なかったことにしてください  memo  work  clap




「黒田?」
呼ばれて振り返れば、そこにいたのは顔を歪めたままの海野瑞樹だった。
「ウッス」
早朝、土曜日のグランドはまだ誰もいない。黒田は荷物を持ったまま誰もいないグランド
を1人見つめていた。すっと伸びた身長が眩しい。
 その背中に声を掛けたのが海野だったのだ。
黒田の背中は何時だって同じだ。辛いことがあっても嬉しいことがあっても、何も背負って
いないようで、全て分っている雰囲気を醸し出していると、海野は思う。
 こういう人間は溜め込んで自滅してしまうのではないかと心配にもなるが、黒田は今まで
も、のらりくらりと問題を回避してきた。
 自分のコントロールが上手いのだろう。振り返った黒田の顔を見て、海野は少しだけ安心
した。少なくとも、湧井に引っ張られて、黒田までマイナスの気持ちを背負っているわけでは
なさそうだ。
「・・・・・・大丈夫?」
「何が?」
「何がって、湧井の事。昨日あれから部室戻ってくるかと思って待ってたけど、何時まで
経っても帰ってこなかったし。・・・・・・大丈夫なのか、あいつ」
黒田は、海野を見下ろしながら軽く頷いた。大丈夫、という意味なのだろう。
 黒田は口数こそ少ないが、洞察力も判断力も優れてると海野は思っている。その黒田が
湧井を追いかけて出て行って、ちゃんと湧井のことを見て大丈夫と頷いているのだから、
それを信じるしかない。
「湧井の凄いところは、一日経てば大抵の嫌な事は忘れる」
「そうだけどさ」
「あいつのスイッチは単純に出来てる。ONとOFFしかない」
「単細胞みたいな言い方だなあ、それ」
海野は黒田の台詞に思わず笑った。海野自身、その言葉には納得できる。湧井は問題をずるずる
と引き摺って、状態を悪くするようなことはしない。
 気持ちを爆発させたら、それで終わりだ。何時だってそうだった。例え試合で負けた時
だって、綺麗さっぱり更地にして、湧井は直ぐに立ち直ってきた。
 気持ちの切り替えが上手いのか、単細胞なのか、海野にも時々分らなくなるくらいだった。
「大丈夫。湧井は心配ない」
そう言い切った黒田に海野は安堵する。黒田が言うのなら、本当に大丈夫なのだろう。けれど
黒田の言い方にはどうも引っかかった。
「湧井は心配ないって・・・・・・」
見上げた海野に、黒田は少しだけ顔を歪ませた。
「1、2年のバッテリーの方は、どう化けてくるか分らない」
黒田の台詞に海野は納得しながらも深い息が漏れる。
前日のK高戦は、辛勝だった。接戦を制したといえば聞こえは良いが、実際のところ、足
を引っ張っていたのは自分達のチームメイト、しかもエースやバッテリー達だった。
「確かにね・・・・・・。立ち直ってくれればいいけど」
昨日のミーティングの中で、彼等はそれぞれに自分犯した過ちを自覚したはずだ。反省も
しているだろう。
 けれど、それを克服して立て直していけるかといえばそれはまた別問題だ。分っていても
制球が乱れる時だってあるだろうし、反省しても上手くいくとは限らない。
 次の戦いまで時間はそんなに沢山あるわけではない。湧井の電源スイッチみたいにパチン
とON/OFFを切り替えられるくらいの気持ちが無ければ、次の戦いは厳しいだろう。
「皆、湧井みたいだったら楽なんだけどね」
海野が苦笑いしながら言う。
「皆が湧井みたいだったら、誰も言う事聞かなくてチームが崩壊する。湧井みたいなのは
1人いれば十分だ」
「・・・それもそうか」
黒田が本気で言うので、海野は笑うしかなかった。
「あー、今日も暑い一日になりそうだな」
「4回戦まで時間が無い。湧井は今日も飛ばすだろうな」
「うげえ、ぶっ倒れそう」
海野が熱くなり始めた日を仰いでいると、後ろからメンバーの声が聞こえてきた。
 部員が続々と集まってくる。今日も長い練習の一日が始まったのだった。






 練習後、陽斗は汗まみれの頭を水道の蛇口に頭を突っ込んで、頭を冷やしていた。生ぬるい
水は心地よいとまでは言えなかったけれど、それでも十分生き返る気がした。
 湧井は昨日の激怒が嘘のように、陽斗に接してきた。何時までも引き摺って次の試合に
影響させてはいけないのだと、陽斗もその態度を見て気持ちを切り替えていく事にしたの
だが、やはり湧井のようにすっぱりと切り返せないのも事実だった。
 歩への謝罪は未だに出来ていない。自分1人が傷ついた気分になって、歩まで傷つけた事
に陽斗は胸が痛む。
 歩の事が好きだからこそ、それは一層大きくなって、陽斗の心にちくちくと刺さる。
結局、今日も歩とは一言も会話を交わせていない。目が合いそうになる瞬間に、陽斗が
その視線を避けてしまうか、歩が素通りしてしまうかどちらかで、微妙な距離を保ったまま
日が暮れてしまったのだ。

「は、る、と!」
水道に頭を突っ込んでいると、背中から名を呼ばれた。陽斗は蛇口を止めて、びしょびしょ
の頭のまま顔を上げた。
 しぶきが周りに飛んで、声を掛けた当人は、冷たいと顔を顰めている。
「あ、彰吾先輩。お疲れです」
陽斗はタオルで頭や顔を擦りながら声を掛けてきた当人――彰吾に挨拶をした。
 彰吾の顔も汗まみれで、陽斗と入れ替わるように、頭から水を被る。
「あー、今日も疲れた」
「はい」
「あっついな、ホント。陽斗、バテてない?」
「大丈夫です」
「そう。ならいいけど」
彰吾は蛇口から頭を上げると、短く刈り込んだ頭をぶるぶると振った。水しぶきが陽斗の
方に飛んでいくと、にやりと笑って
「おかえし」
と言う。
 陽斗は思わず苦笑いした。
「先輩のそう言うところ、嫌いじゃないですけどね・・・・・・」
陽斗はそのまま、彰吾がタオルで頭を擦りあげる姿を見ている。
 彰吾は昨日のあのミーティングで特に何も口にしなかったけれど、K高戦、さよならの
スリーランホームランを打ったことを考えると、確実に自分とは違うスタンスであの場に
いたんだろうと、陽斗は思う。
 諦めかけていた自分と、勝利を掴み取ろうとしていた彰吾。でも、彰吾はそのことについて
何も言わなかった。
 彰吾自身、湧井や海野が自分の思っていることを全て言ってくれたから、それ以上は言う
必要ないと感じたからだ。
 それよりも、彰吾はこんな風になってしまった陽斗や歩、颯太の方が心配だった。
 陽斗は彰吾のその優しさに申し訳なく思う。元は自分の引き起こした勘違いの所為だ。
1人で浮かれて、1人で傷ついて、そして自分勝手な振る舞いで歩を絶不調にさせた。それ
だけではない。チームの雰囲気を悪くして、足も引っ張った。
 全て自分が原因だ。
 陽斗はタオルを被ったまま、彰吾に声を掛けた。
「あの、彰吾先輩・・・・・・・」
「何?」
「彰吾先輩は、マネージャーと・・・・・・彼女と喧嘩したりしないんですか?」
「何、いきなり」
「いえ、その、ちょっと気になって」
陽斗の顔は見えない。彰吾は声のトーンがいきなり暗くなった陽斗の心境を察しようとした。
「するする、よくするよ」
「え?」
「喧嘩でしょ?しょっちゅうしてるよ。俺よく約束とか忘れちゃうし。野球の事になると
他の事どうでもよくなっちゃうし」
意外という顔で、陽斗の視線が自分に絡む。
「どうやって、仲直りしてるんですか?!」
「どうやってって・・・・・・。普通に謝ると、ノリちゃんが、怒りながら許してくれるかなあ」
陽斗はやや当てられた気分で、肩の力を落とした。
「野球に集中できないくらいの喧嘩とかしないんですか」
「どうかな。すごく大きな喧嘩したことは、2、3回かあったけど、試合中にそのこと思い
出して、エラーしたり、三振したりしてきたら、それこそノリちゃんにバレて、その後の
事の方が怖いからな」
「バレるって」
「彼女だって、伊達にマネージャーやってるわけじゃないよ。ノリちゃん、本当に野球大好き
だし、男だったら絶対一緒にグランドに立ってたって言うし。よく見てるよ、みんなのこと。
だから、俺がちょっとでも試合に集中してなかったら直ぐ分ると思う」
そう言うものなのだろうか。確かに、歩の調子が少しでもおかしければ自分には分る。けれど
他のメンバーに対して、そこまで洞察力をもって見られるかというと、自信はない。マウンド
に立っていれば、雰囲気なので分るかもしれないけれど、ペンチで見ているだけで、他人の
状態を確認できるのは、流石マネージャーだと思う。
「じゃあ、彰吾先輩は、彼女と喧嘩してても試合に集中出来るんですか・・・・・・」
「そりゃあ、試合中頭を何度かよぎる事はあるよ。完璧な人間なんているわけ無いし。3時間
近くずっと集中し続けるなんて、それこそ無理だ」
彰吾は、陽斗の頭の中にある思いに直接話しかけるような気持ちで言った。
「だけど、そこで自分に負けたら、試合には勝てないからね。そう言うときは、忘れる事
にしてる。不自然でも意識的に忘れる。思い出しそうになったら、バッテリーを凝視したり、
スタンド見上げたり、期待してる周りの人間見て現実を引き寄せるんだ。そうすれば、自分
の中で燻ってる問題は自然と小さくなるよ。大体そう言う問題は2、3時間くらい先送りに
したって、死にはしないだろ」
「そりゃあそうですけど。そんな上手く行くもんですか」
「だって、試合は今集中しなければ、それで終わりだ」
彰吾は少しだけ語気を強めた。陽斗はその言葉が心に刺さる。それで終わり。その通りだ。
 瞬間の甘さが命取りになる。マウンドに立ったら最優先しなければならないことは、試合
に集中する事なのだから。
 彰吾は硬直する陽斗に続けた。
「マウンドに上がったら投手は誰でも孤独と戦わなければならない」
「?!」
「中学の時の先輩――湧井先輩達の代のエースピッチャーが言ってた台詞。ピッチャーって
特殊なポジションだと思う。俺達野手ですら、ピンチの場面が来れば緊張するし、集中して
無ければダメになってしまうんだから、ピッチャーなんてプレッシャーの掛かり方は半端じゃ
ないと思うよ。・・・・・・それを克服するのは並の精神力じゃダメだ」
「・・・・・・はい」
「でもさ、陽斗なら出来ると思うよ」
「え?」
「陽斗は強いよ。俺、分るよ。いつもニコニコ笑って軽そうに見えるけど、中学時代エース
背負ってやってきたって事はある。ピンチでも絶対負けないってそう言う気持ち持ってる
こと分るよ」
「彰吾先輩・・・・・・」
彰吾は陽斗の頭に掛かるタオルを引っ張って、それで完全に陽斗の顔を隠した。
「一つだけ。・・・・・・俺は、陽斗が歩と何があったのか知らないし、詳しくも聞くつもりは
ない。でも、陽斗も歩もうちにとって大切なピッチャーで、どっちも失いたくない。落ち込んで
うじうじしてたくなる気分も分らなくも無いけれど、4回戦はもうすぐそこなんだ。俺が
一つだけアドバイスできるっていうなら、陽斗の中で起きてる問題は、先送りにするべきだ。
それでどんな事を思われても。今は忘れる、それだけかな。・・・・・・陽斗になら出来るよ」
彰吾はそれだけ言うと、その場から去っていった。
 残された陽斗は顔を上げることが出来なかった。







 練習が終わって、湧井が最後に部室から出てきたところを歩は待っていた。日は暮れて
当たりはすっかり暗くなっている。
 暗闇の中で突然飛び出してきた歩に湧井は少し驚いて足を止めた。
「湧井先輩・・・・・・」
「わっ!・・・・・・なんだ、タカラか」
「・・・・・・」
湧井の声は、練習で疲れている様子もなく明るかった。
「っ、なんだ、そんな浮かない顔して!お前のチャームポイントはマウンド降りたらオーラ
ゼロだろ!」
「は、い?」
「だったら、負のオーラも出すんじゃない」
湧井は自分より更に小さなエースのデコを思い切り弾いた。いつも通りの湧井に歩は改めて
自分の小ささを感じる。この人はもう既に、前を向いている。どこまでもポジティブな人間
なのだろう。
「・・・・・・すみませんでした」
歩はデコを抑えながら、頭を下げた。
「タカラにしては珍しく、頭使ったか」
「先輩・・・・・・ひどいです。一生懸命反省したっていうのに」
泣き言で顔を上げると、湧井は笑っていた。
「もういい。わかればいい。次の登板で、タカラが最高のピッチングすれば全部なかった
ことにしてやるよ」
湧井はもう怒ってはいなかった。自分が悩んで抜け出せないでいる間に、湧井はもう立て直して
自分の前に立っている。
 それが湧井の強さだ。チームを引っ張っていく強さ。歩が惹かれたかっこよさ。豊山南に
入って、湧井のチーム造りがどれだけ魅力的だったかを歩は改めて痛感する。
 歩は湧井と並んで、駅までの道を歩いた。
「先輩・・・・・・」
「何だ?」
「俺、陽斗に嫌われたくないんです」
「は?」
「自分でもよくわかんないんですけど、とにかく、陽斗に嫌われたくないってそればっかり
考えてました」
「う、ん?」
「そしたら、自分でも自分のボールがよくわからなくなって、試合にも集中できなくなって」
K高戦の前日の事だ。陽斗との勘違いが発覚して、ショックを受けたのは確かだけれど、その
ことで、陽斗から拒絶された事にもっと傷ついた。
「今でもそう思うのか?」
「え?」
「今でも、山下に嫌われたくないって思う?自分の投げた試合ぶち壊されて、マウンド引き摺り
下ろされて、その原因が山下だとしても、嫌われたくないって思う?」
湧井の問いに、歩は少しだけ黙った。考えているというより言うのを躊躇っているようにも
見える。
「悔しいです。でも陽斗の所為じゃないし、やっぱり嫌われたくないです・・・・・・」
ぼそぼそと呟く歩に、湧井は羨望の眼差しを向ける。自分の気持ちに素直になれるのは、
例えこんな状況でも湧井には羨ましかった。自分には出来ない。黒田への思いは5年以上の
間、封印したまま自分の中にある。
 それを出した陽斗にも、悩んでいる歩も、翻弄されている颯太にも、湧井は羨ましさと
悔しさを感じていた。
「試合中に」
「はい?」
「試合中に、それ考えるなよ」
「・・・・・・」
「その気持ちをどうこう言うつもりはないけど、試合中に二度と考えるな」
思わず冷たく言い放ってしまった台詞に、歩は小さく頷いた。
 小さなわだかまりはまだ残ったままになった。







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