湊はそこで意外な人物に会うことになった。
「佐伯先生・・・・・・」
「高瀬君か!?」
警察署で紺野を引き取りに行くと、担当の警官の他にスーツ姿の中年男性が紺野の隣に座って
いた。それが佐伯教諭、湊の教育実習中の指導教官だった。
「先生までいらしてたんですか・・・・・・」
「俺、今こいつの担任だからね」
「そうだったんですか」
「全く困ったやつだよ。せっかく学校に来るようになったかと思えば、二日間も無断欠席。
喧嘩して警察のお世話になって迎えに来てみれば、親には連絡するなの一点張りだもんなあ」
「連絡されてないんですか?」
「したよ。するなって言われて了解してやれる状態じゃないからな。けど、肝心な母親には
連絡つかなくて、父親にまで連絡しちゃったよ」
佐伯はそこで豪快に溜め息を吐いた。
「お父さん!迎えに来ないんですか?」
「何日も前から帰ってきてない息子の事なんてどうとでもしてくださいだとよ。お前さ、
オヤジさんと話し合えって何回も言ってるんだけど全然俺の話聞いちゃいないなあ」
紺野の頭をグリグリ撫で回し、佐伯は湊を見た。
「それにしても家出先が高瀬君のとこだったとはなあ・・・・・・」
佐伯は微妙な顔をした。元教育実習生とは言え、教師の立場の人間が生徒を匿っていたと
なれば、学校側の責任問題にも発展するだろう。佐伯としてみれば褒められた行為ではない
に違いない。
湊は佐伯を直視できずに、頭を下げて目を逸らした。
「すみません・・・・・・。夜中にやってきて行くところが無いって言うので。無理に帰すのも
かわいそうだったので、学校に行く事と、親に自分の居場所を連絡する事を約束させたん
ですけど」
横目で紺野を見下ろしたが、紺野は俯いたままこちらを見ようともしなかった。
「先週までは学校には来てたんだけどな。無断欠席したとき母親にどうしたのかと連絡
入れたんだが、『ずっと家にいないんで、学校にも行ってないものだと思ってた』だと。
母親に家出先の事は言ってなかったみたいだな」
「そう、ですか・・・・・・」
脱力感がやってくる。湊は近くのパイプ椅子に座ると、紺野の項垂れた金髪を見た。
紺野の家庭が崩壊していても、口を出す事は出来ない。そんな立派な事をできる立場じゃ
ないし、紺野も望んでないだろう。
けれど、紺野が抱えている闇が自分の思っている以上に深い気がして、紺野の遣り切れ
なさに心が痺れた。
身体から溢れ出す不幸のオーラは必死なのに、ただそこでもがいているだけなのは、紺野
が子どもだからなのか、それとも、不幸に浸っていたいだけなのか。
差し出せなくなってしまった手を、湊は持て余してしまった。
舵を失った舟はどこまで流されていくだろう。紺野の乗り込んだ舟には、きっとまだ舵
は残っているはずだけれど、それに気づくのは何時になるのか、それを考えると湊は眩暈
すらした。
湊は佐伯に無理矢理頼み込んで、紺野を引き取る事にした。湊の方からも紺野の親に
連絡する事を約束して、佐伯は紺野を湊に預けた。
警察署を出ると、ポツリと一粒、雨が湊の肩を濡らした。
「本格的に降り出す前に帰るよ」
「・・・・・・」
振り返っても、紺野は湊と顔を合わす事すらしない。紺野の気持ちが読めないけれど、
とりあえずは家に帰ろうと湊は決めて、黙々と歩いた。
後ろを紺野がけだるそうに歩いて付いてきている。紺野の足音が、湊の心の奥をノック
して、湊は昔を思い出していた。
あれは、湊が小学生の頃だ。
県内のピアノコンクールに出場した帰り道、自分もこんな風に不貞腐れながら、親の後ろ
を歩いていた。
両親からは絶対優勝すると期待され、レッスン教師にはやれば出来ると励まされ出場した
コンクールで、湊は優勝することが出来なかった。結果は2位で、優勝したのは湊よりも
一つ前に弾いていた同い年の少年だった。
「よくがんばったけど、残念だったね、湊」
「直前にあんな演奏聞いてしまって、本来の力が発揮できなかったんだな」
「確かに、あの子のピアノも凄かったものね。でも、実力なら湊の方があったわ」
「彼のピアノで、審査員は一気に心を奪われてしまったからな。順番が悪かった。先に湊
が弾いてたら、きっと湊が優勝してたぞ?」
両親の慰めに、湊は心の中で首を振る。そうじゃないんだ、そんな理由じゃないんだ、心
の叫びは口には出来なかった。
その日、コンクールが始まる前から湊の心は浮いていた。
「がんばろうな、お互い」
そう言って、自分より一つ前に演奏する少年と握手してから、ずっと彼の微笑んだ顔が
離れなくなってしまったのだ。
この気持ちを淡い恋だと悟ったのはずっと後になってからだったけれど、湊がいつもの
演奏が出来なかった理由を湊はついに両親に言う事はなかった。
後ろめたさだけはあって、湊はコンクールの帰り道、殆どしゃべることが出来ずに両親
の後ろをとぼとぼと歩いていたのだ。
勘当される前は、自分にも家族の楽しい思い出は幾つかあった。けれど、いつも自分の中
では偽りの自分を演じている事に苦しさがあって、両親と分かり合えないことに本当の家族
ではないと思っていた。
紺野のように初めから壊れていたわけじゃないけれど、どっちが不幸かなんて比べようが
ない。でも、今の紺野には分らないのだろう。彼は自分の家族が一番不幸だと思っている
に違いないのだから。
だから、紺野は家族を捨てて湊の元に来た。けれど、湊の元にやってきた紺野は、ここ
でもまた孤独になった。
紺野の所為じゃないけど、紺野が逃げなければ、孤独にならずに済んだかもしれないのに
と湊は思う。
紺野には何もしてやれない。武尊が言うように紺野が自分のことを好きだとしても、その
心に答えることは出来ない。
でも、ここにいるのに、何も出来ない自分も歯がゆい。何かあるはずだ、きっと何かある。
そう信じて、湊は雨雲を仰いだ。
限界だった空が、家の前でついに泣き出した。泣き出した雨は留まる事を知らない子ども
の涙のように後から後から振ってくる。
「降ってきたなあ。急げばそんなに濡れずに済むかな」
湊は紺野の背中を押して家の中に駆け込むと、紺野の頭をポケットから出したハンカチ
で軽く拭いてやった。
紺野が不機嫌そうな顔でそれを見たが、湊は気にせず自分の服も拭いた。
玄関を上がって、リビングの前まで来ると、湊はわざわざリビングのドアを開いて紺野
を招きいれた。
「話しようよ」
「話すことなんてねえよ」
「僕があるから」
湊が珍しく強い口調を使った。紺野は真っ直ぐに見詰められて逃げ場を失い、仕方なく
リビングへと入った。
薄暗いリビングに電気をつけると、紺野の金髪に付いた雨の雫がキラキラと輝いた。
湊は目を細めてそれを見る。外側ばかり武装してるからいつまで経っても紺野の心に誰も
到達できないんだ。
紺野がソファに座るのを見届けてから湊はキッチンへお茶を入れに向かった。
立ち上る湯気に喉の奥まで乾燥していたことを思い出す。教育実習中に世話になった教師
とあんな風に再会するとは思ってもみなかった。
紺野が約束を破っていた事も輪を掛けて、湊にとって居心地の悪い時間だったことは間
違いない。喉が乾燥していたのは、外の空気の所為だけじゃないのだ。
緑茶の香りが脳に染み渡ってくると、湊は肩で大きく息をついた。
「紺野も飲むでしょ?」
「・・・・・・」
紺野は不貞腐れているのかソファに沈んだまま動かなかった。湊は勝手に紺野の分のお茶
を注ぎ、ガラス製のローテーブルに置いた。
カツンと湯のみがガラスに当たり、紺野は目だけそちらを見る。湊は紺野の態度を無視
して紺野の隣に座った。
そこで漸く紺野が身体を動かした。湊から逃げるように背筋を伸ばす。右肩を逸らして
隣に座った湊を困惑した瞳で見た。
「話があるって言ったでしょ」
紺野は未だ覚悟の決まらない顔で湊との距離をとろうとする。
「逃げていいときと逃げたらダメなときってあると思うんだ」
「・・・・・・」
「多分今はダメなときだよ、紺野」
「俺に説教でもするのかよ」
紺野はもそもそと口の中だけでしゃべっている。湊はそんな紺野の様子を見て、一気に話し
始めた。
「正直、怒りなのか落胆なのかよくわからないんだ、この気持ち。紺野が親にここのことを
話してなかったって言うのは、やっぱりそうかって言う気持ちもあるし。でも、言えなかった
っていう理由も推測は出来る」
紺野は驚いて思わず湊の腕を取っていた。
「俺の何を知ってんだよ?」
「紺野のお母さんの事聞いた。それからお父さんとうまくいってない事も」
「何でそんなこと!」
「紺野が家を飛び出した理由が知りたかったんだ。だって紺野、何かに悩んでるのに、
その本質は言ってくれないし、そのくせ傷ついた顔して自分が辛い事を必死でアピール
してるんだもん」
「湊に何が分るってんだよ!」
「紺野の痛みは何にもわかんないよ。でも、家族が崩壊した痛みなら分る」
湊は一呼吸置くと、紺野を見据えて言った。
「僕はゲイなんだ」
「え・・・・・・」
「それをカミングアウトして勘当された」
紺野の身体が硬直している。掴まれた腕に僅かに力が篭って、震えていた。
「・・・・・・紺野にはこの気持ち分からないでしょ?」
苦笑いして、その震える手に湊は自分の手を重ねた。
「家族の問題は外から見れば分らない事だらけだよ。幸せな家庭なんて所詮偶像に過ぎない。
誰もがそれぞれに問題を抱えていて、不幸を背負ってる。痛みは人それぞれだよ。
・・・・・・だけどね、それをひっぱり出して、自分はこんなにも辛いんだ、自分だけこんなに
不幸なんだってアピールしてるだけじゃ問題は解決しないよ。救いの手を差し伸べてくれる
優しい人間はそんなに多くない。本当に解決したいんなら、不貞腐れずに前を向かなきゃ。
紺野はもう少し大人になってもいい思うよ?」
自分でも分っている事を諭されて、紺野は身体が熱くなった。不幸な事に浸かって、逃げて
いることなど分っている。
けれど湊にそれを指摘されて反省できる気持ちの余裕が無かった。自分には味方が1人
もいなくて、闘う意志ももうない。
父親とは口を利けば喧嘩になるし、母親とはいつまで経っても他人行儀のままだ。そんな
日々に疲れて、紺野は自分で自分を孤独にした。孤独でいる方が辛くても楽だったから。
これ以上傷つきたくないと子どもの頃から思っていた。
だから、じっと自分の殻に閉じこもった。その結果がこれだ。
紺野は掴んだ腕に力を入れると、その勢いで湊をソファに押し倒していた。
「あんたに・・・・・・何が分る」
めちゃめちゃにしてしまいたい。暴れだしそうな欲望が紺野の中を蠢いている。この気持ち
で湊を潰したら、湊を泣かすことが出来たら、少しは気持ちが晴れるだろうか。
紺野は湊の両腕を頭の上で一まとめに掴むと、湊の首に左手を置いた。
その手が湊のシャツのボタンに伸びたところで、湊が淀みなく言った。
「僕を抱きたい?」
「っ・・・・・・」
「僕は紺野の気持ちには答えられない・・・・・・それでもいいならいいよ」
「!?」
手足を押さえ込んでいるのは紺野なのに、会話の主導権を持っているのは湊だった。湊は
真っ直ぐ紺野を見詰めている。紺野よりも6年だけ長く生きてきたという大人の強さで、湊
は紺野に勝っていると思う。
「知ってるのに見ない振りするっていうの、僕にも出来ないみたい」
「・・・・・・何言ってんだ」
「武尊さんから紺野の気持ち聞いた」
紺野の手の動きが止まった。自分でも青ざめていくのが分る。
何故知ってる?
何で、あんなヤツに自分の気持ちがばれた?
なんで・・・なんで・・・
掴んだ手が汗ばんでいる。自分が掴んでいるのはこんなにも恋焦がれた湊の白い指。この
指がピアノの上を滑っていった時、紺野は自分の心が溶けていくと思った。
密かに、誰にもばれないようにと隠していた想いが、よりによって湊にばれてしまって
いた。ばれていながら、湊は自分にこんな態度を取っている。
そのことに紺野は余計腹を立てた。
「あんたまで俺の事バカにすんのかよ!?」
「バカになんてしてないよ・・・・・・僕は紺野の気持ちに答える事が出来ないから、紺野がその
イライラをぶつけたいだけなら、僕の身体でいいならあげるって言ってるの」
「ふざけんなっ」
「ふざけてなんてないよ。現に紺野は僕の上にいる。そういう意思が動いてたってこと
じゃないの?」
「・・・・・・」
「でも、ごめんね。心はあげれない。僕の心は紺野の方を向いてないんだ・・・・・・。それでも、
身体だけでいいならあげる。紺野がこの続きをしたいって言うなら」
湊は紺野を見上げながら言った。
紺野は唇を噛み締めていたが、湊の視線が強すぎて湊を突き放した。湊の身体を解放して
立ち上がる。震えている拳は握り締めたままリビングから立ち去った。
「湊は・・・・・・強いけど残酷だ」
去り際にそう呟いて。
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