吉沢さんのいない人生なんて、もう考えられない。
新入社員もそろそろ落ち着いて来た6月半ば。梅雨空の鬱陶しさに更に輪を掛けるように
俺の隣では相も変わらず新井健太が頬杖を付いてデカイ溜め息を撒き散らしていた。
「はあ〜、せんぱ〜い。俺、どうしたらいいっすかねえ?」
「ええい!鬱陶しい!こっちは、お前の気持ち悪い恋愛話なんて聞き飽きたんだよ!寝ぼけて
ないでさっさと仕事しろ!」
「違いますよ〜、酷いなあ。ちょっとは話を聞いてくださいって」
「恋愛話じゃなかったら、お前の妄想話か?」
「だから、違いますって。それに吉沢課長のは俺の妄想じゃないっす」
この新井健太という社員は、入社二年目の頭に「馬鹿」だけでなく「大」までつけなければ
語れない、本当に大馬鹿社員で、事ある毎に俺を悩ませる頭痛の種だ。
この前も「吉沢課長に恋されてるかもしれない」という、それはまあ、なんというか
自意識過剰もいいところの勘違いをしたせいで、俺と吉沢さんは振り回されて、酷い目
にあった。(尤も、酷い目に遭ったのは俺で、しかもその原因の殆どが俺の責任で、ぶっちゃけ
言っちゃえば、俺が悪いんだけど、こいつさえ大人しくしてれば、上手くいったのだから
俺は勝手に新井の所為にしてる)
その新井が、また呆けた顔して溜め息なんて吐いてるから、俺は内心気が気じゃなかった。
新井が暴走すると絶対にとばっちりを喰らう。新井は雨の日に暴走する原付と同じだ。
泥水跳ねて、周りを汚した挙句マンホールの上で滑って転倒。傍から見てれば「お気の毒」
程度の怪我かもしれないけれど、暴走原付に泥水跳ねられた通行人の身にもなれってもんだ。
笑って許してやれるほど、俺は心広くないぞ。
「ねえ、深海先輩〜」
「ああん?!」
新井は鬱陶しい顔でまだ俺の名前を呼んでいる。
「聞いてくださいって」
「あー、もう、分かった。分かった。なんだお前のため息の原因は!」
キャスター付の椅子をくるっと回転させて新井を振り向くと、新井は頬杖をついていた顔を
あげた。
「聞いてくれるんですか。やっぱり深海先輩頼りになるっす」
「そんなお世辞はどうでもいいから、さっさとお前のつまらん悩みを吐いて、そのため息を
止めてくれ」
「はあ・・・・・・実は・・・・・・」
新井は何ともいえない神妙な顔つきで俺を見た。
「何だ?」
「あの、兄ちゃんが」
「お前の兄貴が?」
「・・・・・・兄ちゃん、結婚するんです」
目出度い話の何が悪い。俺は早々に呆れて新井から目を逸らした。もはやこいつの口癖に
なってる「兄ちゃんが・・・」だけれど、数々の新井の兄ちゃんの話題の中でも、とびきり
どうでもいい話だ。
「そりゃよかったじゃないか」
「よくないんです!」
「なんじゃそりゃ。・・・・・・まさかお前、大好きな兄ちゃんが結婚して寂しくなるとか、
そんなアホな事いうなよ」
俺は完全に聞き流し体勢に入って、キーボードに手を置きながら新井に言う。
「いくら俺だって、そんなこと・・・・・・ちょっとは寂しいっすけど」
「寂しいのか!」
お前今年で24だろ、じろっと目を遣れば新井は何故か照れたように頭を掻いた。
こいつ、やっぱりおかしい。
「でも!寂しいからって結婚反対してるわけじゃないっすよ。心から祝福してるし」
「あ、そう」
「でも、兄ちゃんが心から結婚に前向きになってなくて・・・・・・」
「はあ?」
新井の声が小さくなったので俺はながら作業の手を止めて、仕方なくもう一度新井を振り
返った。
「結婚相手に不満があるとかそんなんじゃないみたいなんすけど」
「はあ・・・」
間抜けな返事で返すと新井は詰め込むようにしゃべった。
「兄ちゃん、どうも未練がある人がいるみたいなんっすよ。昔の恋人っぽいんすけど、その
人ともう一度ちゃんと話したいとかなんとか・・・・・・。兄ちゃん凄い優しくて、俺のこと
むちゃくちゃ可愛がってくれるのに、自分のことはあんまり話してくれないし、俺も兄ちゃん
の昔の恋人とか知らないし。それで、俺すげえ心配になっちゃって。婚約も済んでるし、
結婚式だって日にち決まってるのに。俺は兄ちゃんにも、お嫁さんにも幸せになって欲しいっす。
だから、兄ちゃんの悩みの種をちゃんと解消して結婚して欲しいんすけど」
「ふうん・・・」
気のない相槌に、新井は飛び掛ってきそうな勢いで俺に椅子ごと近づいた。
「だから!どうしたらいいっすかね?!」
ドアップの鬱陶しさ満載の新井の顔を手で追い払って俺は叫んだ。
「そんなもん、知るか!」
押しのけられた新井はスライムみたいにデロンと机の上に溶けていたが、俺はそれ以上は
あえて無視した。
そんなプライベートなこと相談されて、俺にだってどうすることもできないだろうが。
新井の兄貴がどんなやつか知らないけど、「兄」ってことは新井よりもいくつかは年上
なんだから、どう考えても立派な成人男性に違いない。
大人なんだから、そんなことは自分で解決するだろうし、新井が心配したところで、どうこう
なる問題じゃないだろう。
それこそ俺の出る幕などないはずだ。
「悩み聞いてやったんだから、さっさと仕事しろよ」
「解決してないっす〜」
「お前なんかが心配せんでも、お前の有能な兄貴とやらが自分で解決するだろ」
新井を振り返れば、新井は溶けたまま、グスグスと俺を恨めしそうに見ていた。
「ああ!もう、鬱陶しい!これ食って元気出せ!」
俺は派遣の桃井さんがくれたチョコレートを新井に投げつけた。
「せんぱ〜い」
新井の悩みなんて、所詮こんなくだらないことなのだ。そんなことで、ここまで落ち込む男
も珍しいけど、新井の兄貴って一体何モンなんだろうな。俺は新井にそっくりのダメ社員を
想像して苦笑いした。
けれど、この新井の悩みと新井の兄貴の所為で、俺はまた泥水をかぶる羽目になるのだ。
「・・・・・・で、深海はその新井の愚痴を俺に聞かせるために来たのか」
「そ・お・じゃ・な・いっす・けど!」
吉沢さんが俺の話に呆れながら呟いている。
俺は行儀悪くソファを跨いで吉沢さんの隣に座ると、ローテーブルに並んでいたビール
のグラスに手を伸ばした。
仕事帰りにいつものように吉沢さんのマンションに寄って、いつものようにいちゃいちゃ
ラブラブタイムを過ごす、俺の至福のひと時。
ソファに埋もれながら吉沢さんに寄り添うと、吉沢さんも言葉では呆れているのに、俺の
肩に頭をもたげて俺たちは密着した。
むちゃくちゃ出来る上司で課長である吉沢さんと、もう付き合い始めて2年。けして安泰
で平凡な毎日じゃないけれど(事ある毎に問題が起こるのは誰の陰謀なんだか、俺がトラブル
メーカーなのか)一応今の俺は幸せだ。
男同士だし、上司だし、会社にいつばれるかわかんないし(既に斉藤さんという上司には
ばれてるけど)この先の幸せを一生保障してくれるわけじゃないから、考えてしまえば不安
にならないことはない。
せめてこの不安定なつながりを形に残せないかなって思って一緒に暮らしたいと思ってる
のに、吉沢さんはそれを許してくれないし。
男同士だから結婚するわけにもいかないけど、俺は一生吉沢さんの近くにいたいって
本気で思ってるんだけどな。けれど、吉沢さんの方はどう思ってるかわからないから余計
に不安は募る。
そこへ来て、あの新井のバカチンがまたもわけの分からない悩みなんか持ちかけてくるから
俺だって吉沢さんに愚痴のひとつも零したくなるってもんだ。
「はあ・・・俺に幸運の女神降ってこないかな」
「なんだそれは」
「だって、俺、疫病神背負ってるように思えて仕方ないですよ」
「疫病神?新井のこと?」
「はい」
「深海にとってもお似合いな弟分だってみんな言ってるぞ」
「冗談やめてくださいよ」
手にしたビールを喉を鳴らして飲み干すと、俺はグラスをテーブルに戻す。
それと同時に、テーブルの隅に重ねられた新聞や雑誌の上にマンションのパンフレット
が何枚もおいてあることに気がついた。
「吉沢さん、マンションでも買うんですか?」
「・・・・・・いや、ちょっと見てただけで・・・・・・」
俺がパンフレットに手を伸ばすと、吉沢さんは少し慌てたような素振りを見せた。
手にしたパンフレットに目を通すと、どれも会社からそれほど離れてない、駅前の高そうな
新築マンションばかりだった。
その中の一つに名刺が挟まっていて、俺は何の気なしにそれを手に取った。
今時の営業っていうのは顔写真入りの名刺を作ってる会社が多いけど、この名刺も例に
漏れず、体育会系の鑑みたいな笑顔の営業マンの顔写真がプリントしてあり、その隣には
「営業課長 前園嵩弥(まえぞのたかや)」と名前が入っている。
裏返したのは、特に意味はなかった。けれど、そこにはペン習字のお手本の様な字で
メッセージが残されていて、俺はそれを目で追っていた。
『先日はご来店ありがとうございました。ご希望のお部屋がありましたら、お気軽にご連絡
ください。吉沢君のお願いなら多少の融通は利かせるよ』
「・・・・・・?」
最後の一文にこめられた馴れ馴れしさに俺は思わず吉沢さんと名刺を見比べてしまった。
「ああ、たまたま見に行ったマンションの営業が、昔の知り合いだったんだ」
「ふうん、そうなんですか。でも、この部屋でも十分贅沢なのにマンション買うなんて、
吉沢さんなんかあったんですか」
「別に何にもないさ。まだ見てるだけだし。買うのはずっと先の話。でも家賃払うのだって
もったいないだろ。頭金くらいの貯金ができたからちょっとずつ見てるんだ」
「俺は先立つものが何もないです・・・・・・」
マンションなんて云千万もするようなものを買うなんて今の俺のビジョンにはない。
貧乏人はアパートの家賃払うので手一杯で貯金だって高が知れてる。まあ、吉沢さんの様
な高給取り(だと勝手に俺は思ってる)のような人なら、駅前の高級マンションだって、
ポンと買うんだろうけど・・・・・・でも、マンション買うってことは・・・・・・
心によぎったのは一抹の不安。
マンション買う=終の棲家・・・・・・ってこと?それって、それって・・・・・・。
そのマンションって、一人で住むの?誰と住む?
聞きたいことがぐわっと押し寄せてきたけれど、なんとなくどれも聞けるタイミング
じゃなくて俺は尻つぼみ気味にパンフレットをテーブルに戻した。
その拍子にさっきの名刺がぱらりと落ちて、笑顔の営業マンが俺を見た。前園さん、か。
「深海?どうした」
「・・・いや、なんもないです」
吉沢さんの肩を引き寄せて、おでこに軽くキス。あれこれ考えても仕方ない。目の前には
自分にはもったいないすぎる恋人がいるんだし、今はその幸せを楽しむ方がずっといい。
さらさらの髪の毛を指ですくって頭の後ろまで辿ると、一気に引き寄せてカプリと吉沢
さんの唇を食べた。
「んんっ・・・・・・」
ビールの味。するっと口をあけて吉沢さんが俺の舌を迎え入れてくれると、お互い器用に
絡ませる。ざらざらとした舌の上を伝って、裏側に回る。ぬめっとした感触に吉沢さん
が身をよじった。
吸い付いて、引っ張り出して、甘噛みして、絡み合って、それから一呼吸。
「はっ、ふぅ」
僅かに離れて、吉沢さんの頬を指でなでた。気持ちよさそうにうっとりとして目を閉じる。
再び、そのてかった唇をぱくりと食いついて、吉沢さんとつながると、今度は吉沢さんに
舌を吸われた。
吉沢さんの腕が俺の腰に回って、俺はその身体ごと吉沢さんを抱きしめる。ジムに通って
少しだけ筋肉のついた肩を伝って、やわらかい腰周りをなでながら、溺れかけそうなほどの
キスを繰り返した。
ああ、やっぱりいい。
唇を離して、うなじに顔をうずめて吉沢さんの匂いを確かめると、今朝付けていった
香水がまだ仄かに匂った。アクアマリンの中に吉沢さんの匂いが心地よくて、くんくん
鼻を嗅がせていると、吉沢さんがくすぐったそうに身体を離す。
「お前は犬か」
「吉沢さんの犬でもいいですけどね。ハチ公よりも忠実ですよ」
「ばーか」
うふふ。頭の中にお花畑が出現して、俺は吉沢さんをぎゅっと抱きしめた。
無言で二人寄り添っていると、吉沢さんが俺の腕の中でもごもごとしゃべり始めた。
「あのさ、深海・・・・・・」
「はい」
「お前は・・・」
「はい?」
少し身体を離して吉沢さんを見下ろす。目が合うと吉沢さんは動かし始めていた唇を一度
止めて、首を振った。
「いや、やっぱりなんでもない」
「なんすかそれ」
「いいんだよ、気にするな」
そういうと、吉沢さんは強引に俺の唇に吸い付いてきた。
何かを埋めるみたいに、強引でちょっと乱暴なキスは吉沢さんらしくなくて、唇が離れる
と俺は思わず呟いてしまった。
「・・・・・・吉沢さん、なんか変」
「え?」
吉沢さんが顔を上げる。
「変って・・・」
「・・・・・・なんか隠してるみたい」
僅かな動揺と一瞬の間の後で、吉沢さんは何でもないように言った。
「・・・・・・これだけ毎日押しかけてきて、どこに隠すことができるんだ」
「そうですけど」
そうは答えたものの、あの間の中に何かがあるような気がして、俺はやっぱり不安のまま
だった。
珍しくこの勘は当たることになるんだけど、吉沢さんが隠しているものを俺は勘違い
して、こんな勘、本当は当たらなければよかったと、後で激しく後悔することになった。
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