はしま道中流離譚―橋は道連れ、世は情け―
JAL1153便は定刻どおりに「とかち帯広空港」へ滑り降りていった。
機内にアナウンスが流れると乗客は次々と手荷物を降ろし、飛行機から降りる準備をして
いる。僕も布製のバックを肩に引っ掛けると、板橋に続いて通路に出た。
「飛行機って疲れるな」
「板橋は車ばっかりだもんね」
「好きなときに止まれないのは辛いな」
飛行機からは大好きな橋も見られないし、橋オタクとしては不満の多い乗り物なんだろう。
そういう僕も狭い機内から解放されると、大きな欠伸をして、両手を伸ばした。
「でも天気もいいし、まずまずの幸先じゃないの?」
「だといいけど」
板橋との旅行が何も無いはずはないのだけど、初めての北海道に僕の気持ちはすっかり浮かれ
上がっていた。
その数分後に、どん底に落とされることなんて、つゆ知らず。
到着ゲートに着いて、荷物を待つ間、僕は携帯電話の電源を入れなおしていた。
「ああ!?」
「ああ?」
自分でもびっくりするような声――というより殆ど悲鳴のようなものが出て、隣で橋の資料
を見ていた板橋も驚いて僕を振り返った。
「け、携帯電話が・・・・・・!」
「携帯?壊れたの?」
「・・・・・・僕の携帯じゃないんだけど!」
「は?」
意味が分からないと言った風な顔をして板橋が携帯を覗き込んできた。
「同じ機種、同じ色、同じストラップ付いてるのに・・・・・・中身が違う」
液晶の画面は購入時のデフォルトのままで、これも同じ。なのに、メールの中身が・・・・・・
「誰のなんだよ」
どこで摩り替わったんだ?飛行機に乗ってる最中に変な電波が出て、携帯の中身が摩り替わる
なんてことあるのかな。
本気でそんな心配をした機械音痴の僕に、板橋は至って冷静に羽田空港の出来事を指摘
してくれた。
「あんた、羽田で人にぶつかって携帯落としただろ」
「あ!!」
「そんとき、間違えたんじゃないの?」
そうだ・・・・・・社長の奥さんとぶつかって、お互い携帯電話落としたんだった。
「・・・・・・ってことは、この携帯」
「社長の奥さんって人のなんだろ」
「そう、みたい・・・・・・」
さぁっと背筋の辺りから寒くなった。見てはいけない現場を見た上に、見てはいけないメール
まで見てしまった。
「だってさ・・・まさか、自分の携帯じゃないなんて、思わないから」
初めの1件は間違って受信でもしたのかと思った。誰だ、こんな変なメール間違えて打ってくる
やつは。なんて思って次のメールを見たらやっぱりおかしい。
それで、3件目で確信したんだ。
「3つも見ちゃった」
「まずいの?」
「けっこう拙いこと書いてあった・・・・・・」
メールの送信相手はきっと一緒に旅行に行っている彼女の腰を引き寄せたあの男だろう。
彼女もそしてあの男もお互い、誰かに嘘を並べて旅行に来ていることと、それから、あの男
の愛の囁きを、僕はばっちりと読んでしまったのだ。
社長は、これ知らないんだよな・・・・・・。
どろどろの愛憎劇が目に浮かんで僕は首を振った。
僕にはもう関係ないことだ。
「どうしよう」
「とりあえず、自分の携帯電話の番号に電話してみたら?拾った相手が分かってるんだから
あっちだって気づけば困るのは同じだろうし」
「そうする・・・・・・でも、どこに行ってるんだろう」
「遠ければ郵送してもらうしかないね。でも、よく同じストラップまでつけてるな」
「・・・・・・そういえば、これ、あの会社で働いてたとき、社員の女の子が新婚旅行のお土産に
沖縄で買ってきてくれたストラップでさ。そういえば、皆に配ってたっけ。・・・・・・しかも
よく見れば、ここの色とか違うし・・・・・・」
ストラップについている玉の色が違うことを今更ながら気づいた。
「どうして今まで気づかなかったんだ・・・。よく見れば全然色が違うのに」
「思い込みってヤツだろ」
板橋としゃべっていると、手にしていた携帯電話が突然鳴り出した。
どこかで見たことある番号。着信番号の左上に小さく「社長携帯」という名称が表示され
ている。なんてタイミングで掛かってくるんだよ。
「うわぁ・・・」
「ん?」
着信音に反応して板橋も携帯電話の画面を覗き込んだ。2人して顔を見合わせる。
「ど、どうしよう・・・」
「無視しとけば」
「そう、だよね・・・・・・」
こんなところで僕が電話にでても話がややこしくなるだけだ。
無視しようと思ったのに、心拍数が急上昇して手が震えだした。社長とは会社を辞めて
からは会ってない。もう会うつもりもない。仕事を辞めるときに何度も止められたし、その
話題を出されたけど、僕は全く無視して、逃げ切った。
逃げ切った直後は自分の気持ちに精一杯で、社長の気持ちなんて考える余裕は無かったし
心配を振り切って、板橋の中に飛び込んだことは間違いだとは思ってない。それに今、僕
は社長と不倫していた頃よりずっとか健全な恋愛をしてるし、幸せだと思う。
だから、自分が幸せな分、あのまま逃げてしまったことにちょっとだけ罪悪感も持って
いた。会うつもりはないけれど、本当は一言だけごめんなさいを言いたかったのも事実だ。
僕は無言でディスプレイをじっと見つめていたらしい。そんな僕の様子を不審に思った
板橋はいきなり携帯を奪って電話を切ってしまった。
「なっ」
「気にするな」
「そうだけど・・・・・・そんな、切らなくてもいいじゃん」
「どうせ彼女だって切ってただろ」
いつもよりぶっきらぼうな言い方に思わず反論した。
「そんな事するわけないよ。不自然でしょ。拙いよ電話切ったら。社長だって何事かって
思うでしょ」
「彼女の心配してんの?」
「そうじゃないけど・・・・・・」
「そんなの、不倫してるヤツが悪い」
ぐさっと来る一言だ。それは正論で、彼女をかばう義理はないし、僕の所為でばれたと
しても彼女がやってることの方が悪いんだろうけれど・・・・・・。
「何怒ってるんだよ・・・・・・」
そんなに不機嫌な言い方しなくてもいいじゃないか。何が気に入らないんだよ。
板橋はコンベアに乗って運ばれてくる荷物を見つけると立ち上がって、一言言い残して
行った。
「そんな電話に心を奪われてるのが気に入らないの」
・・・・・・す、素直じゃないんだから。
荷物を取って到着ロビーからレンタカーカウンターに向かって、板橋は予約していた
レンタカーを呼んでもらった。
その間に僕は、自分の番号に電話を掛けた。残念なことに電話は電源が切られていて
きっとまだ機中にいるのだろうと僕は電話を切った。
向こうも気づけば絶対掛けてくるはずだから、待つしかない。
その一方で、社長からのコールは何度も鳴り響いていたけれど、僕は無視することに専念
した。余計なことは考えないでいよう。
レンタカーの手配を待つ間も、携帯電話は何度か鳴っては切れ、鳴っては切れを繰り返し
ていた。
「いっそのこと、電源切っちゃいたいよ」
「奥さんから掛かって来たら困るでしょ」
「そうだけどさー、電話が鳴る度、疲労が・・・・・・」
しゃべりながら歩いていると、レンタカーの店員に「こちらです」と示された車を見て僕は
目を丸くした。
車に乗り込んで、店員に見送られると、板橋は快調に車を滑らせた。
「なんで・・・・・・」
ポツリと一言。その声に反応して板橋が振り向く。この知った距離感!ああ、なんで・・・
「なんで、わざわざオデッセイなんてレンタルするんだよー。勿体無いじゃん!」
板橋は北海道旅行に来てもやっぱりオデッセイに乗っていた。
「慣れてる方がいいと思って」
「小さい車なら、小回り利くし、2人旅行なら困らないでしょ?こんな大きな車借りて勿体
ないなあ」
どこの金持ちボンボンだよ。経費節減、これ基本じゃないの。
呆れ顔で板橋の横顔を見ると、板橋はニタっと笑って僕の方を一瞬だけ振り向いた。
「俺は困らないけど、あんたが困るでしょ」
「どーいう意味?」
「慣れた車の方が、いいと思ってさ」
「乗り易いから?」
「いや、やり易いから」
「な、何を!?」
「何って、セックス」
「!!」
「慣れた車の方が、やり易いし、イキやすいでしょ」
な、何を得意気に言ってんだよ・・・・・・
「板橋の変態!」
「なんで。せっかく北海道に旅行に来たのに、しないの?」
しないのなんて聞かれて、しないなんていえるはずがない。僕だって、結構する気あるから
ちゃんと色々持ってきたりしてるし・・・・・・。こんな日の高いうちから、張り切ってしたい
ですなんていうのも、がっつきすぎて恥ずかしいけど。
「そ、そりゃ、したいけど」
「だったらいいじゃん」
当たり前のように、話を持っていかれても困る。だって、
「なんで、旅行に来てまで、車でエッチしなきゃなんないんだよー。意味わかんない」
ホテル泊まるんだよね、僕達?
・・・・・・板橋のことだから、ホテル手配してないかもしれない。
しかめっ面になっていると、板橋がハンドルを人差し指でトントン叩いた。機嫌がいい
時の板橋の癖だ。僕からかわれてるのか。
「別に車の中で絶対するって言ってるわけじゃないでしょ。有事に備えて」
「どんな有事だよ」
願わくばその有事が来ないことを祈るのみだ。
車の中では、携帯電話が鳴る度、自分の番号かもと期待しては裏切られるという不毛な
時間を過ごしていた。
ダッシュボードに置いた携帯がまた鳴り響く。
「あー!うるさい。ちょっと黙っててくれないかな、この携帯」
「でもまだ奥さんには連絡取れないし」
「ちょっと、しつこくないの、あの社長」
「うん・・・」
流石にこれだけ連発されると何かあったのかもしれないと別の不安が生まれた。
「まあ、あんたのときもしつこかったけど」
「うん。まあ、そうだね」
気の無い返事をすると、板橋はダッシュボードの携帯を取り上げて、いきなり通話ボタン
を押した。
「面倒くさいから、あんた説明して」
「ええ!?」
ちょっとなんてことしてくれるんだよ。心の準備なしにいきなり・・・・・・
戸惑っているうちに、電話口から社長の怒鳴り声が聞こえた。
『もしもし!!おい!何で電話に出ないんだ!』
「・・・・・・あ、あの」
『誰だ!?』
「小島直哉です・・・・・・」
絶句しているのが電話越しにも伝わってきた。
やっぱり気まずい。社長にしたら何が何だかさっぱり分からない状況だろう。自分の奥さん
の携帯に嘗ての不倫相手が出るなんて、青天の霹靂もいいとこだ。本当に雷に打たれて死ん
でるんじゃないかと、口の悪い板橋じゃないけど思わず突っ込みたくなるくらいに電話口は
静かだった。
「ご、ご無沙汰してます。あの、実は色々合って・・・・・・いえ、色々は無いんですけど」
しどろもどろになりながら僕が口を開くと、社長も漸く声を出した。
『直哉なのか』
「・・・・・・はい」
『どういうことなんだ』
社長の混迷した声に、僕は簡潔に出来事を言った。説明した後もやっぱり社長は絶句した。
半信半疑でやっと口を開く。
『本当か、それは』
「・・・・・・疑いたくなるのも無理ないですよね。僕も、信じられない・・・・・・。僕の携帯、まだ
電源が入ってなくて、どこにいるのか分からないんです」
帯広の空港で事態に気づいたことを告げると、社長も漸く信じ始めてくれた。
『・・・・・・あいつも、北海道に行ってるはずだ』
「そうなんですか?」
『仲のよかった高校の同級生と北海道に行くって言ってたから』
「え」
『何だ』
「同級生って女友達ですよね」
『そうだけど。・・・・・・!?』
電話口のテンションが変わって、不用意な一言を言ってしまったと僕は息を呑んだ。
『直哉、何を見た?』
しまったという焦りは拳で握りつぶして、冷静を装う。電話でよかった。顔なんて見られ
ていたら、一発でアウトだ。
「何って、何ですか?」
自ら地雷を踏むようなことは社長もしなかった。あっさりとそこで引き下がると、声の
トーンを戻して言った。
『・・・・・・いや、いい。なんでもない。とにかく、あいつと連絡が取れたら、こっちにも
連絡するように伝えてくれ』
「はい」
『じゃあ・・・・・・』
「はい、失礼しま・・・」
切りかかったとき、社長が慌てたように僕の名前を呼んだ。
『直哉』
「・・・・・・はい」
『幸せか?』
「・・・・・・はい」
『そうか。元気でな』
それだけ言うと、電話は切れた。
僕は電話を耳に当てたまま、暫く動けなかった。
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