梅雨明けもすぐそこまでやってきた7月。早くも暑さで蒸され始めた空気の中、また新井
がやってくれた。
夕方掛かってきた一本の電話は、思わずこの暑さも凍りつくようなお怒りの電話だった。
相手は、俺のお得意先だったA木商事。吉沢さん命令で渋々新井に上げた物件だ。
ちょうどこの電話が鳴ったとき、新井は不在で、電話を受けた事務の子が泣きそうな顔
で俺を見上げた。
この上客のA木商事の担当者とは長年一緒に仕事をして、俺は相手のこともよく分かってる
つもりだったから、とりあえず直ぐに電話を代わって話を聞いた。
「お電話代わりました。深海です。いつもお世話になっております。ご無沙汰しております。
生憎新井は席をはずしておりまして・・・」
「ああ、深海さん!おたく、ちょっとどういうつもりなんすかね!」
「あのうちの新井が何か・・・」
「午前中に見積もりFAXで送ってもらったんですけどね」
そこまで言うと、電話口の語気は余計に強くなった。
「はい」
「別の会社宛のが送られてきてたんですけどね!」
たらり。背中に嫌な汗が湧き上がる。あいつ!あの馬鹿!なにしてくれてんだ!!
「も、申し訳ありませんっ」
俺は急いで共有のPCまで走ると、見積書作成ソフトから履歴を引っ張り出した。それから
「担当者:新井」で検索して、今日あいつが作った見積書を確認する。
ヒットしたのは2件で、そのうち1件はA木商事だった。もう1件は「Dシステム社」で、
俺は額に浮かんだ汗を拭いながら電話口で尋ねた。
「あの、もしかして、御社に届いているのってDシステム社宛ての見積書でしょうか・・・」
「そうですよ!」
あの馬鹿!間違えて送りやがったな・・・!ってことはDシステム社にはA木商事宛の見積もり
が届いてるってことかよ・・・。
まっずいな。
「いつもの製品型番と違うし、なんのことだかよくわかんないけどね、あの掛け率、なん
ですか!?うちにはいつも破格だっていってるのに、6掛けなんてみたことないですよ!」
確かにA木商事にはいつも63%で卸してる。それだって、結構がんばってる数字だけど、
6掛け(60%)なんて数字はめったに出ない。ただ、Dシステム社はA木商事へ卸している
製品とは全く別もので、競合するわけでもないが、他社の掛け率みて、自分のトコが上客
だと思っていたA木商事にとって面白いわけがないだろう。
「深海さん、Dシステム社に出来るんならうちも6掛けにできるんでしょ?」
「申し訳ございません。実はこちらの製品は在庫整理のものでして、それで今回限り特別
にこの掛け率でやってまして・・・・・・普段はとてもじゃないけど、こんなの出せないですよ」
冷や汗がたらり。A木商事の担当営業は口は悪いけど、冗談の通じる人だ。懐だって深い。
「ふうん?」
「本当ですっ」
「ふっ」
電話口の声がふっと軽くなった。
「・・・・・・勘弁してくださいよぉ」
泣きつくと、相手はようやく息を吐いた。
「はいはい、深海さんが言うなら信じましょ。だけどね、こんなミスやってたら会社の
信用無くすよ?」
「申し訳ありませんっ・・・新井からも折り返し電話させますんで・・・」
「はいよ。この見積もりは俺のところで見なかったことにしておくから」
「ありがとうございます。・・・今度、おいしい寿司でも一緒に行きましょう」
「あーはいはい。買収されときますか。たまには深海さんも顔出してよ。担当じゃなく
なって、馬鹿な話もできなくなって詰まんなくなっちゃったから」
「はい。是非・・・」
最後は穏便に電話を切ることが出来たけど、受話器を置いた途端、冷や汗から新井への
怒りに代わっていた。
見積書を間違って送るなんて、致命的なミスだ。今回はかろうじて助かったけど、競合
してるところだったら、なんて言い訳するんだ。
「あいつ、帰ってきたら説教だ!」
「深海主任が珍しく怒ってるわ」
「当たり前です!あの馬鹿っ」
「でも、新井君最近ずっと落ち込んでるみたいだったから」
「落ち込んでいようがいまいが、関係ないですよ!こんなの、新井一人の責任じゃ終わらなく
なっちゃいますって」
事務の子相手に怒りを撒き散らしてると、新井がようやく帰ってきて、俺はその姿を見つける
と直ぐに新井を怒鳴りつけた。
「新井!ちょっとこい!このバカチン!!」
「なんですか、そんなに怒って」
馬鹿っぽい声で返事をする新井に、俺は見積もりの件を突きつけていた。
「大体お前は、最近気が抜けてるっていうか、もぬけの殻みたいになってんじゃないか!
ちゃんとしっかりしろよ!」
「すんません・・・だって・・・・・・」
「だって?!」
「だって、兄ちゃんが・・・」
俺に散々怒鳴られて、しょんぼりしてるくせに、更に言い訳をする新井を俺は睨み付けた。
「お前はまた兄ちゃんか!!いい加減にしろよ。お前は兄貴の何なんだ!!」
「兄ちゃんは大切な俺の家族です!・・・・・・その兄ちゃんが、落ち込んでたら俺だって心配
になるんです!」
珍しく本気で反論してくる新井に俺は少しだけ引いた。
「なんだ、新井の兄貴はまだ悩んでるのか」
「兄ちゃんの未練のある人、彼氏がいたんだそうです・・・。いや彼氏かどうかわかんない
けど、多分そうだろうって・・・それで、参ってるって。俺、そんな話聞いちゃって、兄ちゃん
が落ち込んでるの見てたら、俺まで切なくなっちゃって・・・・・・ねえ、先輩。俺、どうしたら
いいんすかねえ」
「知るか!」
「先輩、相談乗ってくれるっていったじゃないっすか」
恨めしそうな顔をする新井に、いい加減鬱陶しくなって、俺はぞんざいに返事をした。
「あー、もう。分かった!分かったから。兄貴でもなんでも纏めてつれて来い!話聞いて
やるから!」
「ホントっすか?!兄ちゃんも喜びます!」
新井はさっきまで自分が怒られていたことも忘れるくらい軽やかな足取りで自分の席へと
戻っていった。
新井は、俺の言葉を全然忘れていなかった。
次の日になるとすっかり元気を取り戻した新井が、ピカピカした笑顔で俺に言った。
「深海先輩!今日の夜、時間ありますか?」
「なんだ?」
「兄ちゃんに話したら、是非深海先輩に会いたいって」
「はあ?」
「昨日の事っすよ。相談乗ってくれるっていったじゃないっすか」
「言ったけど・・・・・・お前の兄貴、本気か?」
「はい!深海さんに会えるって分かったらすごく嬉しそうでした!」
「・・・・・・そう」
俺は、新井似の馬鹿な兄貴を想像して盛大にため息を吐いた。
吉沢さんの家で前園さんと出くわしてから、俺達の間には透明な壁でも出来てしまった
みたいで、いつもと変わらない距離で接しているのに、吉沢さんがとてつもなく遠い存在
になってしまっていた。
前園さんとの事を訊けない俺の意気地がないのかいけないのか?でも訊いたら、訊いたで
きっといい方向になんて行くわけがない。
分からないことは、ブラックボックスに突っ込んだままの方がいいんだ。でも、そこに
目を向けないようにしてると、俺と吉沢さんの間にある壁はどんどん分厚くなっていく。
気がつけばもう4日も吉沢さんのマンションに寄ってない。
今日こそは行こう、そう思っていたのに新井に引っ張られて、俺は今日も吉沢さんに
『今日も行けそうにありません〜』っていうメールを半ば安心しながら打っていた。
新井は待ち合わせの時間に10分程遅れてやってきた。その後ろには新井の兄貴の姿が・・・・・・
って、ええ?兄貴がくるんじゃないの?!
あんぐり口をあけて見上げた俺に、新井が遅れちゃってすんませんと馬鹿でかい声で笑った。
「あっ・・・ま・・・」
金魚みたいにパクパク口を開いて、言葉にならない声を出してると、新井が首を傾げた。
「ま?」
え?!
なんで?!
なんで、この人が・・・?!
「深海先輩?」
なんで、ここにいるんだよ!
「前園さん!」
目の前に立っていたのは、新井と似つきもしない前園嵩弥、本人だった。
「え?深海先輩、兄ちゃんと知り合いだったんですか?」
キョトンとして俺と前園さんを見比べる新井に、前園さんは、にっこり笑って
「どうも、新井健太の兄です」
と頭を下げた。
「新井の兄貴って・・・・・・前園さんだったんか」
これだけ出来事がシンクロしてれば、その線も疑うべきだったけど、苗字が違うし、
顔も性格も似ても似つかないから、やっぱり俺にはこのラインは見抜けなかっただろう。
「兄ちゃんとは血はつながってないっす」
「はあ・・・」
「健太、人に説明するときにはちゃんと分かるようにしなきゃダメだっていつも言ってる
だろ?」
「あはは、そっか」
新井は一層子どもっぽく頬を掻いた。
「深海さん、実はね、俺の父親と健太の母親が再婚したんですよ。もう15年近く前ですけど。
健太は7歳だか8歳だったかな。こいつはそれまで父親っていう存在を知らなかったので、
俺や俺の父親にべったりでね・・・・・・未だにそれが抜けきれてなくて。深海さんにはきっと
ご迷惑をかけっぱなしだとは思います。本当に弟がお世話になってます」
兄貴面して前園さんは俺に頭を下げる。
「いえ・・・それほどでも・・・・・・。苗字が違ったんで気づきませんでした」
「『前園』は俺の母親の姓なんです。親父は養子だったんです。俺はもう成人してたので
姓はそのままにしてるんです」
これでカラクリが分かった。
でも、分かったところで、何も解決はしていないんだけど。恨めしい表情で前園さんを
見ると、前園さんは余裕の顔で俺を見下ろしていた。
「健太、今日母さんが2階の寝室の電球替えてほしいって言ってたぞ」
「え?ホント?」
「早く帰って、替えてやんな。俺はもう少し深海さんと話してくから」
「う、うん・・・わかった。じゃあ、深海先輩、兄ちゃんをよろしくっす」
あっさりと新井を帰して、俺達は二人きりになった。
「初めからそのつもりだったんですか」
「まさかね。健太が言ってる『課長』と『深海先輩』が君達のことだとは思ってなかった
んだけど、この前吉沢君のところで会ってから、ピンと来て。何とかして深海君と二人で
会えないかなって思ってたんですよ」
この人、やっぱりやり手だ。ニコニコ笑ってる体育会系馬鹿とは違う。
俺は背中がすうっと冷たくなるのを感じていた。
「二人になって、俺に何か聞きたいことでもあるんですか?」
「聞きたいことがあるのは、深海君の方でしょう?」
う・・・。机の下でこぶしが丸まって、肩に力が入った。
「・・・・・・前園さん、うちの会社に在籍してたそうですね」
「吉沢君から聞いた?」
「はい」
「俺のことはなんて?」
ニヤっと笑う顔は、営業の顔でも兄貴面でもなく、俺に勝負を挑んでくる男の顔だった。
余裕みせやがって。
「いろいろと世話になった人だそうで」
「いろいろとね。うん。そうだな。・・・・・・吉沢君らしい」
悔しい。俺に腹の探りあいなんて器用なこと出来るわけないじゃないか。
「あの!俺、前園さんみたいに余裕があるわけじゃないし、策略持ってるわけじゃないんで
ぶっちゃけますけど!」
「うん?」
「俺、吉沢さんと付き合ってるんです」
先手必勝。牽制のつもりでぶっちゃけたのに、前園さんはそれをウエイターが持ってきた
水と一緒にあっさり飲み込んだ。
「うん。そうだろうなって思ったよ」
「え、あ・・・じゃあ・・・」
「深海君は、この前の飲み会の席で会ったときに、言った事覚えてる?」
「!!」
忘れるわけがない。あれは、やっぱり吉沢さんのことだったんだ。
「結婚するって決まってから、再会するなんて、神様も随分と意地悪なことすると思わない?」
「け、結婚するのに、そんなことしてていいんですか」
「手に入るなら、結婚諦めてもいいと思ってるよ」
「な・・・・・・」
挑発的な顔で俺を見つめる。俺は禁断の一言をつい訊いてしまった。
「つ、付き合ってたんですか?」
「深海君はストレートだね。変化球も覚えておかないと、特大アーチをお見舞いされちゃうよ?」
「・・・・・・駆け引きは苦手なんで」
「そう。営業に向いてないんじゃない?」
「・・・・・・」
「ああ、吉沢君と付き合ってたかって話ね。付き合ってはなかったよ」
その台詞に僅かにほっとして顔を上げると、前園さんは次の瞬間、俺を暗闇に突き落とした。
「でもね、深海君。吉沢君と付き合ってはなかったけど、俺は吉沢君のこと、一度たりとも
遊びで抱いたことはないよ」
「な・・・・・・」
一番聞きたくない台詞を、吉沢さん以外から聞く羽目になるなんて・・・・・・。
――>>next
よろしければ、ご感想お聞かせ下さい
nakattakotonishitekudasai ©2006-2010 kaoruko since2006/09/13