「ぎゃあ〜〜〜!!!うわ〜〜〜!!キッタカッターとキスしちゃった!!」
言うや否や新井は橘高を突き飛ばし、店を飛び出していった。
「やっぱりやり過ぎたか……」
強引過ぎた展開に橘高は我に返ると、改めて落ち込んだ。
流石の新井だとて、男からキスされたのならそれはパニックにもなるだろう。明日から
どの面下げて会えばいいのだろうか。
「まあ、これで玉砕した方が自分のためかもしれない」
だめんずに引っかかって、自分の恋愛史にまた一つ不名誉な称号を刻むより、早々に失恋
して、次こそいい男を釣り上げた方が自分にとっても幸せなのだ。
今日だけは泣いて、明日からはまた出来のいい後輩を演じよう。だから今日は自棄酒だ。
店員にビールをオーダーしようと橘高は手を上げた。
「失恋記念に乾杯……」
橘高はさっきまで新井が飲んでいたカクテルにグラスを合わせると、一人虚しくビールを
煽った。
窓に映る哀れな男。瞳にはきらりと光る粒が一つ。新しい出会いに期待して、今日は新井の
残り香に涙しようと、新井の座っていた席を軽くなでた。
感傷に浸りながら窓の外を眺めていると、橘高は信じられない光景を目にすることとなった。
目の前を走っている男が一人。その男は、橘高の前を通り過ぎると、店の中に飛び込んで
きたのだ。
「……新井さん!?」
飛び出していった筈の新井が、飛び出していった時と同じテンションで戻ってきたのだった。
「うわ〜〜〜!びっくりしすぎて、思わず100メートルダッシュしちゃったよ〜」
新井は軽く息を切らせながらそう言った。新井のことだ、冗談抜きで100メートルダッシュ
してきたに違いない。
「お、お帰りなさい…」
橘高の予想の斜め上を行く新井の行動に、橘高の端正な顔が間抜け面のようになった。
新井は照れているのか、えへへと頭を掻きながら元の席に着くと、丁度やってきた店員に
コーラを頼んだ。
「あの……」
店員が橘高の2杯目のビールと新井のコーラを席に持ってくると、橘高は迷いながら声を
掛けた。
「なあに」
「さっきの」
「びっくりしたよー。だって、キッタカッター、すっごいんだもん」
「凄いって!?」
「俺、男とキスしたの初めてだったけど、気持ちいいんだね」
新井は真顔で言った後、声のトーンをぐっと下げると、橘高の耳元に顔を近づけて
「ちょっと気持ちよすぎて、こっちがぎゅんってなっちゃった」
と照れくさそうに笑った。
新井は果たして、天然なのかアホなのか、未知数の懐に橘高は我ながら苦笑いになった。
どうしてこういう変人に恋をしてしまうのか自分でも分からないが、新井が戻って来たと
いうことは、自分の押した方向は間違ってなかったのだと、勝手に納得することにした。
「お望みなら、もっと気持ちいいことも出来ますよ?」
「はへ?」
橘高は隣に座る新井に改めてターゲットをロックオンすると、静かに決意を固めた。
なんとしても、吉沢課長の視線の行方を見極めなければ。
そして、本当に新井の言う通り、吉沢課長の視線の行方が新井だとするのなら、自分は全力
で戦おう。新井にコレだけの隙があるのならば、相手が吉沢課長だとしても、勝算はある
はずだ。新井には可哀想だが、吉沢課長はきっぱり諦めてもらう。
橘高はグラスを持つと、新井にも勧めた。
「とりあえず、乾杯しましょ」
「うん」
能天気に頷く新井に、橘高は目を細めていた。
正攻法では崩すことはできないことは、初めから分かりきっていたことで、橘高はそれ
ならばと別の道を選んでいた。
「んで?わざわざ呼び出して何だ?」
目の前に座るのは、深海主任。新井の先輩にして、吉沢課長の部下。性格は今は頼れる
主任だが、嘗て新井が現れたとき「深海2世」と呼ばれたくらいの男だ、新井と同じ匂い
はまだ残っていて、それは橘高にも十分理解できた。
あの場面、3分の1の確率で吉沢課長のラブ光線を受けていた男。
落とすのならこっちからだ。彼ならなんらかの事情を知っていてもおかしくない。
橘高の望みは、吉沢課長の3分の1の確率がこの男であってほしいということだ。
希望的観測だけれど、ゼロではない。もう3分の1で自分という選択肢もあるが、自分に
注がれる視線に気づかないほど鈍感じゃないはずで、吉沢課長の視線の行方が新井で
なければ、彼しかいないのだ。いや、彼であってほしいと橘高は願った。
「橘高?」
怪訝そうにしている上司に向かって、橘高はその優秀な頭脳をフル回転させて言った。
「実は、相談したいことがあって……」
「お前が?仕事で困ったことでもあった?」
「仕事っていうわけじゃないんですけどね。えっと、吉沢課長のことで……」
橘高が吉沢課長の名前を出すと、深海は表情をすっと硬くした。
「吉沢課長となんかあった?」
「いえ、直接は何にもないんですけど」
「は?」
「……実は最近、吉沢課長の視線の先がちょっと気になってて」
「はあ?!」
深海の表情がまた変わった。橘高は深海の顔色を慎重に伺いながら、次の言葉を捜す。
方向性は間違っていないはずだ。
「最近、どうも見られてる気がするんですよ」
「お前もか!!」
深海が半分呆れて言った。
「どういう意味です?」
「……お前もアホの新井と同じことを…いや、待てよ。見られてるって、そういう意味じゃ
ないか……悪い、つい新井と同列に……。んで?視線が気になるって睨まれてる訳でも
ないだろう?」
「いえ、だから、見られてる気がするんです。それも、すごく熱いヤツで」
「ええ?!」
橘高はわざとらしく溜めを作って上目遣いに深海を見た。
「……吉沢課長は、やっぱり俺に気があるんでしょうか」
「ああああ〜」
橘高の発言に深海は絶望的な声を出して頭を抱えた。その様子を橘高は冷静に見詰めて、
次の一手を打った。
「……初めは勘違いかと思ったんです。でも、吉沢課長のこと観察すればするほど、課長の
視線は『ホンモノ』だって」
「でも!だからって、その視線の先がお前とは限らないだろう」
「はい。それはそうですけど。でも、この前、新井さんと深海さんと3人でいるときに、吉沢
課長がやってきて、そのとき感じたんですよ。だから、あの視線を送ってる相手は俺か新井
さんか、深海さんか。……確率は3分の1なんです」
「……その3分の1の確率でお前だって?」
「はい。……俺、吉沢課長に恋されてるかもしれないんです。どうしたらいいでしょう」
いつかどこかで聞いた台詞に、深海はぶんぶんと頭を振っている。全力で否定したいのを
押さえ込んでいるようにみえた。
「待てよ。その3分の1でお前かもしれないけど、3分の1で俺かも、それから新井かもしれ
ないだろ?」
「いえ、間違いなく俺なんです」
橘高は迫真の演技で深海に迫った。
「……お前も新井も、なんで暴走するんだ!」
「新井さんもって?」
「……あいつも同じこと言ってんだよ。ありえないっつーの」
「どうしてありえないなんて言えるんですか。あの視線は間違いなくラブ光線ですし、俺
にも新井さんにもそれを受けてる可能性あるんじゃないんですか!?」
「ないない。絶対ない。絶対ありえない」
深海はぶるぶる顔を振った。手に取るように分かる動揺に橘高は勝算を見た。
「なんでそんなに強く言い切れるんです?何か知ってるんですか?」
「し、知らないけど、とにかくありえないの!……お前らの勘違いだ!大体、吉沢さんが
お前らに恋なんてするわけないだろ」
「そうですかねえ…」
「そうなの!だから、さっさと目を覚まして、この話は忘れろ。な?」
逃げるように話を収束に向かわせている深海の尻尾を橘高は逃さなかった。信じられない
という気持ちは後でじっくり味わうとして、今はとにかく答えがほしい。吉沢課長がゲイ
だとか、深海も同類だとか、よくよく考えると目が回りそうになるようなことだけれど
そこには敢えて目を瞑って、後一歩で届く答えに向かって走った。
「そんな事言って、本当は深海さん、知ってるんじゃないんですか?」
「は?」
「吉沢課長の視線の先に誰がいるか」
「し、知るわけないだろ」
「知ってて、ばれたら困るから、そんなに慌ててる」
「何言って……」
「視線の先に、深海さんがいるから、必死で隠してるんですよね?」
「なっ……」
絶句する深海に、ニタリと橘高は笑った。
顔中で「まずい」と表現している深海の顔に、橘高は内心ガッツポーズを決めた。
橘高の予想はビンゴだったのだ。
「付き合ってるんですよね?」
「……」
「そうですよね?」
ダメ押しの一手は、深海を撃沈させた。
新井も相当分かりやすい人間だが、深海も変わりないらしい。橘高は吉沢課長の視線の先
が新井ではなく、深海に向いていることを確信した。しかもそれは吉沢課長の一方通行
ではなく、相互通信してたのだ。
新井は大いなる勘違いをした哀れなピエロ確定だ。
深海は暫く呆然としていたが、慌てて否定しに掛かった。深海にしてもこれは死活問題だ。
絶対にバレる訳にはいかない。
「違っ…違うって!そんなこと、あるわけないだろ!」
深海の声は上ずって、最後の「ろ」のところでひっくり返った。明らかな動揺に、橘高は
揺ぎ無い確信を得る。沸々と心の奥から笑みが溢れ出し、ポーカーフェイスで表情を殺して
いた橘高の顔に、色が差した。
「橘高っ…!お前、勘違いするなって!」
深海は仕切りに手を振った。けれど、それが余計に肯定していることに深海は気づいている
のだろうか。もう遅いとばかりに橘高は頷いた。
「大丈夫です。絶対に誰にも言いませんから」
「当たり前だ!」
「あ、墓穴」
「!!」
にっこり笑った橘高に、深海は言葉を失った。新人に毛の生えたような男に掌で転がされ
一番見破られてはならない秘密をこうもあっさりと曝け出してしまったのだ。
怒りのオーラを営業スマイルの下に纏わせて自分を見つめる吉沢課長を想像して、深海は
背筋がぞくぞくと震え上がった。
「……お前、一番踏んじゃいけない地雷踏んだんだぞ……」
弱腰になっている深海を余所に、橘高の心は花畑になっていた。新井の妄想はやはり新井
の勘違いで、自分に付け入る隙はありまくりなのだ。
「大丈夫ですって。誰にも言いませんから」
「……お前、カマ掛けたのか」
「すみません」
「何で……」
「新井さんが、吉沢課長に恋されてるっていうんで、その真相が知りたかったんです」
「新井とグルだったのか」
新井は前に深海に吉沢課長が誰に恋をしているのか探るように頼んでいる。その答えを深海
が中々出してくれないことに痺れを切らして、今度は橘高に頼ったのだろうと深海は思って
いるようだった。
「グルだなんて。違いますよ」
「じゃあ、なんでそんなこと」
「吉沢課長とライバルになりたくないなあって」
「は、い?」
深海はまたポカンと口を開けて橘高を見た。深海には付いていけない展開のオンパレードだ。
「これで安心しました。吉沢課長に恋されてるっていうのは完全な新井さんの勘違いで
俺は心置きなく、新井さんを落としにいけます」
「お、前……新井のこと……!?」
鳩が豆鉄砲食らった顔というか、江戸時代の人間が黒船を見つけたときと同じような、驚き
と畏怖の混じった表情で深海は橘高を見返した。
「フェアじゃないんで、言っておきます。俺、ゲイなんですよ。公表はしてませんけど。
だから深海さんと吉沢課長のことも口外しませんから、安心してください」
「……そう。……うん。……口外、すんなよ……」
力なく呟くと、深海はからからに喉が渇いていることに気づいて、ビールの入ったグラスに
手を伸ばした。
その手が小刻みに震えて、瞳が潤んでいる。橘高にばれたことを改めて実感して、怖く
なっているのだ。深海にとってそれほどの禁域だったのだろう。橘高はこの単純で分かりやすい
男に好感を持った。
「深海主任って意外と可愛いところあるんですね」
橘高に指摘されて、深海はぶほっと飲みかけのビールを吐いた。
「おまっ…何言ってんだ」
深海は激しく動揺して、口を押さえる。10近くも離れた年下の男にそんな台詞を吹きかけ
られるとは夢にも思っていなかった深海は、揺れる瞳のまま橘高を見つめた。
「そのまんまです。……俺、深海主任も結構ストライクゾーン入ってたんですよ」
「は?…はあ?!」
わけが分からないと、手をばたばたさせて深海は挙動不審になった。
「大丈夫です。俺、吉沢課長とやりあうつもりはないって言いましたよね?」
「……」
返答に困っている深海を橘高は純粋にかわいいと思い、自然と笑みが零れた。
しかし、彼らの後ろに一つの影が立っていることに、まだ二人は気づいていのだった。
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