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はしま道中流離譚―橋は道連れ、世は情け―



「新訂 橋梁工学」
「橋のデザイン――耐震性からのアプローチ」
「世界の橋100選」



僕は本のタイトルを読み上げながら、一つずつ開かれた本を閉じて、サイドテーブルに
置いた。
 どかしてもどかしても、本。本。本。それも殆どが橋の本。いい加減嫌になって、纏めて
最後の3冊をどかすと、漸くベッドの上で眠りこけている板橋が姿を現した。
「板橋!」
「ん・・・」
「ちょっと、板橋ってば。本で圧死するよ」
「温かくて丁度よかったのに」
「本を布団代わりにするなよ」
呆れてものが言えないけど、これがいつもの板橋クオリティだから、僕も大抵の事では
驚かなくなった。変な耐性が付いてしまったもんだ。
「今何時?」
「7時半」
「うわ、外真っ暗」
板橋はベッドから降りると、アパートの窓を開けて外の空気を吸った後、寝ぼけた頭をぽりっと
掻いた。5月の空はすっかり暗く、板橋が開けた窓から入ってくる空気はひんやりと冷たくて
心地よかった。
 ゴールデンウィークが終わると、季節が一気に夏へと向かいだしている。板橋もTシャツ
に7分のジーンズという既に夏の格好になっていた。
 その板橋は寝起きのテンションの低さで、窓辺から戻ってくると僕の隣に座り込んだ。
 読みかけの本を顔に乗せていた所為で、顔には四角い痕が付いているし、後頭部は寝癖で
ちょりんと髪の毛が跳ねている。
 その姿が子どもっぽくて、僕は思わず笑った。
「何?」
「すっごい顔」
「ん?」
僕に言われて、板橋はクローゼットの前に立てかけてある鏡に顔を映した。四角い本の痕
を指で辿って
「これは、構造理論入門だなあ」
とどうでもいい事を呟いていた。



 僕と板橋が出会ってから、半年近く。僕を取り巻く環境も、板橋の学業に掛かるプレッシャー
も大きく変わっていた。
 まずは、僕。なんと就職先が決まってしまったのだ。
なんだか、この表現はとても他人事のようだけれど、僕のあずかり知らないところで、
力が動いていたのだから、こっちだって他人事にもなる。
 というのも、僕は来月から、板橋のお父さんの会社で働くことになってしまったのだ。
――身代わりとして。
 裏でこそこそ動いていたのは白板橋。
板橋も白板橋も父親の会社を継ぐことを嫌っていて、会社に入ることすら拒み続けている
んだけど、大学3年の秋からの就職活動でそれは更に強くなった。
 お互い「お前が継げばいい」と擦り付けているうちはまだよかった。けれど、白板橋は、
降り掛かる身の危険(継ぐ会社があることを危険なんて失礼極まりないと僕は思うけど)
についに行動に出たのだ。
 フリーターであることに不安を感じ始めていた僕は、密かに就職先を探してハローワーク
に通っていた。けれど、このご時勢だし、履歴書に一身上の都合としか書けなさそうな理由
で前の会社を辞めた僕を雇ってくれる企業なんて早々あるわけでもない。
 次々と振られる中で、不意に舞い降りてきた板橋のお父さんからの救いの手。
「ワタルがはしま君が就職先に困ってると言ってたのを聞いてね」
そう声を掛けられたとき、ただの善意じゃないだろうと思ったけど、僕はその手を取って
しまったのだ。
 板橋側に僕がいたことで思わぬ風が白板橋側に吹いたのだと分かったのは、その後に、
板橋が心底嫌そうな顔をした時だ。
「あんたがあの会社に入るってことは、あんたを人質に取られたようなもんなの!」
「なにそれ」
「ワタルはあんたを親父に売って、あの会社を俺に継がせようとしてんの!」
どうやら、僕は板橋の人質として会社に囚われ――もとい、雇われたらしいのだ。
 板橋のお父さんがそんな卑劣なことをするようには思えなかったけど、これで板橋の
未来像も出来上がってしまったのだ。
 板橋が社長になるなんて全く想像できないけど、板橋の社長姿を間近で見られるなら、
僕はそれもいいなって思うんだけど、板橋は心底嫌そうな顔をしていた。



 それから、板橋の卒論も日に日に忙しくなって、前みたいに思うように何日も家を空けて
橋めぐりに出かけたり、一日中好きな橋を見て楽しんだりすることも出来なくなっていた。
 板橋がどんな研究をしているのか僕は何度説明されてもチンプンカンプンだけど、とり
あえず忙しい事だけは分かる。大学に泊り込むときもあるくらいだ。僕にはそういう経験
が無いし、何をしてあげたらいいのか分からないから、そっとしておくくらいしか出来ない。
 板橋ともっとべったりしたいなあって思うけど、邪魔できないしね。
ひょっとしたらそういう淋しさが、自分の就職の後押しをしたのかもしれない。
板橋との関係は悪くないし、(相変わらず板橋の愛情表現はよくわからなかったりする
けど)大きな不安はないけど、自分勝手な小さな不満はいくつかある。そういうフラスト
レーションは板橋にも積もってるみたいで、ふとした瞬間に溜息を吐くことが多くなった。



「明日のレポート提出したら、ちょっと楽になるんだ」
「そうなんだ。で、レポート進んでるの?」
「ベッドで転寝してなきゃ終わってた」
板橋はローテーブルに向かうと悔しそうに、ノートパソコンの画面を見つめた。
 ということは、今夜も徹夜モードか。邪魔したら悪いし、出直そうと思ったら、板橋が
僕の腕を捕まえて、僕は前のめりになった。バランスを失って板橋の腕の中に突っ込む。
「危ないって」
「なあ、せっかく来たのに、帰るの?」
「だって、僕がいたらレポートの邪魔になるでしょ」
「レポートの邪魔にはならないよ。レポートが邪魔にはなるけど」
板橋は僕の頭に唇をくっつけて僕を抱きしめた。
「・・・・・・邪魔にならないなら、いるけどさ」
せっかく来たのに、離れたくない気持ちは一緒だ。板橋は僕の感触を楽しむようにわき腹に
手を当てている。
「くすぐったいって」
回転して板橋の上に対面で座る。目を合わせると、げんなりとした表情で板橋が言った。
「橋見に行きたい」
「また始まった」
「こんなに橋を見れない生活してたらおかしくなる」
「おかしくなるような生活を普通の人はしてるんだけどね、板橋君」
「駄目。もう無理・・・・・・」
呟いて、板橋は僕の肩に顎を乗せた。板橋の体温を感じると途端に嬉しくなって、僕も
その手を腰に回す。お互い無言のまま、心臓の音を聞いてる、無駄な時間だけど、無駄
じゃない行為に僕は目を閉じて楽しんでいた。
 暫くぼうっとしてるかと思ったら、はじけたように板橋が声を上げた。
「えぇ!?」
「何?」
板橋の顔を見上げると、視線がパソコンの画面へと行っている。
 なんだよ、板橋はパソコンなんか弄くってたのか。
その視線を辿って、僕もパソコンを振り返った。
「マジで・・・」
呆然としている板橋の先にある画面は、メールだった。他人のメールを読むのは失礼だと
分かっていても、気になるものはしょうがない。
「何?」
黙って読むよりましだと思って、僕は聞いた。
「・・・・・・直哉、北海道行こう」
「は?」
「緊急事態なんだ」
「ちょっと、どういうこと?!」
驚いて板橋を振り返ると、板橋はものすごく真剣な顔をしていた。
「橋が見れなくなる」
「・・・・・・」
「レポート終わったら・・・・・・明日、いや明後日。明後日から北海道行くよ」
「ええーっ!?」
急展開の出来事に、僕はただ呆然とするばかりで、何が起きたんだか全く把握できてない。
板橋は、僕を膝から降りるように言うと
「悪い、今からレポート書き上げるから、3時間くらい待てる?あんたさそれまで、北海道
行きたいトコ考えといて。2泊3日くらいしか時間取れないけど、少しくらいなら観光も
出来ると思うから」
後はパソコンの前に張り付いて僕の事を置いてけぼりにしてくれた。
「う、うん・・・」
相変わらずの気ままさに僕もいい加減慣れてはきたけど、いきなり明後日から北海道に
行くなんて、どんだけ身軽なんだよ、君は。
 そういいつつも、久しぶりの旅行に僕の心もそわそわして、気持ちは北海道の大地に
飛び始めている。
「僕、北海道行くの初めてなんだけど」
「そう・・・・・・。どこでもいいよ。温泉でも、牧場でも・・・・・・」
カタカタとキーボードを叩きながら、板橋が言うので、僕は話題の動物園や、温泉や、
生キャラメルやら、僕の知ってる北海道の情報を必死に思い起こしてみた。
 せっかく旅行に行くなら、色んなトコ行きたいしな・・・。
「あー!駄目だ。旅行雑誌買ってくる」
財布を引っつかむと、そわそわと立ち上がった。
「いってらっしゃーい。あ、ついでに食べるもの買ってきてくれるとありがたいんだけど」
「わかった!」
返事をして、僕は思わず玄関を飛び出していた。僕も相当フットワークが軽くなったもんだ。





 嫌な予感はしていた。
それから、自分の詰めの甘さを悔いた。
羽田行きのモノレールから降りて、空港の長いエスカレーターを上りきったところで、
手渡されたチケットを見て僕は思わず叫んでいた。
「お、お、帯広〜!?」
立ち止まってチケットを見つめていると、人の流れを止めた僕を、後ろから来る人達が、
不機嫌そうに追い越していく。
 板橋が数メートル先で僕がいないことに気づいて、やっと振り返った。人の流れから
離れて、隅の方まで逃げると、不審な顔をして板橋も僕の元にやってきた。
「何してんの」
「だって!」
「だって?」
「これ!」
「チケットだけど?オークションでギリギリ落としたヤツだけど、ちゃんと乗れるよ?」
「分かってるよ!!なんで、行き先が帯広なんだよ!!僕、登別か、札幌行きたいって
言っておいたよね?!」
「そうだっけ?」
「ちゃんと返事したじゃん!」
「でも、橋に一番近い空港帯広だし、あんたの行きたいって行ってた牧場だって近くに
あるらしいからいいじゃん」
橋か。橋優先か。橋を見に行くのが目的なんだから、そんなこと分かってるけど!
 けれど、それは、初めから僕がどんなに札幌行きたいって言っても行き先を変えることは
しない絶対的な証拠だ。
 ホントに人の話を聞いてるんだか、聞いてないんだか・・・・・・。
行く前からどっと疲れが出た。思い出した、久しぶりの感覚。これが板橋との旅行だ。
「わかったよ、もういいよ。その代わり牧場行って生キャラメル買い捲ってやる」
諦めて振り返って歩き出そうとしたときに、いきなり、後ろから膝の後ろに硬いものがぶつ
かって来てた。
「うわっ」
力が入っていた方の足を「膝カックン」されて僕は豪快によろけた。感触から行ってタイヤ
付きのトランクだろう。
 引っ掛けた犯人を振り返ろうとして僕は更に別の人にぶつかられて、手にしていた携帯
電話を通路に落としてしまった。
「痛てっ」
「きゃっ」
女性の小さな叫び声が上がって、カツリと硬いものが床に落ちる音がした。
 見れば彼女も手に持っていた携帯電話を落としたようだった。
「すみませ・・・・・・あっ!」
「あっ・・・」
顔を上げた瞬間、僕は彼女の顔を見て固まってしまった。
 驚きの表情を浮かべる僕を見て、彼女の方も僕が誰なのか、じわじわと思い出した様だ。
僕を思い出した瞬間、彼女は不快な表情を浮かべた。
 彼女は、やっぱり分かってたんだろうか・・・・・・。
 気まずくて、僕は視線を彼女の後ろにずらすと、大きく目を見開いてしまった。その表情
に彼女も急にそわそわとし始める。
「・・・・・・どうも」
「・・・・・・こ、こんにちは」
逃げ出したいのに、どちらも逃げられない状態になった。お互い一瞬でも隙を見せるわけ
にはいかないというオーラが勝手に出ている。
 無言で見合ってしまって、動けなくなっているところに、板橋が見事に空気を壊して
くれた。
「どうした?知り合い?」
「ま、前の会社の社長の・・・・・・奥さん」
「ふうん?」
「じゃ、じゃあ」
彼女はそれだけ言うと、慌てて携帯電話を拾い上げ、歩き出す。彼女の隣で「どうしたの?」
と腰を引き寄せながら囁く男が見えて、しかもそれが社長ではないことを確信すると、僕
は言いようの無い気持ちでいっぱいになってしまった。
 不倫旅行――見てはいけないものを見てしまった。
彼女を責める道理も資格も、僕には何もないし、それを見て負い目に思うことは、もう
何も無い・・・・・・はずなのだけれど。
 胸がちくちくと痛んだ。
「直哉行くよ?」
「・・・・・・うん」
板橋に背中を押されて、僕は落とした携帯を拾うとなんとか歩き出すことが出来たのだった。



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