「紺野・・・?」
リビングで紺野を見送ってしまった湊は、不安な顔で武尊を見上げた。
追いかけるべきか迷う。けれど、今飛び出して行ったところで紺野を見つけられる自信
はない。湊には紺野が行きそうなところなど分りもしなかった。
紺野の生活を湊は全然分ってなかったことに愕然とした。紺野はこの家にいるとき以外
どこで何をしているのか、湊は干渉しないつもりでいたけれど、それが紺野にとって本当
によかったことなのか、今更ながら悩んでしまう。
「どうしよう」
戸惑う湊を見て、武尊は思った。自分がいない間、2人に何かあったのだろうか。コンサート
の時の紺野の態度を見れば、紺野が湊を想っていることは間違いないだろう。
自分がのこのこ帰ってきた事を紺野が喜ぶはずは無い。
武尊は紺野が怒りに任せて出て行った理由を薄々感じながらも首を振った。
「1、2時間くらいすれば、ふらっと帰ってきますよ、きっと」
湊は半信半疑な瞳で武尊の言葉を受け入れようとしている。それを見て、武尊は湊に見えない
ようにこっそりと拳を握り締めた。
ずるいなと思う。けれど、武尊は湊を探しに行かせたくなかった。
「そう、かな・・・・・・でも、どこ探していいか分んないし、とりあえず待ってみる」
「それがいいと思いますよ」
「うん。それにおなか空いたしね」
「そうですね」
湊は玄関に後ろ髪をひかれながらキッチンに向かった。ここで紺野を待っている選択が
正しいのかまだ迷っているようだ。その背中を見て武尊は紺野に対して少しだけ罪悪感を
持った。
気持ちの大きさで言うなら、自分よりもはるかに紺野の方が湊を思っているはずだ。ただ
武尊も、今は隣に湊がいてほしくて、その背中を押せなかった。
自分は寂しさを埋める為に湊を欲しているだけなのに。紺野の怒りと失望の視線が武尊
に鈍い傷をつけたけど、初めからズタズタになっていた武尊を突き動かせるほどの威力は
なかった。今、誰かの為に気持ちを割いてやるほど、心に余裕はない。
湊をここに繋ぎとめた事の罪悪感は、自分の傷の大きさを引っ張り出して、勝手に正当化
することで掻き消した。
2人きりの食事は、紺野とは違って険悪な空気は無かったけれど、出会った当初を思い出す
光景で、湊は余計に切なくなった。
あの時も湊は傷ついていた。終わった恋の穴を埋めたくて、失恋の痛みを癒す為だけに
武尊を拾って、結局それだけじゃ収まらなくなった。
今思えば、あの日、橋を渡って差し向けられた傘に入ってしまった時から、湊は武尊を
意識していたような気がする。
理由を付けて必死で否定していた想いは、その枷を取り外した事で、自分でも制御出来ない
ほど膨らんだ。
けれど湊から伸びていくベクトルは武尊に向かって、その手前で折れている。受け入れて
もらえるはずの無い想いは、2人の間で窒息しかかった虫のようにバタバタと足掻いていた。
「今日は寒いね」
「そうですね」
「エアコンでも付ける?」
「そうですね」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
流石に口数は少なかった。車の中でも殆どしゃべれなかった。口を開けば、きっと聞いて
しまうだろう。武尊の家庭事情、帰ってきた理由。そして自分の気持ちも零してしまい
たくなる。
口から想いが溢れないように湊は夕食を詰め込んだ。
夕食の片づけを済ませてリビングを見ると、武尊はいつも通りソファに座っていた。けれど
いつもと違う事は、テレビを見るわけでもなく、読書もせずに俯いてじっとしているという
ことだ。
ここから見ても武尊が落ち込んでいることなど一目瞭然だった。でも、湊はまだ武尊に
声を掛ける勇気が持てなかった。
だから、湊もいつも通りピアノの前に座って、生徒の教材に使うための曲を探し始めた。
次の練習曲を何にするか決めなければならない生徒が2人ほどいる。2人ともやる気があって
教えがいのある生徒だ。やる気のある生徒の曲を選ぶのは楽しい作業なのに、シューマン
とモーツアルトの何冊かをぺらぺら捲っただけで手が止まってしまった。
その代わり、深夜に近所迷惑も省みず、憂さ晴らしのようにショパンの革命エチュード
を速弾きした。最後の和音を強制終了のように叩きつける。演奏に価値をつけるなら、弾く
だけでマイナスになるような酷い演奏だった。
弾き終わると椅子に方膝を上げて、そこに顔を埋めた。音符の波が嵐のように吹き去る
とやっぱり頭の中には武尊のことで一杯になってしまった。
武尊は何故帰ってきたんだろう。紺野は何故出て行ってしまったんだろう。
どちらの気持ちも湊には分からない。相手の気持ちを考える事はこんなにも難しい事
だっただろうか。
自分の気持ちに盲目的になってるとは思いたくないけど、頭を占めるのはやっぱり武尊
の事だ。それが武尊の気持ちも紺野の意図も見えなくしてる。
湊は豪快に溜め息を吐いた。
と同時にソファからも武尊の溜め息が聞こえる。溜め息が見事にハーモニーを作り出
して、お互い同時に顔を合わせた。
目が合って思わず苦笑いする。このままでは窒息死してしまう。痛みの中に溺れかかって
いる事は分ってるから、2人とも観念してガードしていた壁を崩した。
「・・・・・・隣、行ってもいい?」
「どうぞ」
武尊の隣に座るとソファがぎしっと唸った。
思ったよりも距離が近くなって、湊の左肩が武尊に当たる。けれど、湊も武尊も無理に
離れようとはしなかった。
呼吸する音も、武尊の喉の動きもはっきりと分る。いつか酔いつぶれて武尊に抱きしめ
られながら眠ったあの距離と同じだけ緊張した。
先に切り出したのは武尊だった。
「湊君が落ち込んでるのは、紺野の事?」
それ以外に武尊には湊が落ち込んでいる原因を見つけられない。武尊は、湊が自分のことを
想ってナーバスになってるなど思ってもいなかった。
人って、どうして想ってくれる気持ちには鈍感なんだろう。そう言う湊も自分を想う紺野
には気付かないのだから、想いはいつまで経っても一方方向だ。
本心を言うべきじゃないと湊は武尊の疑問を肯定した。
「紺野、どうしちゃったんだろう。武尊さんが出て行ってから、ずっと機嫌悪くて。何でも
話してくれる子じゃなかったけど、少しくらいは紺野の気持ち分かってるつもりだったのに。
紺野がどうしたいのか、さっぱり分んない」
勿論、紺野が出て行ってしまった事に不安を感じないわけじゃない。どうしたのか気になる
し、探しにいくべきか、今も迷ってる。
けれど、自分は紺野よりも武尊を選んでしまった。
「いきなり、あんな風に出て行かれれば、溜め息も吐きたくなるよ」
「そう・・・」
武尊にはそう思ってもらえばいい。武尊を想って辛いなんて、言える訳が無い。
「ホント、参るよね」
「・・・・・・」
湊は軽く言ったが、紺野の気持ちを察している武尊は、その言葉に眉を顰めた。気持ちは
どうであれ、紺野から湊を奪ってしまったのだ。
「そういえば、初めて会ったときも、お互い沈んでたね」
「そうだった」
「また、慰め合ってみる?」
湊は冗談で済ませられる余地を残してかすかに笑ってみせる。
「その傷癒すのに俺が必要?」
武尊は視線をまっすぐ前に向けたままそう呟いた。その空気が冗談で終わらせることを
拒んでいるようで、湊は苦しくなりながらも頷いた。
「・・・・・・うん」
「そう。俺も・・・・・・」
左肩が熱を帯びてくる。湊は震えそうになる拳を小さく握った。
「何があったか聞いてもいい?」
「うん」
武尊はゆっくりと湊を見下ろした。そして、顔を歪ませると、皮肉な笑みを浮かべて言った。
「妻が倒れたんだ」
「やっぱり、奥さんが・・・・・・容態は?」
「大した事はなかった、けど」
「けど?」
「・・・・・・妊娠してました」
「えっ!?」
湊は目を見開いた。表情を失くした湊に武尊は更に自嘲する。
「勿論、俺の子じゃありません。父親だと言う男に断言されたから」
本当にこれで武尊の家族は壊れるだろうと湊は思った。そうして、少しは自分に付け入る
隙が出来たと感じると共に湧き上ってくる罪悪感に心がヒリヒリと痛む。
武尊の家族が壊れなければ、自分の入る余地は無い。けれど、武尊の不幸を願う自分は
卑しい。そのジレンマで湊は揺れた。
「・・・・・・あの日、電話をくれたのは娘でした」
武尊は家に帰ってからのことを滔々と語った。
落ち込みすぎて自嘲するしかないのか、感情がついていかないのか、それとも、憤る事
すら疲れてしまったのか、武尊は抑揚のない声で話す。
「彼女は、とっくに自分に見切りをつけていたんだと思う。妊娠も、覚悟の上というより
俺の曖昧な態度に対する彼女の意志だったんじゃないかって。そこまでして別れたがってる
事に俺は気づけなかったし、修復しようなんて思っていた俺は随分間抜けだな」
「・・・・・・諦めたの?」
「諦めるしかないでしょう。でも、だらだらと思っていたから諦めるきっかけがなくて・・・・・・」
諦めるつもりがある。その言葉は湊の背中を押した。
武尊の妻とその男がしようとしてる事に憤りを感じた。
どうあっても自分は武尊の味方で、武尊を傷つけた事は許せることじゃない。それに
例えそれが彼女の意志だとしてもフェアじゃない。ずるい大人のすることだ。
良心が武尊の味方のままでいろと警告音を鳴らす。
その一方で、チャンスだと誰かが囁いた。
湊は膝の上で力なく開いている武尊の手に自分の掌を重ねた。
「諦めたいんだよね」
「・・・はい」
「きっかけ、欲しい?」
「え?」
「・・・・・・作ってあげようか」
これは賭けだ。どこまで自分を受け入れてもらえるか。
「湊君・・・」
武尊の喉仏が上下した。
湊は一拍置いて、武尊の顔を覗き込む。揺れ動いている瞳を捕らえるまでの無言の時間
がやけに長く感じた。
時計の針の音や、冷蔵庫の唸り声、壁が軋む音までも聞こえた。部屋中の物が、ざわつき
ながら武尊の出方を遠巻きに見ている。
背中を押しているのか、非難されているのか。
外野の声など、どっちでもいい。早く答えがほしい。
「・・・・・・!」
諦めかけた瞬間、重ねた掌の上に更に武尊の手が重なった。
「それは、湊君の言う『お互いの傷を癒す』ってことになる?」
「うん」
「俺の憂さ晴らしにならない?」
「うん」
「湊君の溜め息の理由は、紺野の所為?」
「・・・・・・うん」
最後の肯定は嘘だ。
「じゃあ、遠慮しなくてもいい?」
「え?」
「ゴメン・・・・・・」
武尊は呟くと同時に湊の手を思い切り引っ張って自分の中に抱え込んだ。
「!!」
強い力で抱きしめられる。酔っているわけじゃない。自分の意思で武尊に抱きしめられた。
「・・・・・・ごめん、今だけでいいから」
武尊の鼓動がダイレクトに届く。ごめんの意味は分らないけど、武尊は自分を受け入れる
つもりがある事だけは分った。
「武尊さん・・・」
「ゲイっていう人達のこと、湊君に会うまで快く思ってなかったんだ。今でもよく分らない。
だけど正直しんどくて。人肌が恋しい。湊君と傷を舐め合えるなら、それでもいい・・・・・・
軽蔑でもなんでもしてくれていいよ」
「しないよ。お互い、傷が癒えるまで一緒にいればいいって初めから言ってたでしょ?」
身体が繋がったところで、気持ちは繋がらない。その虚しさに襲われる事になっても、湊は
武尊と繋がりたいと思った。
湊も武尊の腰に手を回す。体を張り付けるとそこから熱が発生して、体温が上がった。
「お互い、ギブアンドテイクでいいんじゃない?」
自虐的な台詞を吐いて、武尊の背中を撫でた。
「・・・・・・そうですね」
武尊は返事と同時に湊の頭に唇を寄せた。
家の前をタクシーが通り過ぎて行く。ヘッドライトの明かりがリビングのカーテンの隙間
から光った。
たとえ誰かに覗かれても、湊はこの腕を放すつもりは無い。
無音の空間に服が擦れ合う。幻聴のように頭の中で母の得意なブラームスのラプソディ
が鳴り出した。
振り返ればきっと母親の置いていったベーゼンドルファーが、黒光りしてこちらを睨んで
いるだろう。
そんなの知るもんか。
湊は顔を上げると、武尊に噛み付くようなキスをした。
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