なかったことにしてください  memo  work  clap



 最初はただの「すれ違い」だと思った。しかし、あまりにもすれ違いが多すぎて、実は
意識的に避けられているのではないかと感じ始めていた。
 まあ、昨日の出来事を考えればさすがに吉沢さんだって俺には会いづらいだろう。年下
の部下にあんな姿を見せる羽目になるなんて、吉沢さんのプライドが許さないのだろうと
俺は思う。だから、避けられていても仕方ないと諦めることができる。だけど、せめて
体調はよくなったのか位は確認させてもらえてもいいのではないのだろうか。
 俺は大きなため息を付いて課長の所へ向かった。昨日2時までかかって仕上げた営業
研修の指導案を提出するためだ。
 午前中にプロジェクトの主任に3度突っ返されてやっと印を貰えた出来立てホヤホヤの
それを吉沢さんに提出するという口実で、俺は勇んでブースのパテーションを叩いた。
 課長のブースには吉沢課長の他、2課、3課の課長と、営業部長の机があり、この4人が
すべて机に向かっていることは殆どないが、どの課の部下が来ても必ず誰かが担当して
くれるようになっている。
 それ以外には、事務の女子社員が3人、雑務を執り行っていて、俺がパテーションを
叩いて訪ねた時も、女子社員が取り次いでくれた。彼女は今年から課長付きの事務として
ここで働いているが、何度となく取り次いでもらっているので、少しだけ融通を効かせて
もらえる。
「吉沢課長、お願できますか?」
「ごめんなさいね、吉沢課長、取引先の方がいらっしゃって、今接客中なんですよ。緊急
の用件ですか?」
「そうですか。うーん。緊急ではないんですけどね、今度の新人研修の指導案のチェック
をお願いしようと思って。一筆添えて机の上においておきますので、その旨伝えてもらえ
ますか?」
「ええ、いいですよ。じゃあ、メモ用紙持ってきますね」
彼女が机にメモ用紙を取りに戻ったところで、2課の黒谷課長がブースに帰ってきた。
「どうした?お、君は吉沢君のところの・・・」
「あ、黒谷課長。営業1課の深海です」
 俺は慌てて頭を下げる。
 黒谷課長は35を少し過ぎた見るからに働き盛りのサラリーマンだ。美男子とか、かっこいい
とかいう形容は一生付かないだろうけど、働く男といった男くさい形容がよく似合う。
「吉沢君に用事か?」
「ええ、今度の新人研修の指導案を提出に来たのですけど、来客中とのことだったので、
メモ残していこうと思って」
「ああ、じゃあいいよ。俺が預かってやるから。それとも、俺達もチェックするわけだし
先に見てもかまわないなら、俺と、田崎課長でチェックして後で吉沢君に渡しておくけど」
「本当ですか?お願いします」
俺は手にした書類を黒谷課長に渡した。本当は吉沢さんに少し会いたい気もしていたが、
会ったところで気まずくなるのは分かっていたので、その場はそれで引き下がることにした。

 今日の朝は散々だった。吉沢さんに連れて行ってもらえなかったことのいやみを5人
くらいに言われ、いつも9時半過ぎには進捗を確認しに来るはずの吉沢さんが10時半を
過ぎても現れないので、ブースがざわつき始め、その矛先が一気に俺に向かってきたのだ。
「吉沢課長、今日は遅いのね」
「ホントねー。何かあったのかしら。お休みの連絡はきてないみたいだけど」
「深海さん、昨日吉沢課長に無茶させたとかじゃないわよね」
「そんなことしませんよ。何かの用事でしょう」
といいながらも内心は気が気ではなかった。取引先との電話打ち合わせのため、今朝の朝礼に
出られなかった俺は吉沢さんの出欠を確認出来ていない。そのうち進捗確認のために来るだろう
と踏んでいたのだが、それにも顔を出さないので、あのままうなされて寝ているのではないか
と8割方思い込んでいた。
 ところが、わずか15分程席を外していた隙に状況は一遍していた。自分の席に戻った俺に、
立川さんがすかさず話しかけてきた。
「ふふふ。今ね、吉沢課長が来てねー。今度飲みにつれてってくれるんですって」
「え?あ、そう」
休みじゃなかったんだ。そう思って安心したような、悔しい気持ちになる。よりによって俺の
いないときに来なくたっていいのに。
 吉沢さんの体調が気になったが、立川さんに様子を聞くのも余計な小言を言われる気がして
辞めた。ただ、立川さんの話し方からすると、あからさまに熱のある顔ではなかったのだろう。
すると、斜め前の席の派遣事務の桃井さんが、笑って言った。
「立川さんってば、強引に飲みにつれてくように迫るんだから、課長、真っ赤になってたんですよ」
「やだー、そんな強引になんて迫ってないですよ」
いや、強引に迫ったのだろう。それにしても、真っ赤とは、本当に真っ赤になったのか、熱のせい
なのか、気になるところだ。
 でも、研修案の提出もあるし、出社していることが分かればそのうちどこかで会うだろう。
俺は高をくくって仕事に戻った。
 が、昼を過ぎて今日4度目の席を外たときに、別の不安が頭を掠めた。そして、席に戻った俺は
それが、明らかな不安となった。
「聞いて聞いて、今ね、吉沢課長が来てねー」
立川さんからその台詞を今日3回聞いた。そして、俺は未だに一度も吉沢さんに会っていない。
偶然のすれ違いなのか、それとも意識的に避けられているのか。
 そして、極めつけが研修案の提出である。吉沢さんに来客があるのはけして珍しい
ことではない。
それ故狙って避けているとは言いがたいのだが、ここまで偶然が重なると、いやでも
そう思わずにはいられなくなる。
(会いたくないないのは分かるけど、せめて体調くらい確認させてくれたっていいのに)
俺は既に吉沢さんが俺を避けているのだと決めつけて、自分のブースに戻った。
 1時間ほど雑務を片付けていたが、どうにもイラつきが収まらず俺は席を立った。
「すんません、ちょっと休憩してきます」
そう言って俺はタバコの箱をくしゃっと握りつぶす。俺が休憩に向かうのは雨の日以外は
大抵が屋上だ。都会の屋上なんて、たいしていい眺めではないけれど、四方をコンクリート
で囲まれて息が詰まる建物の中より幾分安らぐ。出身が地方な為か東京に出て8年経つ今でも
土や緑の木々がある方をついつい求めてしまう。
 会社の屋上はちょっとした公園になっているのだ。温暖化対策として、取り入れられたこの
屋上緑化計画は、どこまで功を奏しているのかは謎だけれど、少なくとも俺の心は癒してくれ
ている。
 おもちゃみたいに、植えられた木々を抜けて屋上の手摺にもたれ掛かる。午後の日差しが
やわらかい。5月の心地良い日差しの下でタバコと屋上に来る途中で買った缶のコーヒーで
自分の理性を取り戻そうとした。
 昨日から変だ。
正確に言えば、昨日吉沢さんを部屋に送ってから。妙にドキドキしてる。好きになりそうな
予感がして怖くて仕方ない。
 なけなしの常識で否定をしてみるものの心は吉沢さんを描いてしまう。ありえないと思う。
と同時に、あらぬ想像をして自己嫌悪に陥る。それの繰り返しだった。
 人を好きになることに境界線はないとは思うけれど、どうせなら障壁は低い方がいい。こんな
男・年上・上司なんていう三重苦をわざわざ超えてまで手に入れたいとは思わないし、考えても
気が滅入る。
 そして、根がポジティブではない俺は「気に当たった」だけで、そのうち忘れるさ、と自分を
慰めることしか出来ないのだった。
 二本目のタバコを吹かしていると、後ろから知った声がした。
「おはよう、深海」
振り返ると、いつもの顔をした吉沢さんだった。
「あ、おはようございます、課長」
吉沢さんは俺と並んで手摺にもたれ掛かった。さわやかな風が吉沢さんの髪の毛をふわっと
掻き揚げる。何でこの人はこれだけで可愛くみえてしまうんだろう。
 あ、やべ、俺重症かも・・・
「あ、あの...」
「ん?」
「体調は・・・」
そこまで言うと吉沢さんは作っていたポーカーフェイスを止めて困ったように笑った。
「出社して、お前に会って、昨日のことは全部夢でしたって確かめられたらよかったのにな」
「あ、あの、すいません・・・」
「なんで、そこで深海が謝るんだよ。全部俺が悪いんだ。昨日はいろいろ迷惑かけて
悪かったな」
「いえ、そんな、俺と飯食ってたせいですから・・・体調はどうなんですか?」
「まあ、熱っぽいっていえばそうなんだけど、昨日よりはマシだよ。多分、ただの風邪
だと思うし。喉の方がちょっと痛むけどな」
「そうですか、大事にならなくてよかった。俺朝から全然吉沢課長に会わないから
てっきり今日は休みかと思ってました」
そういうと吉沢さんは観念したようにため息を吐く。
「ホント言うと、少しだけお前に会わなくてすめばいいのにとも思ってたよ」
「じゃあ、やっぱり、わざと避けられてたんだ・・・」
「阿呆、思ってただけで、ホントに避けてたわけじゃないだろ。それにこうして、わざわざ
お前の提出物ここまで届けに来てやったんだから」
吉沢さんは手にしたクリアファイルを渡してきた。それは昼に提出した研修指導案だった。
「あ、ありがとうございます。わざわざすみません」
「ああ、いいよ。それ、結構いい案だな、がんばれよ」
「そうですか!ありがとうございます」
俺は吉沢さんに褒められて妙に嬉しくて頭を下げる。俺は投げた棒を拾ってきて頭を
撫ぜられてる犬の気持ちを思った。多分俺、犬と同じだ。
 後輩指導に飴と鞭の使いようだとはよく言ったもので、俺はまさにその典型だ。吉沢さん
に叱咤されて、褒められて成長していく。26の男が未だにこんな調子なのだから、社会人
一年目のヤツなんてもっとそうに違いない。
 どうやら俺はまた、後輩指導のノウハウを吉沢さんから身を持って教えられたらしい。
ホント、すげー人だと思う。下げた頭を上げるついでに吉沢さんを見る。こんなすごくて、
そんでかっこよくて、でも、熱出すとあんなにくにゃってなって、腕だって細くて
・・・あ、やべ。
顔がにやけそうになって、クリアファイルで慌てて顔を隠した。
 だから、なんでそっちの方向に向かっていくんだ、俺は!!
吉沢さんは上司。上司で、男。俺の憧れの先輩。一番尊敬する人!!だから、細い腕とか
腰まわりとか、綺麗な顔してるとか、そういうことを考えるな俺ー!!
 俺がクリアファイルの内側で悶々と戦ってると、吉沢さんが首を傾げた。
「深海?どうした?」
何とか顔を取り繕って、顔からファイルを離す。
「いえ、なんでも・・・」
「ん?お前、顔赤いぞ?・・・風邪、移ったりしてないよな?」
心配そうな顔をされてバツが悪くなる。ヨコシマなこと考えて顔が赤くなったなんて、しかも
その相手はあなたなんです、なんてとてもじゃないけど口に出来ない。
「いえ、大丈夫です。それより、吉沢さん、今回のプロジェクト、解体するってホントですか?」
俺は話を逸らすために今朝の朝礼で話が出たらしい、プロジェクト解散話を振った。
「ああ、お前も朝礼出てなかったらしいな。解散っていうかな、営業プロジェクトだけじゃなくて、
企画、流通、CSまでのでっかい編成を一つ作ろうという動きが出てて、それで、営業プロジェクト
の一つもそこに入れるつもりなんだ。プロジェクト進行具合と適正を考えると、お前のトコか
あと隣の山下主任のとこか・・・どっちかになる予定。まあ新人研修の後だから、お前はとりあえず
研修がんばれよ。俺も研修責任者で参加することになったし」
「ホントですか!」
俺は嬉しくて思わず一歩乗り出してしまった。吉沢さんがびっくりして俺の一歩分後ろに下がる。
「ああ、一応そのつもりでいたけど・・・お前、俺が参加するからってサボるなよ」
「サボりませんよ!!俺、がんばります!!」
熱血漢満載な返事をして、さらに有り余った情熱で吉沢さんの両腕をがしっと掴む。
半ば確信犯的な思想で触れた吉沢さんの腕はやっぱり細く、そのまま抱き寄せてしまいたくなる。
「ちょっ・・・深海、痛い」
らしくない吉沢さんの声に気づいて俺は掴んだ手を慌てて外した。
「すみません、吉沢さんが一緒に参加してくれるって言うんでちょっと興奮してしまいました」
あはは、と笑ってその場を誤魔化す。吉沢さんは俺が掴んだ右腕の辺りを左手で軽く摩っている。
そんなに強く触れたつもりはないけど、それとも嫌悪を表れなんだろうか。
 吉沢さんは瞬間俯いて、くっと顔を上げるといつもよりにっこり笑って
「うん、がんばれよ」
と激励をとばした。
 やばいな、俺。マジでこのままはまっちゃうんじゃないのか?
 飛び出しそうな心臓を無駄につけた胸筋で押さえつける。まだ引き返せる。大丈夫、これは
一時期の迷いだ。まだ、大丈夫。
 ・・・ホントに、大丈夫なんだろうか・・・。


 俺が課長から決済印を貰ってから1週間後に新人研修が始まった。ホントにこの時期は忙しい。
新人研修なんて前々から判っていることなのだから、事前に準備をしていればよいものを、
忙しさにかまけて後回しにばっかりしていたおかげで、新人研修という大きな仕事ですら、
自転車操業のような状態にしてしまうのだから、俺ってホントにダメな社員だよな。
 吉沢さんが参加することになったのも、多分尻拭いか、責任取れと部長あたりに言われた
からなのだろう。
 そう思うと、一緒に仕事ができるという嬉しさよりも、申し訳なさで一杯になった。
ふがいない社員で済みません・・・。
「はい、では今日からは営業研修の2弾ということで、実際に営業に出てもらいます。勿論、
研修なので君たちだけでは行かせませんが、先輩社員の交渉術などを学んだ後には君たちにも
営業してもらいますので、気を抜かずに先輩社員の営業を学んでください」
 今年の営業配属は15人。昨年、一昨年と採用がなかったためか、今年は一気に大量の社員を
採用したのだ。
 コンスタンスに毎年採ってくれればいいのにと俺は思うのだが、会社の方針なのだから仕方
あるまい。
「では、今からみなさんにどの社員につくか資料を配りますので、それで確認してください。
先週の研修と同じように、研修中は研修日誌を付け人事部の方に提出してください。また、
営業研修中に担当の社員から営業研修書を提出するように言われたら、それに従ってください。
基本的に、朝はここで前日の反省会を行いますので、明日からも出勤したら会議室に集まって
ください。では、資料を配ります」
俺は資料を配り、自分の名前を確認するように促して、隣にいた吉沢さんと交代した。
 吉沢さんはゆっくりと椅子から立ち上がると新人たちの前で話し始める。
俺はそんな吉沢さんの姿を見て、何をやっても様になる人だよなぁと関係ないことを思っていた。
「自分の名前確認できたか?今日から2週間の研修、これが最後の研修だから、気を抜かず
しっかりと学ぶようにな。担当の社員の隣に課の名前が書いてあるから、ガイダンス解散後、
その場に行って指示を貰うように。俺の名前があるやつが3人ほどいると思うが、その人たちは
ここに残ってくれ。以上」
吉沢さんから解散の声が掛かると、一斉にその場がざわめきだした。先週の研修でそれなりに
先輩社員の評判を聞いているらしく、小さくガッツポーズをしているヤツさえいた。
 確かに俺だって吉沢さんが担当してくれたら今でも小躍りして一緒に営業回っちゃうよ。
俺も新人に混じって吉沢さんについて回りたいぜ..。
俺がそんな馬鹿なことを考えていると、となりで頭一つ小さな吉沢さんが俺のわき腹を小突
いてくる。
「いて」
「深海、何ぼーっとしてんだ?」
「あ、いえ・・・」
「お前、まさか、新人とまじって研修受けたいなんて考えてないだろうな?」
「あ、れ〜・・・吉沢課長、読心術までお持ちで・・・」
「阿呆。お前だってちゃんとがんばれば、営業成績あがるはずなんだからな。ぼやぼやしてると
新人に先越されるぞ?」
「や・・・それは、勘弁してほしいっス」
最近の俺の営業成績は・・・あまり触れて欲しくないほど不調だ。それもこれも元はといえば、
隣の山下主任のとこの俺の同期がとんだヘマをしたせいでこっちまでとばっちりが来て、
それ以来その処理と雑務に追われ、まともな営業を掛けれてないせいではあるのだけれど。
 おかげで、俺の今のやる気は限りなくゼロに近い。
更に、今のプロジェクトに吉沢さんがいないってこともやる気をなくさせる要因だ。
どれもこれも今は負の連鎖反応が止まらないらしい。
 さすがにこれ以上営業成績を落とすと、呼び出しが待っているに決まってるので、いい加減
がんばらなくてはならないのだけれど、そうなると、やっぱり吉沢さんの後ろを付いて
いきたくなるっていうのが、俺の今の心情。
 新人が甘ちゃんだとかほざいておきながら、一番甘えてるのは実は俺なんだろうな・・・。
ため息を漏らすと、吉沢さんが俺を見上げる。
「俺はどれだけ、お前をよいしょしたら、いいのかな、深海?」
「あ・・・えーっと・・・済みませーん・・・」
俺は、小さな声でぼそぼそ謝りながら、吉沢さんを見る。
 吉沢さんは呆れた顔でため息を吐くと、そろそろ集まるから、お前は仕事に戻れよ、
と笑っていった。
 俺は、何故だか肩身の狭い思いをしながら、会議室を後にした。


<<4へ続く>>








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