「先輩!・・・・・・俺、吉沢課長に恋されてるかもしれないんです!」
深海がこの馬鹿げた台詞を聞いてから、はや2年以上も月日は経っていた。
気がつけば30も過ぎ、落ち着きのない男の名前もそろそろ返上できそうなくらいにまでは
成長している。
仕事は順調、私生活でも最愛の恋人、吉沢課長と同棲を始め、順風満帆だと自分でも思って
いるし、事実、深海は幸せだった。
――ただ、ひとつのことを除いては。
「新井!新井馬鹿はどこだ!」
深海は営業一課のブースに戻ってくるなり、新井健太を怒鳴りつけた。
「はぁい〜。先輩、そんな大きな声出さなくても、聞こえてますって」
新井はいつものようにしまりのない顔で深海を振り返った。手にしたペットボトルのコーラを
机の上に戻す。その暢気な態度は余計に深海をイラつかせた。
「お前なあ!」
「なんすか」
「なんすか、じゃない!なんだ、この提案書は。穴だらけもいいとこだぞ」
深海は新井の提出した提案書で、頭をパスっと殴ると、そのまま突っ返した。
「そうっすか〜?結構いい出来だと思ったんすけど」
新井は戻された提案書をぺらぺらと捲って首をかしげた。
「お前の目は節穴か」
深海は盛大にため息を吐いた。
新井が入社してから4年。一度としてまともに仕事を遂行できたことのないこの馬鹿な男
に、あとどれくらい振り回されたらいいのだろうかと思うと深海は泣きたい気分になった。
深海がいつものように、小言を始めようとしていると、新井の後ろにひとつの影が立った。
すらっとした長身に端正な顔立ち。入社2年目の橘高浬(きったか かいり)だ。
深海も長身の部類だが、それに匹敵するくらいすらりと伸びた四肢は均整が取れて、深海
から見ても綺麗だと思わせる。
おまけに、吉沢課長以来の営業一課に現れた秀才で、次期エースとの呼び声高い、エリート
コースまっしぐらの男なのだ。
「どうした、橘高」
「新井さんを怒らないでください」
「は?」
「……俺が悪いんです。その提案書、叩き台作ったの俺なんです」
「橘高が?」
深海は眉間に皺を寄せて二人を見比べた。
「そうなのか」
新井はちょっと困った顔で橘高を振り返った。
「そうでもないっすけど……」
「は?」
「いえ、俺です。俺が斉藤さんに試しに作ってみろって言われて、作ったのを新井さんが
直してくれたんです」
提案書を作るように指示してたのは斉藤係長で、深海は新井が作ってくるからそれをチェック
するようにと頼まれていただけだ。斉藤が新井に作らせていたのは知っていたが、叩き台を
橘高に命じていたことまでは深海は知らなかった。
「……橘高、提案書作ったことなかった?」
「はい。どんなものか作ったことなかったので、過去の資料見よう見まねでやってみた
んですけど、駄目でした」
なんでもそつなくこなしていく橘高が、こんな穴だらけの提案書を書くようには思えない
のだが、わざわざ新井を庇う理由も思いつかず、深海は疑問を抱きながらも頷いた。
「まあ、いいや。とにかく、この提案書は作り直ししろよ。資料も渡してあるんだから、
明日までになんとかしろ。橘高も提案書の作り方勉強しろよな?」
「はい」
橘高は素直に返事をしたが、新井は渋々承知したようだった。
「へーい。がんばりまっす〜」
「気合入れろ、この馬鹿」
深海にグーで殴られると、すかさず橘高がフォローに回った。
「新井さん、俺の責任でもあるし、手伝います」
その光景を見て深海は再び深いため息を吐いた。
「……お前さ、後輩に助けられて恥ずかしくない?」
「あはは、俺ってば営業一課で放って置けない男子NO.1っすから!」
そんなことを豪語する馬鹿に深海は首を振った。
「お前の下に付いたのが出来のいい後輩でよかったな。……橘高、あと頼んだ」
「はい」
橘高は完璧な笑顔で深海の言葉を受け取った。
「ねーねー、キッタカッター」
「新井さん、それ俺のことですか」
「うん」
営業一課のブースは、午後9時を過ぎても明かりが灯ったままだった。
残業組みは珍しく新井と橘高の二人で、残業の常連な深海も吉沢課長も今日は早々に退社
している。
新井は他の案件で動き回っている間に勤務時間が終わってしまい、深海から突き返された
提案書に手をつけ始めたのは6時を回ってからになってしまった。
「俺、一人で直しておくから、キッタカッターはもう帰っていいよ?」
「いえ、深海さんにも言われたのでちゃんと手伝います」
「でもさー、叩き台作ったって言っても、キッタカッターが作ってくれたの、ここの仕様
の部分だけだし、この辺、全然「赤ペン」入ってないしさ」
深海から返された提案書には、赤字でそこそこ細かく指示がされていた。やり直せと言った
割には、丸投げにしない辺り、深海も新井の能力を分かっているのだ。
「でも俺も提案書の作り方勉強したいですし、一緒にやらしてください」
橘高はわざわざ新井の隣に来ると、そこで頭を下げた。
「あわわ、いいよ、いいよ。俺に頭下げないでよ」
「でも先輩ですから」
「……先輩か〜」
新井はなんだかその響きにむずがゆくなって、照れ笑いを浮かべた。
その様子を橘高は楽しそうに見つめていた。
「あー!もう分けわかんない〜」
それから1時間も経たない間に、新井は根を上げた。
「ちょっと休憩にしましょう?」
橘高は立ち上がると、ブースの隅に設置してあるミニカウンターに足を運んだ。
自分用にコーヒーを継ぎ足し、新井には冷蔵庫からペットボトルのコーラを取り出した。
「はい、どうそ」
「ありがとう。キッタカッターは優しいなぁ〜」
「……営業の方達は、皆さん新井さんに優しいと思いますよ」
「そうかなあ」
「深海さんとか吉沢課長とか、凄く新井さんのこと気にかけてるように見えますよ」
「えへへ、そう?」
吉沢課長の名前が出てきて、新井は顔をふにゃりと曲げた。
「なんだか嬉しそうですね」
橘高にそう言われて、新井はまっすぐ橘高を見上げた。その顔が意外にも真面目な表情に
変わっていて、見つめられた橘高は一瞬、体が硬直した。
何を言い出すのだろうと思った瞬間、新井は声を潜めて話し出した。
「ねえねえ、キッタカッター。吉沢課長は、俺のことどう思ってると思う?」
「どうって?」
吉沢課長が新井の出来の悪さを嘆いているところは何度か見たことがある。嫌われている
のではと心配でもしてるのだろうか。
橘高も硬い表情になって新井を見返した。
「うーん。どうっていうとさー。例えば、吉沢課長が恋してるとか?」
いきなり突拍子もないことを言われて、流石の橘高も手にしたコーヒーカップを落とし
そうになった。
「誰が誰にですか?」
「だからさ、吉沢課長が俺に!」
「……」
「してるように見えないかなあ〜?」
見えますと言った方がいいのだろうか。真剣な顔をして何を言い出すのかと思えば、これだ。
深海が豪快なため息を吐きたくなるのも分かる気がする。
なかなかに常識の通用しない男だとは思っていたがここまでだとは思いもよらず、橘高は
苦笑いを浮かべた。
「新井さんは吉沢課長に恋されてると思ってるんですか?」
そう言うと、新井は更に声のトーンを下げて、口元に人差し指を立てて「シー」のポーズを
取った。
「大きい声で言うなよ?……ここだけの話、吉沢課長ってさ、何の用事もないくせに、時々
営業一課に来たりしてるだろ?あれ、絶対この課に目当ての人がいるからだと思うんだ」
「……それが新井さんだと」
ありえないだろうと橘高は頭ごなしに決め付けたが、一応先輩の立場を慮って、声には
出さなかった。
「俺もさ、初めは不思議だったんだよねー。でも、気がついちゃったんだ」
「気づいたって、何をですか」
「視線だよ、視線!吉沢課長のラブ光線!何か見られてるなあ〜って思ってたら、吉沢課長
からの光線、俺モロで浴びてたの!!」
参るよね、と新井はふにゃふにゃに照れながら言った。
橘高は呆れを通り越して、ちょっと新井が哀れに思え始めた。
「時々、何しに来てるんだろうと思うことはありましたけど……吉沢課長が新井さんを……」
100%ありえないだろうとは思うが、確かに新井の言うとおり、吉沢課長の行動は時々謎めいた
ことがあるのも気にはなっていた。
「ね?納得いく理由があったでしょ?」
「……明日からよく観察してみますよ。でも、新井さんの言うとおり、吉沢課長が新井さんに
恋してたら、新井さんどうするんですか」
「そう!それなんだよね。ねえ、キッタカッター、俺、吉沢課長に告白されたら、どうしたら
いいと思う?それ考えると仕事も手につかなくて」
深海が聞いたら「そんなことありえないから仕事しろ」と後ろから蹴り倒されそうだ。
橘高はこのどうしようもなく馬鹿な先輩に目を細めた。
「新井さんは……ゲイ……なんですか?」
「ゲイ?ああ、ホモ?ううん、違うよ」
「じゃあ…!」
「俺はホモの人じゃないけどね〜、吉沢課長はそうなのかなぁ?ねえ?どう思う?」
「どう思うって……そう思って観察したことないんで、分からないですけど。でも新井さん
は吉沢課長のこと、どう思ってるんですか?」
「俺?俺は勿論、吉沢課長のこと尊敬してるよ」
営業のメンバーは概ね誰もが吉沢課長のことを尊敬している。仕事は誰よりも出来るし、
営業手腕も部長達が一目置いている程だ。橘高もエリートと持てはやされて、それなりに
プライドも持っているが、吉沢課長からの助言は素直に受け入れられるくらい、吉沢課長を
尊敬している。30を超えてるのにちょっと童顔なところが親近感を沸かせ、女子にも人気
が高い。更に独身で、私生活が謎めいているというのも余計に魅力的に見せるのだと橘高
は思った。
その吉沢課長が何をトチ狂ったか新井になんて恋するだろうか?そんな天地がひっくり
ようなことがありえるだろうか?
「……ありえるかもしれない」
橘高はだらけた新井の顔を見下ろしながらぽつりと呟いた。
「なあに?」
「……いえ、別に」
橘高は顔に出さないように小さく自嘲した。
世の中には常識では考えられないようなことが起こるのだ。
例えば、世の中の常識では計れない男がいたり、その世の中の常識で計れない男に
良識あるエリート候補の男が恋をしたり……
「ん〜?そう?」
そうだ。そうなのだ。橘高はこの360度どこを見渡しても馬鹿な男に恋をしてしまったのだ。
しかも一目惚れで自覚までしている。目下、好きで好きで堪らないのを必死に隠してる日々
を送っていたのだ。
橘高は目を伏せた。
昔からそうだった。
容姿端麗、眉目秀麗、はたまた才色兼備と、四字熟語で持てはやされるほど橘高は容姿も
才能も秀でた人間だった。
そのくせ自分のことを鼻にかけることもなく、性格は温厚で人望もあり、周りの人間からは
欠点などないと思われていたくらいだ。
けれど、橘高自身大いに自覚している欠点がある。橘高はいわゆる「だめんず」好きなのだ。
ゲイというだけでも隠したい事実なのに、好きになる相手がことごとくダメな男ばかり
だった。
初めての相手は、橘高の優しさに甘え、甘えるだけ甘えた挙句刺激が足りないと言って
隠れて浮気をしまくっていた同級生。それから、大学で出会った男は橘高の稼いだバイト代を
ごっそりともって逃げてしまった。他にも定職につかない30代ニートに恋をしたり、新興
宗教の勧誘目的で近づいてきた男に一目惚れしたりと、橘高の恋の遍歴はことごとくダメな
一途を辿っている。
今度こそまともな恋愛を、そう意気込んで入社したこの会社でも、橘高の心を見事に打ち
抜いてくれたのは、ダメな営業マン代表の新井だったのだ。
好きになってしまったのは仕方ない。しかも相手はノンケの馬鹿だと来ていたから、橘高も
この淡い恋心は自分の胸の中だけにそっと仕舞っておこうと諦めかけていた。
しかし、その新井がよりによって、こんな発言をしてきたのだ。橘高の心は大いに掻き
乱され、そして甘い期待にも揺れた。
吉沢課長に恋をされて満更でもないと思っているということは、ゲイについてのハードルは
低いということだ。しかも、新井自身は吉沢課長に明確に恋をしているわけでもない。
自分の入る余地は十分にあるということではないだろうか。
橘高は今の状況を冷静に分析した。
「でもねー、前に深海先輩にさー、吉沢課長が本当は誰に恋してるのか探ってほしいって
頼んだんだけど全然答えてくれなかったんだよねー。あー、気になるなあ……」
「じゃあ、俺がちゃんと吉沢課長のこと探ってみましょうか?」
「ホント?」
「はい」
獲物を落とすには、まずは敵を知るところからだ。……まあ、敵といっても、新井の生み
出した仮想敵であって、当の吉沢課長にはいい迷惑なのだろうけど、と橘高は軽い気持ち
で思った。
けれど、これが吉沢課長の秘密を暴いてしまうきっかけになるとは、このときの橘高には
想像も出来なかった。
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