なかったことにしてください  memo  work  clap




 他人の気持ちには敏感で、自分の気持ちには臆病で、そのくせ自分に向かってくる気持ち
にはおかしいほど鈍感。
 3人が似ている部分があるならそこだと、あのチェリストなら指摘するだろう。





 薄暗い照明の中、スポットライトに照らし出されている青年達を武尊は不思議な気持ち
で見ていた。
 自分よりも若く才能のある人間。まるで別の人種みたいだ。武尊はチェリストの奥に控えめ
に座っている湊を見詰めた。
 チェリストの名は松下満と言って、その世界では有名なのだという。名前をどこかで
聞いたこともあるような気がしたが武尊は知らなかった。けれど、その演奏を聴いて、湊
の言っていた事は本当だったと理解する。満の演奏は一瞬で人の心を持って行く力がある
と武尊は思った。チェロの深い音が心地よかったり、不安にさせたり、妖艶な音に酔わされたり
一度その音を追いかけ始めたら目が離せなくなるのだ。
 武尊は何も考える事ができず、初めの3曲を唖然として聞いた。
 そして、4曲目に聞き覚えのあるメロディが流れてきて武尊は我に返った。
「メリークリスマス、ミスターローレンス」
台詞が浮かぶ。いつか見た映画。レンタルビデオ屋で借りて、部屋で見た。あれは誰と見た
んだろう。ストーリーもその時の情景もおぼろげなのに、ピアノの音だけは鮮明に心に残っ
て、何時までも武尊の中を駆け巡っていた。
 ピアノの切ない響きに青春時代の懐かしさが重なり合って、胸が熱くなった。
チェロの奥でスポットライトに照らされた湊の指がピアノの上を滑っていく。白く長い指
が際立って、綺麗だった。
 武尊にはこのチェリストと湊のレベルにどれだけの差があるのかなど、分りもしない。
2人とも十分に上手くて、自分を満足させてくれる。
 日々のしがらみを忘れ、自分を取り巻く環境や問題も忘れ、音と溶け合った。脳内に心地
いい刺激が踊る。
 ふと隣を見ると、自分と同じ様に食い入るように湊を見詰めている姿があった。紺野だ。
湊の誘いを受けて素直に会場に来たらしい。場違いのように突っ立っていたところを武尊
が声を掛けて、何となく隣に並んだ。
 何人かの客に振り返られて、紺野はバツの悪い顔をしていたが、けして帰ろうとせず、
コンサートが始まるのを静かに待っていた。
 武尊も紺野も雑談をする気にはなれなかった。時々紺野が探るような目つきで武尊を
見ていたが、武尊はそれすらも無視した。

 ピアノの音にチェロのメロディが加わった。濃厚なチョコレートが溶けるようにまったり
と心に沁み込んでくる。
 紺野の身体が僅かに揺れた。薄暗い照明の中でも金色の髪の毛は発色しているように
目立つ。その髪の毛で顔を隠す様にしてはいるが、眼差しの強さまでは隠しきれていない
ように思えた。
 紺野はひたすら、湊を見詰めている。

「あ・・・・・・!」
大量の風が頬にぶち当たって来る刺激に似ている閃きだった。目の前の扉が開けたように
思えた。
 直感的に武尊は紺野の気持ちを見つけてしまったのだ。
 何故、転がり込んできた先が湊だったのか。何故、こんなにも湊を見詰めているのか。
惹かれているんだ。あの手に。そして湊に。
そう思うと、苦笑いと痛みが武尊を支配した。
武尊は、未だゲイの存在を理解しきれない。彼らは身近にないものと思っていた。ゲイ
などという人種は未知のもので、自分の人生に係わり合いの無いものだと思い込んでいた。
男が男に惹かれるなんていう考えなど持つことなどありえなかったのに・・・・・・。
 どうして紺野の気持ちに気づけてしまったのだろう。
「湊君、君の所為だ・・・・・・」
湊と出会わなければ絶対に紺野の気持ちに辿り着くはずもなかった。今でも、彼らを理解
しようと思っていない。けれど、前ほど湊への壁を作ってないのも事実だし、湊に対して
嫌悪もない。
 そうだ。嫌悪感を持ってないのは、ゲイに対してというよりも、湊に対してだ。
 ひどく酔っ払って目覚めた次の朝、腕の中にいた湊の柔らかさに感覚が麻痺してしまった
のだろうか。確かにあの日から自分の中で湊のポジションはどこに置いていいものか、
分らなくなっている。友達でも恋人でもなく、同居人というカテゴリーに括り付けるのには
味気ない存在。不思議な子だ、彼は。
紺野が湊に惹かれるのも分る気がする。元々紺野もゲイなのか知る良しも無いけれど、一緒
にいるだけでこんなに心地いいのだから、紺野が湊の事を好きになってもおかしくは無い
と思った。まるで自分まで湊に惹かれているような苦い思いがこみ上げた。



 大音量の拍手で戦場のメリークリスマスは終わった。舞台のチェリストは振り返って湊に
声を掛けている。満足げに笑うチェリストと、それをはにかみながら受け答える湊。その
姿に更に拍手は大きくなる。息のあった演奏はこんなにも気持ちがいいのだと客も思い知った
ようだった。
拍手が止むと、急に現実に引き戻されて、押しやっていたものがぐるぐると頭の中を
巡り出した。
 娘の呼ぶ声がしている。悲しそうな声で「パパ、パパ」と泣いている。けれど、直ぐに
自分を呼ぶ声は消えて、遠くで他の男と笑い合っている姿に変わった。
 妻がその隣で微笑みながら寄り添っている。
そこは、その男がいるポジションは自分のはずなのに・・・・・・。
何故自分はこんなところにいるんだろう。本気で取り戻したいのなら、ここでぬくぬくと
丸まっていいはずない。
 ・・・・・・自分は本当にそこに戻りたいんだろうか。
沸いてきた疑問に背筋が冷たくなった。その拠り所をなくしてしまったら、自分が今ここに
いる意味をなくしてしまう。
 帰りたくても帰れないからここにいるんだっていう前提を崩したら、何を言い訳にここに
いればいいんだろう。


チェリストが壇上でしゃべっている。営業マンのようなスマイルを湛えて滑らかにしゃべって
いるが、武尊の耳には素通りしていくだけだった。
 世界ツアーで今度帰って来るのは二年後だとか、そんな話をして次の曲になった。
 次の曲も聞き覚えのある曲だった。映画の主題歌だったはずだ。パンフレットに目を落とす
と「when I fall in love」とタイトルが付いていた。その下にチェリストの注釈が載って
いる。『何度もカバーされたジャズの名曲です。”恋をするなら永遠に。でなければ恋など
しない”短絡的だと取るか情熱的だと解釈するかはあなた次第。ところで、あなたの恋は
どうですか?永遠に落ち続けてますか?それともこれから落ちるところですか?』
 恋、そう問われて武尊は苦笑を浮かべた。家族は大切で、娘は愛おしい。他人に取られ
そうになれば嫉妬するし、かけがえの無い存在には違いない。
 今は、 妻に対する気持ちは、恋とは別もののような気がする。
初めから狂おしいほど恋焦がれた相手ではなかったけれど、それが自分の恋の仕方なのだ
と思っていた。
けれど、穏やかな気分になれるのが自分の恋だとすれば、今のこの生活、湊との生活と
の方がずっと「恋」に近い。
 湊に対して恋なんてあってはいけないのに。自分はそんな人種じゃないのに、気持ちが
あやふやになっていることに、武尊は愕然とする。
 恋なんて、ずっと昔に忘れたはずだ。

「When I fall in love
It will be forever
Or I'll never fall in love」

 顔を上げると、湊はマイクに向かって歌詞を口ずさんでいた。そして瞬間その湊の視線
と自分の視線が絡み合って武尊は痺れた。
 先に目を逸らしたのは武尊で、泳いだ視線の先には金髪の紺野の姿があった。
彼は、自分が忘れたはずの感情を滲み出しながら湊を見詰めていた。






 湊が家に着いたのは11時を過ぎていた。玄関に電気が点いている。待っている人がいる
生活に、湊はくすぐったくなった。
 疲れは心地よく、玄関の扉は軽かった。
「お疲れ様」
「あれ、起きてたんだ」
リビングでは武尊と紺野が湊を迎え入れてくれた。紺野はソファに埋もれてテレビを見て
いる。武尊は自分で淹れたらしいお茶をダイニングテーブルで飲んでいた。
「勿論。あんな凄いライブの後で直ぐになんて眠れないですよ」
「僕も久しぶりに興奮したなあ。やっぱりプロは凄かった」
「湊君も十分凄かったですよ。歌まで歌うなんて」
「あれは満が無理矢理歌えってマイク向けてくるから・・・・・・大学時代、声楽の授業苦手で
何度も挫折しかけたくらいなのに」
「とっても情緒的でよかったですよ」
そう言われて、感情が篭ってしまったのが伝わっているんじゃないかと思った。湊は武尊
の顔がまともに見れなくなる。
「そう、かな。なんか、夢中になって」
湊は自分の中にあった感情を改めて意識した。この人が好きだと思うと会話さえもぎこち
なくなった。
「紺野も、本当に来てくれたんだね。びっくりした」
紛らわすように紺野を振り返れば、紺野は不機嫌そうな顔をしていた。
「・・・・・・どうかした?」
湊の質問は紺野の中に芽生え始めていた憂鬱を形にすることになる。
「あんたさ、何見てた?」
「何って・・・・・・」
「歌ってたとき、何見てたんだ」
いきなりの紺野の指摘に湊は顔中の筋肉が張り付いた。笑顔のまま紺野を見返すが、内心
見透かされているようで、心拍数は上がりっぱなしのままになった。
「・・・・・・誰見てた?」
「お、お客さんが、たくさんいるなあって」
「誰か探してたんじゃねえの?」
誰か、が武尊に聞こえた。武尊を振り返りそうになる。武尊はこの会話をどんなつもりで
聞いているだろう?
「追っかけてたように見えたけど?」
ばれている。どうして紺野に武尊を探していた事を悟られているんだ?
 湊は紺野の想いを知らない。自分を見詰めていた理由を知らない。知らないから、心を
見られた恐怖だけが残る。
 湊は適当な言葉で壁を作った。
「違うよ。こんなにたくさんの人の前でプロのチェリストと演奏するなんて始めてだった
から、どんな風に見てるんだろうって」
「ふうん」
紺野は全然納得していな表情で頷いた。それで会話は途切れると、リビングは沈黙になった。
 エアコンのこうこうと吹き出る音でさえはっきりと聞こえた。





 沈黙を破ったのは武尊の携帯電話だった。

pipipi・・・・・・

 場に相応しくないメロディが3人の間に流れる。かわいらしい元気一杯のメロディは、この
重くなった空気を無視してなり続ける。そして3人ともそのメロディで、電話の相手が誰で
あるか察した。
 壁に掛かった時計を見上げると12時近くを指している。湊は眉を顰めた。普通なら掛かって
来ない相手から、こんな時間に掛かってくる電話は大抵よくないものに決まっているのだ。
 武尊は固まって電話を見詰めている。迷っているというより、恐れているように見えた。
「・・・・・・」
「早く出た方がいいと思うよ」
湊の声に、武尊の身体がぴくりと跳ねた。振り向けば、湊も険しい顔をしている。
 出ないわけにはいかないだろう。武尊はダイニングテーブルの上においてある携帯電話に
手を伸ばした。
 相手は見なくても分る。このメロディは妻の携帯電話か、自宅のどちらかだ。どちらに
しても、こんな時間に掛けてくるのは妻意外ありえないだろう。
 武尊は緊張を悟られないように一呼吸置くと、漸く通話ボタンを押した。
「はい・・・・・・」
「・・・・・・もしもし・・・パパ?・・・・・・パパ?!」
「・・・・・・優衣?!」
電話口で幼い子どもの声が響いた。武尊はてっきり妻からだと思っていた所為か、次の一言
が出ないでいる。
「パパ?・・・・・・ねえ、パパでしょ?」
「優衣・・・どうして」
「ねえ・・・パパっ・・・・・・早く来て」
「どうしたの」
「ママが・・・・・・ママが死んじゃう」
娘の悲鳴に似た声が武尊の耳の中をびりびりと刺激する。娘は今、なんと言った?
 何があった?死んじゃう?それは何だ?!
パチン、と何かがはじけた気がした。
「優衣、どこにいる?!」
「おうち」
武尊は立ち上がると、リビングのソファに置きっぱなしのコートに袖を通す。それから
机の上の鍵や財布をコートのポケットに全て突っ込んだ。
「ママは?どうしたの」
「ママ、うーうーって苦しそうに床で転がってるの・・・・・・ねえ、ママ死んじゃうの?ねえ」
「大丈夫、直ぐ行くから、待ってなさい」
武尊は湊を振り返って、軽く頭を下げるとそのまま家を飛び出していった。
 後に残された湊と紺野は呆然とそれを見送るしかなかった。



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