恋人はミルク
舌先が唇に触れて佳哉は背筋がびりっと痺れた。不意打ちのキスなんてされたのは、いつ
以来だろう。
卑怯だ。全てを根こそぎ持ってかれるようなやり方は、狡い。
気持ちがぐらぐらと揺れて、この男に何もかも委ねてもいい気がしてくる。掴んだシャツの
皺が濃くなった。
「んんっ……」
優しく包まれているようで、絶対に離してくれないような強いキスだ。
遠慮がちに遊んでいた津村の舌が、否定しない佳哉の口の中を大胆に刺激し始めた。歯列を
割って、上あごをなぞられると、ぞわぞわと身体が反応した。
佳哉も津村につられて舌をのばす。遠慮がちに舌に絡めると、津村はちゅるちゅると吸い
あげた。
「はうっ……」
蕩けてしまうんじゃないかって言うくらいに口の中を攻められて、佳哉は苦しくて思わず
顔を離した。
「はっ…はっ……あんた、ちょっと……やり過ぎじゃね?」
頬を紅潮させながら佳哉が文句を言うと、津村は色気を残したままの顔で笑った。
「佳哉君が思った以上に可愛くて、がっついちゃいました」
「ばっ、馬鹿じゃねえの!」
真面目そうな顔に似合わないことを言われて、佳哉は津村にもバレバレなほど照れた。
津村はその姿を愛おしそうに目を細め、佳哉の頬を優しく撫でた。
くすぐったそうに首をすくめると、津村は佳哉の耳にもちゅっと音を立てて唇を付ける。
「先にカミングアウトしておきますね。好きになったのがたまたま君だったわけだけど
元々、こっちの性別の方が守備範囲なので」
優しい顔をしているかと思えば、急に攻撃的な雄の顔になって佳哉を煽った。
「……ゲイなのかよ」
「そういう、佳哉君はどうなんですか。俺のキス、あんまり抵抗無く受けてくれたけど」
「……分かるだろ、聞くなよ」
「うふふ、俺の後ろから風が吹いてるってことかな」
「まだ、好きになったわけじゃないからな!!」
落とされそうな予感満載だ。佳哉はそれを悟られないようにぷいっと横を向いた。
それを見て、ますます津村が笑った。
「今度、ライブ見に行ってもいい?」
「!?」
「佳哉君がどんなの歌うのか興味ある」
そう言われて、佳哉は昨日のライブを思い出した。定番の「乗れる曲」やバラードの間に
ロージとやってる「ホモコント」が頭をかすって、佳哉は派手に顔を振った。
「絶対、駄目」
「なんで」
あんな姿、絶対に見られたくない。想像しただけでも恥ずかしくて逃げ出したくなるような
シチュだ。
「なんでも!曲が聞きたいだけなら、あんたの妹に言えよ!俺たちのCD、コンプしてるって
自慢してくれたから」
「せっかくなら、生の佳哉君を見たいんだけどなあ……まあいいや。こっそり行くから」
「だから、来んなよ!」
睨みつけると、津村は昨日よりもフレンドリーな顔をしてふふっと笑った。
本当に、ころころと表情の変わる男だ。つかみどころの無い津村に佳哉は苦笑いするしか
なかった。
「にやにやしてんなー」
楽屋でベースの高井に笑われて、佳哉は肩をひくつかせた。
「なんだ?女でもできたか」
ドラムの「ピース」がノースリーブからタトゥ入りの腕を覗かせてヨシに絡んでくる。
「んなわけあるか」
佳哉は高井を睨みつつ、昨日一気に作り上げた新曲のデモが入ったCDを高井に突きつけた。
「ノルマ!アルバムに入れるやつ。ちゃんと作ってきたからな!」
高井はそれを受け取ると、プレーヤーにセットする。曲が流れ始めると、佳哉は置き場の
無い気持ちを弄んでいた。ギターを取り出してチューニングを始めたところで、高井の鼻
が鳴った。
「これ、なんてラブソング」
「……うっさい!」
絶対突っ込まれると思っていたけれど、作っても作っても、ラブソングになってしまい、
最後には諦めて、今の気持ちをそのまま突っ込んでやったのだ。
「めっずらしい!ヨシにラブソングなんて作れるのかよ。やっぱり女か?」
ピースが驚いて覗き込んでくると、佳哉は益々肩身が縮こまる思いだった。言い訳を考えて
早口でピースの思考回路を修正しかかった。
「こういう曲があった方が女の子には受けるんだって」
「まあなあ。やってる方はラブソングなんて甘っちょろいモン、正直勘弁だけどな」
へヴィメタル路線を行こうとしているピースにはスイーツな曲など甘ったるくて叩いてられ
ないのだろう。
「いいんでない?ヨシがたっぷり情感込めて歌い上げてくれるだろうし」
高井はデモのCDを取り出すと、ニヤニヤした顔を直すことなく、佳哉にそれを返した。
「路線はこれでいいんじゃない?あとはロージがOK出せば」
「俺もそれでいいぜ。それに、なんか知らんけど、ヨシが元気になったみたいだし」
「何言ってんの、ピース」
「お前、ちょっと落ちてただろ」
「なっ……」
絶句していると、ピースはさらりと続けた。
「あ?それで隠してたのか。どっからどう見ても、お前、沈んでたぞ」
佳哉は思わず鏡を振り返った。自分の顔は、そんなに分かりやすいんだろうか。
「アイデンティティの拡散ってーの?俺って何?俺の何が期待されてる?……よく聞くんだ
よな、そういうのって。デビュー前の微妙な心の揺れってヤツだろ」
高井に突っ込まれて、佳哉は自分の心を見透かされていた事に驚いた。デビューの話で走り
出した現実に、自分の心がついていってない。ハイテンションで叫んでいるステージ上での
自分と、何のとりえも無い素の自分。今は勢いだけで何とかなっているけれど、何の面白み
もない自分が、デビューなんてしてもやっていけるのか、音楽は単なる趣味で終わらせて
おいた方がいいんじゃないのか、最近そんなことばかり考えていたのだ。
「まあ、そんな驚くなって。みんな、少なからずいろいろ抱えてるのは一緒だ」
ピースに笑われて、高井も頷いた。
「ロージなんて見てみろ。分かりやすさの塊だぞ。ちょっと前まで、デビューの話すると
すぐカリカリしてたのに恋の方が絶好調だから、向かうトコ敵無し状態になっちゃっただろ」
「そう……だな」
言われてみれば、最近のロージはやたらと機嫌がよかった。
「ってことで、そろそろリハ始まるから、ヨシも色ボケした顔は仕舞っておけよ」
「色ボケなんてしてねえってーの!」
デビューに関して、高井もピースもそれなりに思うところがあるのだろうかと、ふと頭を
過ぎったが、ヨシはそれ以上突っ込むことは止めた。
佳哉は慌しい日々に追われていた。本格的にデビューの話が進められ、打ち合わせや曲作り
定期的に行っているライブ活動と、目まぐるしく時間が過ぎて行き、津村のことは頭の中を
占領されつつも、何も出来ない日々が続いていた。
『本番入ります』
スタッフの声に我に返って、佳哉はスタンドに置いていたギターを取った。ピックを口に
咥えたまま、ストラップを肩に通してセットすると、ステージのライトが一斉に光った。
その瞬間黄色い声とともに、会場が蠢いて、佳哉はライブの海へと押し流されていった。
『ぎゃああああああ〜〜〜〜』
『ヨシ〜〜〜〜〜〜!!!』
『ロージすき!!!』
女子の耳を刺激する声を受けながら、ヨシは腕を上げた。上がる息を整えて、モニターの
横にあるペットボトルの水を口に含む。ライブ開始からMC無しで4曲。流石に苦しくなって
流れ出した汗をぬぐった。
「ありがとー!ありがとー!ありがとー!!みんな、だいすき」
佳哉はテンションをマックスまであげると、マイク越しに叫ぶ。
『ヨシ〜〜〜!!だいすき〜〜〜!!!』
「ありがとー!俺もすきだよ!」
そう言いながらヨシがピックを投げると、観客がぐにゃっと揺れた。ピックに群がる女の子
が餌を求めている魚みたいだと佳哉は思った。
『きゃあああぁ』
内心苦笑いだが、佳哉はハイのままのテンションを保ったまま、次の会話を頭の中で組み
立てている。次は新曲でいずれはアルバムにも入れるための曲だ。娯楽だけでは終わらない
ビジネスも絡んでいるから、それなりの営業は必要になる。新曲はピース曰く「スイーツ」
だから、客にもたっぷりサービスした。
「ありがと。みんなだいすき。でも……一番は……」
そう言いながら、佳哉はチラっとロージを振り返る。ロージがわざとらしく
「え?俺?」
とマイク越しに反応を返すと、客席からは、やっぱり黄色い声が上がった。
「……っ。何度も、言わせんなよ」
お決まりのリップサービスに、観客からも歓声と野次が飛び、佳哉は益々饒舌にしゃべった。
「言ってんだろ、寝る前とか、寝た後とか」
「俺、聞いたこと無い」
つん、とロージが返すと、佳哉はさっさと猿芝居を切り上げて、マイクを持った。
「そう?じゃあ、次!そんなお前のために作った曲!『falling…』」
そこまで言って、ヨシは一瞬固まった。会場の右隅に、どう見ても浮いている男が一人
立っていたのだ。
仕事帰りなのかスーツ姿に眼鏡を掛けて、ぼけっと突っ立っている男、間違いなく津村だ。
「なっ……!」
何で来てるんだと言いそうになって、マイクが声を拾ったことで我に返った。
隣でロージが不審そうな顔をしている。佳哉は小さく舌打ちした。
最悪だ。
一番見られたくないもののオンパレードなのに。
けれどごたごた考えている暇はなく、ドラムがスロービートを刻み始める。ちらっと津村
を見ると、がっちりと視線がかみ合ってしまい、佳哉は目の奥が熱くなっていくのが分かった。
「ホント、最悪」
ぼそりと小声で呟いて、佳哉は「津村の所為で」作った『falling…』を熱唱したのだった。
勘違いされたくないと思ったのは、ただの言い訳か、その奥に気持ちがあるからなのか、
佳哉は自分でも分かっているようで、まだ直視出来ずにいた。
『来るなら来るって言えよ!!裏口で待ってろよ!!』
アンコールで引っ張り出され、漸く楽屋に戻った佳哉はソッコウでケータイを取り出し
メールを打った。
まだ息も上がってる興奮した状態で、いつもなら床に転がって暫く動けなくなっている佳哉
の行動がメンバーには不思議に映った。
「なんだ、女が来てたか」
ピースが汗でビタビタのTシャツを脱ぎ捨てながら言った。ロージが驚いて汗を拭いていた
手を止めた。
「お前、女いたの〜!?……じゃあまずいだろ、あんなホモネタ」
「……いや、別にいいけどって、彼女とかじゃないし!」
「いいんだよ、ホモネタで引っ張っておけば予防線張れて。彼女持ちは人気が下がる」
高井に言われて佳哉は眉を顰めた。
「だから、彼女じゃないってーの!」
佳哉が反論していると、メールが返ってきた。
『俺がいたのやっぱり分かったんだ?俺も待っててもいいかなってメールしようか迷って
たよ。佳哉君かっこよかったなあ。実は凄い人?俺、圧倒されてた。裏口で待ってればいい?』
久しぶりの甘いメールにくすぐったい気分になった。顔がにやけだしそうになる。
『スタッフに家の鍵渡すから、先に行って待ってて。俺、暫く抜けられないから。家の
住所は××町1−3-502な!間違えんなよ』
急いでそれだけ返信すると、佳哉は顔なじみのスタッフに鍵を渡してもらうように手配した。
楽屋の片付けを済ませ、出待ちの女の子を巻いて、佳哉は逸る気持ちを抑えながら家路を足早
に歩いた。
何かを期待しているような、それでいてその「何か」が自分でも何なのか分からないもどかしい
気分だった。
時計を見れば、ライブ終了から既に1時間以上経っている。本当に津村は待っていてくれる
のだろうかと不安になって、佳哉は益々早足になった。
走り出すと、肩に掛けたギターケースがずり落ちてきた。佳哉はそれをぞんざいに肩に
掛けなおすと、再び走り出す。ギターよりも大事なものは無いと思ってきた大切な宝物が、
今はただのお荷物だ。
「何焦ってんだよ、俺は…」
佳哉は息を切らせながら、自分のアパートの前まで辿り着いた。エレベーターの上ボタンを
連打して、飛び乗ると、一層落ち着きがなくなった。
エレベーターが5階につくと佳哉は身体をぶつけながら飛び出した。
掌が汗ばんでいる。エレベーターホールを曲がると、自分の部屋の前で、津村がぼけっと
空を見上げていた。
「なんで、家の中で待ってないんだよ。わざわざ鍵まで渡したのに」
ぼそぼそと呟くと、津村が気づいてこちらを振り返った。
「おかえり」
にっこりと津村に微笑まれて、佳哉は心臓が飛び跳ねた。
なんでもない瞬間。ただそこに津村がいて、自分に笑いかけている。それだけだったのに、
佳哉は眩暈がするほどドキドキしていた。
「落ちる」ってきっとこういうことだ。
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