13.曲がり道、分かれ道
郁生は夕暮れのアクアラインを走り抜けながら、ぶつけどころのない悔しさを持て余して
いた。爆音で流れる洋楽も、法定速度をはるかに超えたスピードも、郁生のストレスを何
一つ解消してくれる材料にはならなかった。
「クソックソックソ!!」
ハンドルに拳を叩きつけ郁生は叫んだ。
結局、郁生は瑛には会えず、おずおずと温室を後にしたのだ。聞きたいことは一杯だし、
何よりももう一度会いたかった。
この感情がどこから湧いてくるものなのかは分からないが、とにかく瑛の姿をこの目の中
に収めておきたかった。辿り着く先にどんな不幸が待ち受けているのか、冷静になれば分
かるはずなのに、熱に冒されたような感覚で郁生は無意識的に目を逸らしている。
ただ、自分は駿也が心配なのだ。駿也の足取りを追う為に瑛との接触が必要なのだと、大義
名分を掲げて郁生はもう一度ハンドルを叩いた。
「何なんだ、一体!!」
あの温室は危険だということを身をもって知らされた。流れてる時間が他と違う。あそこを
支配しているのは瑛なのか、それとも、あの男なのだろうか。嫌な男だ。
会ったことのないタイプの男だが、郁生は苦手な部類であることには違いなかった。
「冷静になれ、俺!!」
混乱する脳と精神を落ち着かせるために、郁生は深呼吸を繰り返した。
試合前の精神コントロールはアスリートにとって必須だ。コントロールの仕方も分かって
いるし、実践もしてきた。自分は自分をコントロール出来る強い人間だと過信している部分
があることも確かだが、そう思い込ませることもアスリートには必要だった。
しかし、こうして冷静になっていくと、根本的に冷静になれない部分があるという隠しが
たい感情にぶつかり、また目を逸らすという矛盾を抱えていることに気づいてしまうのだ。
瑛に対する感情に名前を付けられない。否定することが正論で、どう処理すべきなのかも
分かっている。分かっているのに、本能がそれを邪魔してくる。
駿也と同じ過ちを犯したいなら好きにすればいいとあの男は言っていたが、自分は駿也と
同じ過ちを犯すはずがない。自分は独身で、恋人と呼べる存在もなく……
「違う!そもそも、あの人は男じゃないか!!」
冷静になれない部分が次々と郁生の理性を侵食して、郁生の心を壊していくようだった。
「なんなんだよ、あの人は……」
郁生はさらにアクセルを踏んだ。郁生を乗せたスポーツカーは悲鳴に近い音を上げてアクア
ラインを弾のように突き進んでいった。
そのまま家に帰る気にはなれなかった。走ろうと思い、郁生は会社の陸上部まで車で乗り付け
ジャージに着替えた。
夕暮れのグランドは誰もいなかったが、虫の声や風の音がやけにうるさかった。
ストレッチからウォーミングアップまで一連の流れを上の空で済ませ、誰もいないグランド
を見渡すと、郁生は漸く気持ちを入れた。
物事を冷静に判断するには、一度そのことから離れたほうがいいと教えてくれたのは駿也
だった気がする。
ただ、走ることを見つめ直すために、グランドを去ったことはあったが、物事から逃げる
為に走ったのはこれが初めてだった。
手段としての走りは、走っていること自体に意味があった。タイムもフォームも気にせず
走る。全力で走ることに集中していると、駿也のことも瑛のこともあの男のことも頭の中
から吹っ飛んだ。校則や先輩から自由になりたくて、走り続けた時代があった。圧倒的な
力でねじ伏せれば、誰も文句は言わない。走りに計算も打算もない、力だけの走り。長い
競技人生を送りたいのならそんな走りは止めろ、と言われるまで続けていた郁生の本来の
走り方だ。
200メートルを何本か走りきると郁生はその場に倒れ込んだ。仰向けで空を見上げると東の
空は薄暗くなっていた。
「ふうっ……ふっ……」
浅い呼吸を繰り返して心音を体中で感じる。頭の中が全て心臓にでもなったような感覚は
気持ちよかった。何も考えることはない。ただ全身に血液を巡り渡らせるための反復運動。
規則正しく右から左へと血を運び、戻って来る物を受け入れるだけの機械。
郁生は脳内に充満している麻薬に暫し酔いしれていたが、心音が緩やかになるに連れて、
現実世界へと引きずり戻された。
駿也がいなくなって3週間。駿也はどこに消えたのかわからない。探しても届かない秘密。
そしてその秘密の花園の番人、瑛の存在を郁生は持て余す。
駿也へのベクトルと瑛へのベクトルが遠くの方で交錯している。嫉妬と憧れが絡みついて
引き剥がせなくなっていた。
「くそっ!!」
郁生は腕で顔を覆った。
暫くすると、足音がして郁生の足元で止まった。
「!?」
驚いて顔を上げると、そこにいたのは監督の佐伯だった。
「懐かしい走りをしているな」
「!!」
「青春思い出し中か?」
「監督……!」
郁生は起き上がって佐伯を見上げると、不意にこみ上げるものを感じた。安堵に近い懐かしさ
が胸を支配し、鼻の奥がツンと痛くなる。
今日一日の出来事が遠い記憶の彼方から蘇ってくるようだった。
「焦るなよ、怪我は完治してる。今更昔のフォームにしたところでタイムは伸びない」
「ちが……」
違う。タイムに対する焦りからこんな走りをしていたわけじゃない。何から弁明したらよい
のか郁生はわからず、拳で地面を叩いた。
「塚杜!?」
歯を食いしばり、郁生はわずかに残る糸にすがった。
「監督、教えてください。……あの男は、何なんですか」
見上げた郁生の眼球の鋭利さに佐伯監督は目を見開いた。
「あの男?」
郁生は膝を抱えグランドの遠くを見詰めると、食いしばった歯の隙間から声を絞り出した。
「若見瑛の部屋から出てきた男です。あの男は誰なんですか。監督や駿也さんの事まで知っ
てた……」
漠然とした説明に佐伯も眉を顰めた。
「誰だそれは。若い男か?」
「……年齢不詳です。ただ、ここの陸上部の話をしたら『ああ、佐伯のところか』と。監督
と同年代か、年上で若見瑛と親しい人間、知りませんか」
「あすたか園の関係者なら俺と同年代か年上の知り合いもいるだろう。他に何か言って
なかったのか?」
「駿也さんのことも知ってました」
「そりゃああすたか園の関係者なら知ってるだろうなあ。他にないのか、背の高さとか
誰かに似てるとか」
佐伯に言われあの男を思い出そうとしたが、衝撃的な匂いのせいで男の輪郭がぼやけた。
「わかりません。……ただ、若見瑛と同じ匂いが……」
言いかけて郁生は口をつぐんだ。言ってはならない台詞ではないだろうか。郁生が後悔の
闇にとらわれる前に、佐伯はあっさりと答えを出した。
「安永か」
「え?!」
「……ここ何年か会ってないから分からないが、そいつは背の高い髭面のサングラス男じゃ
なかったか?」
「そ、うです……」
「威圧的にしゃべるのがたまにキズで」
「そ……そうです!!」
佐伯はあからさまに嫌な顔をして
「そいつは安永って男だ」
と吐き捨てた。
安永と佐伯は大学のサークル有志が行っていた「施設の子にも家庭教師を」というボラン
ティアに所属していた。
佐伯は友人がそのサークルに所属していた為、引っ張ってこられたという経緯だが、安永
は何故あそこにいたのか全くわからないほど、かけ離れて見えたのだと言う。
「俺は体育専攻で、しかも陸上専門だから、勉強や日々の生活に疲れた子供たちの鬱憤晴し
的な役割もあったんだ。実際、先生というより一緒に遊んでくれるお兄さんって感じだった
しな」
「そう、ですか」
「まあ、駿也だけは真剣に走るということに向き合ってたけどな。あいつの方が珍しくて
それ以外は、一緒に走ったりサッカーしたり、かくれんぼしたり……だった。教育学部の
連中は自分の専門の教科教えたりしてたけど、安永は……多分、そういうのとも違った」
同じ大学で同い年なことは間違いないと監督は言うが、それ以外の情報を佐伯は殆ど持って
いなかった。
「何学部で何専攻してるのか、一切聞いたことない。ただ、あの頃から瑛と異様に仲が良
かったように……や、それも違うな。距離が近かったように思えた」
距離が近いの意味を郁生は上手く理解できなかった。
郁生が不審な顔をしていると、佐伯は小さく首を振ってなんでもないと呟いた。
「さあ、そろそろ休憩終わりだ!」
「監督?」
「明日からは、ちゃんと気を引き締めて元の走りしろよ」
監督は強制終了のセリフを突きつけると郁生から一歩離れた。これ以上関わるなと何度も
言われている。郁生は聞きたいこと全てを飲み込むしかなかった。
「……うぃーっす」
薄暗い空に郁生の声は虚しくこだましていた。
自宅前の駐車場に車をすべり込ませると、郁生は長い長い一日を途方に暮れた。
一度シートに沈み込んでしまうと張り付いたように起き上がれなくなった。目を閉じてしまう
とこのまま眠ってしまいたい気持ちになった。しかし、郁生は意識を手放す前に現実に呼び
戻されてしまった。
「!?」
それを許してくれなかったのは、車窓を叩く音だった。驚いて顔をあげると外に人影がある。
咄嗟に身構えると影は声を上げた。
「塚杜さんですよね?」
凝らして見ると見覚えのある童顔の男の顔があった。
「お疲れのところすみません」
「いや……別に」
郁生は渋々車から降りると二人の男の前に立った。
「今日も練習ですか?」
「いえ、軽く流しただけです。何か用ですか」
郁生は極度の疲労で、目の前にいる刑事達すら面倒くさかった。駿也を追う貴重な足がかり
なはずなのに、目を合わせることも拒絶してしまいたいくらいだった。
その郁生の態度に眉をひそめたのは先輩刑事横沢で、横沢はそれを自分たちへの後ろめたい
気持ちがそうさせるのだと勘くぐった。
童顔刑事の大野は横沢のオーラの変化を肌で感じつつも自ら一歩前に出て頭を下げた。
「お忙しいのに申し訳ありません。今日、花里莉子さんにお会いしまして」
ピクっとこめかみが張り、郁生は漸く顔を上げた。
「駿也さん見つかったんですか?!」
期待を込めて見つめた先の顔は、申し訳なさそうに首を振った。
「いえ。塚杜さんが持ってきてくださった陸上日誌をお借りしにいったんです」
「ああ……そうでしたか」
駿也はいなくなったのだ。その事実がいつの間にかかすれそうになっている。何故だ。自分
の使命は駿也を探すことなのに、何故あの人の気配ばかりが頭を支配するのか。
パレットに飛び散った絵の具を乱暴にかき混ぜたような気持ちだった。自分でもどうして
いいのかわからない。どんな色が出来上がるのか。ただ、混ぜれば混ぜるほど、どす黒く
なっていくのだけは確かだ。
「それでですね、お借りした陸上日誌を確認したんですが、直近のものが見当たらなかった
もので、塚杜さんご存知かと」
話を振られ、郁生は間違えて持って帰った日誌が一冊あることを思い出す。郁生は口に手
を当て考える振りをした。
「全部、莉子さんにお渡ししたと思うんですが……渡し忘れでもあったかなあ。……すみ
ません、カバンの中を確認してないので、ちょっとわからないです」
郁生の曖昧な返答に、横沢が顎をしゃくって大野を動かした。大野は小さく頷くと、深々
と頭を下げて郁生にお願いをしてきた。
「御手数ですが、少し確認してきていただけますか?」
柔らかな物腰とは裏腹に大野の目は笑っていなかった。
「……わかりました」
郁生は二人の刑事を玄関先に待たせ、自分の部屋へと戻っていった。
2、3分で郁生は戻ってきた。
「すみません、探してみたんですがありませんでした。あれからあの鞄は触ってないので
あるとしたら鞄だけなんですが、入ってませんでした」
「本当か?」
「!?」
郁生が陸上日誌の存在をかくしたところで、漸く横沢が口を開いた。郁生はその声に一瞬
体を強ばらせ、横沢の顔を見上げた。
嘘をつく必要など何もない。素直に一冊紛れ込んでいたといえばいいだけの話だ。
なのに郁生は隠してしまった。その真意を郁生はまだ直視していない。けれど、薄いベール
の向こう側には、駿也に守れれた人を自分も守りたいという醜い欲が見え隠れしていた。
郁生は自らの動揺をかき消すために横沢にも強く出たが、横沢は倍の眼力で見つめ返された。
「何でしょう?」
「お前、何か隠してるだろ」
「はあ?!」
こんなのはただのカマかけだ。この刑事は前にあった時も印象は悪かった。いつもこんな
口の利き方をする人間で、他意はない。きっと隠せるはずだ。
震えそうになる膝をきゅうっと閉じて力を込めていると、仏頂面の横沢が追い打ちを掛ける
ように郁生の視線を捉え、言い放った。郁生はその瞳から逃げられずわずかに固唾を飲んだ。
「一つ、これは忠告だ」
「何、でしょう」
「若見瑛は禁断の果実だ。絶対に手を出しちゃいけない。禁断の果実が何故禁断だと言われ
るのかよく考えろ」
「言っている意味がわかりません……」
「強力な毒を隠す為に、強烈な甘さで誘い込むんだ。お前なんて一たまりもないだろう」
禁断の果実の意味が郁生には肌にしみるようにわかった。そして今ならまだ引き返せる
ことも。でも、郁生はもう引き返す気などなかった。自分は自分のやり方で駿也を探す。
それに必要ならば、若見瑛にだって近づいてやる。
「俺はそんなに馬鹿ではありません」
「いや、お前なんて若見瑛の掌で踊らされるだけだ」
「ちょ、ちょっと、横沢さん!」
横沢の暴言に大野が焦って止めに入った。横沢のスーツの袖を引っ張り無理矢理後ろに
下がらせる。
「うるさい、あいつを庇うやつはロクなことがない」
「横沢さん!……すみません、今のは聞かなかったことにしてください!失礼しました」
大野はそのまま横沢の腕を引き郁生から離れていく。小さな刑事は思いの外強い力で先輩
を引いたらしい。横沢はバランスを崩しながら薄闇の中へと引きずられた。
「あいつをかばったら、お前も同罪だからな!」
最後に放った横沢の声が郁生の中でいつまでも木霊していた。
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