武尊が家を出て行った次の日、紺野が漸く顔を出した。帰宅した湊を、リビングのソファ
に埋もれながら紺野は待っていたようだった。
「うっす」
「・・・・・・ただいま。寒いね。外、雪降るんじゃないかってくらい寒いよ」
紺野は疲れた顔をしていたが、母親が来るまでの後ろ向きなオーラは薄まっているようだと
湊は思った。
こうやって顔を出したという事は、紺野の中で何かしらの踏ん切りが付いたのかもしれ
ない。紺野は自分から語るつもりはあるのだろうか。湊はその傷に触れることはしなかった。
「よく寝れた?」
「まあまあ」
「そう。頭もさもさだよ。風呂入っておいで」
「・・・・・・」
「お腹空いたでしょ?」
「ああ・・・」
「さっぱりしたら、ご飯にしよう」
紺野は、何も言わない湊にもどかしさを感じながらも立ち上がる。自分からこの気持ちを
言葉にするのは今の紺野にはまだ照れくささがあって、結局何も言えないまま紺野はリビング
を後にした。
そんな紺野の後姿を湊は目を細めて見送った。
部屋に戻って、コートと手袋をぞんざいにベッドに置いた。
このまま自分もベッドに転がってしまいたい気分なのを我慢する。溜め息も、落ち込みたく
なる思いも止めて、湊は手早く着替えた。
この部屋に僅かに残る武尊の記憶が、今の湊の唯一の頼りだ。夢じゃない、武尊は存在
して、自分の気持ちをしっかり聞いてくれた。
走り出して追いかけたい気持ちを今は抑えるしかない。答えをくれると言った武尊を信じる
しかないのだ。
湊は放り投げたコートを再び拾い上げると、ハンガーに掛けた。投げやりになってても
事態が変わるわけじゃないし、自分を追い詰めるのは好きじゃない。
そう思いながら、部屋を出る。けれど武尊に貸していた部屋の前で立ち止まると、湊は
急に胸が熱くなった。
ピタリと閉まったドアの向こうには、武尊がいる予感がする。開けてはならないと、誰か
が囁く。湊の知っている物語では、見てはいけないと言われた秘密の部屋を開けた者の行く
末はみんな不幸になった。
湊は震える手でその扉を開けていた。
「そうして、開けなきゃよかったってみんな言うんだよね」
湊は明かりをつけて、部屋の中へ入ると現実を見て呟く。
「分ってたから平気だもん」
強がりを言って自分を支えてみるけれど、やっぱりこの現実は湊を落ち込ませた。
武尊の部屋の中は綺麗に片付いていて、武尊が来る以前の「姉の部屋」に戻っている。
出て行ったのだ。あれは夢ではない。
離婚を決めた後、新しい人生の中に自分は存在しているのか、割り込む隙間は与えて
もらえるのか。考える事は堂々巡りで、湊はちっとも前に進めなくなる。
どれくらいそうしていたんだろう。呆然と立っていると、階段を上る足音で湊は正気に
戻った。
「あいつ、どうしたんだ・・・・・・」
振り返ると紺野が怪訝な顔をして立っていた。風呂上りの身体からは湿気と清潔な香りが
漂っている。金髪の髪から雫が垂れてスウェットを濡らしていた。
紺野は武尊の部屋を覗き見て言った。
「・・・・・・出てったのかよ?」
「うん」
「マジで?」
「うん・・・・・・出てっちゃった」
口にすると、じんわりと鼻の奥が痛くなった。もういない。ここには帰ってこない。武尊
は武尊の新しい人生を歩き始めてしまったのだ。
紺野は不機嫌そうに言った。
「なんでだよ」
「けじめだって」
「けじめって!?」
「離婚、決めたから・・・・・・かな」
「それで出てったのか!?」
「うん」
紺野は武尊の気持ちが理解できずに、唖然として空になった武尊の部屋を見た。
「武尊さんは初めから、問題が解決したときには出てく予定だったんだから、別に驚く
ことはないよ」
紺野に言って聞かせると、紺野は湊を睨みつけた。
「だったらなんであんたはそんな悲しそうな顔してんだよ」
「そんな事ないよ」
湊の強がりは紺野を一層苛立たせる。
武尊も湊も自分には大人ぶってみせるのに、どうしてこんな茶番を演じているのか、紺野
にはその気持ちが分らなかった。
湊は武尊が好きで、多分武尊も湊に惹かれている。自分の入る隙間は無いのに、何で2人
はくっつかないのだ?
大人ってヤツは器用に見えて、何でこんなにも不器用なことをやっているんだ?
「あんたらってさ・・・・・・」
「うん?」
「馬鹿じゃねえの?」
「紺野?!」
紺野は湊の腕を思わず掴んでいた。
「俺は・・・・・・なんで、こんな馬鹿な大人達に悩まされたり、腹立てたりしてんだよ!」
自分は子どもで、彼らよりも知らない事情や感情もあって、その所為で自分に殻を被せて
逃げていたけれど、親も湊も武尊も、大人ぶってるくせに何でこんなに回りくどいんだ。
一緒になって逃げていた自分が馬鹿みたいだ。
言葉にすれば簡単なことを教えたのは武尊や湊だろう?その2人がどうしてすれ違うんだ?
大人の事情は、聞けば聞くほど馬鹿馬鹿しいと紺野は思う。
「紺野、痛いって」
「湊は!」
「な、に・・・?」
湊を睨みつけると、湊は少しだけその表情に怯えた。
「あんたはあいつの事好きなんだろ?」
「・・・・・・」
いつだったかも紺野はそう湊に聞いた。あの時は、はぐらかされて上手く逃げられてしまった
けれど、今度は逃がすつもりはない。もう自分も逃げるのは疲れた。
「なあ、好きなんだろ?」
逃げ場を失った湊の瞳は、観念したように頷いた。
「・・・・・・うん」
紺野は、はあっと大袈裟に溜め息を吐く。失恋の痛みはまだそこにあった。湊の白い腕
は冷たくて、びりびりと痺れる。
「俺は・・・・・・あんたが好きだった」
「紺野?」
湊は目を見開いて紺野を見上げた。
「親父と上手くいかなくて、腹立てて逃げ出して、そしたら真っ先に湊のこと思い出した」
「・・・・・・うん?」
「湊の所に行けば、この気持ちが救われる気がした」
紺野の手が小さく震えている。湊は息を呑んだ。
「あんたが欲しいとか、はっきりした気持ちがあったわけじゃねえよ。よく分んねえけどさ
ココに穴が開いててさ、それを埋めるために隣にいて欲しかったんだ」
紺野はもう片方の手で自分の胸を指した。
「けどさ、全然埋まんねえんだもん。あんた、大人ぶってるくせに、なんか不器用で、頑固で
そのくせすげえ厳しいし・・・・・・」
「ごめん」
紺野はゆるりと手を放す。湊は放された腕を自分に引き戻して自分の体を抱きしめた。
「穴、広がった」
「紺野ごめん・・・・・・」
言った途端、瞬かせていた瞳からぽつりと雫が床に跳ねた。
「男の癖に泣いてんじゃねえよ」
「ごめん・・・」
「・・・・・・もう、いいよ」
紺野は躊躇いながら手を伸ばす。湊の頭を軽く揺すって、紺野は部屋を出て行った。
湊は暫く武尊の部屋で蹲っていた。真っ直ぐにぶつけられた紺野の想いは、自分が予想
してた以上に熱く、胸を締め付けた。
腫れぼった顔を何とか直してキッチンに下りていくと、紺野がダイニングテーブルに腰
を乗せて湊を待っていた。右手で鍵を回している。湊に気づくと、紺野は腰を上げた。
「ごめん、ご飯作るよ。お腹空いたでしょ」
湊がすり抜けていく前に、紺野は手で回していた鍵を机の上に置いた。
「これ、返すわ」
「紺野・・・?」
湊はその鍵と紺野を見比べている。
「俺も帰るから」
「え?」
紺野を見上げると、紺野は皮肉そうな笑顔で湊を見ていた。
「オヤジの事、一回ぶん殴ってやんねえと気がすまないし」
「・・・・・・」
「なんだよ」
紺野の急激な行動の理由は、その顔を見て何となく理解できた。紺野は吹っ切った顔を
していた。両親との問題も湊への気持ちも、紺野の中で一つの区切りをつけたのだろう。
「前向きになったね」
「また母親に乗り込まれたら、恥ずかしくて堪んねえよ」
「紺野らしい答えだ」
湊はクスリと笑った。紺野は照れ隠しのようにぶっきらぼうな口調で言う。
「なんだよ、少しは寂しいとか言えよな」
「うん。寂しい。紺野、なんだか急に大人になったね」
「うるせぇ」
「・・・・・・紺野、いつ帰るの?今すぐってことないよね?」
「別に、今から帰っても困らねえだろ」
「晩ご飯ぐらい食べていきなよ。最後くらい、一緒に食べようよ」
「・・・・・・いいけど」
あり合わせの食材のわりに豪華に見える夕食になった。湊は珍しくワインを開けて、
「最後の晩餐」を演出した。
紺野もそのワインを無言で一杯グラスに注ぐ。湊も今日ばかりはそれを見ない振りをした。
「紺野はさ、その髪の毛どうすんの?」
「どうすんのって」
「ほら、だってもう頭の先、黒いのいっぱい生えてきてプリンになってるから。また金髪
にするの?」
「めんどくさくなきゃやるかも」
「紺野は絶対黒い髪の方が似合ってると思うけどなあ。短髪で黒かったあのときの方が、
男前に見えたよ?」
「・・・・・・今さらそんなこと言われても、全然嬉しくない」
紺野は目の前に並んだ食事に手を伸ばして言った。
「・・・・・・じゃあ、学校の先生みたいに言おうか?」
「なんだそれ」
「校則なんだから、黒に戻しなさいって」
「湊に言われても全然説得力ねえよ」
「そうかなあ」
湊が笑うと、紺野もかすかに唇を緩めた。口数は相変わらず少なかったけれど、2人の夕食
は今までで一番平穏な時間になった。
「なあ」
「ん?」
「湊さ、俺に散々説教みたいなことしてきたけど、あんたの家族はいいのかよ」
「え?」
不意に振られた質問に、湊はワインを飲む手を止めた。
一度だけ話した湊の家族の話。勘当されたままの自分と、ばらばらになった家族。
「俺にさ、話し合えば分るみたいなこと言っておいてさ、自分のことはどうなんだよ」
武尊にも指摘された事がある。自分の家族は修復しないのかと。
自分がこの家にいつまでもしがみ付いているのは、壊したことへの後悔があるからなんじゃ
ないのかと武尊に言われ、湊は核心をつかれたように感じた。
この家に囚われて離れられないのは事実だ。ここを離れてしまえば、本当に家族から決別
してしまうだろう。そうなれば自分も逃げてしまう。湊はそれが怖かった。
「ここに残っているっていうのが、自分への戒めで、両親へのアピールなんだ。ここに
残ってる限り、僕は僕の存在を否定しないで、両親に向かってられる。繋がっていられる
唯一の綱なんだ。ここを出て行ってしまえば、僕はきっと諦めちゃうから。何年でも待つ
気はあるよ。でも、それ以外のことをする気もないんだけど」
「よくわかんねえな・・・・・・」
「修復することを諦めたわけじゃないけど、時間だけが有効な薬なんだと思ってる。話
合えば理解できるって問題じゃないからなあ・・・・・。受け付けられなくても、時間が経てば
嫌な事でも慣れるってことあるでしょ。そう言うこと」
「そんなもんか」
湊が足掻いていないわけじゃないということだけは感じた。
紺野は張り詰めそうになった息を抜いて、ふとダイニングテーブルの隅に置きっぱなし
の鍵を見詰めた。
「・・・・・・あいつ、鍵どうした?」
「そういえば、返してもらってなかった・・・まあいっか。泥棒にはいるような人じゃないし」
「ふうん」
紺野は気の無い返事をするとグラスに残ったワインを飲み干した。
紺野も早々と帰り支度をして家を出た。
「来るのも突然なら、帰るのも突然なんだもんなあ」
取り残されていく湊の方が寂しさは大きい。紺野も武尊もいなくなって、自分はまた1人だ。
1人暮らしの気ままさと居心地の良さを知っていたのに、3人で暮らしたこの奇妙な家族
の生活の方が辛くても嬉しかったと湊は思う。
湊は玄関先まで紺野を見送りに出た。
上空に冬の星座が幾つか瞬いている。降って来るほどの星の数ではないけれど、これくらい
が今の自分達には似合っているような気がした。
「遅いから、気をつけて帰りなよ」
「・・・・・・わかってるって」
紺野は振り返って、少しだけ名残惜しそうな表情をした。吹っ切ると決めても、感情まで
清算できるわけではない。切なさはまだそこにある。
辛くなったらいつでもおいで、その言葉を湊は口元で止めた。多分、紺野が必要として
いるものはもうここには無い。
暗闇にぼうっと浮かび上がる湊の白い指を見下ろして紺野は言った。
「あいつさ・・・・・・」
「あいつ?武尊さん?」
「そう。あいつきっとまたここに帰って来る」
「え?」
「鍵、持って行ったってことは、そう言うことだろ」
その台詞に湊が驚いている間に紺野は歩き出していた。
「紺野・・・!」
「じゃあな」
その声は直ぐに夜の闇に消えた。
リビングに戻ってくるとダイニングテーブルに紺野が置いていった鍵が所在なさげに
乗っていた。
湊はそれを手にすると胸の前で抱きしめる。
「武尊さんっ・・・・・・」
湊の小さな悲鳴が木霊する。キッチンで冷蔵庫がブーンと音を立てて鳴き始めた。
湊はまた1人になった。
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