なかったことにしてください  memo  work  clap

恋人はミルク




ぐるぐるした気持ちを一日寝かせてみた。本当に一目惚れなんてあるのだろうか。津村と
いう男は自分の何に惹かれたのか。
考えても答えなど見つかるはずも無く、思い切って「待ってます」と言われたところまで
行ってみることにした。
「待ってる」というのが、いつまで有効か分からないけれど、とにかく今はじっとして
られなかった。
バンドの練習を早めに切り上げ、高井にニヤニヤされながら見送られて、佳哉は夕暮れの
道を歩いた。



「ここぉ!?」
ケータイのナビを頼りに名刺に書かれた住所を辿っていくと、そこは閑静な住宅街だった。
佳哉はもう一度名刺の住所とケータイを見比べたが、やはり間違いは無い。
「待ってるって……」
夕食の良い匂いが何処かしこから漂ってくる。空腹感と脱力感で佳哉は泣きたい気分に
なった。
「あいつ、何考えてるんだ……」
ナビが指している住所には一軒の家がある。二階建てのごく普通の家だ。そして、門灯の
下には「津村」という表札が掲げられていた。
ここで待ってますって、普通実家の住所なんて書くか?!心の中で盛大に突っ込みを入れ
ていると、家の中から女性が出てきた。
自宅の前で不審な行動を取っていた佳哉に警戒しているのだろう。声が険しい。
「うちに何か?」
「いえ、あの……」
最悪だ。ここで逃げたら、ただの不審者だ。佳哉は不審者ではないことを最大限にアピール
するために、貰った名刺を見せた。
「えっと、これを貰って、住所がここで…」
どれだけテンぱってっているのか。日本語が通じているようには思えないが、女性はその
名刺を見て一気に顔の表情を和らげた。
「まあ、紘武のお友達?」
「え?あ…まあ、そんなかんじで」
「そうだったのね。よくいらっしゃってくださいました」
笑うと津村に口元がよく似ている。多分、津村の母親だろう。
いらっしゃってみましたが、俺、帰りたいんです……とは言えず佳哉は曖昧な顔で頷いた。
不審者ではないことはクリアできても、この状況から逃れられたわけではない。それどころか
事態は益々嫌な方向へと流れていった。
津村の母親一通り挨拶をすると、今度はすまなそうな顔で謝ってきた。
「ごめんなさいね。紘武まだ帰って来てないのよ」
「そうなんですか。じゃあ…」
よし、チャンス。いないなら、逃げられる。そう思って逃げる体勢に入ると、母親は止め
の一言を発した。
「もうすぐ帰ってくるはずだから、上がって待ってて」
「いえ、また今度に……」
「いいのよ、遠慮しなくて。紘武がお友達を家に呼ぶなんて珍しいんだから。さあ、どうぞ
上がってって」
門扉を開かれて、逃げることの出来なくなった佳哉は自ら鳥かごの中に入るしかなかった。





リビングに通されると、コーヒーとロールケーキが出てきた。
「男の方って、こんな甘いものお好きじゃないかしら?」
「いえ、ありがとうございます……」
長く居座るつもりなど全然無いのに、コーヒーやらケーキやら、おかわりのお茶まで出さ
れてしまった。津村が帰ってくる前にさっさと逃げようとしていた佳哉は、悉くタイミング
をつぶされていて、これが津村の足止め作戦だとしたら、大成功だ。
そうこうしている内に、玄関の方で物音がした。
「ただいま」
テンションの低い声だが、女の子の声だった。
「あら、娘の方が先に帰ってきちゃったわ」
娘と入れ違いで帰ってしまおうと、佳哉が腰を浮かすと、リビングのドアが開いて、津村
に口元の似た制服姿の女の子が入ってきた。
「あー、お母さん、おなかすいたー。晩ご飯何〜」
「これ、めぐみ。お客さんの前で、はしたない。……ごめんなさいねえ」
「え?」
佳哉が立ち上がって軽く会釈をすると、めぐみは客の存在に驚いた。
「どうも……。妹さんも帰ってきたみたいだし、俺はそろそろ……」
「いいの、いいの。全然気にしないで。紘武も、もう少しで帰ってくるから」
佳哉と母親の会話を呆然と聞いていためぐみは、佳哉の顔を見直して口を押さえた。
「って…えぇ!?」
「まあ、女の子がそんな大きな声だして」
「ちょー!えー!?なんで?!」
めぐみは佳哉を指差して震えた。
「ヨシ!?なんで!?なんでうちにヨシがいるの!?」
どうやら、妹の方は、バンドマンとしての自分を知っているようだった。
「あら?めぐみの知り合いだったの?」
「いえ……」
「お母さん違うわよ!『ダブスタ』のヨシ!!」
ダブスタ――ダブルスタンダードとは、最近になって改名させられた佳哉のバンドだ。
「めぐみがはまってるバンドの?」
「そう!超ファンなんだけど!!……いや〜〜なんで、いるの〜!?」
めぐみは先ほどのローテンションからいっきにギアチェンジしている。
「お兄ちゃんのお知り合いですって」
「なんで!?なんで、お兄ぃと知り合いなの〜!?」
「うん。ちょっとね」
ダブスタのヨシの存在を知ってる人間に、素の自分を見られるのは不本意だった。
しかも、この子は自分のファンだときている。こっちもテンション下げたままにしている
わけにはいかなかった。
「あ、あの!写メしていい?」
「いいけど、みんなには秘密だよ?」
「うん!」
秘密の言葉にめぐみは目をハートにして頷く。
「お母さん!ちょっと撮って!」
「はいはい」
佳哉は思いっきり作り笑いをしてめぐみと一緒にVサインをした。





「いえいえ、ホントに大丈夫です。また今度、改めて伺いますから」
何度もそう言ったのに、母娘によるダブル足止め作戦で、佳哉は何故か晩ご飯の食卓に
付いていた。
「そろそろ帰ってくるから、遠慮なさらないで」
「そうよ、食べてってよ、こんなご飯だけど」
「こんなご飯だなんて、失礼な子ねえ」
機関銃のようにしゃべり続ける親子を尻目に、内心泣きながら、引きつり笑顔で席に着いた。
「ありがとうございます。旨そう。いただきます」
「ヨシと一緒のご飯食べてるなんて、夢みた〜い」
こっちの方が夢見たいだ。いや、こんな悪夢みたいなこと、夢であって欲しい。佳哉はその
思いをご飯と一緒に飲み込んでいく。
「ダブスタのヨシ」はいかなるときもファンを大切に、がモットーだ。
「ねえ、どうしてお兄ぃと知り合いなの?」
「秘密〜」
「え〜」
「はは。まあ、お兄ちゃんに聞いて」
街で告られて、貰った名刺を辿ったらここに着いたなんて、とてもじゃないけど言えるはずが
ない。津村に適当な言い訳を考えさせることくらい罪にならないだろう。
「でも、お兄ぃと年齢だって違うでしょ?同級生つながり?昔のバイトとか〜?」
「津村さんって幾つだっけ?」
「えーっと、幾つだっけ?お母さん。今年で24だった?」
「そうよ。お兄ちゃんの年くらい覚えておきなさいよ」
「あたし、脳みそそんなに大きくないから、お兄ぃのこと記憶しておくスペースなんて
そんなにないんだもん」
「ホントに、この子は……」
典型的な親子の会話に佳哉は体のいい言葉を掛けた。
「家族は大切にね」
「はあい」
めぐみは語尾にハートマークを付けて返事をした。





「ただい……ま!?」
張本人が帰ってきたのは、佳哉が無理やり2膳目をよそわれている時だった。
「お兄ぃ!遅い!」
「佳哉さん、ずっと待ってたのよ」
そう言われて、佳哉が軽く頭を下げると、津村は顔を凍りつかせていた。
本人だってそりゃあビックリするだろう。街中で告白した相手が自分の家で家族と混じって
飯なんて食べてたら、どん引くってもんだ、と佳哉は思う。
でも、ここに呼んだのはお前なんだぞ、お前がこういう状況を作ったんだぞって、全身
オーラから出して佳哉は言った。
「貰った名刺、住所ここだったから、来ちゃった」
「え?!……しまった……ミスった……」
津村は絶句した。どうやら住所を書き間違えたらしい。そんなことってあるか?とこっち
の方が言いたいくらいだが、津村の蒼白した顔を見ると本気でミスったらしいし、この状況は
津村としても不本意であることは容易に想像できた。
「紘武、何ぼうっとしてんの。さっさと手洗ってきなさい」
「そうよ。あたしだって聞きたいこと一杯なんだから」
「……」
しかし、そんな当人達の思惑など知る由も無く、機関銃母子は、津村を食卓に着かせると、
強制的に団欒を始めた。





喋り捲る女性陣に、合いの手を入れるのが佳哉で、津村は「うん」か「そうだね」しか
言わず、佳哉はうんざりしながらフォローした。バンドのことも聞かれまくり、めぐみに
興味津々で見詰められた所為で、佳哉は終始「ダブスタのヨシ」を演じる羽目になってしまった。
そして、結局何しにきたのか分からないまま佳哉は帰りの玄関に立っていた。
「またいつでも来てね」
「うんうん。お兄ぃがいなくてもかまわないから!」
「あはは、うん。ありがとう。ご飯ご馳走様でした。おやすみなさい」
佳哉は女性陣に挨拶をし、津村に目配せをした。
津村の家を後にして、暫くすると駆けて来る足音がして、佳哉は大きなため息を吐いた。
振り返えれば、肩で息をしている津村が目に飛び込んだ。
「俺にはこの経緯を知る権利があるよな?」
「すみませんでした…!」
先手必勝。負けるが勝ち。これ以上突っ込ませないような完璧な頭の下げ方。サラリーマン
の謝罪テクだ。
佳哉は次の言葉を思わず飲み込んでしまった。
深々と下げた頭をようやく上げると、津村はもう一度小さくごめんなさい、と呟いた。
「本当に、間違えたんです。自分の住所書いてたことすら記憶になくて……本当はオフィス
ビルの1階にあるカフェの住所を書いたつもりだったんです。昨日はそこで12時まで待って
いて……」
「待ってたのかよ」
「はい」
「住所渡して待ってますはいいけど、時間も日にちも告げずに、待ってるって……」
「いろいろ、自分の中で取り返しのつかないことになってたもので。とりあえず、待ってる
といった以上、待ってるべきかと」
真面目なのか、頭が悪いのか、要領が悪いのか……。顔はいいし、スマートな性格に見える
くせに、鈍臭すぎる。佳哉は呆れ気味に言った。
「よかったな。あんた、あそこで待ってても一生待ちぼうけだったぜ」
「そうですね。オフィスビルのカフェでかっこよく待ってたら、少しはサマになるかと
企んでたんですが、かなりかっこ悪いところを見られてしまいました」
苦笑いで頭を掻いてる津村は、言うほどダメージを食らっているようにも見えない。実は
かなりノー天気な男なのだろうか。
見た目のよさに惹かれて、中身が全然定まらない津村に佳哉は戸惑った。
「あんたさー、エリートっぽくて、顔もまあそこそこだし、結構モテるだろ」
「そうでもないです」
「いや、もてるだろ。肩書きだって申し分ないし」
「まあ…全くモテないってことはないですけど」
「だろ?……でも、中身がトンデモだったって、ソッコー振られるタイプ?」
びしっと指でさされて、津村は驚いた顔で頷いた。
「何で分かるんですか!?」
津村の黒縁の眼鏡がズリっと落ちて間抜けな顔になった。
「だって、まんまじゃん」
それがツボに嵌ったのか、佳哉はケラケラと笑い出す。たったそれだけのことなのに、何故か
久しぶりに心から楽しいと思った。



夜の公園は静かで、誰一人通り過ぎる気配も無かった。ベンチに座ると、津村が缶コーヒーを
差し出した。
「なんだか、さっきと別人みたいですね」
「あれは、あんたの妹が俺のバンド知ってるっていうから。営業用。こっちが素。がっかり
した?」
「いえ。俺はこっちの佳哉君しか知らないので」
「どっちも知らないだろ」
佳哉が鼻で笑うと、津村は困った顔をした。
「すみません。一つ、嘘をついていました」
「嘘?何それ」
「……本当はずっと前から佳哉君のことを見てました」
「!?」
「時々すれ違ってたこと、知らないですよね」
「マジで?」
「それで、今日もいるなあって思ったらいきなり目が合ってしまって、そしたら頭の中
パニックになっちゃって」
それで、名刺に自宅の住所なんて書いてしまったのだと津村は恥ずかしそうに言った。
落ち着いて見えたのは極度の緊張で固まっていただけだった。
津村は一呼吸置くと、改めて佳哉の顔を覗き込んだ。目が合うと、佳哉は急にドキドキ
し始める。ここへ来た目的を今更ながらやっと思い出した。
津村の顔が近い。
佳哉が目を逸らそうとする前に、津村は言った。
「来てくれたってことは、脈アリなんですよね?」
「それは……」
そもそもどうしてここに来たのか……。顔は自分のタイプだと思うけど、好きとか嫌いとか
まだ何も分からない。躊躇っていると、津村の手が伸びて佳哉の顔を撫でた。
ゾクゾクと体中がざわついた。
「佳哉君、有名人みたいだから、こういうの困る?」
「……そういうのは関係ない」
津村の顔が急に色っぽくなる。こんな顔もするのか、そう思った瞬間、津村の顔が近づいて
きて、佳哉は唇を塞がれていた。





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