ビニール傘越しに空を見上げると、真っ暗な闇から唐突に水玉が傘にぶつかってはじけて
いた。湊がくれた湊の元恋人が買ったというこの傘。彼はきっとこの傘が武尊の手元に来る
など想像も出来なかっただろう。武尊は傘の柄を一度高くかざすと、なんの変哲も無いビニール
傘を眺めた。小さな透明のビニールからはみ出した武尊の肩は直ぐに雨に濡れだす。雨を
凌ぐ道具としては、果たしてどれくらい機能を発揮しているんだろう。けれど、差すのを
止めてしまえば、武尊はもっと濡れるのだ。なくては困る。
「湊君みたいだ」
武尊は苦笑いして雨の道を歩いていた。
あの日も雨が降っていた。今思えば、あの雨は今日よりも遥かに生温くてそして重かった。
橋の下で、半分自棄になりながら蹲っていた。この世の終わり、世界中で一番不幸な男、
家族に捨てられた惨めな自分。武尊はそうやって自分を慰めたり罵ったりしてあの雨の中を
1人過ごしていた。
どうしてあの時、湊は自分の前に傘を差し出したんだろう。そんなに自分は哀れに見えた
んだろうか。
「理由なんて、今となってはどうでもいいんだ」
湊は自分が発していた無意識のSOSを拾ってくれた。そのときから、武尊にとって湊は特別
な存在だった。
その特別に意味など無い。本当にただの特別、だった。
けれど身体を重ねてしまってから「特別」に色が付いてしまった。真っ白なキャンパス
の上に零した絵の具の色は赤でも黒でもなく、白だ。分りにくくて、指摘されなければ気づ
かないけど、確実に色が付いている。もう無色なんかじゃない。未使用だから返品、という
わけにもいかなくなってしまった。
零されたのか自分でつけてしまったのか。どうせならもっと分りやすい色で塗りたくって
しまえばいいのに。
武尊は次の色を探している自分に自嘲した。
「自分は家族を修復する為に湊君に付いていったんだけどな・・・・・・」
雨足が強くなる。ぼたぼたと傘に当たる音が大きくなって、武尊は家路を急いだ。
リビングに入ると暖かい夕食の匂いに迎えられた。
「あ、おかえり」
「ただいま・・・あれ?」
武尊はダイニングにセッティングされた2人分の夕食を見て声を上げた。
用意されたのは自分の分と、そして紺野の分だった。
「帰ってきたんですか?」
「うん・・・・・・補導されて、引き取りに行ってきた」
湊が疲れた顔で頷く。
「補導!?」
「うん。学校サボって、ゲーセンで喧嘩してたみたい」
本当はそれを見ていたことは言わなかった。
「また、それは、お決まりな」
「ある意味王道だよね・・・・・・紺野の行動は」
「紺野は部屋?」
「うん・・・・・・多分、そう・・・・・・」
歯切れの悪い返答に武尊は首を傾げる。何があったのか、武尊が次の言葉を掛ける前に湊
は言った。
「僕、これからちょっと出掛けるんだ」
「今から?」
「うん。大学時代の友人に急に呼び出されて。ご飯は用意しておいたから、適当に食べてよ」
取ってつけたような言葉に聞こえるのは何故だろう。
どこで会う?大学の友人って誰?何時帰って来る?
突っ込んで聞けば湊はどう答えるだろうか。武尊は出掛かった言葉を呑んだ。
湊は出来上がった夕食を背に、コートを着るとケータイと鍵をポケットに突っ込んでいる。
「雨、結構降ってますよ」
「うん」
「気をつけて」
「・・・・・・うん」
湊が一度だけ武尊を見上げて、悲しそうに笑った。
その顔に、武尊は湊の嘘を見た気がした。
テーブルに綺麗に並んだ夕食を、途方にくれた思いで武尊は見下ろしていた。
「この家の住人は、家出癖でもあるのか・・・・・・」
雨に濡れたコートの裾を拭き、ダイニングの椅子に引っ掛けると、武尊は暫く逡巡した。
待ってても誰も来ない事は明白だ。
武尊は紺野の部屋まで行くとゆっくりとノックした。
「・・・・・・」
「いるんだろ?」
「・・・・・・なんだよ」
「開けてもいい?」
「・・・・・・」
返事を待たずに武尊はその扉を開けた。
紺野は壁に持たれかかったまま、首だけを僅かに上げた。その顔は不機嫌を通り越して
いるようだった。
「おかえり」
「帰ってきて悪いか」
紺野が睨む。
「悪くないよ。あ、紺野補導されたんだって?・・・・・・青春だなあ」
「・・・・・・っうるせえ」
睨んだ瞳は直ぐに視線を外されて、紺野は俯いた。
「あのさ、晩ご飯出来てるんだけど、食べない?」
「勝手に食ってればいいだろ」
「まあ、そう言うなって。1人で食うの寂しいもんだぜ?」
「湊がいるだろ」
「・・・・・・出てっちゃったよ、湊君」
「!?」
驚いて紺野は顔を上げた。そこをすかさず武尊が問う。
「湊君となんかあった?」
その疑問に今度は紺野が声を荒げた。
「あんたが湊に言ったんだろっ」
「何を?」
「何をって・・・・・・」
耳の先をほんのり赤くして、紺野は唇を噛んだ。
沈黙が生まれ、その先を言えない紺野に、武尊は紺野の心に気づいて苦笑いを浮かべる。
「湊君の鈍感さにちょっと腹が立ってね」
「・・・・・・鈍感?!」
「湊君は君が湊君のことを好きな事、微塵も気づいてなかったよ」
「いいんだよ、気づかなくても」
「うん。そうだな。それでもよかったのかもしれないけど、君の気持ちの本質を知らない
ままで、湊君が紺野を探してるって構図が、ちょっと許せなかった」
そこで武尊は一呼吸置くと、壁にもたれて座る紺野を目を細めて見下ろした。
「湊君にも、苦しんでほしかった」
「意味、わかんねえよ」
敵意を感じるような視線に、紺野は動揺した。
「湊君に思われている君が羨ましくて、ちょっと意地悪したかな」
湊は自分のことなどこれっぽっちも思ってない、そう心の中で反論する。そんなことをする
必要がわからない。羨ましいとはなんだ。
「湊は俺の事なんてなんとも思ってねえよ!あいつが想ってるのは・・・」
湊が、心配で心が折れそうになっている相手はお前じゃないかと、口元にまで湧き上った
言葉を紺野は噛み砕いて捨てた。
武尊が紺野の捨てた言葉を探さなかったのは、その先を望んでいないのか、もう気づいて
いるのか、小さな間に紺野は拳を握る。
武尊はそんな紺野の様子を見て続けた。
「・・・・・・分りやすく言えば単純な嫉妬だよ」
「あんた、まさか・・・・・・」
そこまで言って紺野は言葉を止めた。漸く武尊の敵意の意味が理解できたのだ。
湊が武尊に惹かれているのは薄々気づいていた。けれど、武尊までもが湊に惹かれている
など、紺野はにわかに信じられなかった。
だって、湊は言っていなかったか?「武尊さんは家族とやり直したいって思ってるんだよ」
と。心変わりは何の所為なのか。何があったのか。
沸々と湧き上ってくるのは武尊への怒り。
自分の方がずっと前から好きだったのに、という子どもじみた怒りだった。
「邪推はしないでほしいけど」
「好きなんだろ!?」
紺野は武尊を睨みつけた。
「さあ・・・・・・」
困った顔で笑を浮かべる武尊に、紺野は益々腹を立てた。湊に勝手に気持ちをばらされた上に
自分の気持ちは隠すそのずるさが許せない。
「あんただって、好きなら好きって認めればいいだろ」
「自分でもよくわからないよ。恋愛感情なのか、それ以外のものなのか。ただ、言えるのは
湊君は自分にとって特別な存在だって事かな」
「・・・・・・」
結局、好きなんだろ。紺野は小さく吐き捨てた。
初めて見たときから、武尊とは絶対気が合わないだろうと思っていた。直感的に嫌いな
人間だと思ったけど、その根本にあったものに、紺野は辿り着いた気がする。
これは同じ獲物を狙う雄同士の戦いだ。
「湊君には秘密でお願いな」
無理矢理重苦しい空気を払拭するように、武尊が声のトーンを上げた。
「・・・・・・言うわけ無いだろ」
言えるわけが無い。みすみす2人を両思いになどさせてたまるか。
「うん。紺野が言うわけはないと思ってるけど」
微かに笑って見せると、紺野は眉を顰めた。
「あんた達は、二人揃って卑怯だな」
「・・・・・・そうだよ。大人はずるくて、卑怯なものだ。そうやってないと、自分の身を守れ
ないからな」
欲しい想いは手に入らなくて、知りたくも無い感情ばかりを知ってしまう。
他人と一緒にいることは、複雑で疲れる。もどかしい。こんなことなら、ちゃんと話を
すればいいのに。
紺野は家の中でも孤独だった。家族の中でも、こんな風に感情をぶつけ合ったりした事
はない。罵られて、ひたすら孤独に逃げた。
こんなに他人の感情に振り回されるのは初めてで、戸惑いと苛立ちの中に切なさが混じって
いることに紺野は唖然としていた。
湊は傘をさしたまま、雨の夜を歩いた。夕方からの雨は酷くなるばかりで、雨風で街路樹
の最後の葉が落とされていく。
いつの間にか秋は終わり、季節は変わっていく。流れていく時間を身体で感じながら、
湊は白い息を宙に吐いた。
武尊にはこの嘘がばれているかもしれない。友人との約束なんてあるはずもなかった。
ただ、湊は1人になりたかっただけだ。
武尊とも紺野とも顔を合わせるのが気まずくて、思わず飛び出してしまった。
紺野にあんな事を言うつもりはなかった。でも傷つけずに、自分の気持ちを告げることなど
無理だったのも確かだ。
こんな風になっても、湊は武尊が好きだし、気持ちが通じなくてもこの気持ちが冷める
ことはない。それどころか日々募っていく想いがいつ溢れてしまうのか、押さえ込むのに
精一杯なのだ。
「僕は一体何をしたいんだ」
紺野に手を差し伸べたのは、紺野を救いたかったからだ。
そして紺野を救って、救われなかった自分の家族を救ったつもりになりたかったんだ。
結局元を辿れば自分のエゴなのかもしれない。湊は紺野の中に救われなかった自分を見て
いたんだと思って、ひどく切なくなった。
「ゴメン紺野」
人は寄り添ってるだけじゃ傷は癒えないのかもしれないなと湊は痛感していた。
無意識の中で歩いて、湊は駅前まで来ていた。駅の北側の慣れた風景を見てほっとする。
平日の雨の所為か、人通りは少なく濡れたクリスマスのイルミネーションがそこだけ浮いて
見えた。
湊は商店街の中を足取りを緩めて歩いた。店の軒から滴る水滴が傘に当たって、ボツボツ
と細かいリズムを刻む。鬱々とした音階が蘇って、湊の頭の中に流れてくるのはフォーレの
Spleen(憂鬱)だ。雨の日はどうしてこうフォーレが似合うのか不思議に思う。
「巷に雨の降るごとく、か。・・・・・・その通りだけどさあ。ぴったりすぎて怖いよ」
歌曲spleenは詩人ヴェルレーヌの詩につけた曲で、悲しげな伴奏に息の長い歌が乗っている。
その歌詞は「巷に雨の降るごとく」で始まり、行き場の無い感情を雨を涙に交えて歌い上げる
思わず溜め息の出る一曲だ。大学時代に声楽専攻の友人の為に伴奏したことがあった。
湊は雨のリズムに合わせて小さくメロディを口ずさみ、商店街を抜けた。そして、そこで
思い出したように引き返し、細い路地を曲がって、地下の店へと降りる階段の前に立った。
目の前にある店は、昔よく来たダイニングバーだ。
openの文字がライトに照らされている。
湊はその扉を引いた。
奥の薄暗いテーブルに通されると、湊はジンライムを1杯頼んで、後は頬杖を付いて時間
を潰した。
「飛び出してきたのはいいけど、僕は誰がつれもどしてくれるんだろう」
思えば、武尊も紺野も飛び出して、形はどうあれ湊が連れ戻してきた。1人で家に帰るタイ
ミングが実はとても難しいのだと、湊は怒られた小学生と似た気持ちになる。
家に帰るのに気兼ねするなんていつ以来だろう。家族の面倒くささとくすぐったさが
同時にやってくるみたいだ。
「僕を助けてくれるのは、僕だけだもんなあ」
湊は席を立つと店を後にした。
雨はいつの間にかやんでいて、流れた雲の隙間から薄暗い月がぼんやりと浮かんでいた。
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