あの男は誰だったのだろう。吉沢と彼を連れて行った男を見送った後も、前園は暫くその
場から離れられなかった。
前園の脳裏からはいつまでも消えないでいる2人の後ろ姿。見るからに兄弟でも友達でも
なさそうだけれど、それを言ったら、自分だって、弟と隣に並んでいても兄弟には思われ
ないのだから、邪推はしてはいけないとは思った。
きっと自分のところと同じようにわけありの兄弟なんだ、そうやって片付けながらも
あの男が抱きかかえた手つきのエロさに、もやもやした気持ちは残った。
すっきりしないまま週は明けて、会社で吉沢と会ったとき、先に切り出してきたのは、
吉沢の方だった。
「週末はすみませんでした」
「別にいいけど、大丈夫だったの?」
「・・・・・・一応」
「全然大丈夫そうじゃないように見えるけど。クマ出来てるよ?」
優しい口調を心がけて、前園は吉沢を見下ろす。力になりたいとか相談に乗ってあげたい
と言う先輩としての配慮もあるけれど、単純にあの男の事が聞きたいという下世話な気持ち
がチラついている。
吉沢に興味があるのはどういう意味なのか、前園自身その意味は深く考えてはいなかった。
「前園さんは・・・・・・」
「うん」
じっと見つめられて、首を傾げると、吉沢は目を逸らした。
「いえ、やっぱり・・・」
「ははーん。やっぱりなんか悩んでるな。大丈夫、俺口は堅いから。ここじゃ話しにくい
なら、今晩飲みにでも行くか?」
「前園さん・・・」
「信用できないって?」
「そうじゃないですけど」
「じゃあCNデザイン社の物件掛けてもいいよ。口外しないっていう約束破ったら、吉沢君
にこの物件あげる」
「それ、前園さんの今期の売り上げ一番のじゃないですか」
「だから、それくらい掛けてもいいよって言ってるの。俺のことまだ信用できない?」
「前園さんが他言しないって事は信用してます。・・・でも聞いたら、俺の事軽蔑すると思う
ので・・・・・・」
吉沢は前髪を垂らして顔を隠す。
「なんだか分からんなあ。軽蔑とか、そんなことにはならないと思うけど・・・・・・まあとにかく
しゃべっちゃいなって。それなりに間口は広いつもりだから、愚痴くらいなら聞いてやるって」
「でも・・・・・・」
「俺が吉沢君の困るようなことすると思う?」
日ごろからの優秀な先輩像と飲み会の後の紳士的な態度が効いてるらしく、その一言で吉沢
は頷いた。
「ぱあっと飲んで、嫌なことは忘れな」
「・・・・・・そうですね」
そうやって微笑んだ吉沢は思いがけなく綺麗に見えた。
週初めの居酒屋は、いつもより客が少ない気がする。月曜日から飲んでるサラリーマンは
みんな訳ありのように見えた。
「前園さんは結婚されないんですか?」
ビールが運ばれて、乾杯した直後に吉沢が言った台詞はこれだった。将来の事で悩んでる
のかと思い、前園は言葉を慎重に選んで答える。
「今はまだ考えてないかな。30過ぎるまではガツガツ働いてたい」
「30歳って・・・やっぱりターニングポイントなんですか?」
「どうだろう?人それぞれだとは思うけど。回りのヤツが結婚していくのを見て、自分も
そろそろ落ち着かないとって思うのが30くらいなんじゃないのかと俺は思うよ」
「そうですか」
「・・・・・・ねえ、揚げ足とるようで悪いけど、「やっぱり」ってどういうこと?」
「目ざといですね」
「ごめん、ちょっと気になっただけで、他意はないんだけど」
吉沢は顔を歪めて、ビールを一口、口に含んだ。それから呼吸を整えると、伏し目がちの
まま前園に言った。
「俺の知り合い、30なんですけど、最近よく将来の話をしてて、30過ぎたら自分の今後の
人生設計をしっかりしたいとか・・・・・・」
30歳。その年齢を聞いて、前園はぴんと来る。テナーボイスがよく通るスーツ姿の男。一瞬
の事で記憶はそれほど残ってないけれど、端正な顔つきだった男に思う。
深い意味は無かった―――と思う。偶然の符合の一致にただ思い付きを言ったまでだった。
「あ、それって、この前駅で吉沢君を連れて帰った人?」
けれど、その言葉を発した瞬間、空気が一気に変わってしまった。
「!」
「ん?」
「・・・・・・」
「え、あ・・・・・・ん?!」
吉沢の顔が紅潮する。訳ありそうな顔に、ようやく前園は気がついた。
「ねえ、もし違ってたらすごく失礼だから先に謝っておくけど、ひょっとして・・・・・・」
そこまで言いかけて、吉沢はそれを制した。
「多分前園さんが考えてることであってます」
考えていること―――あの男は吉沢の恋人。肯定されると、流石に目の前がくらっとした。
目の前の男はゲイなのか。前園は自分の感覚がふわふわとしたおぼつかないものになる。
自分はゲイではないし、今までにこうやってカミングアウトしてきた人間にも出会った
ことがない。吉沢という男が急に遠くなった気がした。
「・・・・・・一緒に住んでるの?」
探るような視線を吉沢は素直に受け止めて頷く。
「はい」
「それで、家まで送って欲しくなかったのか」
苦笑いに吉沢は少し悲しそうな顔をした。
「必要以上にリスクを負いたくないって思うのは普通ですよね?」
「じゃあどうして今さらカミングアウトなんて?」
「・・・・・・前園さんが『俺が吉沢君の困るようなことすると思う?』って言ってくれたので、
思い切って言ってみたんですけど」
「なになに、俺の所為?まあいいよ。うん。別に誰にも言わないし、軽蔑もしてないから。
ってことは、吉沢君のここ数日の浮かない顔はその30歳の恋人の事か」
苦笑いで吉沢を見下ろすと、彼はやっと小さく息を吐いた。
「あの、笑わないで聞いてくれますか」
「いいよ。聞くよ。愚痴くらいなら聞くって言ったのは俺だからね」
吉沢は顔の前に落ちてきたさらさらの黒髪を掻きあげると、困ったように呟いた。
「人に話すの初めてなので、どっから話したらいいのか・・・・・・」
「ゆっくりでいいよ。自分の話したいところからでいいから。俺が疑問に思ったことは
聞いてもいい?」
「はい」
吉沢はビールを口に運んで、ごきゅっと喉を鳴らした。
その喉元がセクシーだなんて、こんな時に何を考えてるんだと前園は内心焦った。
「20歳の恋愛と30歳の恋愛って同じなようで、実は全然違うんです」
「ふうん?」
「好きっていう気持ちは同じかもしれないけど、背負ってるものが違う。自分の将来に対して
のビジョンとか、生き方とか、俺はまだ明確じゃなくて」
「彼は明確だと?」
「今一緒に住んでるのは、俺にしてみれば何となくだったんです。「一緒にいたい」って
言うのの延長。だけど、向こうはそうじゃなかった」
だんだん話が繋がってくる。前園は勘がいい方だ。吉沢が言わんとすることを察した。
「彼の望んでるのは、結婚と同等の同棲」
「・・・・・・俺には重い。一生この生活をするっていう覚悟も無ければ、想像もつかないんです。
向こうの事嫌いなわけじゃないんですが、その所為で最近すれ違いが大きくなって・・・・・・」
長く続けていく自信を無くした吉沢と、彼を手放さない男。小さな誤差が大きな確執を生んで
修正できないほどになってるのに、お互い決め手が無くて離れられないのだと、吉沢は
言った。
「吉沢君23だっけ?同期でもまだ結婚してる子、少ないでしょ。そりゃあ、現実味がない
の、俺も分かるなあ。一生捧げてもいい相手なんて年じゃ決まらないと思うけど、それを
行動に移すって言うのはやっぱり年齢は関係するよね。俺だってまだ、この先10年一緒だったら
考えてもいいくらいにしか思えないもんなー」
前園のフォローに吉沢は肩の力を抜いて、やっと笑った。
「一緒にいるって今だけしか見てない人と、将来考えてる人じゃ、重みが違いすぎて・・・・・・
簡単に一緒に住んじゃダメですね」
「まあ、巡り合わせだよきっと。会った瞬間将来まで考えるような人に、この先出会える
かもしれないんだし。今回の相手がそうじゃなかったってだけで、さ」
ありがとうございますと、吉沢ははにかんだ。
「前園さんに話せてよかったです。絶対軽蔑されるって思ってたんで・・・・・・気持ち悪くない
んですか?」
「どうかなあ。驚いてはいるけど、俺がゲイになるわけじゃないし・・・・・・吉沢君みたいな
綺麗な顔してる子なら、気持ち悪くは無いだろ。でも想像は止めとくよ」
茶目っ気たっぷりで園田は言う。
実際、吉沢を前にしてちょっと想像してしまった上にアリかもなんて思ったのは絶対の
秘密だ。
「・・・・・・ちょっとしゃべったら気持ちが前向きになりました」
「だろ?嫌なことはしゃべって飲んで忘れろ、だ。まあ、これからの事の方が、大変だろう
けど。俺が力になれることがあれば、何でも言いなよ」
「ありがとうございます」
吉沢は少年のような瞳になって前園に頭を下げた。
前園さんの話を唖然として聞いていた俺は、もう少しのところで箸の先のジャガイモの
煮物を落とすところだった。
「あ、これが俺と吉沢君の出会い編ね。なかなかおいしいポジションでしょ、俺」
「おいしいって!」
「破局間際の心が折れてるところに、颯爽と現れる王子様がおいしくないわけないでしょ」
「そうですけど・・・・・・その後、吉沢さん別れたんですよね」
別れてくれなきゃ、俺と付き合っては無いから当たり前だろうけど。
「吉沢君も苦労してたなあ、別れるの。なんとかその30男とは別れたんだけど、大分弱って
たかな。俺も結構助けてあげたんだけど、あ、それがなれそめ編ね。聞きたい?ってか
ここからが本番なんだけど」
「もういいっす!聞きたくないです!」
どうせ、傷心の吉沢さんを慰めるうちに、それに乗じて食っちゃったんだろ・・・・・・。
もういいよ、分かったから。どうせ後はのろけを聞かされるだけだ。
ガーン。
古典的な擬音が頭の中を鳴らす。ありえる。この人だったらありえる。イイ人ぶって、吉沢
さんに取り入って食っちゃったんだっ。
メソ。メソメソ。もう泣きたいです。
「何で前園さんは吉沢さんと付き合わなかったんですか」
「俺もその頃、会社の中でちょっと大変だったんだよ。吉沢君から聞いてるかもしれない
けど、部長との対立が激しくってね。喧嘩して辞めちゃって、会社離れたら、吉沢君とも
疎遠になってったの。まあこうやってまた巡りあえたのは、何かの運命だな」
フフっと前園さんは笑った。
そんなのって、ずるい。辛かったときに助けてくれた人を吉沢さんが嫌いになるわけが
無い。俺に勝ち目あるんだろうか・・・・・・。
だけど、吉沢さんと今現在付き合ってるのは俺であって、前園さんじゃない。俺なの。俺!
「絶対渡しませんから」
「意外と根性みせるじゃん」
「当たり前です!俺にはもったいないくらいすごい人ですけど、俺は自分から手放すような
事はしないです!」
唾まで飛ばしそうな勢いで食いかかっていると、トイレから新井が戻ってきて、その話は
そこで強制終了となった。
新井たちと別れてから、蒸し暑い夜道を一人歩きアパートへと帰った。吉沢さんの過去
の話を聞いて、不思議な気分になる。俺の知らない昔の吉沢さん。吉沢さんにだって過去
があって今があって、それから未来がある。
吉沢さんの人生と俺の人生の接点なんてごく僅かな部分でしかなかったんだ。ずっと一緒
にいたから、昔から全部まるめて自分のもののような気がしてたけど。
吉沢さんの過去は過去で尊重されないと失礼だろうけど、今を大切にして・・・くれてるん
だろうか。
アパートの前まで帰ってきて、部屋を見上げた。当たり前だけど明かりは付いていない。
吉沢さんがここに来ることは殆ど無いし、期待もしてないけれど、ため息が漏れた。
アパートの鍵を取り出す。キーホルダーに付いた自分のアパートの鍵と吉沢さんのマンション
の鍵。
一緒に住みたいって散々言ってきたことを思い出して、俺は胸が痛くなった。吉沢さんに
とって、一緒に住む事自体、トラウマになってるのかな。
どんな気持ちで聞いてたんだろうな、俺の台詞・・・・・・。
吉沢さんが出張から帰ってきても、事態はそんなに変わることはなかった。
気まずい雰囲気の中でも仕事は待ってくれないし、否応なしにしゃべらなきゃならない
ことばかりだけれど、プライベートでは連絡は断絶したままだった。
実は、会社以外で2度見かけた。
1度は、仕事帰りで、駅前のマンションのモデルルームに入っていくところで、そこで
待っていたのは前園さんだった。前園さんが飛び切りの笑顔で迎え入れていて、吉沢さん
も楽しげにしゃべりながら二人はモデルルームへと消えていった。
ここのマンションだったのか。見上げて、高そうな外観にむなしくなる。俺には絶対手の
届かない物件だ。
2度目は、ストーカーみたいに吉沢さんのマンションの前をふらりと彷徨っていた時。
吉沢さんが帰ってきたのをみて、訪ねようか迷っている間に、またも前園さんが現れた。
エントランスに消えていく前園さんの後姿をみて、俺はもう終わったかも、そんな気持ち
でその場を立ち去っていった。
だから、今日、何日ぶりかに吉沢さんから来たメールを見て、俺はいよいよかもしれない
と焦っていた。
『今日、仕事終わったらうち来い』
最後通牒みたいなメール。重い足を引きずって、俺は吉沢さんに会いに行く。
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