恋人はミルク
「芸能人が帰ってきたかと思った」
ジーンズにTシャツのラフな格好にギターを担いだだけの、どこにでもいそうな大学生に
向かって、津村は冗談交じりに言った。
「芸能人にしたら小物すぎるだろ」
佳哉も自虐交じりに鼻で笑った。
「結構凄いオーラ出てたけどね。あ、これ。鍵」
津村は家の鍵を佳哉に渡す。
「中、入って待ってればよかったのに。俺が何時間も帰ってこなかったらどうするんだよ」
「でもちゃんと帰ってきてくれたでしょ?…額、汗掻いてる。走ってきてくれた?」
「なっ…!」
指摘されて、佳哉はカッと顔が熱くなった。逸る気持ちまでばれてしまうなんてかっこ悪
すぎる。津村のクスクス笑う声を背中で受けながら、佳哉はぶっきらぼうにドアを開けた。
「もう、いいから入れ」
「お邪魔します」
慇懃無礼気味に津村は言って佳哉の後に続いて入ってきた。
「へえ……やっぱり『バンドマン』の部屋って違うんだね」
「そうかあ?……まあそのへんの機材は普通の大学生は持って無いだろうけど、後は大して
変わんないだろ」
「大学生の一人暮らしの部屋に入る機会ないから新鮮」
津村はうろうろと佳哉の部屋を動き回って物色を始めた。
「落ち着けって」
「あはは、ごめんね。なんだか楽しくて」
冷蔵庫の前で扉を開けていた佳哉の後ろに回って、津村は冷蔵庫の中まで覗き込んでいた。
「料理とかするんですか」
「自炊しなきゃ生きていけないからなあ……金銭的な意味でな」
「凄いなあ、俺、全然出来ないし。料理の出来る男、ポイント高いですよ」
「誰のポイントが高いんだよ」
「勿論、俺ポイントです」
「……アホか」
「って牛乳?!一人でこんなにも飲むんですか?!」
津村は冷蔵庫を覗き込んで驚いた。買い置きのパックの牛乳が3本も入っていたのだ。
「……好きなんだよ、牛乳」
佳哉は照れ隠しにぶっきらぼうに言った。津村はその姿に完全にノックアウトされたようで
キュン死するかもと真顔で呟いた。
「馬鹿じゃねえの!!」
真っ赤になって佳哉が反論する。津村は思わず抱きしめたくなる衝動を抑えて、その代わり
身体の距離を縮めると、耳元でそっと囁いた。
「うん。俺も好きだよ。こっちのミルク」
佳哉の腰をするっと撫でると、佳哉はビクリと身体を揺らして津村から逃げた。
「おっ…あっ…!!あんたなあ!!」
「佳哉君のミルクタンク空っぽにするまで絞ってみたいなあ」
「!?」
「あれ?下ネタNGだった?普通、これくらいのネタしない?」
「会って3回目のヤツとはしねえよ!」
「なかなか加減が難しいですね。この前キスもしたし、これくらいは余裕かと思ってたん
だけど」
ホントに油断も隙もありゃしない。佳哉は身震いしながら冷蔵庫の前に戻るとビールの缶
を2本取り出して、一本を津村に突きつけた。
「戯言は酔ってから言えっつーの」
「酔ったら、口だけじゃ済まないかもしれませんよ」
急に挑発的な瞳で見据えられて、佳哉はぎゅっと心臓が締め付けられる気分になった。
ころころと表情の変わる津村はとらえどころが無い。真面目なサラリーマンだと思って
いたら、急にセクシーな顔を見せるし、かと思えばエロオヤジみたいないやらしい視線で
佳哉を挑発する。どれが一体本当の津村なんだろう。
「あんたって、わかんねえヤツ……」
佳哉は一人、ビールの缶を開けるとその場で飲み始めた。胃の中も頭の中もグルグルして
いる。ライブの心地よい疲れやデビュー前の小さな心の揺れ、ハイテンションの中にある
不安と、自分という存在への疑問。グルグル、グルグル、掻き混ざってビールと一緒に
ビリビリ痺れながら喉の奥へと落ちていく。
佳哉はローテーブルに飲みかけのビールを置くと、仰向けにベッドに転がった。
「あぁぁっ!」
豪快なため息が出る。隣に津村がやってきて、ベッドに座るとぎしっと音を立てて沈んだ。
「ライブの後は、やっぱり疲れるもの?」
「そりゃあ、客に注ぎ込んでるからなあ。初めから終わりまで全力100%で走りきったら
精力だって抜かれるわ。客に全部持ってかれた」
「お疲れなんだ。じゃあ、俺が生気を注入してあげようか?」
見上げると、津村がニヤニヤ笑っていた。
「あんたなあ!」
冗談半分で振り上げた手を津村は優しく取ると、佳哉の頭をくしゃりと撫でた。
「ごめん、ごめん。……でもさ」
「何!!」
「……ひょっとして、悩んでたりする?」
「何?!」
図星を指され、佳哉は驚いて津村を見上げた。
「なんで……わかんだよ」
「うーん、なんとなく?全力で突っ走ってるようで、合間に急にテンション下げるのは、
そういうスタンスなのかと思って見てたけど、そうでもないみたいだし。ふっと気が抜けて
るようにみえたのは、やっぱり迷いがあるのかなって思っただけです」
この男はどんだけ自分のことを見てるのだろう。佳哉は嬉しいような苦しいような気分に
なった。
津村は佳哉の髪を撫で続ける。佳哉は思わず目を閉じてしまった。
、 「……あんたはさ……」
「はい」
「どれが本当の自分なん?」
「ん?」
「……だってさ、あんたすっげー真面目そうに見えるのに、エロいし、あんたの会社、俺
でも知ってるような有名なとこだから、きっとエリートなんだろ?なんでエリートのヤツ
が俺みたいなのに告白するのか、わけわかんねえ。……使い分けてんの、それ」
「うーん。どれも自分だからねえ。TPOってのがあじゃない?会議中にニヤニヤしてるわけ
にはいかないけど、素の自分がどれかっていわれると、全部自分だと思いますよ」
「全部ホンモノ?」
「ホンモノって言われると違う部分もありますけど。必要とされてるところに必要とされる
自分を出してると思ってますよ」
佳哉は奥歯を噛んだ。
「必要とされてる自分は、ライブではじけてトークが面白くてリップサービスもたっぷり
の『ヨシ』なんだよ。……でもさ、ホントの俺はただの冴えない大学生で、はじけても
無ければ口が上手いわけでもない……。今は厚塗りの仮面被ってごまかしてるけど、いつか
化けの皮なんて剥げるだろ。そしたら、バンドは終わりだ」
「本当の自分はつまらない人間で、何の価値も無いって?佳哉君は自己評価が低すぎるんじゃ
ないのかな」
「俺は……」
「少なくとも俺が惚れたのは『佳哉』君の方ですよ。もう少し自信持ったらどう?」
「あ、あんたこそ、自意識過剰だろっ」
津村の髪を撫でる手を佳哉は払いのけた。けれど、津村は払われた手を強引に掴むと佳哉に
乗り上げた。
「ちょっ…やめっ」
「俺は、ステージ上の佳哉君をよく知らないし、あれが仮面を被ってるっていうのも信じ
られないけど、少なくとも仮面を被ってる佳哉君だって、佳哉君の一部だと思いますよ。
引き出しの一部であって、誰かが憑依してくるなんてありえない。スイッチの切り替えが
あまりに唐突過ぎて、自分じゃないって感覚になってるだけだと思います。それに、素の
佳哉君はステージ上の自分をプロデュースできる力を持ってるじゃないですか」
今の自分に一番欲しい言葉を、津村は惜しげもなくくれた。まっすぐに見下ろされて、佳哉
は照れ隠しに口を尖らせた。
「煽てても何もでてこねえよ」
「ここに可愛い唇があるっていうのに、これ以上、何にもいらないですよ」
「か、可愛いって!!」
佳哉が驚いて半口を開いている間に、津村の唇が近づいてきて、するりとその唇を奪った。
「んっ!!」
二度目のキスも不意打ちで、気持ちも定まってないのにごっそりと持っていかれそうだ。
「んんっ…」
とろりと溶けそうな津村の柔らかい舌が、口の中にゆっくりと侵入して、佳哉の舌に絡み
ついてくる。
津村のキスは優しくされているのに、やっぱり強引だ。
下唇を何度も吸われ、その度、ちゅっちゅと小さな音が響く。流れ込んでくるのは、津村
の匂いと、想いの気がした。
「はふっ…」
「可愛いなあ……」
「男に、向かって……可愛いって…あんた、目…悪い…んんっ」
キスの合間に佳哉が文句をつけると、津村はふふっと笑った。
「だって、落ちちゃったから。……ほら、恋は盲目って言うでしょ?」
耳たぶを噛み付くようなダメ押しのキスが降ってくる。佳哉はぞくっと背筋を震わせて
そのキスを受けた。
津村の指が耳たぶをなぞって遊び始めると、佳哉は顔を反らして逃げた。
「止めろって!」
「感じちゃうんだ〜、ここ」
「違う!!くすぐったいだけ!」
「くすぐったいのが感じるところってセオリーですよ?」
「うっさい!」
「……ホント、佳哉君可愛いなあ。大好きです」
「あんた、恥ずかしい台詞のオンパレードだな」
「そう?思ったまでを言っただけです。それよりも、そういう佳哉君はどうなんですか?
そろそろ、好きになったりとか、しません?」
「しないっつーの!もう、止めろってー!」
佳哉が暴れていると、突然CDプレーヤーから音楽が流れ始めた。暴れた拍子に、ベッドの上に
転がっていたCDプレーヤーのリモコンを押してしまったらしい。
ギターのリフに続き、佳哉の歌声が流れる。津村がどこかで聞き覚えのある曲だと、思い
出そうとしているうちに、佳哉は目に見えるように動揺し始めた。
津村は歌詞に耳を傾けて、そして確信した。
「この歌って……」
「あー!わー!!」
「さっきのライブで歌ってた曲ですよね?」 佳哉は慌てて曲を止めようとリモコンを探したが、そのリモコンは津村に奪われて、上から
ニヤニヤと笑われていた。
『落ちたと言った君の顔、次は何を見せてくれる?』
無言で見詰めあう間の中で、佳哉の歌が流れていく。
「うわああっ、やめろ〜〜〜」
佳哉は恥ずかしくなって両耳を塞いだ。
『落ちたのは僕の方……』
ロージに向かって「お前のために作った曲」そういって紹介したはずの佳哉のバラード。
渡したラブレターを目の前で音読される気分って、こういう気持ちだと佳哉は思った。
「聞くなー!!」
「やっぱり、これって」
「うるさい!うっさい!」
「俺のために作ってくれた曲?」
「っ!」
津村は柔らかい表情をしている癖に、がっちりと佳哉を押さえ込んでいて、逃げることも
隠れることも出来なくなっていた。
「嬉しいなあ」
津村は心底そう思っているようで、顔の筋肉が緩みまくっている。
「でも!!」
佳哉は津村が暴走する前に早口で言った。
「確かに、あんたの所為で作った曲だけど、それが「好き」に繋がるわけじゃないからな!
勘違いすんなよ!」
実際のところ、好きなのかどうか分からない。ただ、落ちたと言われ、キスされて、頭の
中は津村がこびり付いて取れなくなってしまった。
「まあ、普通そうですよね。会って3回で答えを求めるほうが失礼ですよね」
津村がしょぼんと沈んだ。分かりやすい表現力に、佳哉は何故かフォローに回ってしまった。
「今は明確な答えを出せない……でも……」
「でも?」
「会うたび惹かれていくんじゃないかって、そんな気はする……」
「だったら、それはもう好きでもいいじゃないですか」
「力技すぎるだろ!!」
「いつかは好きになるなら、今からでもいいってことです。今すぐ俺の事、好きになり
ましょう」
「んなこと言って、俺にメリットあんのかよ!」
「うーん。そうですね。佳哉君の恥ずかしがるような歯の浮く台詞を沢山並べてあげますよ?
あと、生絞りのミルク……」
津村が言いかけて、佳哉は枕で津村の顔を殴った。
「俺が好きなのは、牛のミルクだけだ!!」
「俺は、牛のミルク絞るより、佳哉君のミルクを絞る方が好きだなあ」
「あんたはエロオヤジか!」
突っ込みながら見上げると、枕をどかした津村とばっちり目が合った。そして、津村は
やっぱり優しい顔になって、佳哉の頭を撫でた。
「落ちました、君に」
佳哉はくすぐったい気持ちでそれを聞くと、覚悟を決めてゆっくりと目を閉じた。
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