その日の湧井は熱かった。冷静と言う薄っぺらいベールの下では、真っ赤になった闘志
が突き破ってきそうなほどギラギラとしている。それを理性がギリギリのところで押しとどめて
いるだけだった。
けれど、陽斗にも歩にも、部員全員が湧井のテンションの違いを感じていたはずだ。
湧井のK高にかける思いは他のどの高校よりも熱い。
絶対に勝ちたい。いや、勝ちに行く。湧井の目はそう物語っている。
それを知っているから、部員も熱くなるし気合も入った。ただ1人、歩を除いては。
「いいか、お前ら!今日は絶対に最後まで集中力を切らすなよ!はっきり言って、今まで
の相手とは格が違う。ほんの僅かな隙が相手に付け込まれる。全員が同じところを向いて
無い限り勝てない・・・・・・」
ゴクリ、陽斗は唾を飲み込んだ。陽斗に今日の登板予定はない。けれど、万が一を見越して
肩は作っておかなければならない。
けして他人事では終わらないのだ。ここにいる限り、陽斗も同じ方向を向かなければいけない。
「けど、俺達も強い。勝とうとする気があれば、絶対に勝てる!」
「ウイッス!」
湧井の声に部員が一斉に返事をした。陽斗も気合を入れる為に大きな声で頷く。
実際のところ、今は試合の事だけに集中していなければ、やっていられない気分だったのだ。
陽斗は列の一番遠いところにいる歩を、目の端で何度か捕らえた。その表情からは、歩の
今の心境をうかがい知る事は出来ない。
陽斗は自分の愚かさを悔いていた。
勝手な勘違いで浮かれて、自滅して。
悔しくて、情けなくて、恥ずかしくて、そして傷ついた。
歩の鈍感さを責めているつもりは勿論ない。それよりも自分の傷で陽斗は手一杯だった。
歩の置かれた心境を察するほど心に余裕が無い。
自分がとった行動が歩にどんな変化をもたらしていたかなど、全く気づきもしなかったのだ。
自分の浅はかな行動で自分が傷ついたことへの後悔と自嘲。陽斗の心を占めるのはただ
それだけ。
陽斗はそれを追いやるために、試合に全力を集中させた。
「特に、3番の坂井琉生。あいつだけは調子付かせるな!アイツが打つと厄介な事になる」
湧井はそう言うと、歩を見る。
打たせるなよ、と無言の圧力。
歩は背筋が吊りそうなほど硬直した。坂井の事は知っている。実際対戦した事があるわけ
ではないけれど、一昨年の試合で豊山南高を苦しめた1人だ。スタンドで見ていた歩にも記憶
に残るほどの選手だった。
3番セカンドの長距離打者。そして湧井の因縁のライバル。
いつもの歩ならば、どんなプレッシャーでも気に留めることも無い。湧井のライバルだろうと
手ごわい打者であろうと、マウンドに登れば皆同じ、ただの打者だ。
自分はただ、ボールを投げて、打者を打ち取る。それに全力を注ぐだけ。
けれど、今の歩には雑念が多すぎた。
陽斗の傷ついた顔、自分の不調、そして湧井のプレッシャー。全てが悪循環に回りだして
歩は益々恐ろしくなっている。
マウンドに立ちたくないわけじゃない。あの場所を他の誰かに譲る気など毛頭も無い。
その一方で、恐怖はどんどん膨れていく。
ミーティングが終わると、隣にいた颯太に背中を叩かれた。
「いつも通りいけよ。気にするな」
「颯太、俺・・・」
「ピッチャーが弱気になってどうすんだよ。多少のコントロールはこっちで何とかする。
歩はとにかく、俺に向かって投げろ」
「うん」
「俺だけ――俺のミットだけ見てろ」
「・・・ありがと。がんばる」
歩は少しだけ笑って颯太を見上げる。颯太にはそれ以上言えなかった。
最初に気づいたのは誰だったのか。湧井も黒田も、そしてフィールドに立つメンバーだけ
でなく、陽斗にすらその変調は手に取るように分った。
初回。マウンドに上がった歩を待っていたのは、先頭打者にいきなりのフォアボール。
ストレートも変化球も全て外れた。
味方応援席からは溜息が、そして相手応援席からは拍手と応援団の威勢のいい声が響いた。
颯太はある程度この結果を予想していたが、他のメンバーは僅かに動揺し始めている。
「歩、やっぱり陽斗のこと引き摺ってる・・・?」
ライトの守備につきながら、青木彰吾は小さな不安が大きくなっていくのを感じた。
「ドンマイ!」
颯太は歩に返球しながら、声を張り上げる。
手が震えていた。マウンドの大きさに飲み込まれてしまいそうな自分がいる。応援席の
声ばかり聞こえて、歩は集中出来ていない事への焦りと苛立ちが早くも現れ始めていた。
「落ち着け、まだ1人・・・」
帽子を取って腕で額の汗を拭う。たった一人相手に既に帽子の中は汗でぐっちょりしていた。
2人目が打席に立つ。歩は一塁を気にしながら次の打者にストレートを投げる。
次の瞬間、颯太が素早いモーションで立ち上がりすかさず二塁にボールを投げた。
「スチール!」
歩が振り返ると、フォアボールで1塁に出た先頭打者が2塁に向かって走っていたのだ。
足の速い1番打者なら、無死で塁に出ればまず盗塁を狙う。そういう当たり前のことにすら
歩の気持ちは追いついていない。
颯太の投げたボールは2塁上で構えていた湧井のグローブにきっちりと納まり、審判の
「アウト!」という大きなジェスチャーによって、上手く走塁を刺したことを知る。
歩から大きな溜息が出た。
「ナイスプレイ!」
味方の応援団の太鼓やラッパの音が高らかに鳴った。
湧井は歩に送球しながら厳しい顔で頷いた。
「後ろは俺達が守るから」
湧井はその意図を伝えたつもりだった。
不調の連鎖は野手にまで伝わってしまうのだろうか。続く2番打者が放った1打はセカンド
の黒田の前に飛んだ。
ボテボテのセカンドゴロ。普段の黒田なら悠々と捕球してファーストに送れるはずなのに
土で跳ね返った球は黒田のグローブを弾いて、外に飛び出す。
黒田は慌ててそれを素手で捕球して、体勢を崩しながらもファーストに送った。
僅かに黒田の動作が速かったのか、クロスプレーになりながらも1塁はアウトになった。
安堵やら、落胆の溜息があちらこちらから漏れてくる。
「危ねえ!」
「黒田、しっかり!」
スタンドからの野次は、歩の耳にも届いてくる。自分がしっかりしなければ。歩は集中力
を取り戻そうと、呼吸を繰り返した。
大丈夫、やれる。そう言い聞かせながら。
苦しい展開ながらもあっという間にツーアウトとし、迎えるバッターは3番の坂井琉生となる。
「この人が・・・」
歩はロージンを握り返した。
絶対に打たせてはならない相手だと、湧井が言っていた。この男を調子付かせると、K高
は手に負えなくなるのだと。
単に湧井のライバルだから勝ちたいというだけではないのだ。この試合のキーマンにも
なる相手。
歩はロージンを叩き捨て、グローブの中のボールを握った。
背中で球を握り、形を作る。今の自分の状態で直球勝負するのは怖かったが、曲がらない
変化球を投げるのももっと怖い。
『俺のミットだけ見てろ』
颯太の声が聞こえる。
歩は颯太のサインを見て覚悟を決めた。
自分の持てる限りの力でストレートを投げ込む。
「やばいっ」
インコースを狙ったストレートはど真ん中に吸い込まれ、そして金属バットの高い音が球場
に木霊した。
ボールはショートの湧井の頭を超え、外野がボールを追う。
湧井は2塁で構えたが、その前に坂井が悠々と2塁を踏んだ。
相手高応援席が一瞬で歓喜に沸く。ブラスバンドと応援団のだみ声が入り混じって、ちょっと
したお祭りのようになっている。坂井が出塁するということは、どれだけチャンスが広がる
のか、彼らにもわかっているようだった。
「アユ先輩が坂井にツーベース打たれた・・・・・・」
ベンチで唖然としているのは、他でもない陽斗だ。先頭打者にフォアボールを出した時に
感じていた違和感は、確信に変わる。
「アユ先輩、調子悪い」
陽斗はぶるっと震えた。歩だって人間なのだから、調子の悪いときだってある。けれど、
2回戦まで絶好調だった歩が、ここまで調子を落とす理由など、陽斗は一つしか思いあたらない。
「お、俺の・・・所為?」
緊張で一気に喉が渇いた。
「山下!」
「はい」
ベンチで藤木が陽斗を呼ぶ。
「肩、作っとけ」
「!?」
驚いて藤木を見ると、藤木は厳しい顔をして歩を見つめていた。
「・・・・・・はい」
「うっす、湧井チャン」
「うっさい。試合中に話しかけんな」
2塁の上で、坂井はニタニタしながら湧井に話しかけた。
「あれが、お前のトコのエース?」
「・・・・・・話かけんなっつってんだろ」
「くっ、あんなショボイエース様じゃ、お前も苦労するよな」
湧井は坂井の言葉を無視した。
「お前が、ウチに来てたら、もっと楽に甲子園に行けたんじゃねえの?」
坂井という男は昔からこうだ。湧井の一番嫌なことを、ずけずけと言葉にしてくる。
「誰がお前のいる高校になんて行くかよ」
湧井は豊山南のメンバーに話したことはないが、噂で流れていた「誘われてるのに蹴った
強豪」とはK高の事だったのだ。
けれど、湧井はその誘いを断った。その理由はただ一つ、坂井もK高に誘われていると
知ったからだ。
「俺とお前が組めば、最強の二遊間ができたのにな」
坂井は黒田に視線をくれて、そっと笑った。
「冗談、既に最強の二遊間だっつーの」
「ふっ、あのボテボテのゴロを捕球しそこないそうになるほどの守備のヤツが?」
さっきの黒田のプレーを言っているらしい。
湧井は不機嫌になって鼻を鳴らした。
「お前みたいな、人の揚げ足を取る男と俺は組みたくないね」
「まあいいさ。俺と黒田、どっちが3番セカンドとして優れてるか、直ぐにわかるから」
湧井は唇を噛む。認めたくないが、冷静な目で見たとき、3番、そしてセカンドとしての
能力は、黒田よりも坂井の方が僅かに上だ。
それが分ってしまったからこそ、湧井はK高を蹴ったのだ。それでも、天秤にかけなくても、
答えは決まっていた。
常勝K高に進んで、坂井と二遊間守って甲子園に行くよりも、黒田と組みたい。まだまだ
2人で野球をしたい。
湧井の誰にも言えない秘密。頑なに豊山南に進んだ理由を言わない訳。
「セカンドとして優れてても、俺はお前となんて組みたくないね」
「はあ?お前、馬鹿だろ。なんでそこまで黒田にこだわるんだよ」
「決まってんだろ、お前より黒田の方がいい男だから」
湧井は嫌味たっぷりに坂井に言ってやった。坂井が眉を顰める。湧井はそれを無視して守備
に付いた。
「俺にとって、黒田を越えるヤツなんていないんだよ」
そう心の中で呟きながら。
続く4番が歩の球を捉えた瞬間、坂井は湧井を振り返ってお返しとばかりにニヤリと笑った。
「・・・っ!」
そのまま、坂井は3塁を蹴って、ホームに滑り込んでいく。
先制点はあっさりとK高に持っていかれてしまった。
「くそっ」
湧井は天を仰ぎ見る。まだまだ、試合は始まったばかりだ。
結局初回は5番打者でアウトを取って交代となった。この状況では1点取られただけで
凌ぎ切ったといった方がいいのかもしれない。
歩はマウンドを後にしながら、びっしょりと濡れた額の汗を拭っていた。
毎回ランナーを背負いながら、2回3回を凌いだ歩だったが、4回の表についに捕まって
しまった。
味方の打線の援護はまだ無い。1対0のまま迎えた4回、先頭打者にまたもフォアボールを
与え、そしてそれをきっかけに、盗塁、タイムリーで3点を取られた。
ツーアウトに追い込んでも尚もランナーは1、3塁。苦しい展開になっても、歩の気持ち
は切り替えていくことができずに、ずるずると悪い方向へと向かっていく。
マウンド上にメンバーが集まってきて、湧井が声をかけた。
「4点差くらい気にするな。次の回からなんとか打って、お前のこと援護してやるから」
「はい」
「あと1人、がんばれ」
「はい」
湧井が歩の背中を叩いて、メンバーが自分のポジションへと散っていく。
集中しなくては。歩は雑念を捨てて、ボールを見つめた。
調子が悪いなら、悪いなりのピッチングがある。それよりも、これ以上点数をやるわけ
にはいかないのだ。
ここで、これ以上差をつけられては試合を決定付けられてしまう。
歩は目を閉じて、大きく呼吸を繰り返した。
「大丈夫、乗り切れる」
言い聞かせて、目を開ける。20メートル先の颯太のミットだけを見た。
颯太のサインに頷いて、モーションに入る。
今日一番のコントロールと、思い通りに入った球、だったはずだった―――。
「嘘だろっ」
完全に読まれていたのか、歩の放ったボールは颯太のミットに収まることはなく、相手打者
のバットに綺麗に当たった。ライト方向、彰吾の前まで球は転がり、走者が一斉に走り出す。
強肩の彰吾が、素早く捕球してファーストに送るが、刺す事は出来なかった。
その間に3塁走者がホームベースを踏んで、この回4点目を失うこととなった。
「・・・・・・マジで?」
抑えたと思った球すら打たれてしまった。
K高ベンチは押せ押せムード一色だ。ツーアウトながらもまた1、3塁。ダメ押しの1点で
試合を早めに決めてしまおうとしている。
湧井は頭を抱えて蹲りたいのをギリギリのところで我慢した。
自分が折れるわけにはいかない。まだ4回。諦めたくは無い。心を強く持とう。5対0。
とにかく次の回から5点返していくしかないのだ。
湧井は歩の背中を見つめた。マウンドの歩は今までに無いオーラゼロの状態だった。
「最悪だ」
せっかくの切り替えた歩の気持ちがまた萎えて行く。そうして、更に歩にとって不名誉な事
が起きるのだ。
味方ベンチが動き出す。
「?!」
監督としては、至極当たり前の采配だろう。歩の背筋が冷たくなった。握ったボールが
指にぴたりとくっついて離れない。指先から力が入って、ボールを潰してしまいそうだ。
「嫌だっ・・・」
歩は首を振る。
冷静に考えれば、この状況でベンチが動かないわけが無い。自分の不甲斐ない投球を見れば
下ろされても仕方が無いのだ。
そう分っていても、歩は首を振った。
「絶対に、嫌だ・・・」
ピッチャー交代が告げられた。
ベンチから上がってくるのは勿論、山下陽斗。歩の意思は通じなかった。
「譲りたくない」
誰にも、どんなことがあっても無様な姿でマウンドを譲るのだけは嫌だと、あれほど思って
いたのに。
後輩の陽斗にだって、このマウンドは譲りたくなかったのに。ましてや、今、自分を
こんな風に追い込んで絶不調にしてくれた原因の陽斗に、このマウンドを譲るなんて、
歩としては、悔しくて堪らないのだ。
走ってくる陽斗の顔が見れない。見たらきっと恨みで呪ってしまいそうだから。
帽子を目深に被り直し、無言で陽斗にボールを渡した。
「アユ先輩・・・・・・」
「・・・・・・」
歩は、わずか3回と2/3でマウンドから、他でもない陽斗によって引き摺り下ろされて
しまったのだった。
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