Re:行くトコないでしょ?
智優はビールの缶をテーブルの上に戻すと、ふうっと大きく息を吐いた。
「もう1本いく?」
「もう止めとく。悪酔いしそう」
「そう。じゃあ、俺もう1本」
奈央は立ち上がって冷蔵庫にビールを取りに向かった。冷蔵庫を覗き込みながら奈央が
しゃべる。
「ストーカーって、善意で対処しようとすれば付け上がるし、逃げればエスカレートするし
どうしようもない存在だって、やられたヤツが言ってた」
「・・・・・・それ、ものすごく分かる。分かりたくもないのに・・・・・・」
智優は疲れた身体を横にすると、奈央の言葉を聞いた。
日増しに横行してくる狭山のやり方に、心から疲れた。
「だから、警察行けって言ってるだろ」
「そうだけど・・・・・・」
そんなことをグダグダ言っている間にも、智優の携帯電話には新しいメールがいくつも
受信されている。
受信拒否にしても、次から次へと新しいアドレスでやってくる狭山のメールに、智優は
イライラしながらそれを潰していった。
「番号とメアド変えれば?」
「変えたいけどさ!会社でも使ってる番号だし、いろんなトコに登録してある番号、全部
これだし・・・・・・」
「変えるリスクと変えないリスク、どっちとるの」
「どっちも同じくらいだから困ってるの!・・・・・・しかも、狭山一人ごときで、番号変える
なんて、腹が立つ!プライドにかけてしたくない」
「そんなこと言ってるから、狭山の思う壺なんだろ」
奈央が呆れて首を振った。
智優だって分かっている。そんなちっぽけなプライドさっさと捨ててしまえば、多少は
このイライラから抜けられることくらい。けれど、狭山には出勤先も今の居場所も完全に
ばれているのだ。正面から対決して徹底的にぶちのめさない限り、この悪夢は終わらない
と智優は思っていた。
「なあ、智優」
「何だよ」
「お前、やっぱりマンション戻れよ」
「またその話。・・・・・・分かってるって。お前に迷惑掛かる前に出てくって」
「迷惑とかじゃなくてさ・・・・・・」
「何・・・」
「そのさあ・・・・・・」
奈央の台詞は歯切れが悪く、寝転がっていた智優は頭を持ち上げて奈央を振り返った。
「お前・・・・・・蛍琉のところに戻れば?」
「はあ?!」
智優はがばっと起き上がると、頬をプルプルと震わせて奈央に食って掛かった。
「おまっ、馬鹿か!!俺、あいつに振られたの!!あいつ、好きなやつ出来て、俺の事
捨てたの!!こんな惨めなこと、何回も説明させんなよ!!」
「まあまあ、熱くなるなって。智優が振られたことくらいちゃんと分かってるって。俺だって
適当に酷いこと言ってるわけじゃない。だけどさー、蛍琉のヤツ、本当にその新しい年下の
男に心も身体もごっそり持ってかれたんかなあって思ってさ・・・・・・」
「どういう意味だよ!」
「うん・・・まあ・・・・・・」
「何だよ、言えよ」
奈央は口の中で何度か言葉を噛み潰していた。
「奈央!!」
智優はイラついた顔で奈央を覗き込む。
「・・・・・・分かったって・・・・・・」
そういいつつも、奈央は中々口を割ろうとしない。智優の声が激しくなった。
「奈央、何知ってんだ、お前」
ビールを缶のまま煽ると、奈央は顔を擦って智優を掠め見た。
「・・・・・・蛍琉に会った」
「!?」
「会いに行ったわけじゃないし、向こうが会いに来た訳じゃない。本当に偶然」
小学校時代からずっと同じ学校に通っていた奈央は、高校時代も智優とは仲はよかったが、
蛍琉とはそれ程親交はなかった。自分を介して顔見知り程度で、会えば挨拶くらいする仲
だったように思う。
「・・・・・・んで?」
「うん。適当な世間話して・・・・・・智優が今うちにいるって言った」
「!!」
智優の表情が一気に硬くなった。
「そこにいてくれてよかった、だってさ」
「・・・・・・」
「・・・・・・自分のモノじゃなくなっても、相手の動向が気になるのは、心配なのか男の独占欲
なのか、どっちなんだろうな」
蛍琉が自分の事を気にかけてくれている、その真意は分からないけれど、自分勝手だと
思う一方で、まだ繋がっている糸があるような気がして智優は胸が締め付けられた。
「俺は、あの蛍琉の顔が、智優を探してるように見えたけど」
「そんなの勝手だ」
「うん。そうだな。でも、分かるだろ、そういう揺れって」
「分かるけど、分かりたくない」
年下のあの男と今頃笑い合ってるのだろうに、それでも蛍琉の気持ちがまだ自分に残って
いるとしたら、自分はどうするんだろう。
「奪い返せば?」
「馬鹿な。そんなこと・・・・・・」
出来るわけない。そう言おうとして、智優は止まった。出来るわけない。――したいけど
出来るわけがない。
未練があるなんて・・・・・・そんなわけない。人をこんな風に振った男にまだ想いを残して
いるなんて・・・・・・
「あるかもしれないだろ?」
「う・・・・・・」
「帰れよ」
「無理言うなよ・・・・・・」
蓋をして見ないようにしていた気持ちが、蛍琉の一言でこじ開けられそうだ。
智優は机に突っ伏した。大声で喚きたい気分だ。振られて家を飛び出してから、まとも
に向き合ってこなかった感情がぐちゃぐちゃなまま一気に押し寄せてくる。
蛍琉に振られた事実が身体の隅々までいきわたって行くようだ。蛍琉への断ち切れない
想いも、池山世那への恨みも、戻りたいと思っている自分も全部そこにある。
「格好ばっか付けてる場合じゃないと思うよ」
「・・・・・・」
蛍琉を失った痛みがやっと痺れだした、と智優は思った。
考えることが増えてしまった。狭山の事も蛍琉の事も頭が痛くなるほど心が乱される。
「もう、勘弁してくれ」
智優は仕事帰りの夜道をへとへとになりながら歩いていた。
事務所のある大通りを1本抜ければ、街灯もあまりないもの悲しげな細い通りだ。
いつもなら大通りを商店街に向けて歩いていくのだが、自分の足音だけが響くような人気
のない道を通ったのは、自分の身を狭山から隠してしまいたかったからだ。
けれど、それは返って裏目に出た。
智優が思考の中でもがきながら歩いていると、音もなく車が近づいてきた。ハイブリット
車が静かだとは知っていたが、本当に真横に来るまで、その存在に気がつくことが出来ず、
智優の進行方向に被るように停車したときは、心臓が飛び上がるほど驚いた。
運転席の窓が開いて、中から顔を出したのは、一番会いたくない男だった。
「!!」
「こんばんは」
余裕の笑みでニコリと笑うのは狭山で間違いない。あの夜から全く変わらない表情で、智優
の前に現れるその神経は、イカレてるとしか思えなかった。
「なんですか」
「智優君は冷たいなあ。いきなり家から消えちゃうし、メールしても返事くれないし」
「!!」
智優は頬を紅潮させて狭山の笑みを睨んだ。
「あんた、自分のやってる事、わかってんのか!?」
「勿論分かってるよ。振られた智優君を慰めようと思って、近づいただけの何がいけない?」
智優の拳が震えた。
「あ、あんたは・・・!俺が振られる前から、俺の事、付けてたんだろ」
「ああ、写真の事。好きな子の写真くらい撮っても罪にならないと思うけど」
「す、好きって」
「そうだね、きちんと言っておいた方がいいよね。俺、智優君が好きだよ。だから・・・・・・」
そこまで言うと、急に狭山の表情が変わった。獲物を狙う雄のような顔だ。
智優は後ずさりした。
「なん、だ、よ・・・・・・」
「だからさ、そんな昔の男の事なんてさっさと忘れて、俺のところに戻っておいでよ」
「戻るって!!俺は初めからあんたのとこになんて行ってないだろ!!」
「・・・・・・この手の中で果てた智優君、可愛かったなあ」
狭山は匂いでも嗅ぐように右手を口元に持っていくと、厭らしい目付きで智優を見る。
「最低だな、お前っ」
「智優君は最高だよ」
「くそっ・・・・・・!」
狭山が喉の奥で笑った。狂ってるとしか思えない。全身から悪寒と震えが走って、智優は
思わず来た道を駆け出していた。
湿気の帯びた空気を掻き分けて、スーツ姿で全力疾走。思えば智優はいつも夜中の街を
走っている気がする。蛍琉に激怒したり、自分に腹を立てたり、今考えると、それは甘い
生活だったのかもしれない。
けれど今、智優が走っている理由はこれまでのとは違う。そこにあるのは恐怖だ。
こんな風に身の危険から逃げる為に全速で走ったことなど智優はない。普通に暮らして
いる人間なら、そんなことする必要などないはずだ。
何故自分なのだという不可解さはあるのだが、それに食って掛かるよりも、まずは逃げて
自分の身の安全を守りたかった。
大通りまで出た方がいいと智優は通りまで駆けて、それから行き先を考えた。奈央の家
に辿り着くには狭山がいた方向に向かわなくてはならない。それに、奈央の家までは、
何本か細く人通りのない道を抜けなければならなかった。
相手が車である以上、細い道は有効だが、人気のない場所は避けたかった。
奈央の家以外に今すぐ飛び込める場所・・・・・・智優は一瞬高藤の顔を思い出したが、直ぐに
首を振った。自分の都合で高藤を傷つけたくはない。
もう一人の幼馴染、詠汰の家ならば、と思ったが奥さんも小さな子どもまでいるところに
ストーカーなんて物騒なモノを近づけさせるわけにも行かず、智優はそれにも首を振った。
行く場所が・・・・・・ない。もう何年も連絡を取っていない行きずりのようなセフレの携帯
アドレスは未だにアドレスの中に残っているけれど、それを引っ張り出す気にもなれなかった。
肩で呼吸を整えて、光のある方、人気のある方へ歩いた。
駅前の僅かな人ごみにまぎれると、智優はやっと一息ついた。ここからどうしようかと
携帯電話を取り出した瞬間、手の中で携帯が震え、メールの着信を告げた。
from:
sub:行くトコないでしょ?
どうしてそんなに逃げるの?
どうせ、行くところないんでしょ。
早く帰っておいで
このタイミングで送信してくるのは、まだ監視されているからなのか。奥歯を噛み締め、
智優は辺りを見渡した。
何処にいるんだ、狭山は。何処で自分を狙っている。車から逃げていたが、ひょっとしたら
車を降りて、歩いてる可能性だってあるかもしれない。
一時ものんびりしている暇がないことを智優は悟る。そう思ったタイミングで、智優は
痛いほどの視線を感じて顔を上げた。
「!!」
人ごみの中に立って、こちらに手を振っている狭山と目が合う。やはり車を降りていたらしい。
狭山の口がゆっくりと、自分の名前を呼んでいるように動いた。
「こっちにおいでよ、智優君」
幻聴が聞こえそうだった。耳元で狭山に囁かれている。身体の皮膚という皮膚が粟立った。
「クッ・・・・・・」
狭山が歩き出そうと一歩踏み出すと、智優も人にぶつかりながら、走り出した。
「クソっ・・・・・・行くところぐらい・・・・・・!」
目の前に本当に赤い信号が回っていて、WARNING!WARNING!と機械音が警告を発している
ような気分だった。
思考だってまともに動くわけがない。逃げなきゃ、走らなきゃ、そう思って無意識の内
に駆けていた方向は長年通いなれた道だった。
この先にあるのは・・・・・・。
「奈央の言う通りになっちまったじゃねえか・・・」
足が勝手にこの道を選んだ。鼻の奥がつん、と痛くなる。結局、別れても、捨てることなど
出来なかったエクスプローラーUは、今も智優の腕に気持ち良いほどフィットしていた。
繋がっているか分からない糸の先。それでも今はそれにすがるしかない。
面倒くさい思考は全部隅に追いやった。逃げるだけだ。他意はないと決め付けた。
ポケットの中に手を突っ込むとキーホルダーが当たった。車のキーの他に、会社の事務所
の鍵、それからマンションの鍵もまだ付いたままだ。
智優はポケットの中で鍵を握り締めた。
「・・・・・・蛍琉・・・・・・!」
智優が小さく呟いたのは、目の前に狭山の車が音もなく滑り込んでくるのとほぼ同時だった。
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