7.楽園切符2
「出ないか……」
郁生が車に戻ってからも若見瑛宛の電話はやはり繋がらず、郁生は名刺に書かれた大学へ
と向かうことにした。
T大園芸学部はあすたか園から車で更に30分程度走ったところにあった。繁華街を抜け、
住宅街の東側に山を臨む頃、園芸学部は突如として現れた。
郁生はふもとで見上げると、溜息を吐いた。
自分の通っていた大学とは随分と雰囲気が違う。山にへばりつくように、建物が点在し、
門の数だけでも7つある。T大は総合大学らしいが、ここのキャンパスには園芸学部しか
存在していないのだと、来る途中にネットの情報で拾った。
この広大な山全てがT大園芸学部のものらしく、山のあちらこちらに門があり、どの門から
も学部棟までは坂道か階段を登らなければたどり着かないようだった。
疲れた顔をした学生が山を降りてくる。郁生は大学を前に途方に暮れた。郁生の大学も
アスリートを目指す者はジャージや運動靴が殆どだが、他の学部の女子学生はみなヒール
の高い靴を履いて、目元を何倍にも膨らませて颯爽と歩いていた様に思う。
「こんな山でヒール履いたら折れちゃうんじゃないか」
車の中で呟いていると、郁生の隣を、ジャージ姿にスニーカーを履いた女子生徒2、3人が
重たいカバンを下げて門をくぐっていった。
郁生はその姿を見送ると、自分のやるべきことをやっと思い出して、ハンドルを握り返した。
迷ってても仕方ない。瑛の居場所を知るためには正門が一番だろうと、郁生は正門で守衛に
声をかけた。
正門で瑛の研究室を教えてもらい、駐車場に車を停めると、郁生はそこから山道を歩いた。
慣れない革靴でこんな山道を歩くとは思ってもなかった。ランニングシューズならウォー
ミングアップ程度の距離が、革靴とスーツというカチカチの鎧を身にまとった今は、気が
遠くなるほど長く感じられる。
駐車場から瑛の研究室は歩いて5分。山道を右に曲がったところの棟だった。
研究室棟には入口に受付も何もなく、郁生は誰にも止められることなく、研究室前まで
辿り着くことが出来た。
郁生はひと呼吸してドアの前に立つ。試合前の緊張感よりも居心地が悪く、握った手の中
が嫌な汗をかいていた。
この中に、駿也の行方を知っている人がいる。あの射抜くような視線を寄せていた男。
初めに会ったらなんと声をかけていいのだろう。立ち止まっていると迷いばかりが膨れ
上がってしまう。郁生は覚悟を決めドアをノックした。
「あの、すみません、こちらは若見准教授の研究室でしょうか」
心拍数が上がって声がかすれた。ノックをすると中で気配がして、若い女性が声を出した。
「はい。そうですけど」
ドアが開くと同時に、郁生は用意していた名刺を差し出しながら頭を下げた。
「えっと、私、H電機の陸上部に所属しております塚杜郁生と……」
言いかけると、頭上で驚いた声が響いた。
「塚杜君!?」
「え?」
名前を呼ばれ、今度は郁生が驚く番だった。
「塚杜郁生君、だよね?」
はっきり名前を呼ばれ、郁生が顔を上げると、懐かしい顔がそこにあった。
「吉野、さん」
若見研究室所属の大学院生、吉野陶子は郁生と目が合うと、少しだけ顔をほころばせた。
「やっぱり塚杜君なんだ。……すごいところで会ったね」
「吉野さんは、ここの学生さん?」
「院生よ。世の中の同級生はすっかり社会人になってしまってるけどね、未だにこんな
ところにいます」
陶子はうふふと笑った。あの頃と全く変わらない笑顔に郁生も緊張を解いた。吉野陶子は
高校時代のクラスメイトだ。2年の時、同じクラスになり、何度も話はしたが、それほど
親密になったわけではない。けれど、陶子も郁生も二人の間に淡い淡い色の糸が伸びていた
ことを知っていた。そして、一度もその領域に踏み込むこともなく、月日は過ぎ去った。
甘酸っぱすぎる青春の一ページは誰にも言ったことがない。おそらく陶子も誰にも話して
いないだろう。意識の中での共犯のような関係はあの頃の自分たちの優越感を刺激し、自分
達だけ特別な恋愛をしているという幻覚を見せてくれた。
今となっては気恥ずかしく、背伸びしていた子どもの恋愛ごっこだったと苦笑いになる。
「いや、研究なんてすごいよ。俺なんか、社会人って言っても走ってるだけだし」
自虐的には笑うと、陶子は驚いたように郁生を見上げた。
「まだ陸上やってたんだ」
「あと何年……いや、何ヶ月できるかわからない、リストラ要員だけど」
「そっか。お互いドロップアウトギリギリのライン上を綱渡りしてるわけだ」
「俺はそうだけど、吉野さんは違うだろ」
「案外そうでもないのよ。研究なんて頭がいいだけじゃどうしようもないことだってある
んだもん。……ところで塚杜君はうちの先生に何の用なの?」
「実は人探ししてる」
「人探し?」
「俺の会社の陸上部の先輩。昨日から突然連絡が取れなくなったんだ。会社は無断欠勤
家にも帰らない、それでいろんな人のツテを頼って探したら、うちの先輩と若見瑛さんっ
て方が知り合いみたいで、もしかしたら行方を知ってるかもって言われて」
陶子は驚いた顔が、次第に強張り始め、最後には唇を噛んで郁生を見上げていた。
「吉野さん?」
「……そうなんだ。今、若見先生、温室の方にいるから、ちょっと連絡してみるわ」
陶子は研究室の電話に手を伸ばし、瑛に連絡をつけてくれた。
手短に的確に要件を伝える姿を見ると、郁生は懐かしさで胸が傷んだ。
高校時代もハキハキした明るい美人だった。どうしてあの時想いを流してしまったのか
自分に悔やむばかりだ。
陶子は電話を切ると、郁生を振り向いて頷いた。その顔は何故か暗い表情を浮かべていた。
「先生、温室にいるから来てもらえる?って」
「温室?」
「そう。この先にある付属の植物園の温室。大学構内のパンフレットがあるから、それ
見て行くといいわ。広いからよく迷子になる人がいるのよ。受付で名前言えば入れるよう
にしておいてくれるって」
「ありがとう」
郁生は礼を行って研究室を出た。後ろで扉が閉じる瞬間、陶子はたまらなくなって声を
出した。
「塚杜君!」
「え?何?」
驚いて郁生が振り返ると、陶子は見たこともない表情で佇んでいた。
「その人、死んだりしてないよね?」
「ええ!?」
郁生の驚き方に、陶子は首を振って撤回した。
「……ごめんなさい。忘れて」
物言いたそうな瞳を伏せ、陶子は手を振っていた。
陶子の捨て台詞が頭から離れないまま、郁生は歩き始めた。何故陶子はそんなことを口に
したんだろう。何か知ってるとでもいうのか……。
考えれば考えるだけ迷宮に入り込んでしまう。若見瑛の名刺は駿也に辿り着く為の切符
なんかではないのかもしれない。
研究棟から出て階段を上ると、しばらくして植物園の入口にたどり着いた。入口には受付
の若い学生風の男性がおり、明るい声で挨拶された。
「いらっしゃいませ、こんにちは」
「塚杜と申しますが……」
「ああ、若見先生ですね。伺ってます。温室におられますのでどうぞ」
受付係は来訪者用のネックストラップを差し出した。どうやらこれを首から下げていれば
入園料を払わないで入れるらしい。
「えっと、温室にはどうやっていけばいいですか」
郁生の質問に受付係は一瞬顔を顰めたが、すぐに営業用の笑顔を作りパンフレットと共に
身を乗り出して方向を指した。
「ここを左手に進んでいただくと近道ですよ」
「ありがとうございます」
郁生はパンフレットも受け取ると、アドバイス通り左に伸びた細い坂道を進んだ。
平日の昼間ということもあるのか、人はまばらで、散歩する老人や幼い子供を連れた母親が
のんびりと草木を眺めていた。入園料は大人210円とパンフレットには記載されている。
それが安いのか高いのか郁生には判断がつかなかった。
坂を上ると、温室の入口に突き当たった。郁生が想像していたよりもしっかりとした建物で、
鉄筋コンクリートの玄関、管理室が続き、その奥にガラス製の大きな温室が存在を主張する
ように建っていた。
玄関を抜けると、管理室の前には小さなホールがあり、パネル展示や研究見本などが陳列
してある。どれも郁生の興味をそそる物ではなかった。郁生はそれらを一瞥し、奥の温室
へと急いだ。温室の入口にはアルミ製の枠にビニールを張った扉がついており、郁生は恐
る恐るそれを開けて中に入った。
「うわっ……」
一歩踏み入れた瞬間、身体にまとわりついてくる水気をたっぷりと含んだ空気に、郁生は
思わず口を押さえた。温室独特の閉鎖した匂いが肺にまで張り付いてくる。
身体が急激に重くなるような、鬱蒼とした空間だった。11月の気候に似つかわしくない
湿度で、郁生は古傷が軋んだ。膝の違和感を片隅に追いやると、もう一歩中へと踏み込む。
温室は郁生達が使っている室内練習場ほどの大きさがあり、ブースことに分かれているよう
だった。温室の壁沿いには所狭しの亜熱帯の植物が育っていて、郁生が唯一わかったのは
バナナの木だった。
郁生は見上げながらぐるっと一周あたりを仰いだ。
どこからか聞こえてくる空調の音以外は静かで、この温室には客が誰もいないように思える。
「いるのか、こんなとこ……」
郁生は不安げに歩みを進め、真ん中ブースに鎮座している大きな池の前で足を止めた。
池の中には大小様々な丸い葉が浮いており、時折目の覚めるような鮮やかな色をした花が
郁生を迎え入れた。
「睡蓮?」
植物に明るくない郁生は目の前に咲いているものが蓮なのか睡蓮なのか区別つくはずも
なく、それどころか蓮と睡蓮は同じようなものだと思っていた。
小さな白い花、ピンクの花、茎が伸びて水面より高い位置で咲いているもの、水没しかけて
いるもの、郁生はそれらをただ呆然をみていた。
「……」
ゆらゆらと揺れる水面に幻惑される。睡蓮の花から発せられる見えない幾重の誘惑の糸に、
絡め取られているような錯覚がやって来て、郁生は身体がふわふわと、ここではないどこか
へ連れて行かれるのではないかとさえ思った。――――ここは楽園か。
慢性した酸素不足の空間が脳の判断さえも鈍くさせるのだろうか。現実と夢の間を浮遊して
いる気分だった。
郁生がぼうっと睡蓮の池の前に立っていると、小さな足音が響いた。
「睡蓮に興味ある?」 どこからか現れた声は、郁生の後方で一度止まった。柔らかい声だった。高くも低くもなく
心地のよい音。楽園に降りた妖精が囁いている。
夢現の状態で郁生がぼんやり振り返ると、白衣姿の若見瑛が立っていた。
「あ……」
郁生は言葉を失った。急に視界がシャープになって、郁生の周りを飛んでいた妖精は跡形
もなく消えた。
「塚杜郁生君、でしょ?」
「……」
郁生は縛られたようにその場から動けなかった。瞬きさえも出来ず、真っ向から若見瑛の
姿を受け止めなくてはならなくなった。
瑛の視線があの時と同じだったからだ。今度は写真越しではなく、直に自分を捉えている。
身体が震えるのは何故だろう。身体の体温だけが異様に熱く上がっていく。
衣服の擦れる音と静かな足音が響いて、瑛がゆっくりと近づいてきた。
郁生は漸く生唾を飲んだ。
「僕に、何を聞きたいの?」
瑛は郁生の前に立つと、郁生を見上げた。白い二本の指が伸びて郁生のネクタイの前で
とまると、いきなりトンと押された。
「えっ……」
バランスを崩す。
作り上げたパズルのピースがバラバラと落ちていく。握り締めた名刺が掌に刺さる。
何かが違う。この名刺は駿也に辿り着く為の切符なんかじゃない。
郁生がはっきり感じたのはそれだけだった。
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