なかったことにしてください  memo  work  clap
楽園アンビバレンス


 12.第三の男1




日曜日の朝は珍しく寝坊した。目覚まし替わりのケータイのアラームは何時止めたのか
全く記憶になく、新しいメールの着信があることをぼんやりとした頭で眺めていた。
「誰だこれ」
名前が登録されていないアドレスを眺めてみたが見覚えがなく、宛先は社用アドレスから
の転送になっていた。
「……」
郁生はにわかに緊張が走って、一気に覚醒する。
画面を追っていくと、意外な人物からのメールだったことに気づいた。

『塚杜郁生様

こんにちは、塚杜君の名刺が研究室に置きっぱなしになっていたので
こっそりメールアドレスを控えさせてもらっちゃいました。
突然のメールでごめんなさい。

先日は思わぬ再会で、すごくびっくりしたけれど、会えて嬉しかったです。
けれど、塚杜君はそれどころではなかったよね。
行方がわからなくなっていた会社の先輩は見つかったのかしら?
無事だといいんだけど……。

その先輩、うちのゼミの先生の知り合いなのよね?

すごく迷ったんだけど、黙っていることで事態が悪化したらと思うととても辛くて……。
実は、そのことで少し話したいことがあります。もし、その方が見つかって
ないのなら、なおさらです。
一度、会えないかな?

時間があるときに研究室訪ねてきてくれると嬉しいです。

では、また。

吉野陶子』

郁生の胸の中には嫌な予感しかせず、思わずこのメールを削除しようとしたところで我に
かえった。
「本当に吉野さん……?」
署名に陶子の名前と研究室のアドレスが記載されている。郁生は起き上がってあたりを見
渡した。すっかり陽も上がり、ブラインドから光がチラチラと差し込んでいる。
郁生は手にしたケータイに再び目を落とした。
「10時か」
休みの日とはいえ、随分な寝坊だ。郁生は溜息を漏らしつつ、陶子の研究室の番号に電話
をかけた。
日曜日といえば、大学は休みなのだろうが、ひょっとしたら研究室にはいるかもしれない
という淡い期待を込めて郁生はケータイのコール音をひたすら聴き続けた。





僅かな光にでも縋りたい気分だった。真っ暗闇のトンネルの中では出口がどこにあるのか
すらわからない。自分が歩いている方向は出口ではなく入口だったら?一歩先は奈落の底
だったら?不安ばかりが湧き上がる。
その暗闇の正体が駿也の問題ではなく、本当は自分自身の問題だということも郁生は理解
しているつもりだったけれど、脳みそが自分を騙すようにうまい具合に問題をすり替えて
いく。駿也の行方が分かれば、全てが解決するような気がしていたのだ。
郁生は30分で支度すると、愛車に滑り込んだ。残暑厳しい日差しの中を愛車は海ほたるへ
と飛んでいった。



アクアラインを抜けると目的地はすぐだ。木更津はずっと遠い田舎の地だと思っていたが
アクアラインのおかげで少し遠い田舎だと思えるようになった。
木更津市内を抜け郁生はT大の門をくぐった。
今朝の郁生の電話は長いことコールを続けた。やはりいないと諦めかけたとき、電話は
乱暴につながった。電話の相手は陶子でメールを出したあと、ひょっとして今日来るの
ではないかと、慌てて研究室に来たのだそうだ。
郁生は丁寧に礼を言い、そちらに向かう旨を伝えた。
愛車は肩身を狭そうに静がな音に抑えながら駐車場に止まった。前回の記憶が蘇る。この
先の棟に陶子達の研究室があるはずだ。
郁生は車を降りると真っ直ぐ研究室に向かった。



「いらっしゃい。どうぞ入って」
「休日なのにごめん。失礼します」
郁生は研究室に入って思わず息を飲んだ。
「え……」
「いらっしゃい。こんにちは」
中にいたのは、若見瑛本人だった。
「ど、どうも……」
郁生は急速に体中の体温が上がっていくのを感じていた。耳の奥がキンキンと痛む。あの
甘い匂いが頬を掠め、首筋にまとわりついて、郁生は軽い目眩を抱えた。
「せっかくの『逢引』だったのに、邪魔がいて驚いてる?」
「いえ……」
「それとも、僕に聞かれては困る話でもしようとしていたのかな」
ふふっと笑う顔は、あの時の顔のようでもあり、無邪気な大人の表情にも見える。この人
が何を考えているのか、郁生にはさっぱりわからない。聞きたいことはたくさんあるが、
どれをとってもまともに返事してくれるものはないだろう。
あの日、一つの電話で顔色を急に変えて消えてしまった男は、そんな出来事まるでなかった
かのようにそこにいて、郁生をからかっているようだった。
「塚杜君、どうぞ。アイスコーヒー飲む?」
「ありがとう」
「先生もどう?」
「いや、僕はいいよ。お邪魔は消えるよ」
「邪魔だなんて思ってませんよ」
陶子はふふっと笑いながら、研究室の小さな冷蔵庫に向かった。中からアイスコーヒーの
パックを取り出してコップに注いでいる。
陶子の後ろ姿をぼんやり見ていると、瑛は「先生」の声で郁生に声をかけてきた。
「吉野さんと高校時代の同級生なんだってね」
「……はい。2年の時同じクラスでした」
「そう」
瑛は呟くとゆっくりと自分へ視線を向けてきた。ちり。胸の中の導火線に火の粉が飛んで
くる。あの火が付いたら自分はどうなってしまうのだろう。どこへ向かってしまうのだろう。
闇には落ちたくない。けれど、その先も見てみたい。この人の心の中を覗いてみたい。禁断
の扉の前で進もうか引き返そうか郁生は迷いながらも背中を押してくれるのを待っている
気がするのだ。
「……」
瑛へ視線をやると、ぞっとするような妖しい瞳で見つめ返された。
金縛りにあったかのように郁生は視線すらも変えることができなくなる。身動きができない、
息が苦しい、大量の耳鳴りと朦朧とする意識。その中で瑛の姿だけが鮮明に浮かび上がり、
郁生の脳裏に焼き付けていく。危険だ。この人は危険な人だから、近づいてはならない。
警告は発せられているのに、郁生はそれを上手く受信できずにいた。
「塚杜君。アイスコーヒー」
コトリ。目の前に出されたコップの音で郁生は金縛りから解放された。左の掌がぴくりと
動き、見開いた目が陶子とぶつかった。
「あっ……ありがとう……」
「塚杜君?」
郁生は放心したまま陶子を見上げていた。吸い取られた魂はまだ瑛の掌の中で転がされて
いる。陶子は郁生と視線が合ったあと、何かに気づいたように瑛をちらっと振り返った。
「……!?」
陶子の中で小さな爆発が起きていた。その爆発は連鎖し、いくつもの爆発と傷を残し、陶子
の心の中を駆け巡った。
先に動いたのは瑛だった。
「そうそう。僕はお邪魔虫だったんだね。これで失礼するよ。吉野さん、温室に行って
ますから、何かあればそちらに連絡ください」
「わかりました」
「ではね、塚杜君」
瑛は聖職者の顔をして出て行った。けれど、郁生にはその顔の裏側にちらついている隠淫
な顔が見えてしまったのだ。
郁生は自分を戒めるように体を震わせて、瑛を見送った。





「ごめんね、まさか先生いると思わなかったでしょ」
「いや。こっちこそ、押しかけてごめん」
「いいのいいの。私がメールしたんだから」
陶子は郁生の斜め向かいに座った。自分用のアイスコーヒーを手で包み、一口、口をつけ
ると、小さくため息を吐いた。
「今朝、メールした後に研究室に慌てて来てみたら、先生まで来ちゃってね」
陶子は肩をすくませて笑った。
「まさか、先生のことで塚杜君と会うなんて言えないから、塚杜君とこっそりここで会う
約束したと言ってしまったの」
「ああ、それであんな態度だったんだ」
「ごめんなさい。気を悪くさせちゃって」
「とんでもない。吉野さんみたいな美人とデートなんて嘘でも浮かれるよ」
郁生が陶子を持ち上げると、陶子は驚いた顔をした。
「塚杜君でもそんなお世辞言うんだ」
「お、お世辞って……」
返す言葉が見つからず固まる郁生に陶子はふふっと笑った。
「そうそう。そういうまっすぐな方が塚杜君らしいよ」
「ごめん」
「謝らないで。そういうまっすぐなところが塚杜君のいいところなんだから。塚杜君が
昔のまんまだったから、私もメールする気になったんだし」
陶子はショートボブの髪を掬い、耳にかけた。顎のラインがあらわになると、陶子の聡明さ
が一層引き立つような気がした。
「あの……それで、そのメールの事なんだけど……」
郁生が机の上で両手を固く結ぶと、陶子も表情を強ばらせた。
「塚杜君はうちの先生のことをどれくらい知ってる?」
「それほどは。陸上部の先輩……駿也さんって言うんだけど、駿也さんは実は施設育ちで
そこの施設で一番親しかったんじゃないかって言われてることと……」
「それと?」
「……いや、それくらいかな」
陶子の鼻息が小さく抜けた。
「先生には、不倫専門のゲイの噂があるの」
「!?」
「驚くわよね、そんな噂。でも、大学教授って結構変な噂持ってる人多いのよ」
「そうなんだ……」
「私はね、先生が、噂通りゲイでも不倫専門でも構わないの。だって、研究者としては
若見瑛という人間は一流なんだもん。ましてやゲイだとするなら、私に被害が及ぶこと
なんてないし、プライベートはプライベート、そう割り切ってたの」
陶子のあけすけのない告白に郁生は面食らった。
けれど、さっぱりとした性格は陶子の長所だったことを思い出して、郁生は大人しく陶子
の話を聞いた。
「2、3年前に西口健人ってサッカー選手が自殺したの覚えてる?」
陶子の口から出た名前は、当然聞き覚えがあった。しかもつい最近、彼の話題をしている。
「西口健人……」
何故だ。何故、陶子の口からもその名前が出るのだ?前回その名を問われたのは刑事だった
はずだ。
郁生は驚いて陶子を見つめ返すと、陶子はやるせない表情で頷いた。
「西口健人のことで、何度か警察がここに来てるのよ」
「え?!」
「西口健人には愛人がいたって報道知ってる?」
「ああ、まあ……」
「先生なの」
「え!?……そう、なの?」
「多分そうなんだと思う。私もまだゼミに入って日が浅かったから、はっきりとしたことは
わからなかったけど……。大学で何度か見かけたの。初めは好奇心から有名人と知り合い
なんて凄いですねなんて聞いてみたりもしたんだけど、どうもね……」
陶子は尻つぼみになって言葉を濁した。
「西口健人の自殺の原因は色々言われてるけど、ある日警察が来てね、その原因がうちの
先生にあるんじゃないかって」
「ええ!?」
自殺の原因とはなんなのだろうか。妻子と愛人の板挟みという下世話な発想しか思いつかず
郁生は不安な顔を陶子に返す。陶子も申し訳なさそうな表情で郁生を覗き込んだ。
「ごめんね、一つ聞いてもいい?」
「う、うん。何?」
「塚杜君の探してる先輩って、先生の恋人だったり……する?」
答えにくい質問でごめんねと陶子は謝ったが、それを取り消すつもりのない意思も垣間見
えた。
「い、いや……それはどうなのかな……。先輩には、奥さんも子供もいるんだ……ただ、
奥さんは、そうなんじゃないかって……」
口にすると憚られる。言葉には力があると郁生は思う。こうして言ってしまうと、駿也と
瑛の関係は本物になってしまう気がするのだ。
二人の影が重なる瞬間を想像してしまい、郁生は腹の底が燃えるような激しい痛みに襲わ
れた。
莉子の妄想、瑛の台詞、駿也の間違えって持って帰ったノートしか情報はないのに、郁生
の中で当たり前の様に現実にすり替わっていく。発狂したい衝動を理性でねじ伏せ郁生は
辛うじて笑を見せた。
「塚杜君……」
その表情に陶子は何かを確信したようで、胸の前でぎゅっと手を握ると呼吸を繰り返した。
「……もしかしたら、一刻を争う問題かもしれない」
「どういうこと?!」
「過去にも自殺未遂に『追い込んだ』恋人がいるって警察が言ってたの」
「は?」
「警察が言うには、うちの先生には恋人を死にたい気持ちにさせる力があるんだって。私
は半信半疑だけど。……でも、塚杜君の先輩が先生の愛人で、行方不明だっていうなら……」
郁生は思わず立ち上がった。パイプ椅子が派手な音を立ててひっくり返る。嫌な方向ばかり
光があたってしまう。陶子が驚いて郁生を見上げると、郁生は苦虫を潰したような顔で
言葉を絞り出した。
「手紙が……」
「手紙?」
「駿也さんが弟に宛てた手紙に、妻と娘を頼むってあったんだ……」
陶子も表情を暗くし、ひっそりと顔を背けた。
「先生を……探したほうがいいわ……」
「そうする」
今にも飛び出そうとする郁生に、陶子は慌てて引き止めた。
「待って」
「何?!」
「塚杜君は……穴に落ないでね?」
「穴?」
「……深入りしてはいけない人だから」
「深入りって!」
「凄く魅力的でしょう?そこの見えない真っ暗な穴って、つい、吸い込まれてみたくなる
ものだもの。……私、塚杜君が心配なの」
郁生は一瞬自分の内側に隠した熱を暴かれた気がして鳥肌が立った。見透かされるほど
態度に出ていただろうか。頭のいい陶子には分かってしまったのだろうか。
郁生は平静を装いながら歩き出す。
「大丈夫。駿也さんの行方が分かれば、関係ないから」
研究室のドアを開けながら、郁生は自分に言い聞かせていた。若見瑛は自分とは関係ない
人間だ。これ以上関わることもない。だから何があっても大丈夫だと。
「忙しいのに、わざわざ時間作ってくれてありがとう」
振り返ると、陶子は悲しそうな顔で立っていた。
「ううん、役に立つ情報じゃないかもしれないけど、塚杜君の先輩が早く見るかる様に
祈ってる」
「ありがとう」
郁生は軽く頭を下げて研究室を出た。締める扉を握った手は微かに震えていた。





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