「家族を壊した張本人だから」
そう言った後、湊は暫く口を閉ざした。沈黙の中で2人の息遣いだけが、薄暗い部屋に木霊
する。ぞんざいに閉められたカーテンの隙間から、月の明かりが僅かに漏れて、お互いの
髪の毛のシルエットが浮かんで見えた。
湊はそっと目を閉じて、自分の台詞を反芻する。
家族を壊した―――。
『センセー、僕めっちゃ弾きたい曲あるんだけど』
『何?ラフマ?ベートーベン?シューベルト?』
『ブラームス!』
『・・・・・・ひょっとしてラプソディ?』
『うん。去年の発表会でさ弾いてた子いたじゃん。あれ聞いて僕もやりたいって』
『いいよ。来週までに楽譜用意しておいて。君なら譜読みくらいしておけるでしょ』
『やった!この曲、プロの演奏聴きたいんだけど、参考になる人っているー?』
『そうだなぁ・・・・・・。参考になる人、誰かいたかな。ちょっと探しておくよ』
ブラームス・ラプソディ1番。冒頭の感情を揺さぶる激しいオクターブと、ノスタルジック
な中間部の旋律。難易度はそこそこ高いが難曲といわれるほど難解なわけではない。
ただ、極めるにはいつまで経っても弾き続けなければいけない曲である事には違いないと
湊は思っていた。
高瀬亜矢子はブラームス弾きの才女と言われている。――湊の母だ。
生徒の為に湊はブラームスのラプソディを引っ張り出して譜読みをしながら、数分前まで、
帰ってくるか分らない武尊を待っていたのだ。
今、湊の頭の中にはブラームスの音が再構築されてあふれ出しそうになっている。
「僕の家族はね、この世界じゃ結構名の知れた音楽一家なんだ」
湊は武尊のシャツの端に力を入れた。
自分が壊した家族の話。他人にするのは初めてだ。
「そうなの?」
「うん。高瀬夫婦は、世界中を駆け巡ってる指揮者とピアニストで、姉は作曲家だし」
「すごいじゃないですか」
「そう。で、僕だけ、ただ一介の講師」
「・・・・・・」
「僕はね、高瀬家のおちこぼれなわけ」
望んでおちこぼれになったわけではない。それに、湊の講師としての評価は、誰もが口を
そろえて『なんで君ほどの才能がある人間が、こんなところで講師をしているんだ』なの
だから、本当のおちこぼれでもないのだ。
湊は妙に軽い口調になって言った。
「これでもね、大学2年までは順風満帆の音楽人生だったんだよね」
才能に溢れ、出るコンクールでは軒並み優勝を掻っ攫っていった。周りの賞賛は湊にとって
というより、両親にとって誇りだった。自慢の息子。プロのピアニストと一流の指揮者の
子どもならば当然の評価だと、両親は思っていたようだった。
「二十歳の時、父親がドイツのある楽団の常任指揮者になってさ。それまでも一年のうち
日本にいるのは数えるくらいしかなかったけど、丁度いい機会だからって本格的に拠点を
ドイツにしようって母とこの家を出て行くことになったんだ」
「海外赴任って、会社員の海外赴任をイメージしてました」
「間違ってはないでしょ」
くすりと湊は笑った。
湊の息が武尊の顔に掛かる。武尊は酔いの所為か、湊の息が甘く感じた。彼がゲイである
ことに、少しなれたのだろうか。武尊は湊と密着したまま話を聞いた。
「でね。そのときに僕の留学話も出たんだ。父親のコネってヤツ。コネって言うといかにも
ダメな子どもが裏口からこっそり入るイメージがあるけど、この世界そんなに甘いもんじゃ
ないからさ。下手くそなら弟子入りしてもすぐ切られる。コネなんてきっかけに過ぎない。
だから僕も割り切ってそれを受け入れようと思ったし、ドイツに留学ならしてもいいかなっ
て、少し期待もしてたんだけどね・・・・・・」
歯切れの悪い台詞が続いた。
「しなかったんですか」
「しなかったんじゃなくて、できなくなっちゃったって言うのが正しいんだけど」
何故、という瞳を送ると、湊の答えがやっと当初の投げた台詞に繋がった。
「だから、壊しちゃったんだ。家族を」
「え?」
「人生初のカミングアウトっていうの?ゲイだってばれかけちゃってどうせならって、思い
切ってカミングアウトしてみたんだ・・・・・・」
分ってもらえるかもという、甘い考えがどこかにあった。普通の家庭よりも寛大な両親だと
湊は思っていた。だから、自分がゲイであることも受け入れてもらえるんじゃないかと、
僅かな期待があったのだ。
けれど―――。
「最悪の結末が待ってた」
『気持ち悪いわ!』
『湊は頭がおかしくなったんじゃないのか』
面と向かって言われた台詞を湊は忘れられない。自分の全てを否定されるようだった。
息子への拒絶。期待を裏切られたと、湊にとってはたったそれだけの事で家族は壊れた。
「母さんは寝込んじゃうし、父さんは怒りで勘当だって言い出してさ。おかげで留学の話も
立ち消えちゃった」
湊の口調は軽かったけれど、悲しみが体中から溢れてくるようだった。
「それ以来、我が家はばらばら。空中分解したままもう5年もこんな生活してる。両親は
僕には連絡して来ないしね。姉さん経由で時々情報は来るけど、ここには一度も帰ってきて
ないし、これからも僕がいる限りかえってこないんじゃないかな。姉さんは両親ほどじゃ
ないけど、やっぱり一歩引いちゃってる。理解はしてくれてるけど、やっぱりカミングアウト
する前と同じようにはつきあえなくなっちゃった」
武尊はいつの間にか、肩に力が入っていた。湊の溜め息で、自分の体がカチカチに固まって
しまっていたことに気づく。
確かに家族が壊れるのなんて簡単な事なのかもしれない。壊れてしまいそうな武尊自身の
家族に湊の悲しみがダブってくる。
自分と湊は同じ悲しみを持っていると、武尊は思った。しかも、それだけじゃない。心が
ざわつく。湊に引力を感じている。この気持ちは何だ?
「父さんの力は意外とでかくてね。父さんの反対にあって僕は留学も出来なくなったし
プロのピアニストの道も絶たれちゃった。バックグランド失っちゃったんだよ。自費で留学
出来るほど、お金持って無かったし・・・・・で、駅前の音楽教室で講師なんてやってるわけ」
湊の壊した家族。壊れた残骸に囲まれて暮らしている湊。
「今となっては、別に僕はこれはこれで、満足してるわけだけどね。講師っていう職業は
結構自分にあってるみたいだし」
「本当に?」
「うん。この暮らしも悪くは無いよ」
そういいながらも、この家にしがみついている湊は、この暮らしに後悔があるからじゃない
んだろうか。
自分ならば、さっさとこの家を出てしまうだろう。帰って来るか分らない人間を待ち
ながら、辛い思い出の残された家になんていられないと思う。
壊れてしまった家族の思い出の中に埋もれて暮らしているのは湊なりの償いなのか。
「湊君はまるで、この家に囚われてるみたいだ」
「この家に囚われてる?そうかなあ。・・・・・・・・・そうかもね。自分が壊した家だから」
また胸がぎゅっと痛んだ。
壊した。家族を壊した。湊も、そして自分も。壊してしまった。
だから、こんなに心が共鳴してるんだ、武尊は心の奥底で唸りをあげようとしている感情
に説明をつけた。
「湊君はこの家にいるの、辛くないの?」
「辛い?」
「俺だったら、思い出ばかりの家に1人で住むなんて辛すぎるけど」
ずっと疑問に思っていた気持ちを武尊は尋ねると、湊は逡巡して答えた。
「・・・・・・リビングにあるグランドピアノ、あれ母さんのなんだ」
「ピアニストの?」
湊は頷く。
「ベーゼンドルファー」
「はい?」
ぽん、と出てきた単語に武尊は首を傾げた。
「聞いたこと無い?スタンウェイは?」
「えっと・・・・・・」
「じゃヤマハ」
「ああ、楽器のメーカーかな」
「そう。スタンウェイは言わずもがな名器だけど、ベーゼンドルファーも名器。しかもね、
ベーゼンドルファーは弾く人を選ぶの」
「人を選ぶ?どういう意味?」
「ピアノにも質があるから。気難しいピアノなんだ、アイツは。母はね、このピアノが
大好きで、ベーゼンドルファー弾きとしても有名なんだよね。あれでブラームスとか弾かれた
日には、僕ですら鳥肌が立って・・・・・・」
湊の台詞に懐かしさがにじみ出る。
「で、両親がこの家を出て行くときに、母が嫌味半分でこのピアノを置いていったんだ。
『このピアノが弾きこなせるもんなら弾いてみなさいよ。そしたら一流のピアニストって
認めてあげるわ』って言われてるみたいだったんだ」
同じピアノ弾きとして、母からの挑戦状に湊は逃げられなかった。
「・・・・・・やっぱり、劣等感感じてるんだろうな。悔しくて毎日弾いてるうちに、そのうち
僕もあのピアノにとり憑かれちゃったみたい」
湊は壊した家族をやっぱりここで待っているんだろう。修復できるか分らないものを、どう
することもなくただ待っている。
寂しくて悲しくて、そして自分と同じだと武尊は思った。
家族を失うことを受け入れられない。妻と男の姿を見て、終わったと知りながらも、まだ
どこかに希望を抱いている。
「人は何かに、誰かに、依存していなければ生きていかれないんだろうね」
「弱いな」
「弱くてもいいんじゃない?みんなそうやって寂しさを紛らわしてるんだと僕は思うけど。
だから人は誰かを好きになって、一緒にいたいと思うんだ・・・・・・」
掛け値なしの恋なんてきっとない。自分の穴を埋めてくれる人を探して、ぬくもりを求めて
るんだと、湊は思う。
「そういうものかなあ・・・・・・」
武尊はそう呟くなり、湊を包み込んだまま固まってしまった。
「武尊、さん?」
「・・・・・・」
窓辺から差し込んでくる月明かりでは武尊の表情までは読めない。何を考えているのか、
その無言は同調なのか、湊には分らなかった。
沈黙は続き、湊は体をくねらせて武尊を振り返る。瞳は閉じたまま武尊に表情はない。
「あのさ、武尊さん・・・?」
返事が無い代わりに、武尊の体がぐわりと動いた。回された腕が更に深くなって、武尊の
顔が湊の目の前に現れる。息使いが湊の口に伝わって、湊は武尊の吐いた酒まみれの息を
飲み込んでしまった。ぐいんと上がる体温と心拍数。
「ほ、武尊さん?!」
近づいてくる唇に、湊は全身が硬直した。
「ちょっと・・・」
このまま唇を重ね合わせてしまうんじゃないかと思った瞬間、武尊の口から規則正しい
寝息が聞こえてきて、湊に回っていた腕もぐにゃりと力なくベッドに沈んだ。
「・・・・・・寝ちゃったの?」
そろりと首を上げて武尊を覗き込む。あと1センチの所まで顔を近づけてみても、武尊は
目を開けることはなかった。
「そんな無防備でゲイと一緒になんて・・・襲われても文句言わせないよ?」
湊は苦笑いして武尊から顔を離した。
残念なような安心したような不安定な気持ちで、湊も武尊の隣で目を閉じる。
武尊の匂い。彼とは違う。湊はもう昔の恋人を思い出さないような気がした。
『失恋の痛みをやわらげてくれるのは、新しい恋をすることだ』
誰だよそんなことを言ったのは。湊はこの気持ちに気づき始めている。けれど、それを
まだ許す気にはなれなかった。
今はまだ、何も考えたくない。
ただ、こうして酔っ払いながらも帰ってきた武尊に、湊は満足してしまう。
「好きなだけいればいいよ、ここに」
武尊の体温に湊も眠気がさす。そして、そのままゆっくりと眠りに落ちていった。
目覚めると、武尊は別の体温を抱えていた。
腕の中には綺麗な顔で目を閉じている湊。すうすうと寝息が武尊の胸の辺りで繰り返され
ていた。
「え?!」
武尊は一瞬、何が起きているのか分らなかった。
何故湊がこんなところで眠っているのか。自分の腕がどうして湊に回っているのか。
昨日の夜の記憶を引きずり出して、頭がズキズキ痛んだ。
二日酔いだ。
自分の車を追いかけて見たくない現実を見て、そしてやけを起して1人で飲んだ。どう
やってここまで帰ってきたのか記憶に無い。部屋にどうやって上がってきたのか。
「そういえば・・・・・・」
そう考えてふと寝る間際に湊と交わした会話がぼんやりと思い出される。ここに湊がいる
ってことは、あの会話は夢じゃないのだろう。
そして自分はその湊を抱きかかえて安らかに眠っていた。酒の力もあってかここ最近で
一番よく眠れたような気がする。
湊を起さないように湊から腕を外すと、武尊はベッドから抜け出した。小さく伸びをして
しわくちゃになったシャツのボタンを緩める。床に落ちたままのスーツを拾い上げると
ハンガーに掛けて肩の埃を払いのけた。
「なんだかなあ」
急に不健全な気持ちが沸きあがってきて、武尊は耳が熱くなる。
湊を振り返れない。
湊が自分から一緒に寝るなんてことはきっとしない。湊をこの部屋で寝かせてしまった
のは自分の所為だ。
受け入れてしまいそうになっているのは、湊のどこの部分だろう。
ありえなかった感情が扉の向こうでノックしている。
静かにカーテンを開けると透き通る秋晴れの朝が武尊を待ち受けていた。
武尊は自分と湊の関係が変わっていくことを確信してしまった。
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