なかったことにしてください  memo  work  clap
天 球 座 標 系



「船田先輩・・・」
春樹の問いかけに、船田は唇を震わせた。いつからそこに立っていたのだろう。しかし、その表情から
すると、春樹達の会話の殆どを聞いていたようにも見える。
 船田にしてみれば、赤平とのことなど誰にも知られたくないはずだ。それを暁が知っていただけでなく
春樹達にも知られてしまったのだ。
 船田の顔が歪み始める。黒い瞳が潤み出して、そこから今にも大量の雫が零れ落ちそうになった。
「船田君・・・」
暁に名前を呼ばれた途端、船田は弾かれたように走り出した。
「あ、待って!」
春樹も思わず駆け出していた。

 船田が落とした鍵の束を蹴飛ばして、近くの研究室のドアに激しい金属音を鳴らした。春樹はそれに構う
ことなく、船田の後を追う。
「進藤っ!」
後ろから要の慌てた声が聞こえてくる。春樹は船田の背中を追ったまま答えた。
「絶対、捕まえる」
ここで、このタイミングで船田を逃すわけにはいかない。船田の犯行の動機らしきものを知ってしまった
以上、春樹は決着を付けたかった。たとえどんな結末が待っていようが、春樹はその目で確かめたかった。
 赤平がどんな人物で、春樹が知っている人間とどれだけかけ離れていようが、殺された事実は曲げる
ことはできない。赤平はどんなになっても戻っては来ない。死に対する怒りを春樹は未だにはっきりと
感じてる。殺されていい命など一つもない。
 だがその一方で、赤平が船田にしたことは到底許されるものではないことも確かだ。結局、気持ちの落ち
着く点を春樹自身探しているだけなのかもしれない。
 今はただ、船田から話を聞く他なかった。
 船田は東側にある階段を駆け上っている。小刻みの足音がどこまでも上に昇っていく。
「屋上か」
その後ろを二つの足音が追った。
「飛んだりしないよね」
春樹の直ぐ後ろで要が言う。勢い余って飛び降りてしまうなど考えたくもない。
「・・・怖いこというなよ」
ただ、その可能性がないとは言えない。
 薄暗い階段を駆け上がり、船田は鉄の扉を開けた。春樹の目に強い西日が入り込み、目がくらくらする。
光の中に溶けていく姿を顔をしかめながら追った。
 屋上に出ると空一面が赤く照らされて、夕暮れの寒さと薄気味悪さに身体が震えた。春樹は船田を探す。
屋上の中心まで出てくると、全体が見渡せた。春樹達の入ってきた東階段の他にもう一つ西階段がある。
そこから下ったのかと思ったが、西階段の鉄扉はきっちりと閉まったままだ。逆光の中、春樹は目を細めた。
目を凝らせば、船田は西階段の直ぐ隣の外周を取り囲むフェンスにへばりついていた。
 フェンスは丁度船田の肩の辺りで終わっており、よじ登れば簡単に向こう側へと行ってしまう。その
向こうはわずか30センチほどの足場があるだけだ。
 春樹達が駆け寄ると、船田はその姿に気づいて身体を震わせる。
「来るなっ!」
船田の甲高い声が響いた。
 瞬間、春樹は感じてしまった。船田は飛ぼうとしていると。止めに入らなければ、そう思って一歩
近づくと船田は更に高い声で春樹の行動を制した。
「これ以上来たら、直ぐにでも落ちてやるっ!」
要の手が春樹の肩に掛かる。春樹はそこで歩みを止めた。
「船田先輩・・・俺たちは・・・」
春樹も掛ける言葉が分からなくなる。聞きたいことは沢山あるが、追い詰めることはできない。
 船田は潤んだ瞳で春樹達を睨みつけた。
「来るな・・・。もう、僕は・・・終わりだ・・・」
船田の頬を伝う雫が日に当たって黄金色に輝いていた。
「船田先輩・・・本当なんですか・・・」
絶望の淵に立っているのは船田なのか、春樹なのか。お互い一歩踏み出せば、絶望という激流に溺れて
しまいそうだ。
 赤色に染まった瞳が春樹を見る。
「本当・・・?・・・そうさ、全部ホントだよ!」
「全部・・・」
春樹は唇を噛み締めた。船田の差す全部とは赤平の殺害まで含んだものなのだろうか。春樹は信じたくない
という気持ちが最後まで足掻き続ける。
「み、宮田の研究室からヒ素を盗んだのも、先輩なんですか!?」
そう聞かれて、船田の震えが止まった。春樹の顔を一瞥した後はじっと下を見つめたまま、口を聞くことも
なく固まっている。
「船田先輩?」
もう一度春樹が問いかけると、船田は顔を上げた。それはどこか「覚悟」を決めたような顔に見えた。張り
裂けそうな高い声は消え、目つきすら変わっていた。
「・・・進藤君、君は思った以上に機転が利くんだね。それとも、そっちのお友達のおかげなのかな・・・。そう
だよ。僕が柿崎研からヒ素を持ち出した」
「何でですか!?」
船田は春樹を挑発的な顔で見る。初めて見る表情に春樹は背筋がぞくっとする。豹変するとはこういうこと
なのだろう。春樹は船田から受けるダメージが大きすぎて、腹筋に力を入れていなければ立っているのも
辛くなっていた。
「決まってるじゃない」
「決まってる・・・?」
「人を殺す以外でヒ素なんて盗まない」
船田の言葉は春樹に決定的な一打を与えた。必死で願う気持ちが音を立てて崩されていく。赤平を殺した
のはやはり船田なのか。聞きたくなかった一言が春樹の頭の中を駆け巡っている。両耳を押さえても、
もう消えることはない。
「なんで・・・」
船田は涙声のまま、鼻で笑う。春樹や要を馬鹿にしているというより、自分を蔑む笑いだった。
「さっき全部聞いたんだろ?暁さんから。僕が、赤平に何をされていたのか」
春樹達の間を冷たい風が通り抜ける。切れるような寒さは船田の心の中のようだ。
 やはり暁の話は本当なのだろうか。そしてそれが赤平殺害の理由になるのだろうか。
「赤平先輩は本当にそんなことしたんですか」
「信じられない?・・・そうだよね、赤平、進藤君には友好的だったもんね」
「赤平先輩は、なんでそんなこと・・・」
「知らないよ!何で僕がそんなことされなきゃいけなかったのか、僕が知りたいくらいだ!!」
憎しみを思い出しているのか、船田の声が再び高くなる。
「でも、理由とかきっかけとか・・・」
赤平が何故船田にそんなことをしたのか。確かに赤平は傲慢な性格だったが、犯罪を犯すようなことだけは
絶対しないと思っていた。目の前に被害者がいるというのに、春樹はまだどこかで嘘であってほしいと願って
しまう。
「進藤君は、あの最低な人間のこと信じたいんだね」
船田はここにいない人間をたっぷりと軽蔑した口調で言った。どれだけ憎しみが深いのだろう。船田のぶつ
けてくる気持ちの重さに春樹は耐えられなくなる。
「そんなに知りたいなら教えてあげるよ!僕が赤平にどんな風に組み敷かれて、どれだけ屈辱を味わって
来たのか!全部しゃべって欲しいんだろ?!」
「・・・」
「わかるか?罵声浴びて、ねじ伏せられて、男に無理矢理こじ開けられて、犯されて、止めてくれと何度
も叫んでも、あいつは力に物言わせて笑ってるだけなんだ。僕が・・・僕がどれだけ傷付こうが、アイツには
笑いのネタにしかならない。何度も何度も犯されて、僕は、心も身体も引きちぎられたんだ!」
男の自分が男に犯されるなど、想像もできなかった。隣にいる要を見る。心が繋がった要ですら、全てを
渡してもいいと思うまでに随分と時間が掛かった。正直、今でも怖さが残る。だが、春樹は要にならば
身体を重ねてもいいと思っている。
 けれど、船田のそれは明かに春樹の想いとは質の違うものだ。
「何度も死のうと思った」
行き着く思いは当然の結果なのかもしれない。
「実際赤平の前でも死んでやるって何度も言ったよ。だけどね、アイツ、死ねるもんなら死んでみなって
僕の決死の覚悟ですら笑いやがったんだ」
そのときに、大切な何かがパチンと爆ぜたのだ。モラル、道徳観、人としての尊厳、赤平に対して全て
無くなってしまった。
「このまま僕だけが死んでも、赤平は虫けら一匹死んだくらいにしか思わないんだ。僕の存在なんて所詮
そんなものだよ。そう思ったら僕だけが死ぬなんて耐えられなくなった。どうせ死ぬなら、赤平も道連れ
にしてやるそう思ったんだ!」
肩で息をするほど興奮しているのか、船田の吐く息の白さが夕焼けに照らされて春樹にもはっきりと見える。
「殺すつもりだった。ずっと、ずっと殺してやりたかった・・・だから・・・」
だから、ヒ素を盗んで。だから、赤平にヒ素を飲ませて。だから、殺した。
だからに続く言葉は最悪の結果しかない。そんな最後通牒など聞きたくない。握り締めた拳がじんじんと
痛い。
「僕が柿崎研からヒ素を盗んで赤平のカップに混ぜてやったんだ。・・・あの日、僕が夜研究室に行くと、
赤平が1人でいた。いつもなら、絶対逃げるけど、もう僕は逃げる必要はなかった。チャンスだと思った。
だってそうだろ?手にはヒ素がある。赤平は1人。研究室で2人っきりになった赤平は、僕を振り向きも
せずコーヒーを入れるように言った。そこで僕はすかさず持ち歩いてたヒ素を混ぜて出した」
赤平は何の疑問を持つことなく飲んだのだろう。ヒ素中毒とは下痢や嘔吐を繰り返すのだとテレビの
ニュースコメンテーターが話していた。即効性があるわけではなく、数時間に渡り苦しむ場合もあるらしく
赤平がどれだけもがいていたのかも春樹には分からない。復讐という意味ならば、即効性のある毒物より
遥かにふさわしい毒かもしれない。
 だが、春樹は納得がいかないこともあった。
「・・・そんな風に赤平先輩を殺して、捜査が進めば、船田先輩が犯人だって警察だってすぐに気づくんじゃ
ないんですか」
ヒ素は足がつきやすい。どこで手に入れたか、今頃警察も掴んでいるだろう。
「最初から・・・逃げ切るつもりなんてなかった。赤平を殺した後で死のうと思ってた。・・・だけど、一つだけ
どうしてもやっておきたいことがあった」
「やっておきたこと?」
「・・・赤平が撮った写真を全部消去すること」
暁の言葉が脳裏に浮かぶ。下世話な言葉だ。赤平は船田を犯している最中の写真を携帯電話で撮っていた
というのだ。
「赤平は、ケータイだけに写真を保管しておくようなことはしない。絶対にバックアップがあるはず
だった。僕は死んだ後までみんなの笑いものになるなんて、そんなの耐えられなかった」
赤平の執拗さを知っている人間ならば誰しもそう思うだろう。バックアップがどこかにあると。実際、
船田はそうやって脅されてきたのかもしれない。
「僕が殺人犯であることがばれるのなんてどうってことない。だけど、僕が赤平から犯されてたことだけは、
僕のプライドが絶対に許さない」
動機を全て消去してしまえば、犯罪者のレッテルを貼られても船田は構わないと言っているのだ。動機は
闇の中、誰も船田と赤平の関係を知らないまま、「船田が赤平を殺した」という事実だけが永遠に残る。
船田はそうしたかったらしい。
「だから、赤平のパソコンを全部破壊して・・・それまでは絶対に捕まるわけにはいかないし、死ぬわけにも
いかない、そう思ってたけど・・・暁さんは知ってた。おまけに進藤君にまで知られてしまった」
「すみません・・・」
「・・・もういい。知られてしまったなら、隠すこともない。僕は自分の恥を晒したまま行くよ・・・」
船田が後ろのフェンスに手を掛ける。目の前で人が死ぬなどと春樹には考えられない。羽交い絞めにして
でも止めるつもりなのに、足が震えた。船田の圧倒的な気持ちに押されて、その場から一歩も動けなくなる。
 これではまるで要の追体験じゃないかと、春樹は要の味わったこの恐怖を始めて知った。
「死ぬなんて、止めてください!」
春樹の叫びは、虚しく響くだけだ。幼い要が火の中で必死に叫んだ姿が自分に重なる。
 船田は首だけ振り返って、春樹を睨んだ。
「捕まるくらいなら、死んだほうがマシだ!!僕は、殺人者として罵られ、レイプの被害者として後ろ
指差されて生きてくなんて嫌だ・・・僕の復讐はもう終わったんだ。もういい、赤平が死ねば僕はもう何も
思い残すことはない。僕は死ぬんだ!!」
止めなければ、そう思うほど、春樹は焦る。せめてこの足が動けば、船田を止められるのに、その一歩が
踏み出せない。
「神話のオリオンみたいな人ですね、赤平先輩って」
その時、じっと黙って聞いていた要が初めて口を開いた。フェンスに手を掛けた船田の手が止まる。
「要・・・?」
「だって、そう思わない?オリオンは地上ではその非道な性格から、毒殺されてしまったんだよ?星座に
なってやっと、皆に価値を認められてるみたいだけどさ。赤平先輩も毒殺だし、ホント、オリオンそっくり
だ。船田先輩もそう思うでしょ?」
「そうだね、そっくりだったよ!だから、それが何!」
 興奮気味の船田はその勢いで頷いた。そして頷いてから自分の返事が「間違ってた」ことに気づく。
「進藤のところにファイルを置いたのも船田先輩なんですよね?」
「・・・」
船田は僅かながら顔が歪んだ。間違いなくあのファイルを送ったのは船田だ。春樹はそれに気づくと、
船田がまだ何かを隠していると悟った。確かに船田が赤平を殺したというのなら、あのファイルから
読み出せたWEBサイトの意味は一体なんだと言うのだろう。どの言葉も船田が赤平から受けた屈辱に
繋がるようには見えない。春樹へのメッセージだというのなら、何を伝えたかったのか。
「居場所が欲しいなら、天球に閉じ込められればいいんでしたよね、先輩?」
「・・・」
「だから、赤平先輩を天に召し上げてあげたんですか?オリオンと同じように。それとも、あれはただの
後付?あのファイルの意味はなんですか?」
船田は白を切るのを諦めたのか、ファイルを送ったこと自体はあっさりと認めた。
「あのWEBサイトに意味なんてない。進藤君達が探偵みたいなことしてるから、ただ調査をかく乱する
ために僕が置いただけだ」
要は春樹よりも随分と冷静だった。春樹から貰った情報を洩らすことなく頭の中に並べて、船田の矛盾点
を指摘でもするつもりらしかった。
「じゃあ、なぜ、赤平先輩にヒ素を飲ませた後、研究室に鍵をかけたんですか?なぜ、赤平先輩は助けを
求めることなく、あの場でもがいて死んだんです?あそこで、赤平先輩は死ぬまで何をしてたんですか?
鍵を開ければ外に出られる。普通、腹痛を起こせば真っ先にトイレに駆け込みますよね。だけど、赤平先輩
はそれすら出来ずに、あの場で死んだ。それは何故なんですか?今更、それくらいの事、答えてくれても
いいですよね?船田先輩」
「そ、それは・・・」
「理由があるはずですよね?」
要の物腰は柔らかく聞こえるはずなのに、船田は先程よりも別のところに追い詰められているようだ。
死ねない理由を一つ増やされていく。
 船田は頭をぶんぶんと振って食い下がった。
「そんなこと、どうでもいいじゃないか!僕が死ねば、これは全て終わる・・・僕さえ、いなくなれば・・・
僕さえ、口を閉じてしまえば・・・全部この事件は終わるんだ!!」
要には、もうその魔法は掛からない。狂気には負けるわけにはいかないと、要自身思っているのかもしれ
ない。同じ過ちは繰り返さない、自分の目の前で人が死んでいくのを指をくわえたまま見ているなんてこと
はしなくない。
「本当の事、言ってください。確かに、船田先輩は柿崎研からヒ素を盗んだんでしょう。だけど、殺した
のは、あなたじゃない、そうでしょ?」
「違う、僕だ。僕がやったんだ。・・・もう、それでいいじゃないか!!」
船田の返事が曖昧になっていく。それはまるで誰かを庇っているようにも聞こえた。
 要は初めから船田が犯人ではないと踏んでいたのだろうか?船田の理由には確かに納得できる。春樹達が
納得してしまえばこの事件はそれで解決してしまうかもしれない。
 だが、要の一言によって船田は揺れだした。あのファイルの意味はかく乱などではなく、船田からの
唯一のSOSだったのではないだろうか?
 お互い見合ったまま時間が過ぎる。落ちていく夕日が真っ赤に染まって、隣に立つ要の髪の毛が眩しい
ほどキラキラと輝いた。

 どん、という激しい音を立ててそれは突然に開いた。春樹達と船田の間にある西階段の鉄扉が開き、中から
勢いよく何者かが飛び出してくる。激しい呼吸で一歩ずつよろめきながら近づいてくるその姿は、春樹にも
要にも見覚えのある姿だ。
「宇宙!」
要が叫ぶと宇宙は驚いたようにその姿を見た。そして、息を上げながら、要の方へと駆け寄る。開け放たれ
た扉の奥からは、まだ足音が響いている。
「待てよ、楠木!逃げんじゃねえよ!」
続いて出てきたのは、同じく息を切らせて駆け上ってきた粕谷徹だった。その手には小さなナイフが握ら
れている。
「兄ちゃん・・・」
宇宙の声に粕谷は夕闇の中に宇宙以外の人間がいることに気づく。
 船田の動きも粕谷の動きも止まった。お互い想定していないギャラリーが勝手に自分のストーリーに登場
してきたのだ。追い詰めてきた粕谷も、これから死のうとしていた船田も、目が覚めたようにお互いの顔を
見つめている。
 2本の平行でない直線はたった一点だけで交わる。そこを離れてしまえば、二度と交わることはない。
今、まさにそれは異物が交じり合った唯一の点となって春樹達の前に姿を現していた。









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