なかったことにしてください  memo  work  clap






「新井!……新井!」
今日も営業一課に深海の声が響き渡っていた。
「ほえ〜…なんすか…」
新井は寝ぼけた顔で深海を見上げ、重そうな瞼を擦った。
「……お前なあ。朝からどんだけ疲れてんだ。しゃきっとしろ!」
「だって、昨日の残業11時まで掛かったんすよ」
「その残業だけど……」
「ちゃんと全部作り終えて提出したっすよ!」
「分かってるって」
深海は新井の提出した提案書を腕の中で丸めていた。
「何か問題でもあるんすか…?」
「いや……これ、本当にお前が作ったのかと思って」
「どういう意味っすか」
「こんな完成度の高い提案書、今までに作ったことなかっただろうが」
「やる気を出せばこんなもんっす!」
新井は褒められてニシシと笑った。深海はすぐさま橘高を呼びつけた。
「橘高!」
「はい。おはようございます」
「……おはよう」
深海は橘高が隣に並ぶと少しだけ勢いを弱めた。深海は正直、橘高が苦手だ。この有能な
部下はいつか自分を追い越していくだろうと想像に難くない。けれど、深海が苦手意識を
持っている理由はそこではなく、この部下の性格が吉沢課長を彷彿とさせるからだった。
「なんでしょうか?」
「橘高も昨日残業したんだろ?」
「はい」
「この提案書、本当に新井が作ってた?」
「はい、勿論」
「……そうか」
橘高がそう言うのなら、本当にがんばったのだろうと勝手に納得した深海はそれ以上突っ込む
こともなく、提案書を引っ込めた。
ところが、その途端後ろから呆れた声が飛んできたのだ。
「そんなわけないだろう」
「吉沢課長!」
3人は同時に振り返り頭を下げた。
「おはようございます、吉沢さん」
「課長〜、おはようございます」
深海と新井は腑抜けた顔になって吉沢を見下ろした。
橘高は昨日の新井の発言を思い出して、新井の視線を追いかけて、吉沢を見た。ダーク
グレーのストライプのスーツをかっちり着こなして、中から覗く白のYシャツも眩しい程
ぱりっとアイロンが掛かっている。身のこなしから言って完璧な上司だ。
その完璧な吉沢課長が表情を綻ばせて、新井と深海を見上げていた。
「深海の目は節穴か」
「はい?」
「昨日は新井が残業してた、深夜まで橘高が一緒にいた、そう来れば普通は、橘高が作った
っていう結論の方に達するだろう」
「えっ……でも、橘高は提案書なんて作ったことないって……」
「このエリート候補の橘高の実力を舐めるなよ?」
吉沢課長はニヤリと笑って橘高の背中を叩いた。
「俺はちょっと手伝っただけです」
橘高は遠慮がちに首を振った。こんなことで自分の株を上げるつもりはない。むしろ新井
の株を上げるためにがんばっただけのことだ。
「……はは、そうですよね。……新井にすっかり騙されるとこだった。ってか、新井!」
「なんすか〜」
「お前、恥ずかしくないのかよ、後輩に提案書作らせて自分の手柄にするなんて」
「えへへ」
新井は笑って頭を掻いた。
「新井……」
深海は呆れて言葉を失っていたようだった。橘高は無理矢理その会話に捻り込んだ。
「でも、本当にちょっと手伝っただけなんですよ。基本的には全部新井さんが仕上げたので
俺は大して何にもしてません」
「はいはい、いいよ、いいよ。新井、お前は幸せ者だな」
「あはは、ホントっすね〜。こんな優しい上司と、こんな出来る後輩に囲まれて、俺って
何にもしなくても仕事出来る人間みたいっすよねー」
「お前の頭の中は、本当に幸せに出来てんだな……」
コントみたいな会話を繰り広げ始めた深海と新井に、橘高も苦笑いになる。吉沢課長も
呆れてるだろうと視線を向けると、意外にも吉沢課長の視線は柔らかかった。
「……」
橘高は再び新井の言葉を思い出した。
本当に吉沢課長は新井を狙っている……?橘高は悟られないように吉沢課長の視線を追った。
そうして、初めに気づいたのは、確かに吉沢課長の視線はいつもと違うと言うことだった。
部下を見守るスタンスは基本的には変わりない気がするけれど、いつも纏っている営業の
鉄壁の仮面が薄皮一枚分くらい剥ぎ取られているような、微妙な違和感があった。
「……?!」
なんだろう、この違和感は。橘高は急に居心地の悪さを覚えた。
尻の据わりが悪いというか、むずむずして、この場にいるのが気恥ずかしくなるような
空気があった。
「……」
そこに流れている空気が、どうも甘ったるい。
新井の言ったとおり、吉沢課長は誰かに「ラブ光線」を送っているような気がした。けれど
今ここにいるのは、深海と新井と自分だけだ。誰に送るというのだ。本当に新井に送って
いるとでもいうのだろうか。
新井の言葉が現実味を帯びてくる。3分の1の確率で、新井の言葉は本当になってしまった。
「あ……!」
新井の言葉が脳内を巡って、橘高の思考回路は一つのスイッチを押した。
そういうことか、と妙な確信が溢れて来る。
同属とまでは思えないけれど、自分と同じ気質を持っている気がする吉沢課長だからこそ
気づいてしまったのかもしれない。
吉沢課長も、自分と同じ部類の人間だと。
橘高は自分の予感に震えた。
その途端、目の前に流れていた甘ったるい空気がぱちんと弾けて、吉沢課長に橘高は睨まれた。
「橘高、どうした?」
睨まれたと思ったのは一瞬で、吉沢課長はいつも通りの営業マンの顔で橘高を見ていた。
「いえ、別に……」
今のは、新井への牽制球だったのだろうか。
だとしたら、吉沢課長という仮想敵は、ラスボスクラスの強敵になってしまう。
橘高は途方に暮れそうになりながら、心の中で深いため息を吐いた。





橘高が、仕事終わりに飲みに誘われたのは、それから2、3日経ってからのことだった。
「キッタカッター、今日暇?」
「はい。特に予定は入れてませんけど」
「ホント〜!よかった。今日さ、兄ちゃんとご飯食べる予定だったんだけど、兄ちゃん
忙しいみたいで、予定潰れちゃったんだよねー。うちに帰ってもご飯ないから、誰か付き
合ってくれる人いないかなって思ってたんだー」
屈託なく事情を説明する新井に、橘高はドタキャンの相手であろうとチャンスはチャンス
だと二つ返事でそれに乗った。
「いいですよ。お付き合いします」
「えへへ、でも給料日前だから安いところでお願い」
「はい」
ふにゃけた顔で頭を掻く新井を、橘高も内心腑抜けた笑顔になって見ていた。馬鹿な先輩
なのに、どうしてこんなにも可愛く見えてしまうのだろう。痘痕もえくぼとは言うけれど
新井の馬鹿さ加減が上がれば上がるほど、愛おしく感じてしまう自分は、きっと痘痕どころか、
にきびも膿もほくろでさえも、えくぼに見えてしまうに違いない。
ああ、末期症状だ。
こんなお馬鹿なノンケなのかもいまいち分からない男をどうやって落としたらいいのだろう。
攻略本があればお金を出してでも買いたい気分だ。「新井アルティマニア」は一体何ページ
に及ぶだろうか。真っ白なページに一言「諦めろ」と書いてある気がして橘高は自嘲した。





「キッタカッター?」
名前を呼ばれて橘高は顔を上げた。
「はい、何でしょう?」
近頃は、すっかりふざけたあだ名が定着して、そう呼ばれてもなんの違和感も感じずに
返事をしてしまう自分が情けない。
「ちゃんと飲んでる?」
「飲んでますよ」
「そう?」
「新井さんは意外とお酒弱いんですね」
「うん、よく言われる。飲むのは好きだけど、酔いつぶれるのも早いんだよねー俺」
新井はろれつも怪しく、真っ赤になった顔をタオルで拭いた。
橘高は新井の注文通り、一軒目は安い居酒屋に連れて行った。先輩面を見せようと頑張る
新井に、お金ないんでしょうという止めの一撃を食らわせ、橘高は割り勘にした。そして
酔いが回ってすっかり判断力の落ちた新井の背中を押して、橘高は二軒目のシックなレストラン
バーに連れ込んでいた。
個室まではいかないが、テーブルごとに区切られて、他の客の目を気にせず飲めるこの店は
橘高のお気に入りだ。
周りは男女のカップルが多いが、サラリーマン二人が並んでいても誰も気にする様子はなく
注文を取りにきた店員も橘高をちら見しただけだった。
円形のテーブルとそれに沿うように設置された長椅子に、橘高は新井を押しやるように
座らせて、自らもその距離を縮めながら座っていた。
「俺、体育会系だからさー、学生の頃は先輩からジョッキでちゃんぽんさせられたり、
ビール3杯飲んだ後、100メートルダッシュさせられたり、無茶な飲み方させられた所為で
ちょっとは飲めるようになったんだけど、飲み過ぎるとすぐ意識飛んじゃうし、服脱ぐ
から、段々先輩たちも面倒くさくなって、あんまり注がれなくなったんだよね」
「新井さんらしいですね」
「あ、でも、そういえば一昨年の会社の花見で、俺シコタマ飲まされて、服脱いだらしい
んだよね。全然覚えてないんだけど」
「そんなことがあったんですか」
新井の裸か。綺麗な筋肉がついているんだろう。橘高の脳内はすぐに脱線した。
「それがさ、深海先輩も吉沢課長も酷いんだよ!起こしてくれればいいのに、そのまま俺
のこと見殺しにして帰っちゃうんだもん。おかげで風邪引くし、兄ちゃんには怒られるし。
俺はさ、せっかく吉沢課長のために一肌脱いだっていうのにね」
吉沢課長の名前が出てきて、橘高は自分の目的を思い出した。
暢気に新井から会社の愚痴を聞いてる場合じゃない。吉沢課長のラブ光線の先にあるのは
新井ではないと刷り込まなくてはならないのだ。
「俺、多分、分かりましたよ」
「なあに?」
「吉沢課長の秘密」
勿論、橘高の台詞はハッタリだ。3分の1の確率で、新井にもまだチャンスは残っている。
現実的に考えれば、新井に惚れるなんてありえないが、そのありえないことが既に起きている
ことを思うと、出てる杭は早々にへし折って二度と起き上がれないようにしておかなければ
新井を手に入れることはできないと橘高は思っていた。
「ホントに〜?やっぱり課長のラブ光線は…」
「はい、うん。それなんですけどね」
橘高は話の主導権を強引に奪った。
ラブ光線の先にいたのが誰かは確証がない。けれど吉沢課長には自分と同じ匂いがしていること
だけは確かで、それが余計に橘高を焦らせたのかもしれない。
「ところで、新井さん。一つ聞いてもいいですか」
「うんにゃあ?」
新井は、子どもじみた返事をした。
「例えば、新井さんと吉沢課長が付き合ったとして」
「!!」
橘高がそんな話題を出した途端、新井は猫が驚いたみたいに、びくんと体を上げた。
「……例えばの話ですよ。例えば、付き合ったとして、新井さんは吉沢課長とどうなり
たいんですか?」
「どうって?」
「デートしたり、旅行行ったり、一緒に暮らしたり……」
「え?」
橘高の質問に新井は固まっていた。それから、うーんと唸った後、無駄にもぞもぞ動いた
かと思うと、困った顔をして橘高を振り返った。
「……そういえば、どうしたいんだろう?」
「はい?」
そんな切り替えしが来るとは思っていなかった橘高は、手からグラスをすべり落としそうに
なった。
「うーん。そういわれるとねー。あんまりその後のこと考えたりしてなかった」
「じゃ、じゃあ!……吉沢課長とキスしたいとか、セックスしたいとか思わないんですか?」
「せっ…!」
セックスに絶句して、新井は酔いで赤くなった顔を更に赤らめた。
「恋人になったら、普通考えるでしょう?」
「だ、だって…。俺も課長も男だし……」
今更そこを言うかと橘高は呆れたが、それが新井クオリティだ。いちいちこんなことで
疲れていては先が続かない。こんなお馬鹿も可愛いもんだと丸ごと思えるほどでなければ
こんな男、好きでいかれるわけがないのだ。
「恋人なんだから、男同士だって、当然キスもセックスもすると思いますよ?」
「だ、だ、だけど…!俺と吉沢課長が?!……俺が吉沢課長に??ん?吉沢課長が俺に
入れるってこと??」
新井の頭の中は相当パニックになっているようで、考えていることが駄々漏れだ。
「新井さんはどうしたいんですか?」
「……わかんないよ。俺、どうしたらいいと思う?」
「本当に、キスしたりセックスしたいと思わないんですか?」
新井は何を想像しているのか、難しい顔をした。
「……キッタカッターはさー、男としたことあるの?」
ストレートな質問に、多分新井の悪意はない。しかし、この直球を直球で返すことに躊躇い
がないわけではない。橘高は本来カミングアウトする性質ではないのだ。
けれど、せっかく訪れたチャンスを潰すのも勿体無いと感じ、橘高はのるかそるかの勝負
に乗った。
新井の耳元まで顔を近づけると、テナーボイスは囁いた。
「ありますよ」
新井が驚いて振り返る。けれど、そこには単純な驚きしかなかったようで、いつものノリで
「マジで〜!凄いね」
と新井は言ってのけた。
橘高はその反応が、新井らしくて嬉しくなる。ついつい、調子付いて、橘高は次の行動に
出てしまった。
「試してみますか?」
「試す?!」
「はい。試しにキスしてみます?男とするキスがどんなのか、わかりますよ」
「え?え?ちょっと……」
「大丈夫、ここなら誰も見てませんから」
押すときは強引な男、橘高浬。ここぞとばかりに勝負に出て、橘高は新井の腰をぐぐっと
引き寄せた。
「ちょっと、キッタ……」
新井がわめきだす前に、橘高は新井の顎に手を掛け、その唇を静かに塞いだ。
新井の驚いた顔が見えたが、橘高はそれを無視して目を閉じると、新井の唇の感触を自分
の唇で感じ取っていた。





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