なかったことにしてください  memo  work  clap
天 球 座 標 系



 その紙を見つめて、春樹は固まってしまった。これが殺人事件の結末だとでもいうのか。そんな皮肉が
あっていいのだろうか。
「うそだろ」
手にした紙をぐしゃりと潰す。
 アパートの隙間をすり抜ける風の中にちらちらと白い粉が舞った。その冷たい粉が、春樹の手やコート
に当たり、水滴となって春樹を濡らす。
 雪は春樹の心を一層、冷たくした。
「進藤・・・」
要の声に、泣きたい気持ちで一杯になる。
「何かの間違いだよな・・・?」
見上げた要の顔は困った表情のままだ。要にも分からない。ただ、船田からのメッセージは確実に「意味の
あるもの」に違いないのだ。けして自分達をかく乱させるようなデタラメなどではない。
「・・・確かめるしかないと思うよ」
要が春樹の肩を抱きしめる。自然と春樹のおでこが要の肩に掛かかった。そのままそこに顔を埋めてしまい
たくて、けれどもそこで立ち止まるわけにはいかないことを自分に言い聞かせる。
 逃げるのは簡単だ。目を瞑っていれば、警察は犯人を捕まえて、ニュースの報道や新聞から、「動機」を
知ることになるだろう。
 しかし、それでは春樹の気持ちは宙ぶらりんのまま、決着が付かなくなる。犯人の赤平への思いを確かめて
からこそ、この事件は解決する。怖くても、辛くても見る、そう決めたのだ。
 自分で見つけると決めた結末、目を逸らすことだけはしたくない。
 要の肩で迷いを振り切って、顔を上げた。
「・・・朝霧さん、探しに行く」
要は春樹に掛けた手を除けると、にっこり笑って再びその手を握った。
「か、要?」
「どうせ、進藤のことだから、今から研究室にでも行くつもりなんでしょ?」
要は手を自分のコートのポケットに春樹の手ごと突っ込む。
「僕も行くからね?」
「要・・・?」
「進藤が僕を支えてくれてるように、僕も進藤の事、ちゃんと支えてたい。進藤が1人じゃ辛いって思う
ことがあるなら、隣で僕にもそれを分けてよ」
「あっ・・・」
「僕は弱いけど、弱いばっかりじゃかっこ悪いでしょ?」
要には、自分にはない強さがある。お互いが支えられるという心地よい響きに春樹はくすぐったくなった。
 雪は風が吹くたび、強さを増してくる。
要は春樹の頭に張り付いた雪を、空いている手で払いのけた。
「行こう?」
春樹ははにかむように頷くと、夜道を再び大学へと向かった。


 研究室の明かりは点いていた。半ば確信に近い気持ちで春樹達はその中に彼女がいることを期待していた。
もし、純子が赤平を殺した犯人だというのなら、純子には後悔していてほしい。殺したことも、恨んだ
ことも。
 春樹は祈るような気持ちで研究室の扉を開ける。研究室中に点けられた蛍光灯が春樹の目を刺激して、
思わず顔をしかめる。
その瞬間に、声は春樹に向かっていた。
「進藤君・・・」
春樹達の目の前には、げっそりとやつれた頬の、朝霧純子が、所在なさげに立っていた。
「・・・朝霧さん・・・」
春樹は言葉に詰まる。やつれてにごったままの瞳で、純子は春樹と要を交互に見比べた。
 理由も真相も分からずに、春樹は辿りついてしまった。見えないからこそ、おぞましくて、信じたくない
という気持ちが入り乱れてしまう。春樹達に残された道は、純子の良心に頼るしかない。
 真実を語ってくれることを祈るしかない。
 手駒になるというのなら、船田のメッセージくらいだ。どこまでこのメッセージに効力があるのか分から
ないけれど、春樹は、板橋がくれたプリントが鞄に突っ込んだままなことを確認する。
「あの」
「忘れ物?」
「いえ・・・そうじゃなくて・・・ちょっと、朝霧さんに聞きたいことがあって・・・」
春樹が純子を真っ直ぐ見つめると、純子は大きく目を見開いて、春樹を見つめ返した。そして、その瞬間
全てを悟ったように、純子は肩の力を抜いた。
「・・・そろそろ、来るんじゃないかと思ってたの」
「え!?」
「辿りついたんでしょう?私に・・・」
握り締めた拳に力が入る。純子の顔が悲しそうに笑った。
「じゃあ・・・やっぱり、赤平先輩を殺したのは・・・朝霧さんなんですか・・・」
その台詞を搾り出すのにも、体力を消耗してしまうくらいの苦しい言葉だ。
 純子はその言葉に首を振った。
「分からない・・・でも、多分そうだと思う」
「ど、どういうことなんですか?!」
「昴の最後の姿を見たのは、多分、私だから・・・」
「それって・・・」
純子の瞳が水気を帯びる。そして、その雫がぽたりと床に落ちると、純子は叫ぶように泣き崩れた。
「だから、私が昴を殺したんだわっ・・・」
しんとした夜の研究室に、悲しい叫びがこだまする。寒さと悲痛で春樹の心はカマイタチにでも遭ったように
無数に切れた痛みを感じる。
 ぶるっと震えると、後ろで要が背中を摩ってくれた。
「朝霧さん・・・」
春樹は純子の傍まで歩み寄ると、その肩を抱いて、近くの椅子に座らせる。純子は顔を手で覆ったまま、
嗚咽を繰り返した。
 研究室に純子の声だけが響く。春樹は、純子から一歩退くと、窓際にある棚に置かれたコーヒーメーカー
を見た。本当の研究室から誰かがもってきたらしい。随分古いものだが、研究室のメンバーは毎日のように
これでコーヒーを沸かしている。
「コーヒー、飲みます?」
春樹は研究室に昔から置いてあるらしい、コーヒーメーカーをセットした。こぽこぽとお湯の沸きあがる
音と共に心を癒す香ばしい匂いが漂い始める。
 興奮した神経がコーヒーの香りで緩やかに落ちていく。すすり泣く声にも、その匂いはとどいているの
だろうか。段々とその声は小さくなり、振り返れば、純子は顔を覆い隠していた手を除けて、春樹の方を、
いや、コーヒーメーカーを見ていた。
「・・・そうやって、私もコーヒーを淹れたの」
「え?」
「そうやって、ひどく興奮していた昴に、私もコーヒーを淹れたの」
真っ赤に充血した目はコーヒーメーカーの奥にある真実を見ているようにも思えた。純子の声は弱々しくて
消えてしまいそうになる。けれど、春樹の耳にははっきりと届いていて、それは春樹の心に直接訴えかけて
いるからだと思った。
「だけど、昴の一言に私は瞬間自分が分からなくなって」
春樹は息を呑む。固まっている間にも、純子は春樹が耳を塞ぎたくなる言葉を発した。
「・・・私が、ヒ素を入れたの」
目の前が真っ暗になった。やはり、犯人は純子だったのだ。喉の奥から水分がなくなっていく。声が出ずに
ぱくぱくと虚しく口だけが動いた。

 沈黙の後、要がゆっくりとした口調で純子に話しかけた。この口調は船田と対峙していたときのものと
同じだ。初めて話す相手にも要の言葉は容赦ない。
「朝霧さん?」
「・・・」
「朝霧さんは、ヒ素をどうやって手に入れたんですか?」
純子も要を見上げる。赤い目の中で、純子は要の質問から逃れられないことを感じた。
「・・・鞄の中に入ってたの、ある紙と一緒に」
「紙?」
純子は頷く。要は先を促すように、首をかしげた。
「この粉で、人が殺せます」
「それだけ?」
「一文だけ、それだけしか書いてなかった・・・」
その物騒な紙と共にヒ素を仕込んだのは間違いなく船田だろう。純子に赤平を殺させたくて。
 しかし、「殺せ」とも「赤平を殺して」でもなく、船田は漠然と「人が殺せます」と言ってきた。
船田には確信めいたものがあったのだろうか。純子の内に赤平を憎む姿があることを。
「そ、それで・・・私、怖くなって。初めは何でこんなものが私のところに入ってるのか分からなかった。
それに、この粉、結局はヒ素だったみたいだけど・・・私には何なのか分からなかった。知らなかったの。
・・・だけど、持ってるのも怖いけど、捨てるのはもっと怖くて。ずっと鞄に入れっぱなしにしてたの」
そうして純子は常にヒ素を持ち歩くこととなった。
「だけどね・・・そうやって持ち歩いてたのがいけなかったんだと思う」
「?」
「・・・確かに、初めは持ってるのが怖かったはずなのに、そのうちそれが安心に変わってしまったの」
「どう言う意味ですか・・・」
純子は悲しそうな顔をする。
「人って弱いのよ。むかついたり、嫌な事があると、すぐ相手の所為にしてしまう。そんなときに、自分の
手元に凶器があるとね、人はそれに取り付かれてしまうのよ」
「・・・」
「この粉を持ってるってだけで、どんなに嫌な事があっても『あんたなんて、この粉で殺せるのよ?』
って心の中で唱えるようになってた。・・・その粉が本当にそんな能力があるのかすら知らなかったのに・・・」
「思っているうちは罪にはならないですよ」
要のフォローは虚しいだけだった。
「思ってるだけなら罪にはならない、そうね。確かにそうだけど、そう思うことで、心は死んでいくの。
荒んだ心は、簡単に悪魔に手渡せてしまうのよ」
そして、悪魔に心を手渡してしまった純子は、恋人を手に掛けてしまったのだというのだ。
 純子の言葉はそこで途切れた。思い出すように目には涙が溜まって、握り締めた拳が震えた。
「・・・そんなに、赤平先輩のこと、憎かったんですか」
春樹の項垂れた声が響く。
 純子は下唇を噛んで、零れ落ちそうになる涙を止めている。しかし、春樹の答えに首を振った瞬間、涙は
雫となって、膝の上の手に落ちた。
「そんなことない・・・。あの瞬間まで、勿論今も、昴の事愛してるわ」
「だったらなんでっ・・・」
純子は再び顔を覆って泣き始める。春樹には悔しいのか悲しいのか分からない涙だった。
「私だって馬鹿じゃないわ、昴のよくない噂なんて幾つも知ってるし、それを承知で付き合ってた。それ
でもよかったの。昴の才能を私はとても尊敬してたから。あんなこと、気にならないほど、惹かれてた・・・」
「あんなこと?」
純子は自嘲する。その顔が痛々しい。
「・・・進藤君だって、昴の噂くらい知ってるんでしょう?」
赤平の素行の悪い噂なら幾らでも春樹の耳に入ってきている。春樹はばつの悪そうに頷いた。
「女癖が悪いのも、傲慢なところも知ってた。私と付き合い始めてもそういう噂は幾つもあったし、気に
ならないわけじゃなかったけど、私には耐えられると思ってた。・・・だけど」
それは全て、赤平の才能を尊敬していたからだった。
「・・・あるとき、懸賞金プログラムがある事を知って、日高君と昴と3人でこぞって作り始めたの。でも、
すぐに行き詰った。そうそう簡単に上手く行くはずないわ。分かってたけど昴は焦ってたんだと思う。
それからすぐに、日高君のプログラムが盗まれたっていう噂が広まった」
純子のよりどころだった天才的な才能までもが汚れてしまったのだ。信じていたものが黒くなっていく。
赤平を愛していた気持ちが蔭り始める。純子と赤平の間の溝はそこから急激に開き始めた。
「実際、何度も日高君に確かめたわ。本当に盗まれたのかって。本当にプログラムを破壊されたのかって」
返事は勿論よいものではなかった。そして、日高は純子に赤平が盗んだことを何度も咎めたらしい。事ある
毎に、純子に赤平の素行のことで辛く当たった。
「あいつは、人のもの盗むの、得意だからな」
日高の言葉は、純子の心を更に荒んだものとした。
 悶々とした日々が続いて、純子は疲れた。昼間に研究室に篭っていても作業は進まず、仕方なく夕食後も
研究室で作業することが多くなった。
「偶然だったの・・・あの場に昴がいたのは」
もしかしたら、毎日のように純子が研究室に戻ってきていることを赤平が知っていれば、赤平は死ぬことは
なかったかもしれない。
しかし、その時はやってきてしまった。凶器は一瞬の「間」を見逃してはくれない。あっという間に
人を狂わせてしまう。
 純子は研究室で会った赤平を、瞬間的な感情で殺してしまった。
 その揺らぎない事実に、春樹の心が悲鳴を上げそうになる。殺すまでの事がどうして起きたのだ。事実
は受け入れるしかないが、春樹には純子の気持ちがまだ見えない。
 要が、先程と変わらない口調で続けた。
「ところで、研究室に鍵を掛けたのは朝霧さんなんですか?」
純子は困ったように笑って、頷いた。
「どうしてそんなことを・・・」
それこそ、この事件が発生してからずっと謎だったことだ。純子が鍵さえ掛けなければ、春樹達は犯人に
こんなに早く辿りつくことは出来なかったはずだ。当初から研究室のメンバー内に犯人がいるとその鍵は
物語っていた。
 そんなリスクを抱えてまで、どうして純子は鍵を掛けたのだろう。
「多分、見なかったことにしたかったんだと思う」
「どういう意味ですか」
「・・・自分の心に鍵を掛けて、逃げたかったの。なかったことにして、逃げたかったのよ」
研究室の鍵は、純子の心の蓋を閉じる鍵だとでもいいたいようだ。心を塞ぎたくなるような出来事。瞬間
に純子がヒ素を入れてしまうような、「間」。
 あの日、研究室で一体何があったんだというのだろう。
 春樹の中に得体の知れない恐怖が近づいてくる。ざらりと表面を舐められて、身震いする。
「あの日、何時ものように研究室を訪れたら、内部から、昴の恐ろしい声が聞こえてきたの。誰かに対して
ひどく怒っていて、私、怖くなってドアノブを手にしたまま、中の様子をそっと覗いてた。そしたら・・・」
純子はそこで黙りこくった。
 その中で、純子は見てはならないものを見てしまったのだ。









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