武尊は気が晴れないまま、玄関を出た。
未だ武尊は湊の家にいる。あの日、湊がゲイだと知った日から湊との間に出来てしまった
・・・・・・いや、自分が作ってしまった溝は深まりもせず、埋まりもせず、武尊と湊を隔てていた。
武尊は早々にこの家を出るつもりだった。
この家を出て、自分の家に帰る。帰るというのは「返る」と「変える」のどちらの意味も
含まれている。実際あの時も、仲の良い家族へと「修復」するつもりで武尊は家に向かった。
それが、だ。
家に帰った日、家の中には誰もいなかった。ただ、リビングの机の上にぽつんと置いて
あった離婚届と一通の手紙だけが武尊の帰りを待ちわびていた。
離婚届を前に、遣り切れない思いが武尊を襲う。考え直せと詰め寄りたいのに、言い訳
する本人がいない。武尊は暫く家で妻の帰りを待ったが、2時間待っても帰って来る事は
なく、武尊は耐えられなくなって家を出てしまった。
そうして、行く当てもなく武尊はまた湊の家に帰ってきてしまったのだ。
何やってるんだろう・・・・・・。軽蔑したくせに自分が困れば頼ってしまうなんて、自分こそ
軽蔑される存在だ。
これからの生活も想像つかないまま、武尊は湊の家から仕事に向かった。
会社に一歩踏み入れれば、生活はいつもと同じだ。武尊は自分の席に着くと、目の前に
詰まれた仕様書に目を通した。
「安西、溜め息ばっかり吐いて・・・・・・なんか顔やつれてるぞ?」
向かいに座る同僚に声を掛けられて、武尊は顔を上げた。
「そう?」
「そうって、クマも出来てるし。なんかあったのか?」
思ったよりも顔に出ているらしい。武尊は軽く目を擦った。
その様子を見ていた隣の同僚が茶化しながら話に加わってきた。
「あ、あれだろ。奥さんと喧嘩でもしたんだろ」
笑いながら言うと、前にいる同僚が手を振って否定する。
「ばーか、そりゃない、ない。安西のとこの嫁さん、美人でおしとやかのお嬢様で、喧嘩
なんて絶対しないタイプだぜ?」
彼は何度か家に遊びに来たことがある。美人の嫁に、可愛い娘。幸せを絵に描いたような
家族だなと、初めて家に遊びに来て以来、彼にはしきりに羨ましがられているのだ。
「いや、そこまでは・・・・・・」
「またまたー。それに、喧嘩してるんだったら、こんなにきっちりアイロンの効いたスーツ
もシャツも着てないだろ」
「え?」
武尊は驚いて自分のシャツを見る。腕を撫でるとシャツの滑らかな感触が伝わってきた。
アイロンは湊が掛けてくれたものだ。自分のシャツに掛けるついでだからといわれて、
武尊は何の疑問も持たずにそれに頼った。その習慣は今も続いている。
その事実に武尊は愕然とする。
湊のことを否定してしまいそうになっているのに、湊がいなければシャツのアイロンすら
掛ける事ができない。なんて自分勝手な矛盾だ。
湊の存在が自分の生活にあまりにも自然に染み込んできていることに武尊は驚きを隠せな
かった。
武尊が黙っていると、同僚がニヤニヤした顔になって言った。
「どうせ、嫁さんと二人目頑張って寝不足にでもなってるんだろ」
「えっ?!・・・・・・そういうわけじゃ」
慌てて否定する武尊に、隣の同僚も笑う。
「照れるなって。いいなあ。二人目か」
「そんなんじゃないって・・・・・・」
そういいながらも、武尊はけして本気で否定する気にはなれなかった。
同僚には知られたくない。自分の幸せが壊れかけているなんて。認めたくないのだ。
「幸せ疲れかー。いいな、俺も体験してみたいぜ、そんなの」
軽く嫌味を言われて、武尊は笑った。
家族は崩壊しかけてるのに、必死に取り繕うとしてる。自分が守りたいものは一体何
なのだろう。何のために修復しようとしている?
同僚からの羨望。世間体。安定した生活。幸せの偶像。
武尊は頭に過ぎった疑問符を無理矢理隅に追いやった。
違う。自分は家族を愛しているから。ただそれだけだ。大切に思っているから取り戻し
たいんだ。武尊は自分に言い聞かせて、再び仕事に没頭した。
事態は自分が思っていた以上に甘くなく、家族の崩壊は進んでいた。
仕事を終えて駅前を歩いているとき、武尊は見慣れた一台の車を見つけた。
「あの車、うちのじゃないか・・・!」
武尊は慌ててその車を追った。
走って追いかけて、間に合わない事に気づくと近くに止まっていたタクシーに乗り込んで
自分の車を追うように指示を出す。タクシーの運転手は一瞬怪訝な顔をしたが、何も言わず
素直に武尊の言うとおりに従った。
武尊は自分の車を追いながら、不安が膨れていった。
あの車に乗っているのは誰だ?何の為にこんな時間に、こんなところを走っているんだ?
車は確実に武尊の自宅へと向かっている。そこから降りてくる姿を想像して、武尊は
胸がぎゅっと潰れるような感覚が走った。
車が家の前で止まるのを確認すると、武尊は暫く離れたところでタクシーを降りた。
武尊が家の近くまで走ってくると、駐車場に止めた車のドアが開くところだった。
「優衣が起きちゃうから、静かにね」
「大丈夫だって、ほらぐっすりだよ」
妻――佳織と男の声が聞こえて、武尊は門の陰に身を潜めた。
そこから覗き込むと、男がチャイルドシートから娘の優衣を下ろしているところだった。
男は手馴れた風に優衣を抱きかかえると、優衣は寝ぼけているのかその首にぎゅっと
しがみついた。
それを見て、佳織がくすりと笑う。
「甘えてるのね」
どん、という衝撃音は頭の中だけで鳴ったようには思えなかった。
目の前に広がる光景は真実なんだろうか。赤の他人をまるで父親と思ってに安心して
抱かれている優衣。あんなに穏やかに笑う佳織を見たのは何時以来だろう。
ここには自分の居場所など、とっくに無かった。勝手に完結された結末に、武尊はただ
唇を噛み締めるしかなかった。
「もう、遅いっていうのか・・・・・・」
鞄の中の丸めた離婚届がその存在を主張し始めている。ざわざわ、騒ぎ出す。
何時までも嘘で固めた虚像にしがみついているな、と。
「何が不満だったんだ・・・・・・こんなに、こんなに、一生懸命働いてきたのに」
武尊は娘を抱きかかえながら玄関の中へ消えていく男をにらみつけながら、拳を震わせていた。
今日こそ帰って来ないかもしれない。湊はそう思いながら缶のままのビールを口にしていた。
ダイニングテーブルには空のビールの缶が3本。適当に作った肴の皿はもうすっかりきれいに
なくなっている。4本目のビールの味はよくわからなかった。
夕食は作らずに、酒の肴ばかり作って1人の晩酌。湊はもう武尊の夕食を作ってはいな
かった。
帰ってこないのならそれはそれでいい。1人で鬱々と前の恋を引き摺るだけだ。
「他人といるだけで、失恋の痛みをこんなにも忘れるとは思わなかったなあ・・・・・・」
武尊といるとき、湊は前の恋人のことを忘れた。夜、ベッドの中で思い出を引っ張り出して
溜め息を吐く事は合っても、武尊を見て、彼を思い出して苦しくなることは無かった。
それだけ武尊といる事は自然だった、はずだった。
「失恋の痛みを消してくれるのは、新しい恋をすることだって、誰が言ったんだろうな」
あながちそれは間違いじゃないのかもしれないと湊は思う。
武尊が出て行ったら、さっさと新しい誰かを見つけよう、そう思いながらも、湊は武尊
がこの家を出て行くことに胸が痛んだ。
特別な感情など持っていないはずだった。自分達は同士でただ傷を舐めあって慰めあって
いるだけだ。今でもそれはそのはずなのだけれど、湊は自分の気持ちに自信がなくなって
来ていた。
湊は4本目のビールを飲み干すと、不安定になった足取りでダイニングテーブルの皿を
片付けた。
考え事をするとき、シンクで水を流しっぱなしにするのは湊の癖だ。皿を洗いながら、
気がつけば、蛇口から流れ落ちる水を湊はぼうっと眺めていた。
「帰ってこないんなら、帰ってこないって言えばいいんだ・・・・・・」
後ろで冷蔵庫がブイーンと唸りをあげた。
けたたましいチャイムの音で湊は目を覚ました。風呂上りにリビングで転寝をしていた
らしい。チャイムは未だ断続的に鳴り続け、湊を呼びつけている。
湊は不安定な足取りで玄関に行くと、ゆっくりとドアを開けた。夜の風が一瞬で湊の体
を冷やす。湊は寒さに震えた。
「誰・・・?」
ドアの隙間から覗けば、そこにはフラフラで真っ赤な顔をした武尊が「やあ」と片手を
上げて立っていた。
「た、だ、い、ま」
「武尊・・・・・・さん?」
「はい、湊君」
「酔ってるね?」
「はい、酔ってませんよ」
湊は玄関を開けると、今にも大声ではしゃぎ出しそうな武尊を連れ込んだ。
「早く、入ってよ。寒いから」
武尊に肩を貸しながら湊は武尊をずり上げる。自分よりも体格のいい、しかも酔った男を
運ぶのは骨のいる作業だった。
「ほら、ちゃんと歩いてって」
玄関で靴を逃せて、リビングの前で一度休憩すると、湊はキッチンからコップに水を汲んで
持ってきた。そうして無理矢理水を飲ませると、幾分落ち着いたように見えた。
「武尊さんって、こういう酔い方するの?」
湊は半ば呆れながら廊下で蹲る武尊を見下ろす。
「・・・・・・酔ってないって」
「はいはい。わかったから。早く部屋に帰って寝てよ」
たちが悪いな。湊はこれ以上文句を言う気にもなれず、再び武尊に肩を貸して二階へと続く
階段を昇った。
「・・・・・・っとに、重い!」
「んん・・・・・・」
「ちゃんと、起きて歩いてって、ほら着いたから」
やっとの思いで武尊の部屋まで辿り着くと、湊は武尊をベッドに投げ捨てるように寝かせた。
「うわっ」
投げ捨てた瞬間、世界が横転した。
上手く武尊だけを寝かせたつもりだったのに、武尊に掴まれた腕が引っかかったままで、
湊は武尊と共にベッドに転がってしまったのだ。
武尊に抱きすくめられた格好になって、湊はもがいた。
近い・・・・・・。
武尊の酒に酔った息が湊の顔に掛かる。もぞもぞと動くと、今度は意図的にその腕を
掴まれた。
「武尊さん?!」
驚いて腕の中から武尊を見あげると、武尊は目を閉じたまま湊の頭に顔を寄せてきた。
この人は自分がゲイだということを忘れたのだろうか、湊の体が熱くなる。
「あの、さ・・・・・・」
湊が口を開くと、武尊は首を振った。
「少しだけ」
「え?」
「・・・・・・少しだけでいいから」
武尊の熱い息が痛い。びりびりとした痺れが全身を包んで麻痺していくみたいだ。苦しい
のは抱きしめられた腕が強かったからだけじゃない。胸の奥からこみ上げてくる未知の感情
が爆発しそうだからだ。
「でも、僕は・・・・・・」
湊が武尊から逃げようとすると、武尊は急に酔いが冷めたような声になって湊に言った。
「湊君は・・・・・・振られてそれで諦めついた?」
「え?」
「恋人に振られて、素直に受け入れられた?終わりだって一方的に最後通牒突きつけられて
納得できた?」
湊の頭に、武尊の部屋で見た緑色の紙が浮かぶ。相手の意思は揺るぎ無いってことだろうか。
武尊は未だに修復しようともがいているんだろうか。
「恋人と家族じゃ、違うでしょ」
「そうかな」
「恋人なんて当人同士の問題でしょ。他にしがらみなんて何にも無い。本人同士の気持ちが
冷めればそれで終わりだし」
「夫婦だって、それはそうだよ」
「僕は結婚した事もなければそう言う状況になったことが無いからよくわからないけど、
夫婦の気持ちの問題だけで、簡単に別れたりできないんじゃない?親とか子どもとか、
周りの人間とか、色んなしがらみがあって、そう言うのに縛られるから別れられないって
いうのも事実だと思うけど・・・・・・」
「そうだね。・・・・・・けれど佳織は――妻は佳織って言うんだけど、彼女はそういうもの
全てを捨ててまで、俺と離婚してあの男と一緒になりたいって思ってる。そして俺はそんな
になっても、まだ修復しようと足掻いてる・・・・・・」
体に回された武尊の手に力が入る。湊は武尊の腕に自分の手を添えた。武尊から嫌悪感が
感じられないのは、彼が酔っているからなのだろうか。
そもそも、彼は何故こんなにも酔って帰ってきたんだろう。家族の元に帰って、修羅場でも
見てきたのだろうか。
「武尊さんは、何を見たの」
「・・・・・・現実、かな」
その現実を見ても、武尊はまだ踏ん切りがつかないらしい。
「色んなものにしがみついて、俺は一体何が守りたいんだろう」
自嘲気味に呟くと、武尊の息が耳に掛かった。
張り付いたところから体温が伝わって、武尊の気持ちが流れ込んでくるようだった。
「家族ってなんなんだろうね」
恋人とは違う、色んなものにがんじがらめにされた湊には縁の無い関係。
「もういっそ、壊滅的に壊れてしまえばいいって思った」
あの男が娘を抱き上げた瞬間、武尊の心に湧き上った嫌悪。自分だけ傷つくなんて耐え
られない。妻もあの男も自分と同じように傷つけばいい、そう思って自分が卑しい人間だと
また嫌悪した。
「・・・・・・思うだけにしておいた方がいいよ。家族が壊れるって、思った以上に厄介で手が
かかるんだから」
「まるで経験者みたいだ」
武尊が少しおどけてみせる。湊は武尊の腕に掛けていた手をシャツの感触を確かめるように
滑らかに動かした。
沈黙に武尊が湊を覗き込む。
「・・・・・・湊君?」
「うん、経験者だよ。僕、家族を壊した張本人だから」
呟いた湊の瞳は憂いに帯びていた。
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