天 球 座 標 系
部屋の前を通り過ぎるパトカーのサイレンの音で、春樹は現実の世界に呼び戻された。枕元の時計は
9時を少し回ったところだ。
「・・・今日2コマからなのに・・・」
携帯電話のアラームがなり始めるまであと数十分はあったが、サイレンが春樹の睡眠をすっかり奪い取って
しまい、もう一度寝る気にはなれなかった。
ただ布団から外に出る気にはなれず、何度か寝返りを打って、目覚めの気だるい気分を味わっている。
それから漸く枕元においてあるエアコンのリモコンを手探りで探した。
エアコンを付けなければ布団の外にすら出たくない寒さ。雪が降った日の朝が意外と暖かいと感じる
こともあるが、それでも根本的に東京の寒さとは違う。
冬の長野はこれが3度目だ。松本市で過ごした1年と、長野市に来てから2年。3度目の冬を迎えても
春樹には長野の冬に慣れることはなかった。
エアコンのスイッチが入る音に、春樹のベッドの下の方でモゾモゾと動く音がする。
(・・・要、泊まってったのか)
見れば要は炬燵にもぐりこんだまま身体を縮ませていた。昨日の夜は課題に疲れて先に眠ってしまった
のだと、春樹は思い出す。
「・・・要ー、風邪引くぞ」
「おはよ。・・・気が付いたら寝てた。あー、身体痛い」
要は起き上がると伸びをした。一晩中クッションのよくない炬燵布団で寝ていたのだ、身体も痛くなる
だろう。春樹は布団の中からその様子を見ていた。
「・・・何かあったのかな。サイレンがうるさくて目が覚めた」
サイレンは未だ鳴り止むことなく、目の前を通り過ぎている。何台通過したのか春樹には見当も付かな
かった。ただ、パトカーのサイレンの音の中に救急車も混じっているようだった。
「近くで止まってるみたいだね」
よく聞けば、サイレンの音は遠くからやって来て、近くに止まっているようだ。
「事故でもあったんかな」
春樹は布団からやっとの思いで抜け出して、南向きのカーテンを開けた。結露で曇ったガラスを指で拭いて
窓の外を眺める。
「ん・・・大学の方みたいだけど・・・」
「バイクで事故ったとか?」
「かもな」
春樹もそれ以上は興味が持てず、さっさと炬燵の中に納まった。
「要、今日何コマから?」
「2コマ」
「じゃあ、朝ごはん食べたら一緒に行こうぜ?」
「うん。そうする。でも、その前にお風呂借りていい?」
長野に来てから春樹も要もお互い1人暮らしになった。要の家はここから歩いて5分もかからない。それでも
松本での生活の癖が抜けないのか、要は春樹の部屋に入り浸ることが多いし、それに伴って自然と春樹が
要の部屋に行くことは少なかった。
春樹は要の浴びるシャワーの音を聞きながら、炬燵の上に突っ伏した。
「何だかな・・・」
小学校時代の友人、望月要に再会したのはS大に入って早々の事だった。昔の面影をすっかりなくし、
劇的な変貌を遂げたのは、全て要の母親が起こした火事が原因だったのだと、春樹は要から聞いた。
その火事とは、小学校5年の夏休み前に起きた悲劇のことだ。春樹だとて忘れることは無い。
あの日、春樹は要と”夏の大三角”を見るために2人で家を抜け出す計画を立てていた。家族に見つ
からぬ様、こっそりと抜け出し春樹は家の前で要を待った。
しかし、どれだけ待っても要は現れることはなく、そのうち近所で上がった火事の騒動で母親に見つかり
春樹は家の中に押し戻されたのだ。
それが要の住んでいたアパートから出た火事だったことを知ったのは次の日だった。春樹が駆けつけた
時にはアパートの残骸が虚しく残るだけで、要の消息すらつかめなくなってしまったのだ。
そして、時を経て再会を果たした要に春樹は衝撃的な事実を次々と告げられることとなった。
要の話によれば、アパートを全焼させた火事は要の母と当時アパートに出入りしていた男の諍いから
始まったらしい。その男は要の双子の弟達の父親であったが、要の母と不倫の末に出来た子どもだった。
別れる別れないで散々口論になった挙句、要の母は男を刺してしまったのだと言う。要はその現場で
恐怖のあまり立ち尽くしていた。
そして、男の落としたタバコが引火し、古い木造アパートはあっという間に火の海となった。この
火事で、要は母と双子の弟の1人星夜(せいや)を亡くした。宇宙(そら)を抱いて逃げるので精一杯
だったらしいが、それも途中でぷつりと意識が途切れ、目を覚ましたときには宇宙の行方は分からな
かったのだという。どうも母方の両親が引き取ったらしいのだが、要も詳しくは知らない。
この事件は要にひどく心の傷を負わせることになった。フラッシュバックに悩み、パニック障害を
引き起こすこともあったのだという。そして最大の傷は、母の面影であった。
愛していた男を刺し、それどころか火の中で大切そうにその男を抱きしめ笑ったという、母の異常な
行動により、要はそれ以後一切の女性を受け付けなくなってしまったのだ。肉体的にもその拒絶ははっきり
と現れ、結果、要は支えてくれる人物を幼き頃の思い出の春樹に求めるようになった。
それが全ての始まりであり、今の春樹と要の関係を語るのには外せないものである。
春樹は出会った年の初夏のある日に要からそれら全てを告白された。好きだと言われたことで、
春樹もそして要自身も悩み、漸くたどり着いた気持ちは、実に曖昧で確約されたものではなかった。
ただ、春樹は要の隣にいる自分が心地よいと感じているし、手放したくないと思っている。それが
恋人同士に求めるものとどう違って、どこが違わないのか、春樹にも分からない。求められていると
はっきり感じることもあるが、曖昧な境界線をどこで飛び越えていいのか春樹には決断できなかった。
あるいは要にそこまで強引さがあれば、飛び越えてしまえたのかもしれないが、2人は唇を重ねる
ことはあっても、それ以上の事を求められずに3年近くの月日を過ごしている。
「ふー、やっぱりシャワーだけじゃ、寒いね」
身体から立ち上る湯気は直ぐに水滴に変わって、要の身体を冷やしていく。要は髪の毛から滴る水滴を
タオルで乾かしながら炬燵に潜り込む。
「飯、食う?」
「うん。温かいのがいいな」
「うーん、インスタントのコーヒーか白湯だな」
「何その選択肢」
「コーヒーがあるだけマシだと思えって。この前、板橋のところ行ったら、『何飲む?水か白湯しか
ないけど』って」
「あはは、板橋らしいね」
板橋は春樹と同じ学科の友人だ。二つ隣の部屋に住んでいる。部屋が近いことで春樹とも要とも仲が
よい。人と少し感覚のズレたところがあるが、2人ともそんなユニークな彼を気に入っている。
春樹はトースターにパンを突っ込むと、コーヒーを淹れた。インスタントの薄い味でも春樹には
温かい飲み物というだけで、充分だった。
簡単な朝食を済ませると、2人は春樹のアパートを後にした。部屋を一歩出れば、一面に広がる銀
世界に、春樹は何時も圧倒される。
「去年こっちに来て、スキー場まで30分の意味がやっと分かった」
「今年は特にどか雪が多いからね」
週末にはスキー場に行く車と何台もすれ違うし、春樹自身も何度か白馬あたりに滑りにも行った。今まで
「雪」「スノボ」なんていう単語は何時間も掛けて遠くの山に行ってからじゃないと出会えないもの
だったのに、それがここに来て身近にあるということが春樹には未だに信じられない。
凍結した道を滑らないように慎重に歩きながら、春樹たちは大学に向かう。
「・・・やっぱり、パトカー大学に止まってるね」
「ホントだ」
春樹達の向かう方にパトカーが何台か止まっていた。
S大は長野県内にいくつかキャンパスを持つ総合大学で、春樹たちの工学部キャンパスは長野市に
ある。教養学部のあった松本市のキャンパスで1年過ごした後、長野市にこぞって引っ越すわけだ。
長野市のキャンパスには工学部と教育学部がいくつかに別れて点在している。どうしてこのような
作りになっているのか春樹は知らないが、一見すると単科大学のようにみえるキャンパスで、春樹や
要は2年ほど前から学んでいる。
正門の辺りでパトカーの騒ぎを聞きつけた近所の住人らしき人が数人、中を確認するように覗いて
いた。春樹は要とそれをやり過ごして正門をくぐり、学科棟の方へと歩いた。
「大学の中で何かあったとか?」
「そうみたいだな」
春樹が頷いていると、後ろからアタッシュケースのようなものを持った作業着姿の男が2人、早足で
春樹と要を追い越していく。(あれって、鑑識ってヤツとか)と春樹は口に出すのも自分の想像が馬鹿げて
いるようで、思わず笑ってしまう。
「真逆、な」
「どうしたの?」
「いや、なんでも。・・・そうだ、要、昼どうする?学食行く?」
「・・・うん、そうだね。じゃあ2コマ終わったら学食に行くよ」
授業のある要と講義棟の前で別れようとしたとき、ピロティの前から不可解な顔をして歩いてくる板橋に
出くわした。板橋は春樹と同じ学科だ。共通講義の無い次の時間は彼も研究室に顔を出すのだろう。
「おっす、進藤。お、望月も一緒か」
「うっす」
「おはよう、板橋」
春樹も要も板橋に気づくと手をあげて、挨拶を交わす。
「板橋、どうした?変な顔してさ」
「俺は元々こーいう顔です。・・・っていうかさ、何か起きたみたい」
「何かって?パトカーのこと?」
春樹は正門の方を指差した。
「・・・たぶんな。情報科の講義が軒並み休講。それどころかゼミまでも休みなんだぜ?」
「マジ?ウチのゼミも?」
「お前のとこ・・・?小林研だっけ。どうだったかな、確かめなよ自分で」
板橋はピロティに張り出してある休講掲示板を親指を突き立てて差した。掲示板の前には何時も以上に
休講を確認する学生でごたごたしている。みな板橋と同じように不可解な顔をしていた。春樹は板橋の
指差す方へ自然と身体が流れた。要も自分の休講を確かめるため春樹の隣に並んで掲示板を眺めている。
「マジかよ。なんだよこの休講の数。要のトコは?」
「うーん、ウチの学科は特に何にも出てないよ」
春樹が休講の講座名を目で追いながら、自分の研究室の名前を探す。
「・・・あれ、ウチのゼミだけ名前無い」
「書き忘れじゃない?」
「そんなことってあるか?3コマの小林先生の講義はきっちり休講の知らせが出てるのに」
春樹はうっすらと嫌な予感がしている。
これは書き忘れではなく、他の全講座全ゼミが休みでも小林研だけは「集合しろ」という意味なのでは
ないのかと春樹は感じて、体中に悪寒が走った。
「一体何が起きたって言うんだよ」
春樹と要の後ろで板橋が大きなため息を吐いた。そして振り返った2人にダルそうな顔を見せる。
「くっそー、こんなことならもっと寝てればよかった」
「・・・板橋、その反応間違ってよ」
要の突っ込みに春樹は殆ど反応できず、その場からダッシュで研究棟に向かおうとした。
「し、進藤?」
驚いた要に呼ばれて、つんのめりそうに振り返って「昼、学食で」とだけ伝えると、春樹は今度こそ
ダッシュで走り出した。嫌な予感なんてもので振り回されたくないそう願いながら。
情報科の研究棟は一層ごった返していた。人を掻き分けながら研究室のある3階まで進む。途中で幾つも
漏れてくる声を聞いた。
”なんか、やばいことになってるらしいよ”
”ケーサツ、小林研に入ってった”
”人が死んでるらしいよ”
春樹はどの噂も自分で確かめるまでは信じるつもりはなかったが、研究室に近づくに連れて噂も真実に
近づいている気がして堪らなくなった。
そうやって春樹が人だかりを避けて歩いていると、前から見知った顔が小走りに駆け寄ってくる。同じ
研究室の4年、船田桂(ふねだ けい)だった。
「船田先輩っ・・・」
春樹が声を掛けると船田はびくっと震えて真っ青になった顔をあげた。薄っすらと目の辺りに光るものが
見える。その様子は明かに異常だった。普段から大人しい人間だが、ここまで怯えて蒼白になるなんて
何かがあったに違いない。
「どうしたんですか?やっぱりなにかあったんですか?」
春樹の問いかけに、船田は焦点の合っていないような目を向け、暫く考えていたが、もう一度名前を
呼ばれると、現実世界に弾かれたようで、春樹を見て口を押さえた。
「うっ・・・」
どうやら、船田は吐き気を催したらしく、うめき声を上げながらトイレに消えていった。
(なんなんだよ、一体・・・)
不安だけを無駄に掻き立てられてしまった。春樹は急いで研究室へと向かう。廊下を曲がった先には、春樹の
研究室の他、様々な研究室が並んでいて、普段はここが人だかりでごった返すことなんてまず無い。
春樹は廊下を曲がった直後に顔見知りに会った。
「うっす・・・。これ、一体何?」
「あ、進藤。お前のトコ大変なことになってるぞ。小林先生、探してる。早く行けよ」
何が何だか分からないまま春樹は背中を押された。
「ちょっとー!小林研の学生、通るから」
知人がそう叫んだ瞬間、雑音ばかりの廊下がしんと静まり返り、春樹は一斉にみなの注目を浴びること
になった。そして、モーゼが海でも割ったかのように、春樹の前の人だかりが二つに分かれて、春樹の
前に道が出来上がった。
春樹は痛いほどの視線を受けながら前に進む。人だかりの終わりには黄色いテープがしてあった。まるで
バリケードでも張っているかのように、その先にはだれも通れない。その横には警官が2人立っていた。
春樹は<その警官の1人に小林研の学生であることを伝えると、彼は驚いて、テープの中へ入っていく。
警官は春樹たちの研究室を越えると、その3つ隣の戸を叩いた。なにやら中と会話をしている。そうして
再びこちらへ戻ってくると、春樹に名前を聞いた。
春樹が自分の名前を答えると警官は無言で頷き、テープの奥へと来るように言った。禁域に入っていく
感覚に、野次馬がどよめき立つ。春樹もまた緊張したまま警官の後に続いた。
研究室の戸は閉じられていて中の様子は分からなかった。その前で異臭を感じたが、瞬間の出来事で
それが何の臭いであるか春樹にははっきり分からなかった。
春樹が通された部屋は院生室だった。そこは院生が自習ように使っている部屋で長机とパイプ椅子が
置いてあるだけの簡素な部屋だ。
中には小林助教授の他、複数の人間がいた。制服を着た警官やスーツ姿の男性。それが刑事と呼ばれる
職業の人間であることを春樹は察したが、果たしてどれくらいの身分であるのかは分からない。
「ああ、進藤君」
春樹が部屋に入ると、小林助教授は緩慢な動作で振り返った。比較的助教授の部類では若い小林だが、
何時もの温和さは消え去り、苦悩に満ちた表情で春樹を見た。
「・・・どうしたんですか、一体」
自然と春樹の声も震える。近くにいた男が春樹にも座るように促す。春樹は言われるまま、小林の正面に
座った。
「あの・・・?」
小林が首を振った。それは現実への否定にも見えた。その憔悴し切った顔が春樹の嫌な予感をはっきりと
的中させた。
「赤平君が、死んだんだ・・・」
春樹の耳にその声が届いたとき、春樹は座ったばかりのパイプ椅子を音を立てて倒していた。
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