4階のオフィスからは秋の柔らかい日差しがブラインド越しに差し込んで、湊の髪の毛を
優しく光らせていた。
澄み切った晴天に合わせるかのように、湊の気持ちも随分とすっきりしているような気が
する。
あれから、武尊とは何も無い。出会った時に戻ってしまったかのように、一緒に夕食を
取ったり、リビングで他愛の無い話をしたりしている毎日だ。
不自然な関係が普通に感じてしまっているのは、寂しさを埋めたい気持ちが強い所為なの
だろうか。湊はそこに流れ始めている別の空気に目を向けないように、前だけを向いて
歩いている。だから、気持ちがすがすがしいのかもしれない。
「高瀬先生」
「はい?」
オフィスでレッスンとレッスンの間の僅かな休憩を取っていると、事務の女の子がやってきた。
「今日の3時からの生徒さん風邪でお休みだそうですー」
「田中さん?」
「そうでーす」
語尾を女の子らしく延ばして彼女は答えた。こういう可愛い女の子に、普通の男なら魅力を
感じるのかもしれない。彼女の香水の匂いが鼻を擽る。湊は軽く頷いた。
マグカップを片付けて、机の上の楽譜を手に取る。生徒が来ないのなら自分の練習にでも
当てようと湊はレッスンルームへと向かった。
湊はスコアを広げてピアノの前に座った。スコアには「亡き王女のためのパヴァーヌ」
と几帳面な手書きの文字が見える。湊の音大時代の友人が寄越してきたものだ。
『今度、日本に帰ったときに小さいライブハウスで内輪のコンサートやるんだけどさ、湊
伴奏よろしく』
『いきなり電話してきたかと思えば、何の事だよ』
『何のことって、聞こえなかった?俺のチェロの伴奏を湊にお願いしてるの』
『僕が?冗談でしょ』
『冗談でわざわざ国際電話しない』
『やめてよ、世界またに掛けてるチェリストの伴奏なんて、恐れ多すぎだって』
『俺が自分から伴奏を頼んだりするのは、俺が認めたヤツだけだぜ?』
『買いかぶり過ぎだよ。僕はただの音楽教室の講師だよ』
『音楽講師には勿体無い過ぎる講師だけどな。とにかくスコア送っといたから目通しといて』
『送っといたって・・・・・・相変わらず勝手だなあ』
『よく言われる。コンサートは来月の中旬だから。じゃあ』
そうやって嵐のように電話口でしゃべると一方的に電話は切れた。昔から彼はそうだ。
彼は、音大時代から抜きに出た才能で周りの人間を唸らせてきた天才チェリストだ。音大
を卒業してからは世界中を飛び回っている。何故そんな人間と自分が友人なのか湊自身、
不思議なのだが、彼が言うには「俺は湊の事、気に入っているからなあ。お前のその頑固
なまでのネガティブっぷりが面白い」かららしい。
自分にもあの行動力があれば、もしかしたら音楽教室の講師じゃない別の未来が見えて
いたかもしれないと湊は思うけれど、湊はあの時もそして今も、「この場所」から離れる
ことを意としていない。まるでここで誰かを待ってるみたいに、湊は今の暮らしを手放して
まで自分が変わるなんて考えられなかった。
「っとに、勝手だよね・・・・・・」
湊は手書きのスコアをぺらぺらと捲る。送られてきたスコアは全部で7曲。クラシックに
ジャズ。ポップスまでジャンルはごちゃ混ぜで、その全部が彼の編曲になっていた。
「しかも、どーいう編曲してんの。・・・・・・あいつらしいっていうか、すごいっていうか」
心を落ち着けてピアノに向かう。
送られてきた編曲はすばらしくて、湊の心は震えた。「亡き王女のためのパヴァーヌ」は
ラヴェルの傑作品だと湊は思っている。パヴァーヌは宮廷舞曲で、ゆっくりと優雅に、そして
憂いに満ちたメロディは、人生経験の薄い人間には絶対に弾きこなせないとも湊は考えている。
湊は漠然とこの曲を武尊に聴かせてあげたいと思った。
表面的に穏やかな日は続いた。湊は武尊が離婚届をどうしたのか知らない。ただあれ以来
武尊が酒によって帰って来る事はなかったし、湊に対して家庭の愚痴を零す事もなかった。
恋人でも友達でもなく、傷を癒す同士。そしてその中に見え隠れする新しい感情にお互い
気づきもせず、見向きもせず2人の生活が送られた。
11月に入って季節は一層進んでいくと、庭のハナミズキの葉も赤色に染まっていた。
「今夜はぐっと冷え込みますね」
リビングの窓ガラスに打ち付ける風の音が寒さを引き立たせる。武尊は風呂上りの体を
ソファに埋もれさせるように体を預けた。
「そんな薄着だと風邪引くよ」
「つい先週まではこの格好でも全然平気だったんですけどね」
「これからどんどん寒くなるよ」
去年の今頃はクリスマスの予定をどうしようか甘いムード一杯で悩んでいた。一年でこうも
変わるものなのかと、湊は自嘲したい気分だ。
今年は武尊とクリスマスを過ごすのだろうか。彼は何時までここにいてくれるのだろう。
(いつまでいてくれるって・・・・・・別にずっといて欲しいとか、そういうのって、変だよね)
湊はピアノの椅子に座りながら、方膝を掛けて頭をもたげた。
この瞬間の空気が堪らなく苦しい。武尊に求めるものが変わっていくのが怖い。湊はまだ
次の恋に踏み切る勇気も気力もないのだ。
びゅうっと打ち付ける風の音と共に、思いも寄らない訪問者を告げるチャイムの音が鳴り
響いたのは、リビングが沈黙しかかった時だった。
「誰・・・だろう。こんな時間に」
壁掛けの時計を見上げると、10時を少し過ぎていた。
「武尊さんの知り合いが尋ねてくるってことは・・・・・・無いよね?」
「・・・・・・誰にもこの場所は言ってませんので」
その言葉に湊はドキッとした。湊自信に後ろめたいことなど無いはずなのだから、武尊が
ここの場所を隠しているのは、武尊だけの問題なのに、まるで秘密の恋でもしているような
心がチクリと痛むような気になるのはどうしてなのだろう。
湊はピアノの椅子から立ち上がると、インターフォン越しに訪問者を確認した。
「・・・・・・どちら様ですか?」
夜の訪問者には、つい怪訝な声になってしまう。相手からは暫く返答がなかった。
「・・・・・・」
武尊を振り返ると、湊は首を振る。
「いたずらかな」
「そうかもしれないですね」
湊がインターフォンを切ろうとすると、風と間違うかのようなぼそぼそとした音がして、湊
はその手を止めた。
「・・・・・・誰?」
「あんた、高瀬湊?」
「・・・・・・そうだけど」
聞き覚えがあるような声だけれど、湊は相手が誰であるのか思いだせない。この微妙な沈黙
の間に湊は頭の中を片っ端から掘り起こしてみるが、僅かな声だけでは手がかりにはならな
かった。
「・・・・・・すみませんが、どちら様ですか」
「俺だけど」
「うん?」
「・・・・・・わかんない?」
要領を得ない会話に湊は苛立って、そしていつかもこんなやり取りがあった事を思い出した。
(この幼稚な会話は・・・・・・)
3年前、教育実習先の高校で手を焼いた高校生がいた。コミュニケーション不足なのか、会話
が下手なくせに、やたらと突っかかってくる男子学生――それが紺野真だった。
「紺野?」
「・・・・・・ああ、うん」
紺野は声のトーンを少し上げて返事をした。
懐かしさは僅かにこみ上げてきただけだった。それほど親しくした覚えはない。そもそも
紺野はクラスの中でも浮いていた。音楽の教育実習生相手に高校生は殆ど舐めた態度だったが
彼は自分のことを見下すような発言すらしていた。
あの時、湊はそんな紺野の態度にどうしていいか分らず、持て余してしまった。
「どうしたの、こんな時間に。っていうか、よく家分ったね。僕の事覚えてたのもびっくり
だけど」
「とりあえず、入れてくれない?」
すんなり迎え入れたくなる相手ではないけれど、こんな時間に尋ねてきて追い返すのも、
良心が痛む。殆ど忘れているような相手の元に突然やってきたのだから、それなりの事が
あるに違いない。
湊は武尊を振り返って溜め息を吐いた。武尊も複雑な顔をした。
「・・・・・・分った。ちょっと待ってて」
玄関の扉を開けると、同時に足元から冷たい夜風が吹き込んできた。一気に体が冷える。
湊は素足のままサンダルを履くと、門まで紺野を迎えにいった。
「うっす」
「こんばんは。久しぶり。3年ぶり?・・・・・・とりあえず寒いから話は中で聞くよ。入っておいで」
湊は扉を開けると、紺野を招き入れる。暗闇の中で、金髪の髪に乏しい表情の紺野は不気味
に映った。
「あんたさ、ここに1人で住んでるんだろ?」
「・・・・・・突然何?君、探偵でもやってるの」
「いや。ちょっと聞いたから」
「誰に!?」
「クラスの女子。あんた駅前でピアノ教えてるんだって?」
湊はリビングへと続く廊下を歩きながら、紺野に聞こえるように溜め息を吐いた。
「そうだよ。とりあえず、中に入れてあげたから、順を追って話を聞かせてもらおうかな」
リビングのドアを開けて紺野を入れると、先客がいたことに紺野は目を丸くして固まった。
「こんばんは」
武尊はソファから立ち上がって、社会人らしい挨拶をした。
「・・・・・・」
「挨拶くらいしなよ」
「・・・・・・ウッス」
「ウッスじゃないよ。初対面でしかも年上の人に向かって、そういう口の利き方しないの」
「・・・・・・うるせえなあ」
紺野は拗ねたように顔を逸らしてぼそぼそと文句を垂れた。
「っとに。とりあえず、座んな。お茶いれるから」
紺野をダイニングテーブルにつかせ、湊はキッチンの中でお茶を沸かした。武尊が部屋を出て
行こうとしてるのを見て、慌てて声を掛ける。
「武尊さんもお茶飲むよね?」
出て行かないでくれ、そう瞳で訴えかけると武尊は戸惑いながらも頷いた。
武尊は湊からマグカップに淹れたお茶を受け取ると、二人から距離を置くように、リビング
のソファまで態々戻っていった。
湊は紺野にお茶を出すと、ダイニングテーブルの対面に座る。コチコチと鳴る壁の時計が
2人の沈黙の代わりに一生懸命間を持たせているように思えた。
「紺野、何やってるの?・・・・・・そういえば、クラスの女子から僕の事聞いたって言ってたけど」
湊は一瞬自分の計算がおかしいのかと思った。
湊が教育実習で紺野の高校を訪れたのは3年前だ。その時、確か紺野は高校一年だったはずだ。
普通に考えれば、今は卒業してる。クラスの女子とは、大学か専門学校の事なのだろうか。
「・・・・・・高校行ってる。今3年」
「留年したの?」
「2回目の3年」
「あーあ、やっちゃったね」
「別に。去年、殆ど行ってなかったから、多分するだろうって分ってたし」
「だったら、行けばよかったのに。卒業する気はあるんでしょ?」
「わかんねえ」
紺野は金髪の髪の毛を掻きあげた。耳に開けたピアスの穴が何箇所も見える。そのうち1箇所
にはシルバーのリングが引っかかっていた。
随分と印象が変わったと湊は思った。3年前、湊が教育実習で訪れたとき、紺野の髪は
黒かったし、耳にピアスの穴も開いてなかった。ただ、ぶっきらぼうなしゃべり方と、何となく
クラスから浮いているのは分ったけど、こんな風にはみ出てしまうような子にも思えなかった。
「湊は先生にならなかったのかよ」
「ちょっと、呼び捨て?」
「前からそうだっただろ」
「・・・・・・言っとくけど、紺野より6つも年上なんだけどね」
「あんた、子どもみたいな顔してるし、そんな上に見えねえよ」
「見えなくても、年上だよ。・・・・・・教職はね、一応取ったんだけど、教師になる気もあんまり
なくってね。それで駅前の音楽教室で講師」
「ふうん。・・・・・・で、1人暮らしじゃないの?」
紺野は冷たい視線でソファに座る武尊を見た。
「1人暮らしだよ。今はちょっと事情があって、あの人――武尊さんって言うんだけど、彼
と2人で住んでるけど」
「親戚?」
「ううん、ちょっとした知り合い」
「知り合い・・・・・・?何時から住んでんの」
「ここ最近だよ。なんでそんなこと聞くの。っていうか、そもそも、紺野は家に何しに
来たの。近況知らせてくれる為に来た訳じゃないんでしょ」
紺野は眉間に皺を寄せて、言葉を呑んだ。
それからテンションがぐっと下がって、紺野はまた黙ってしまった。
「紺野?」
「・・・・・・」
「黙ってちゃわかんないよ。僕に何か用事があったんでしょ?だから、態々こんな時間に
家まで来たんでしょ」
湊は教育実習の頃を思い出して、先生口調になりながら紺野を覗き込んだ。
「・・・・・・なあ、俺もここにいさせて」
「え?」
「あの人がいいなら、俺もいいだろ?」
「ちょっと、急に何言ってるの」
「こんだけ広い家なら、一つくらい部屋余ってるだろ」
「そう言う問題じゃないよ」
「じゃあどういう問題だよ」
「お家の人とか心配するでしょ」
「関係ねえよ」
「なくないよ。君、まだ未成年だよ」
紺野は机の下で拳を握り締めて履き捨てるように言った。
「・・・・・・帰る所、ないんだッ」
湊が驚いて紺野の顔を覗くと、彼も自分達と同じ瞳をしていた。
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