なかったことにしてください  memo  work  clap




 マウンドを去っていく歩の後姿を陽斗は唇を噛み締めながら見送った。
 握ったボールは既に汗ばんでいる。マウンドを去っていくとき、歩は一度も目を合わせて
はくれなかった。
 歩の調子が悪いのは間違いなく自分だ。陽斗は確信する。
「俺・・・・・・なんてことを・・・・・・」
歩がどれだけマウンドにこだわっているのか、陽斗は歩の言葉から知っているつもりだ。
その歩を自分の行動の所為で引き摺り下ろしてしまった。
 歩はきっと自分を恨んでいる。大切な試合で歩に辛い思いをさせた。陽斗までもが逃げ出し
たい気持ちになる。
 頭がくらくらするのは、照り返す日差しと暑さだけの所為ではないだろう。
 マウンドに立つと、直ぐにメンバーが集まってきた。
「厳しい場面だけど、お前なら出来る。がんばれ」
湧井が陽斗に声をかける。海野瑞樹からも明るい声がかかった。
「なんとか次から点とってくから。あと1アウト、とにかく集中、な!」
「・・・・・・はい」
そうだ。ここで試合を放棄してはいけない。歩に続いて自分も崩れてはならない。試合は
自分だけのものじゃないのだ。T高の練習試合で痛いほど知ったことだ。
 みんながこの試合にかけてる。湧井も他の3年も諦めていないのに、自分が後ろ向きな
気持ちになっている場合ではない。
 陽斗は気持ちを切り替えるために、雑念を全て捨てた。歩の背中も意識的に頭の中から
消し去る。
 全ては颯太のミットだけに集中する。今は1つのアウトだけを取る事だけを考える事が
必要なのだ。
「うっし!」
陽斗は自分に気合を入れて投球に入った。




 豊山南に待望の得点が入ったのは5回の攻撃だった。
 2番の颯太が粘って塁に出ると、3番の黒田が送りバントで颯太を2塁に送った。
「確実に1点とってくぞ!」
ベンチの中で湧井が声をかける。
 南高応援席もにわかに活気づいてきた。応援団の声援を受けて4番の彰吾がバッターボックス
に立つ。
「いける」
彰吾はK高ピッチャーの球筋を捕らえ始めていた。相性のいいピッチャーというのは必ず
いるのだ。相手がどんなにすごいピッチャーでも自分にとっては打ちやすい球を投げてくる。
 逆に、たいして凄くも無いピッチャーから一度も安打をあげることが出来ない場合もある。
K高のピッチャーは強豪のエースを背負っていることだけあって、流石だと彰吾は思う。
けれど、攻略できない相手でもなさそうだった。
 初球を狙う。彰吾はバッターボックスに立った瞬間にそう決めた。
ボールは彰吾の狙い通りに飛んできて、彰吾は躊躇いなく振りぬく。打った瞬間に抜けた
と分る当たりだった。
 颯太がセカンドからサードベースを蹴ってホームに突っ込んでくる。彰吾は1塁上でガッツ
ポーズを決めた。
なんとか繋いで1点をもぎ取ったのだ。
5-1。K高の5点の前では、微々たる点でしか無いように見えるが、今は1点ずつ確実に返して
いくしかない。
 諦めた時点で終わりだ。
 陽斗は試合を見つめる。歩はベンチの奥でタオルを頭にかけながら座っていた。メンバー
に埋もれて、応援席の誰もがもう既に歩の存在など忘れているだろう。
 陽斗は歩を振り向く事はしなかった。
今、歩のことを気にかけてしまえば試合を捨てることになってしまう。集中力を欠かす
ことはできない。
 目の隅にその存在を感じながらも陽斗はぐっと堪えた。
 5回の攻撃は結局1点で終わった。





 颯太は歩がマウンドを降りたときからイライラが止まらなかった。
歩は何も言わなかったけれど、歩の調子が悪くなったのは絶対に陽斗と「何か」があった
からに違いない。
 それが何なのか分らないからこそ、余計にイラつく。涼しい顔でマウンドに上がってきた
ように見える陽斗が憎くて仕方なかった。
 歩以外の球を受けるなんて冗談じゃない。颯太は常日頃そう思っている。自分のピッチャー
は歩1人で十分なのだ。
 それ以外のヤツの球なんて受けたくも無い、それが本心だった。
ましてやそれが自分のライバルであるのなら、尚更。バッテリーは心が意思の疎通が出来て
なければ、打者を打ち取ることなんて出来ない。
 そう言う意味では陽斗と颯太のバッテリーは最悪だ。
6回のK高の攻撃は当にそんな2人の亀裂に上手くつけ込むような攻撃になった。
インコースを要求する颯太に、陽斗は何度か首を振る。その度、バッテリーの精度は下がって
いった。
 2人の呼吸が合わない。迎えるバッターは4番。陽斗はもう一度颯太のサインに首を振った。
20メートル先でも颯太の顔が歪むのが分る。
 嫌われようが、どう思われようが陽斗には関係ないと思った。それよりも、インコース攻め
をするのは今は危険だと陽斗は思うのだ。
そうして投げた2球目のストレートを、K高4番打者はいとも簡単に捕らえてしまった。
「っ・・・!!」
金属音の小気味良い音がして、陽斗が振り返ると、球はどんどん伸びてレフトスタンドに
吸い込まれていった。
「マジかよっ」
ゆっくりとバットを離して、打者が一塁を回っていく。
 スコアボードは6-1。せっかく5回に入れた得点があっさりと無駄になった。



 膝が折れそうになる。1球勝負に負けた。相手打者はそれだけの実力を持っているのだ。
陽斗の心が萎れそうになっていると、怒鳴り声が頭の上から響いた。
「お前、いい加減にしろよ!」
見上げれば、マウンドまでやってきた颯太は陽斗を睨みつけていた。今にも胸ぐらを引っ
つかんで殴り掛かりそうな勢いだ。
「もう一点もやれないんだぞ!」
「そんな事言われなくても、わかってますよ!」
怒鳴られて、陽斗も思わず反論する。一点もやるつもりなどなかったのだ。
 全力で投げた球を完全に読まれたのだ。その悔しさは誰よりも陽斗自身の中にある。
「だったら俺のリードに首ふってんじゃねえよ!ちゃんと投げろ」
「先輩のリードは無謀すぎる!」
マウンドで言い争っていると、他のメンバーもその異変に気づいて駆けつけてくる。
「お前ら、試合中に何してんだ!」
湧井が2人の間に割り込んで睨みつけた。
「この大事なときにバッテリーが喧嘩しててどうすんだ!三須も山下も冷静になれ、
馬鹿野郎!」
切れ気味な声で湧井が2人を制する。直ぐに海野のフォローが入った。
「取られた分の点は、俺達が何とか取り返すから。お前達はとにかく集中しろ、な」
「・・・・・・はい。すみません」
陽斗は拳を握り締めて声を振り絞る。
 颯太は振り返らずそのまま戻っていった。






 6回、7回の攻撃で、海野が言うように僅かながら豊山南は得点を重ねた。6回に2点、
そして7回に1点。コツコツと稼いだ点数が小さな望みに繋がる
 6-4。残りあと2回を0点に抑えて、更に3点をもぎ取らなくてはならないのだから、情勢
は厳しいままだったが、湧井の気持ちは勝利に向かって走っていた。
「とにかくお前は抑えろ。球は悪くない。今のまま、集中しろ」
湧井の声をかけられて、陽斗は頷く。ただ、無心にはなれなかった。湧井の勝利への気持ち
とは裏腹に、陽斗の心によぎるのは負けるかもしれないという後ろ向きな思い。
 7回を終えた時点で、勝てると、絶対勝つと、信じているのは3年のメンバーと彰吾くらい
なのではないだろうか。
 陽斗はベンチの空気が次第に重くなっていくことを肌で感じていた。
 ただ、自分の所為にされたくない、その思いから陽斗は点数だけはこれ以上やらないと
誓いを立てる。
 負けても打てなかった打線に責任がある、そうやって負けから逃げるように陽斗は8回
のマウンドに上がった。






 そうしていよいよ最終回を迎える。
9回の表を0点に押さえて、陽斗はベンチに戻った。心はとっくに負けていた。味方の
援護を待つしかないが、それすら諦めている。
 ベンチにも敗色のムードが漂っていて、どこか暗くなっていた。
それでも絶対に負けないと僅かなメンバーが闘志を燃やす。
「絶対に逆転できる!俺達ならやれる!」
9回の攻撃前に湧井が吼えるような声で檄を飛ばした。
 陽斗には湧井の気持ちが段々と痛くなっていた。どうせもう負ける。そんな気持ちが
1人アウトになると更に大きくなった。
 湧井がフォアボールで塁に出た後、颯太はあっさりと三振に倒れた。これでツーアウト
1塁となる。
 陽斗は負けを想像して小さく溜息を吐いた。
しかし、湧井は試合を捨ててはいなかった。黒田も、海野も。この状況になっても、
スタメンの3年は誰も諦めてはいない。
 スコアボードは6-4。
苦しい展開ではあったが、決定的に負けているわけでもない。絶望的な得点差があった
6回を思えば、まだ望みがある。
 湧井が4球を選んで、塁に出た。無様でもどんな形でもいい。1点取る、その気持ちが
体中から溢れている。
 バッターボックスには黒田が立っている。彼もまた真剣な表情で相手投手を見つめていた。
絶対に打つ。
 ネクストサークルで待つ彰吾にも、その気持ちが伝わってきて、握り締めたバットを
じっと見つめた。
「俺が打たなきゃ・・・・・・」
何の為の4番打者だ。苦しい思いをして、誰にも負けないくらい練習してもぎ取った4番
じゃないか。
 ここで打たなきゃ意味が無い。
目を閉じて集中していると一際大きい歓喜の声が聞こえた。
見れば、バッターボックスの黒田がフルスイングしていた。カキン、と金属バットの
甲高い音が響いてボールはセカンドの坂井の頭上を越える。
「走れ!」
打った瞬間に、1塁に向けて黒田が走り出す。ボールはライトとセンターの間に見事に落ちた。
1塁の湧井も黒田が打った瞬間に全力で塁を蹴った。トップスピードで2塁を蹴る。
 俊足の湧井は3塁まで突っ込むつもりだった。
ライトがボールを捕球して1塁を振り向くと、黒田が必死の形相で突っ込んでくるところ
だった。
 間に合わないと判断したライトは3塁に向かってボールを投げる。
 サードがグローブを構え、湧井が3塁に突っ込んでいった。ザザッと砂埃が立ち上がって
一瞬しんとした空気がグランドを包んだ。
 息を呑む。誰もが注目する審判の手が横に広げられた。
「セーフっ!!」
豊山南高の応援席が歓喜に割れた。耳を劈くような興奮が応援席から押し寄せてくる。
観客もまた、諦めてはいなかったのだ。
 諦めない限り、自分はやれる。ベンチがどれだけ重い空気を醸し出そうが、彰吾はそれを
払拭してやるつもりだ。
「青木ー!行けー!」
「ホームラン!ホームラン!」
「ショーゴ!いったれー!」
応援席やベンチから自分に向けて声が掛かる。
 彰吾はもう一度だけ目を閉じた。
「うっしゃ!やってやる!」
ネクストサークルで彰吾は自分を奮い立たたせると、バッターボックスへと向かう。
 1塁の黒田、3塁の湧井。自分が全部返す。狙うのはただ一つ。彰吾の目はぎらぎらと
闘志で燃えた。








 試合は劇的な演出を用意して幕を閉じた。
ラストバッターとなった彰吾は、狙ったボールを見事にライトスタンドに運んだのだ。
ガッツポーズで高らかにダイヤモンドを回る彰吾を、ホームベースで湧井と黒田が待った。
 帰ってくる彰吾に歓声と賞賛の声がスタンドから降り注がれる。彰吾がホームに帰還すると
メンバーが頭や肩を叩き合って喜んだ。
 湧井は坂井がセカンドで崩れているのを尻目に彰吾達と抱き合った。
豊山南高校は強豪K高に勝ったのだ。勝利を信じた者達だけの手で。







 彰吾のさよならスリーランで7-6。
しかし奇跡的な勝利で興奮が冷めなかったのは応援席だけだった。
整列を終えロッカールームに帰る頃には湧井の興奮はすっかり元に戻っていた。試合を
振り返れば手放しで喜んでいられるわけは無いのだろう。
 ロッカーに仕舞ってあった鞄にタオルを乱暴に投げつけると、湧井は回りに聞こえるほど
大きな声で溜息を吐いた。
 そのたった一つの出来事で、浮き足立っていたメンバーからも笑顔が消えた。一瞬のうち
に、部屋がしん、と静まる。
 しゃべりかけていたメンバーも口をつぐんだ。最後の最後だけなのだ。しかも、ごく一部
のメンバーだけがその勝利を信じていた。
 湧井、黒田、そして彰吾。彼らの気持ちが途切れていたらこの試合は落としていた。彼ら
は諦め始めていたベンチを無視して自分の信念をひたすら貫いたのだ。
 彼らのその気持ちだけが勝利を引き寄せた。湧井は回を重ねるごとにベンチの勝利への心が
離れていったことに腹を立てていたはずだ。
その決勝のスリーランを打った彰吾ですら、浮かない顔をしている。
「撤収!」
湧井の声はひどく荒れているようだった。誰もがその声を耳を痛くしながら聞いた。
「帰ったら、部室集合!」
湧井は荷物を纏めると乱暴にロッカールームを出て行く。続いて黒田が無言で後にした。
「・・・・・・俺達も行くぞ」
海野が鎮痛な顔をしながら残りのメンバーに声を掛けた。
 どうして勝利の後味がこんなに不味いんだろう。この状態でどうして勝てたのか、陽斗は
その勝利が夢のような気がして仕方なかった。
 歩は帽子を目深に被ったまま、ロッカーの隅に蹲っている。颯太は憤りが収まらないのか
乱暴にバックにユニフォームを突っ込んでいた。
 彰吾が陽斗の背中を押す。
「彰吾先輩・・・・・・」
「それなりの覚悟はしておいた方がいいと思うよ」
K高に勝利した日、豊山南高校野球部は崩壊寸前だった。





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