数年前の大洋ホエールズの監督の
顔だった。
「・・・・・・夢、か」
サイドテーブルに置いた携帯電話を手探りで引き寄せて時間を確認すると、ほんの数十分
しか経っていなかった。
「なんでこんな夢みたんだろう」
自分ですら覚えていないのに。記憶のどこかに眠っていた小学生の頃の思い出。
翔は時々小学生の頃の夢を見ていた。
いつしかそれは苦痛になって悪夢となったが、時が経って今では懐かしく、この手の夢
を見ると必ず切なくなる。
幸せだった。壊れることを知らないあの無垢な自分達がどんどん神聖化していく。誰にも
手が出せない、完璧な世界だ。けれど、小学生の自分が白ければ白いほど、その後でどす
黒く汚れた自分が惨めになるのもまた事実だった。
「でも、間違いなく楽しかったんだよ、あの時の俺は」
自分を慰めるように、幼い頃の自分を守るように翔は呟いた。
翔は起き上がると、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して半分ほど飲んだ。それを
サイドテーブルに置くと、再び行儀悪くソファに転がった。
「もう一眠り・・・眠らせてくれよ」
横になると、直ぐにまどろんで、翔は再び夢の中へと落ちていった。
翔は甲子園のグラウンドに立っていた。
小田南のユニフォームを着たピッチャーの背中が見える。自分の左手にはグラブが嵌め
られていて、炎天下の日差しが後頭部を直撃してポトリと汗が土の上に落ちていった。
ピッチャーが振りかぶる。その瞬間、自分の身体がボールの動きを捉えようと構えに
入っていた。
変哲も無いショートゴロを翔は軽々と裁いた。スリーアウトチェンジ。翔は歓声を背中
に浴びながら、帽子を取って汗を拭った。
これは夢だ。夢だと分かっている。あの夏の甲子園球場で、本当の自分は、あのフェンス
の向こうに座っていて、残虐な視線で亮太を見下ろしているのだ。
そう思ってスタンドを見上げると、慎吾と康弘の隣に悠と心ここにあらずな表情をした
もう一人の自分がこちらをぼんやりと見ている気がした。
相手高校のユニフォームを見ると小田南が決勝で当たったチームだった。
ということは、この夢も決勝戦なのだろうと、翔は思ったより冷静な気持ちで受け取って
いた。
じりじりと照らす真夏の太陽が、何故だか心地よい。健全な汗のかき方をしてると、翔
はグラブを動かしながら思った。
夢だと分かっている自分と、17歳の自分が夢の中でぐるぐると掻き混ざっていく。そして
冷静な自分は太陽の光に溶かされて消えていった。
「翔!」
呼ばれて顔を上げると、亮太がライトの守備から走って戻ってきて、ピカピカの笑顔で
翔の背中を叩いた。
「ナイス!さすが。翔の前に来たゴロは安心してられる」
「俺の後ろは抜かせないぜ」
上目で亮太の顔を見上げると、亮太は満足そうに頷いた。
「次の打順お前からだ。絶対塁出ろよ。俺が返すから」
「頼むぜ、4番」
「任せろ。やろうぜ、甲子園三連覇」
「ああ」
翔は亮太とグラブでタッチを交わすと、ベンチに戻っていった。
打席に立っている時の高揚感は夢だと分かっているのにリアルだった。この気持ちは
覚えている。亮太と一緒に野球を楽しんでいた頃のハイになった時の気分だ。
自分が塁に出ればその後を亮太がきっちり決めてくれる。
信頼が現実になる。ホームに返って来る亮太を当然のように誇らしげに迎え入れる自分
も、自分の仕事をしたことで大満足しているのだ。
あの気持ちを今、ここで感じている。手に取るように分かる感覚だった。
ピッチャーが振りかぶる。ボールが手から離れた瞬間、翔の身体は反応していた。
カーン、金属音が響いてボールが高く上がる。
「ちっ、ちょっと早かった」
上がったファールボールが3塁側の内野席に吸い込まれていった。
翔はそのボールを眼で追う。双眼鏡でもつけているように、ボールの周りがどんどん
クローズアップされていき、ポトリと落ちた先に悠と満の姿を見つけた。
ああ、その隣にいるのは自分だ。
あそこに座っている自分が、打席に立っている自分を睨みつけている。嫉妬や羨望や
憎悪の入り混じった赤い目で自分を見下ろしているのだ。
可愛そうな青年の姿に、バッターボックスに立つ自分は優越感に浸っていた。
「ざまあみろ」
そんなつまらないプライドを捨ててしまえば、ここにいられたのに。
翔はスタンドにいる自分に向かって小さく笑った。叶わなかった夢を、夢の自分が果たし
そして夢の自分が、現実の自分を蔑んでいる。
かたくなに一緒に野球などしたくないと願っていた。それは嘘ではないし、そう思うこと
であの頃の自分はギリギリ生きていけてた。
けれど、心の奥に押し込んでいたもう一人の自分は、やっぱり亮太と同じフィールドに
立つことを夢見ていたのだろう。押入れの中に詰め込んだまま捨てることのできなかった
バットもグローブも、きっと今もあの中で眠っているはずだから。
「来るっ!」
「行け!翔!」
ネクストサークルから亮太の声が聞こえた。
甘く入ったストレートを翔はしっかりと捕らえて、金属バットの高い音をかき消すほど
大きな歓声が上がった。
「ああっ・・・・・・」
甘い球を勢いよく振りぬいたところで、翔の視線は一気に跳ね飛ばされて、気が付くと
小田南の3番がツーベースを打って駆け抜けていく姿を、スタンドで拳を震わせながら睨み
付けている自分になっていた。
「ああっ・・・・・・」
「翔?」
悠が隣で心配そうに自分を覗き込んでいた。
最初からあの中に、自分などいなかったのだ。
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