廊下で朝一に会った新井の鼻歌が、竹内まりあの「けんかをやめて」だったから、俺は
俺よりもデカイ新井の頭を思いっきり資料で殴ってやった。
「うわっ、痛い」
振り返って俺に気づくと、新井は頭を撫でながら珍しく神妙な顔をしていた。
「深海先輩・・・おはようございます」
尻つぼみに小さくなる声。いつもなら耳を塞いだって聞こえる挨拶も今日は耳を澄まさなければ
聞き取れない程に弱弱しかった。
「お、おはよう・・・?」
萎れた花――いや怒られた大型犬みたいに元気がない。馬鹿ポジだけがとりえの新井が朝から
項垂れてるとこっちも調子が狂う。
しかも、昨日の今日だ。あの喧嘩を見られて気まずいのは俺の方なのに。
「なんだあ?」
「あのう、先輩」
「今日、帰り時間作ってくれますか?」
「・・・・・・いいけど」
新井はシニカルに笑って俺の前を通り過ぎていった。
「何なんだ、あいつ・・・・・・?」
新井に呼び出されて、馴染みの店に入るとそこには思いがけない人物が座っていた。
「先輩、遅いっすよ」
新井は幾分か朝よりも元気になっていた。(新井にはシリアスモードが3分しか持たない
機能とかが付いてるんじゃないんだろうか)
「・・・・・・なんで、ここに?」
「お前こそ」
俺は新井なんてそっちのけで、新井の正面に座っている人物を見る。
「新井に呼び出されて・・・・・・」
「・・・・・・」
見詰め合って、気まずいムードが流れる。
「まあまあ、お2人とも。先輩、そんなところに突っ立ってないで座ってくださいよ」
新井に促されて俺はその人の隣に滑り込むように座った。
肩が当たりそうな距離。今までならコレくらいの事で動揺する事なんて絶対なかった。
なのに今はそれだけで心臓がドクドクと高鳴って、身体が震えだしそうになる。
「あ、あの・・・・・・吉沢さん・・・・・・」
「何?」
「えっと、その、お疲れ様です」
「ああ、お疲れ」
昨日は結局あれから、喧嘩の続きというか言い訳をする雰囲気ではなくなってしまい、その
隙に吉沢さんには逃げられてしまったのだ。
だから、吉沢さんにはまだ何も申し開きも出来てないし、吉沢さんが今怒っているのか
もう許してくれ始めているのかも全く分らない状態なのだ。
2人きりならともかく、正面に馬鹿の新井がいてはそんな会話をすることも出来ないし、
逃げ出したいけれどそう言うわけにもいかない。
隣を見れば平然としながら(もしくは平然を装いながら)吉沢さんはビールのグラスを
手にしている。
何を思っているのかその表情からは読み取れそうもなかった。
一方新井は俺達2人を交互に見ながら、切り出すタイミングをうかがっているように見えた。
これから始まるのは、もしかしたら公開処刑なんじゃないんだろうか。俺を前に2人が
くっついたり、イチャイチャしちゃったりしたら・・・・・・俺、生きていかれないぜ。
「とりあえず、何か頼んだら?」
吉沢さんが横目で俺を見る。
「はい」
喉だけはカラカラに渇いていた。
店員がビールを持ってくるまで見事に無言になった。
目のやり場に困って置かれたビールジョッキを見ていると、やっぱり切り出したのは新井
だった。
ドン、と激しい音がして驚いて顔を上げると、新井のつむじが見えた。
「吉沢課長、深海先輩すんませんでした!」
机が揺れる。新井が思い切り机に手を付いて頭を下げている。手をつけていなかった俺の
ジョッキからはビールが波打って零れた。
「新井?」
突然の新井の行動には、やっぱり付いていけず、俺はポカンと新井を眺めてしまう。
暴走特急新井号は今日もスタートダッシュを決めたようで、乗り遅れた俺と吉沢さんは
それを見送るしかない。
新井は暫く頭を下げたまま動かなかったが、俺達が何も言わないので(言えないだろう)
不審そうに顔を上げた。
「やっぱり、許してもらえないっすか?」
「・・・・・・」
「許すも許さないも、新井は何で謝ってるんだ」
吉沢さんも困惑気味に見える。俺には新井が何で謝っているのか見当も付かなかった。
そんな新井も、自分の意思が全く通じてない事に困った様子で、漸く言い訳を始めた。
「・・・・・・昨日、あれから兄ちゃんと飯食ったんですよ」
「はあ?」
新井の話は飛ぶ。それとこれとどんな関係があるんだ、と問い詰めたい衝動をぐっと堪えて
次の台詞を待った。
「久しぶりに2人で飯食って・・・・・・って言っても奢ってもらったんですけど」
新井のそんな兄弟生活なんてものはどうでもいいわけだが、新井は俺達のイライラなど気にも
止めず照れ笑いを浮かべた。
「それで、兄ちゃんに最近どうだって聞かれたんで、ついペラペラっと話しちゃったんです」
「何を?」
「吉沢課長や深海先輩や・・・・・・俺の気持ちっス」
オイオイ、兄貴にそんな間抜けな恋の相談なんてすんなよ!こいつの兄貴、一体何モンだ?
俺は頭が痛くなって、思わず溜息をつきながら頭を抱えた。
「『俺の気持ち』って何のことだ」
それが何だと言わんばかりに、吉沢さんは俺と新井を見比べて不思議そうにしている。
「ま、まあ、色々悩んでるんっすよ、新井も」
「色々?」
「俺!・・・・・・吉沢課長とお近づきになりたくて、深海先輩に間取り持ってくれるように
こっそり頼んだんです」
「あ、新井っ・・・・・・」
馬鹿、こんなところで告白なんてすんなよ?!
「その所為なんですよね?!お2人が喧嘩したのは!俺の所為なんですよね?!俺が無茶な
お願いなんてしたから、深海先輩は無理矢理吉沢課長のこと手篭めに・・・・・・」
アホか!なんで、そうなるんだ!お前の思考回路は一体どこをどう繋げるとそうなるんだ!
「昨日2人が喧嘩してるの見ちゃって、そのこと兄ちゃんに言ったら、直ぐ謝って来いって
言われて、それで・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
しょぼん、と萎れているが新井のその萎みは全くの無意味だ。
ある意味新井の所為ではあるんだけど、俺は別にお前と吉沢さんを取り持ったりしよう
なんて微塵も思ってない。
平然としているようだけれど、吉沢さんだって内心新井のこと宇宙人くらいに思ってる
はずで、さっきから箸に挟んだ煮物がそのまま空中で止まっている。
「だから・・・・・・」
「だから?」
「お願いっす!俺の為に喧嘩するのは止めてください!」
チャララ〜。朝の新井の鼻歌が頭の中を駆け巡る。
・・・・・・俺はお前を奪い合って吉沢さんとなんて喧嘩しないっつーの。
「俺、お2人ともすっごい尊敬してるし、お2人が俺の所為で険悪になるなんて、考えただけで
すごい辛いっす」
これが、素なんだから新井ってすごいよな。本気で俺達の喧嘩勘違いして、本気で悩んで
兄貴に相談。どこまで純粋培養馬鹿なんだ、新井は。
「・・・・・・それに、最近吉沢課長も深海先輩も元気ないみたいで、俺、すっごく迷惑掛けてた
んじゃないかって不安になっちゃったんっすよ」
「元気ない?」
「ないですよね、お2人とも。吉沢課長も一緒に出掛けてもなんだか溜息よく吐いてるし」
あの吉沢さんがプライベートのゴタゴタを新井に見抜かれてる。横目で確認すると、やっぱり
吉沢さんはバツの悪い顔をしていた。
「兄ちゃんに説教されて、俺とんでもないお願いしちゃったって・・・・・・すんません!」
新井はもう一度頭を下げた。全くもって新井の勘違いには違いないんだけど、こんな新井は
滅多に見られるものじゃない。
それにこのまま勘違いしておいてくれたほうが、俺達にとっても都合がいいわけだし、
ここは新井の暴走に任せて、素直にその謝罪を受け入れてしまおう。
吉沢さんも俺と全く同じ考えらしく、新井が頭を下げてる隙に俺を振り向いて、苦笑いした。
「新井、もういいよ。・・・・・・喧嘩って言っても、もうちゃんと和解したし、お前が気にする
ようなことじゃない」
吉沢さんの優しい声に、新井が目をキラキラさせて顔を上げた。
「本当っすか!?」
「もう大丈夫だから・・・・・・」
もう大丈夫だから、俺達に構うな。そう言いたいのを堪えているのだ、吉沢さんだって。
「本当に本当に、大丈夫っすか?」
「しつこい」
「でも・・・」
新井のこの粘着質っぷりも、昨日の俺そっくりで、俺は心の中で1人溜息を吐く。
丁度その時、テーブルの上の新井のケータイが鳴り始めた。新井はそれに目をやりながらも
吉沢さんの言葉の方が気になっているらしい。
出るのを躊躇っていると、吉沢さんが促した。
「・・・・・・ほら、ケータイ鳴ってるぞ」
「でも」
「大事な用事だったらどうするんだ。早く取れよ」
「すんません、じゃあ・・・」
新井はケータイを持つと、席を立った。
「大方の予想は付くけど、説明してもらおうか?」
新井がいなくなった席は、やけに静かに感じる。俺と吉沢さんは横に並んだまま、目を合わせる
こともなく、妙な緊張感だけが漂っていた。
喉がカラカラに渇いて、ビールで潤すと、俺は事の経緯を吉沢さんに語った。
「・・・・・・実は、新井の馬鹿、今度は本当に吉沢さんに『恋しちゃった』なんて言い出して」
「それで?」
「俺に、吉沢さんとの仲を取り持って欲しいって・・・・・・」
吉沢さんが、ふっと笑った。瞬間、周りの空気が一気に緩む。
「で、新井は昨日のアレを見て、お前が俺に無理矢理そのお願いを押し付けようとしてる
現場だと思ったわけか」
「・・・・・・はい、多分」
「新井は見事に勘違い。で、さらに暴走、と」
「ですね」
「アイツは無類の馬鹿だな」
「馬鹿です」
「本当に仕方ない『馬鹿兄弟』だな」
吉沢さんの一言が、いつもの調子を取り戻し始めていて、俺は内心落ち着かなくなっていた。
「ついでだから、こっちの馬鹿の説明もしてもらおうか?」
「吉沢さんっ」
苦笑いで振り返られて、俺は天から垂れてきた蜘蛛の糸をやっとの事で手にした。
新井が帰ってこないのを祈りつつ、早口で吉沢さんに言い訳を始める。
「怒らないで、最後まで聞いてくれますか?」
「内容にもよるけど」
「・・・・・・あの日、優花と会ったのは本当です。もう二度と会わないって約束したのに、それを
破ったことについては、謝ります。すんません。・・・・・・だけど、吉沢さんが思ってるような
ヤマシイことをしたくて会った訳じゃないんです」
あの日、俺は優花に会って本当の自分の気持ちを伝えたのだ。
学生時代、成り行きでそう言う関係になって、その時俺は優花の気持ちなんてあんまり
考えてなかった。ただ優花も満更ではなさそうだったし、誘えば断らなかったから、俺達
はお互いを「都合のいい相手」だとしか思ってなかった。
だけど、実際彼女と上手く行ってなかったのは俺だけで、優花は俺の誘いにずるずると
引き摺られていただけなのだ。
そして、立場が逆転した今、優花に「もう会えない」なんて一方的に言い放つのが、昔
の自分のことを思うとどうしてもできなかった。
「だから、ちゃんと謝ろうと思って会ったんです」
「謝る?」
「昔優花を好きなように使っておきながら、こんな事言うのはずるいけど、今は大切な人
がいて、そういう関係には戻れないって。だからゴメンって」
「・・・・・・」
「メール一つで済ませるには、余りにも罪悪感がありすぎて・・・・・・」
「お前、昔どんだけ悪い事してきたんだよ」
呆れ顔の吉沢さんに、こればかりはひたすら謝るしかない。
「だから、あの日を最後にきっぱり彼女には言ったんです。もう会えないからって」
一応、俺なりのけじめとして、覚悟を決めて会いに行ったのだ。
「それを新井に見られて、事もあろうに吉沢さんに報告されて・・・・・・」
間が悪すぎるんだ、俺も新井も。アレさえばれなければ、俺は秘密裏に優花とのことを
綺麗に清算して、吉沢さんと何事もなく快適ラブ生活を送れていたっていうのに。
「彼女、それで納得したのか」
「愚痴られましたけどね。そんだけ思われてるなんて、羨ましいって。・・・・・・でも、ちゃんと
納得してくれましたよ」
だからこそ、この前も駅前で見かけた俺に声をかけなかったんだろう。結局電話は鳴ったけど。
それくらいは、グレーゾーンでOKにしてもらわないと。
吉沢さんは一通り俺の言い訳を聞いた後、なんともいえない顔で俺を見ていた。
「ったく、しょうがない馬鹿だ」
「すんません」
「今度、こんなことが起きたら、次はないからな」
「は、はい!」
テーブルの席の下で、吉沢さんが俺の手を握ってくる。中学生みたいに、俺はそれをドキドキ
しながら握り返す。
長かった冷戦も漸く終結が見えた瞬間だった。
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