なかったことにしてください  memo  work  clap
天 球 座 標 系



春樹と要は長野に向けた車の中にいた。
松本キャンパスで宮田から話を聞いた後、2人は直ぐに車に戻り、長野へと発ったのだった。
「宮田の研究室のヒ素は盗まれたんだと思う?」
春樹は運転する要の横顔をちらっと見ていった。
「多分、そうじゃないの・・・そうじゃなければ、こんなに偶然が重なるわけないと思うけど」
要の言葉に春樹は少なからず消沈した。
「船田先輩、一体何があったって言うんだよ」
宮田は春樹に見せられた写真を見て、迷うことなく船田を指差したのだった。
「ヒ素を盗んだかもしれないのも、進藤にファイルを送りつけたのかもしれないのも船田先輩。
それって、赤平先輩を殺したのも船田先輩ってことなのかな」
考えたくなくても、繋がるのはそこだ。船田がまた一歩犯人へと近づいていく。肯定する材料ばかりが
そろっていく中で、否定できるのは「船田先輩はそんなことする人じゃない」という春樹の願いだけだ。
「少なくとも、ヒ素の出所が確定されれば、犯人はのんびり構えてられなくなるんじゃないのかな」
「その線で、船田先輩に近づくしかないよな。・・・犯人であって欲しくないけど」
いざ、本当に犯人が分かりかけると、春樹は誰も犯人であってほしくないと思い始めている。船田も、
そしてアリバイがないといわれている他の人間も。同じ研究室の人間が人を殺したなどと思いたくない。
 赤平の死の真相を知りたいと思う一方で、それを知ってしまう恐怖も感じている。
「進藤?」
「しかもさ、赤平先輩が殺された日の夜に、情報科棟で目撃されてるのも船田先輩なんだよな・・・」
「そんな情報まであるの?」
「ああ」
春樹は4年生の間で噂されているメールを思い出す。
(自分が犯人ですって言ってるようなもんじゃないか・・・)
春樹達は警察の捜査がどの程度進んでいるのか分からない。春樹達が真相にたどり着く前に犯人が捕まる
かもしれないし、そうなったら真相を知るまでに長い時間が掛かるだろう。そうなるくらいならば、その前
に春樹は自分で真相を掴みたかった。知ってしまう恐怖は他人からもたらされるよりも、自分で掴んだ
方がマシな気分だった。
「大学戻って、船田先輩に話を聞く。まずそこからだね」
車は松本に向けて走っていたときよりも、更にスピードを上げていたが、春樹が文句を言うことはなかった。


 車は春樹のアパートの前で停まった。冬の陽は落ちるのが早い。3時を少し過ぎたばかりなのに、辺りは
もう夕暮れの気配を連れてきていた。車を降りると、すっとした寒さが春樹の足元から全身に巡る。
 運転席から要が乗り出すように春樹に言った。
「車置いてから、進藤の部屋に行くよ。そしたら一緒に行こう」
「ああ。じゃあ家で待ってる」
春樹は要の車を見送ると、部屋へと戻った。

 それから僅か10分後、要が冬だというのに顔を蒸気させて春樹の部屋へとやってきた。どれだけのスピード
で走ってきたのだろう。驚いて春樹が問いかけると、要は上がる息の間から言葉を紡いだ。
「・・・宇宙が・・・いない」
「!?」
「朝・・・出るとき・・・ちゃんと家にいるように・・・言っておいたんだ。帰ったら、念のため・・・渡しておいた
合鍵ごと・・・いなくなってた・・・」
赤平の事件が動き出せば、きまって宇宙も動き出す。春樹は頭を抱えたくなった。せっかく要がこちらの
手伝いをしてくれそうになっているのに、また心を宇宙に持っていかれてしまうのか。
「書置きとかないのか?」
要は首を振る。
「じゃあ、板橋のところは?」
そういうと、要は春樹を置いて二軒隣の部屋のチャイムを鳴らしていた。慌てて春樹もサンダル履で追い
かけた。
 板橋は大抵鍵を掛けない。鍵を掛けないどころかチャイムを鳴らしても出ないので、春樹達はチャイムを
鳴らした後で勝手に入ることにしている。
 部屋の中では、板橋が炬燵に入って何かに見入っていた。相変わらずの姿勢に要も春樹も脱力した。
「板橋!」
「ん?ああ、望月に、進藤まで。どうした?」
見れば、板橋は植物図鑑を広げていた。
「宇宙、知らない?」
「宇宙君?今日は見てないな」
「そう」
要は口元に手を当てる。完全に手がかりがなくなった。
「家に帰ったのとか?」
「来たときに持ってたバッグはそのままだった。あの子のこともあるし、家に居るように言ったんだけど」
あの子とは、当然粕谷徹のことだろう。要の心配の元が粕谷徹との接触にあることは容易に想像が付く。
「そのうち帰ってくるんじゃないのか?宇宙君だって4つや5つの子どもじゃないんだから」
そう言うと、板橋はまた植物図鑑に目を落としてしまった。板橋は要や宇宙の事情を知らない。知らな
ければそういう反応になるだろう。
 要は小さくありがとうと呟いて板橋の部屋を出て行った。
「要っ・・・」
春樹もその後を追う。板橋がその姿を見送っていた。

「要・・・」
春樹のアパートの前で今にも走り出そうとしていた要の腕を、春樹は無理矢理掴んでこちらを向かせる。
「落ち着けって」
「・・・あの子と会ってたとしたら、僕はどうやって宇宙を助けれあげればいい?」
掴んだ腕に力が入る。春樹は要の遠くへ行ってしまいそうな目を捉えた。
「そんなの決まってるだろ?『弟を苛めるやつは許さない』って。人殺しの息子って罵られる辛さも、
家族との衝突もお前は知ってる。それだけで十分宇宙は救われてると思うけど」
ほんの少しだけ顔を上げる角度で春樹は要を見て落ち着かせる。
「進藤・・・」
要は春樹を衝動的に抱きしめていた。要の髪に付いたシャンプーの香りが春樹の鼻をくすぐる。突然絡み
ついた要の身体を春樹は支えることも押し返すことも出来なかった。
 そうしてやっと自分が抱きしめられていることに気づくと、春樹は要の腕の中でもがいた。
「えっ・・・あっ・・・要っ・・・ここ、外っ!」
そうして抱きしめた腕を外すと中からは茹ダコみたいに真っ赤になった春樹がいた。
「進藤、やっぱり最高」
要は春樹を見て笑った。

 春樹達は予定通り大学に向かうことにした。宇宙のことは、闇雲に探しても手がかりを得られそうもない
ことや、宇宙が単純に外出しているだけの可能性も考えると、船田を捕まえる方が先だと決断したからだった。
「進藤、船田先輩に会ったら、何て聞くつもり?」
「・・・とりあえず宮田の事から入って、ヒ素が理学部で無くなったことについて聞いてみる」
大学に着くと、大学は何時も通りの平日の夕方を迎えていた。すれ違う学生は、この尋常ではない空気にも
すっかり慣れてしまったようで、悲痛な顔を浮かべている人間などは誰も居ないように見える。
 報道陣の数も初日こそ全国から集まって来たようだったが、続報が入らない限り、表立って動いている
感じは取れなかった。
「今日3コマの共通科目サボった・・・」
「僕なんて5コマもサボりだよ」
春樹はキャンパスに掲げられた時計を見上げる。
「5コマなら、まだ間に合うぜ?」
「この状態で、講義に出ろっていうの?」
「いいのか?」
「いいよ。どうせ、行っても行かなくても頭に入ってこないのは一緒なんだから」
お互いどちらともなく、ため息が漏れた。
 小林研には、珍しく誰もいなかった。春樹は出端をくじかれた気分で、近くの休憩用のベンチに要と
一緒に座った。
「今日に限って誰もいない」
「講義中かな」
「かもしれない・・・」
春樹は立ち上がって、目の前にある自動販売機でホットのコーヒーを2本買うとそのうち1本を要に手渡
した。熱い缶が冷え切った手を温めていく。
「ありがと」
「・・・どうしよう」
「他に分かりそうな居場所は?」
「ないな。ここか自宅か・・・。最悪今日中に大学で捕まえられなかったら自宅に行くしかないとは思う
けど」
春樹達が今後の策について考えていると、隣の石川研から見覚えのある顔が出てきた。
「ああ、どうしたのこんなところで」
「暁さん」
「まだ犯人探ししてるの?」
「はあ、まあ・・・」
春樹は曖昧な答えを返した。暁は春樹達と同じようにホットのコーヒーを買うと、春樹達の正面のベンチ
に座った。暁が要を一瞥する。
「助手?」
春樹は首を振った。
「違いますよ。どっちかっていうと、俺の方が助手だし」
「じゃ、ホームズ君かな?」
「社会工の望月です。・・・でも僕もホームズなんかじゃないですよ」
要はぺこりと頭を下げたあとで、笑って暁の言葉を否定した。
「じゃあ、ワトソン君の群れか」
「群れって・・・」
要は春樹を横目で見た。
「それが一番あってるかも」
「で、どうなの?」
そう聞かれて春樹は握った情報を出そうか迷う。船田が怪しいと分かっていても、この目の前に座る
暁もまた怪しいには違いない。アリバイがない、赤平とセックスフレンドだったという事実、曖昧な態度、
春樹は暁を信用しきれてはない。
 ただ、彼は何か重要な手がかりを持っている気がする。船田よりも上手くやれば、的確な情報を得る
ことが出来るかもしれない。一癖も二癖もありそうな人物だが、春樹は船田を相手にする前に、何か少し
でも情報が欲しかった。
「工学部でヒ素の紛失がなかったって話が出てたの知ってますか?」
「そうみたいだね」
ニュースでも流れているくらいだ。暁は驚きもせずその話を聞いた。この男からはぐらかしながら、
果たして聞き出したい情報が得られるのだろうか。
(心理戦なんて、要でもないし・・・得意じゃないんだよな)
変化球は苦手だ。春樹は真っ向勝負にあっさりと切り替えた。
「松本まで行って来たんです、さっき」
「松本?!ああ理学部ね。真逆、進藤君達理学部まで調べに行ったの?」
流石に松本まで調べに行っていたことに、暁は驚いていた。そこまでの執念とは一体何なのだろうと
暁だけでなく、春樹自身も自嘲してしまいたくなるほどだ。
「行きましたよ。気になることがあったんで」
殺害に使われたヒ素が工学部のものではないとすれば、次に近いのは理学部だ。可能性のあるところ
から潰していくのならば、当然の行動だった。
「理学部は騒然としてました」
「あっちもヒ素騒動?」
暁も春樹達の行動の理由を理解しているようだった。
「はい。・・・その中で前に入ってたサークルのツレに遇って」
「うん?」
「そいつ、宮田っていうやつなんですけど、彼の研究室からヒ素がなくなってた」
「じゃあ、その研究室のヒ素が盗まれて、赤平の殺害に使われたって可能性が見えてきちゃった訳だ?」
暁は冷静に聞いていた。その姿に友人の死に対する悲しみが春樹には感じられなかった。ただ、暁の コーヒーの缶を握った手が僅かに震えたのを、春樹は見ていた。
「俺、気になって研究室のメンバーで撮った写真見せたんです。この中で見たことある人いないかっ
て。そしたら、宮田、迷わず船田先輩を指差して、よく遊びに来るって言ったんですよ」
そうして船田の疑惑は益々深まっていったのだと、春樹は話した。
 暁の身体が瞬間固まった。瞬きすらしないで、じっと手元を見ている。
「暁さん?」
呼ばれて、顔を上げると、暁は漸く息を吐いた。
「・・・そう、船田君が」
暁は手にしたコーヒーを一口飲んで、ポケットからタバコを取り出す。火をつけながら、暁は険しい顔
になっていった。
「動機っていうのなら、彼が一番あるのかもしれないな」
「何か知ってるんですか?」
春樹の知りえない情報がまた一つ手元に転がってくる。春樹は乗り出すように暁に喰らいついた。その表情に
暁も要も驚く。
「進藤、落ち着きなよ」
要が苦笑いして、中腰になっている春樹のズボンを引っ張った。
「あ、悪い・・・」
暁はその様子を見ながら、口元のタバコに手をかけたまま暫く考えた後、周りを見渡した。そして、そこに
誰も居ないことを確認すると、声を潜めた。
「彼が、赤平に苛められていたことは知ってる?」
その言葉の意味を素直にとるのなら、春樹にも十分思い当たる節がある。研究室で赤平から馬鹿にされる
ような言動を幾つも受けている船田の姿を春樹は目にしたことがあるのだ。その度、船田が泣きそうな顔に
なっていることも、言われたまま無理な願いを聞き入れていることも。
「そう。俺も何度か見かけたよ、研究室で赤平が船田君をいじめてる姿」
春樹がそのことに触れると、暁は首を振った。そう言ういじめではないのか。春樹が真っ直ぐな目で見つめる
と暁は少しだけバツの悪そうな顔をした。
「前にも言ったよね。俺と赤平の関係」
「それが・・・?」
嫌な予感がした。暁と赤平の関係に嫌悪まではいかないものの、衝撃を受けた。しかしそれはあくまで2人の
合意の下で成り立っている関係にすぎない。
「赤平って、女も男も抱けるんだ」
暁の口から白い煙が空に向かう。その煙と共に暁は次の言葉を吐いた。
「俺がそういう意味で赤平と友達だったように、船田君もそういう意味でいじめられてた」
春樹は今度こそ勢い余って立ち上がった。頭が沸いたように熱くなる。何故平然と言えるのだとこの男に
怒りすら覚えた。
「な、なんで、知ってて止めないんですか?!」
暁は興奮した春樹を苦笑いで見上げる。吸いかけのタバコを捨てると、すかさす2本目に火をつけた。
「止めなよとは何度も言ったよ。だけどそれ以上の事、俺がどうできる?2人の間に割って周りの人間
巻き込んでまで赤平の事暴いたらよかった?」
「警察にでも、学校の相談所にでも、言えるとことは幾つもあると思います」
春樹ならそれを黙って見逃すなど出来ない。少なくともなんらかの手を打とうと絶対に動くはずだ。
困った顔をして暁は春樹を手で制して、座らせる。
「進藤君は関係ない子まで傷つけても、そうしたほうがよかったって思うんだね」
そう言われて、春樹ははっと気づく。
「朝霧さん・・・」
公にすれば、朝霧は傷つくだろう。それでも、春樹はただそうやって見ていた暁の神経が信じられない。
「船田君が助けて欲しいって言ってきたなら、俺は助ける気はあったよ。だけど、彼だって22の男なんだ
からさ、本気でどうにかしたいなら、自分で動くと思うけどね」
確かにそれはそうだ。気が弱そうなところがあるが、船田だって成人した男だ。切羽詰まって殺すなんて
選択よりも、もっと他に沢山の選択肢があったはずだ。
 春樹が黙ると、要が言葉を出した。
「ところで、何で暁さんは、船田先輩と赤平先輩の仲がそんなことになってるって知ったんですか?」
そんな2人の様子を見て、暁はふっと笑った。
「ケータイ」
「え?」
「アイツ、ホントに悪趣味だと思うんだけど、ケータイでハメ撮りしてたんだよ」
「それって」
「うん。まあ、どうするつもりだったんだろうな、そんな写真。脅しに使うつもりなのか、それをネタに
更に迫るつもりだったのか・・・。赤平はまるで俺の反応を楽しむように見せてくれた。俺はその場で見た
写真は全部消去してやったけどね。あの調子ならきっとまた撮ってたんだろうけど」
春樹は気持ち悪くなって吐き気がした。赤平にもうんざりしてしまうが、何故この男はそんな話を平然と
出来るのだろう。以前、彼は赤平の1番になりたかったと言っていなかっただろうか。
 そんなことを平然としている男でもよかったのだろうか。彼の神経もイカレている、春樹にはそう思えて
仕方なかった。
「他にそのことを知ってるのは?」
要が険しい顔で暁に聞く。
「赤平が船田君をレイプし続けてることを知っているのは、俺と日高くらいじゃないかな」
日高の名に春樹は驚く。赤平は日高にもそんなことを自慢していたのだろうか。プログラムの競争だけ
では飽き足らず、研究室の後輩にも手を出したことすら自慢のネタにしてしまう。
 春樹はいよいよ赤平の事が分からなくなってしまった。自分の描いていた赤平という人間が掠れていく。

 丁度その時、ガチャリと金属音がして春樹達は振り返った。
 足元には鍵の束、それを拾おうともせず、此方を蒼白な顔で見詰めていたのは――船田だった。








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