なかったことにしてください  memo  work  clap
天 球 座 標 系



 目覚ましよりも早く目が覚めた。これで二日連続だった。浅い眠りで疲れが取れないまま、春樹は枕元に ある携帯電話に手を伸ばす。
 目覚ましのアラームとは違う音に、目を擦りながら確認する。要からのメールだった。
『10時に進藤のうちに行くよ』
昨日、要と別れてから、春樹は不安な思いを抱えたまま自分の部屋に戻った。あまりに多くの事が一気に起き すぎて、頭の中がパンクしそうだった。
 赤平の死、そして要の弟との再会。一昨日までの「起きて、勉強して、寝て」を繰り返した日常を一変させる 出来事が二つも起きたのだ。
 尤も宇宙のことは直接春樹には関係が無い。だが、あれだけ要の動揺した姿を見ると、こちらまで不安定な 気分になってしまう。
 春樹は要を支えることはできても、救うことはできない。それが分かっているからこそ、春樹は辛かった。
起き上がって、直ぐに炬燵にもぐりこむ。冬の朝は苦手だ。時間ばかりが闇雲に通り過ぎていく。炬燵の中が 温かくなるころには、再び眠気がやって来て、部屋に掛けてある時計を見ながら、頃合を見計らう。
 数十分は寝られる。そう思って目を閉じるのだが、どこかで覚醒している頭を完全に眠りへと落とすことは 出来なかった。眠たいのに眠れない、こんなことは滅多にあることではない。春樹は炬燵に突っ伏した。
これから向かっていく流れに逆らえない予感が、春樹の心を不安にする。どう足掻いても赤平の死も宇宙の 行動も、春樹がどうにかできることではない。ただその流れに乗っていくだけだ。
 炬燵の中で時間を無駄に費やしていると、玄関のチャイムが鳴った。顔を上げれば時計はまだ10時を20分も 前を指している。
 しかし、こんな時間にやってくるのは要しかいないはずで、春樹はスウェットのまま玄関の鍵を開けた。
「おはよ」
「・・・進藤、まだ寝てたの?」
ドアを開ければ、通学準備万端の要が呆れ顔で立っていた。
「起きてた!」
「ぶっ、進藤、子どもみたい」
要に寝起きを誤魔化していたことを笑われて、春樹はむすっとする。
「大体、お前が20分も早く来るからっ・・・」
春樹はドアを開いたまま、部屋に戻っていく。要もそれに続いた。
 要はコートのまま炬燵にもぐりこむ。要の連れてきた外の空気が春樹の身体を一層寒くした。すばやくセーターに 着替えると、春樹もまた炬燵に身体を突っ込んだ。
「・・・弟は?」
「部屋にいる。日中は出歩くなとは言ってあるけどね、補導されても堪んないから」
「そう」
隣で見る要も、幾分疲れたような顔をしていた。やはり感動的な兄弟の再会とはいかなかったらしい。
「宇宙が何を考えているのか、僕には検討もつかない」
「あれから、何にも話さなかったのかよ?」
「住んでるところとか、部活の話とかは聞いたよ。陸上部に入ってるんだってさ。あと、迷惑だったかって 聞かれた」
今更のことに要は苦笑いする。見ないふりをしてずっと過ごした10年。突然現れた弟を迷惑だと言わなかったら 他に何というのだろう。
「なんて答えたんだよ」
「・・・会えてよかったって。偽善ぽいかなやっぱり」
「思ってないのか?」
「分からないよ、自分でも。生きていてくれたのは嬉しいけど。宇宙が僕の知らないところで幸せならそれで よかったのに」
そう言って俯いた要の頭に春樹はそっと手を伸ばす。弟と同じような柔らかい髪の毛をくしゃくしゃ撫で 回すと
「まだ、時間はあるんだし、ゆっくり考えればいいんじゃねえの?」
と言った。


 雪がちらつく中、春樹と要は講義棟に向かった。今日の雪は水分が多く、傘からはみ出したコートの裾は 既に濡れて冷たくなっている。
 大学内は昨日ほどの騒ぎは収まっていたが、噂はかなり広まっていた。あちらこちらで囁かれる赤平の死を 春樹は不思議な気分で聞いていた。
 どうして、誰もその死を見てもないのに信じられるのだろう。春樹は話ばかりが一人歩きしていく光景に 薄ら寒さすら感じる。
 講義棟のピロティーを抜けて、学生達が休憩しているロビーに入る。大講義室の講義が丁度終わったところ で、そこから吐き出されてきた学生達が思い思いの場所でたむろっていた。
 それらの学生を縫うように掻き分けて歩いていると、空き講義室からすすり泣く声が聞こえてきて、 春樹達は足を止めた。講義室は扉が半開きになっており、その隙間から春樹は中の様子を覗った。
 見れば、それは朝霧純子、赤平の彼女だった。
彼女の隣には2人の女友達と1人の男が腫れ物でも扱うようにその姿を見詰めている。春樹は思わずその 扉を開けてしまった。要が驚いて、その後を追う。
「進藤?!」
 その声に驚いてこちらを凝視する3人。遅れて、純子も顔を上げた。春樹は純子の他、3人を全く 知らなかった。
 初めて見る顔にたじろいで、慌てて純子の名を呼んだ。
「あ、あの、朝霧さんの姿が見えたから・・・」
「・・・進藤君」
純子の顔は全体的に腫れあがっており、瞼の辺りは痛々しいほど赤くなっていた。純子は嗚咽の隙間から 春樹の名を呼ぶ。しかし、春樹から赤平を連想されるのか、純子は号泣し始めた。
 3人が春樹を睨む。やっと落ち着いてきたのに、とそのうちの1人が言った。
「・・・すみません、俺・・・」
「昴は・・・本当に・・・死んじゃったの・・・?」
純子とて、赤平の亡骸に対面したわけではないのだろう、心のどこかで嘘であってほしいと叫んでいる ようだった。
「俺も・・・実感湧かなくて」
「ねえ・・・本当は・・・どこか・・・で生きてる・・・んでしょ?ねえ・・・そうでしょ?!」
「・・・」
春樹が返答に詰まっていると、寄り添った女がきつい口調で純子の名を呼んだ。
「純子、辛いのは分かるけど・・・」
純子はその声に顔を上げ、その女の方を睨んだ。しかし、直ぐにその顔は力なく崩れ、純子は口を押さえた まま部屋を飛び出してしまった。
「純子っ・・」
女が追いかけようとしたが、隣にいた男がその肩を掴んだ。彼は首を横に振ってため息を吐く。
「俺たちが傍にいるのは、逆効果だよきっと」
その言葉に女も伸ばしかけた手を下ろした。
「あの・・・」
声を掛けた春樹に3人が振り向く。春樹はもう一度軽く頭を下げた。
「朝霧さんと同じ研究室の3年で、進藤ですけど・・・」
「ああ、小林研なのね、それで・・・」
3人は顔を見合わせて頷いた。
「あたし達ね、純子と同じサークルだったの。みんな今M1よ」
「じゃあ、朝霧さんとは仲良かったんですね」
「まあねえ・・・」
含みのある返答に春樹首を傾げる。
「なんか、複雑なのよね」
「複雑、ですか?」
「純子の今の心境思うと、あたし達だって辛いけど・・・。赤平君は勿論気の毒だと思うし」
その言葉に残りの2人も納得の表情で頷いている。
「先輩達、赤平先輩の事、知ってるんですか?」
「・・・赤平君も同じサークルだったのよ」
「そう、ですか」
3人は誰ともなく春樹達に赤平と純子のことを語ってみせた。彼らが付き合い始めたのは3年ほど前の ことだが、いつから付き合っているか明確には誰も知らなかった。
「気が付いたら付き合いだしてたのよね」
しかし話によると、純子はかなり赤平に惚れこんでいた様であり、一同は心配していたのだという。
「あの子、本当は勝気な子でしょ?プログラムだってすっごいもの書いちゃうし、誰にも負けないって 自信たっぷりで生きてきたような子だったのに、選りによって赤平君となんて・・・」
彼女の言葉には明かに棘があった。それは春樹の知らない赤平の姿だった。
「進藤君、だっけ?」
「はい」
「3年ってことは、まだ入ってそんなに経ってないのよね・・・。じゃあ、あんまり赤平君の事知らない のよね」
「・・・そうですね」
「こんなこと、あんまり言いたくないんだけど、赤平君が亡くなったのは本当に気の毒だと思うけど、 純子にとってみれば、別れるいいきっかけになったんじゃないのかって思ってるのよ。・・・あ、今のは 純子には絶対内緒よ」
春樹が驚いてその発言を聞いていると、彼女達の話は続いた。
 赤平は春樹の感じていた傲慢さを誰にでも発揮していたらしい。出てきた言葉は不遜、女たらし、 無節操など春樹が驚くような言葉ばかりだった。
「どうして、あの男に純子が惚れたのか、わたし達にはさっぱりわかんないわ」
「ただ、赤平君って暴君を絵に描いたような性格だったけど、すごく頭がよかったのよ。純子、赤平君 のプログラミングの素質を尊敬してたんだと思う」
「確かにアイツは頭めちゃめちゃよかったもんな。もうちょっとそのいい頭で周りのこと考えられれば よかったのに。・・・それでさ、赤平って自殺だったの?それとも殺されたの?」
無節操なのはどっちだ、と春樹は心の中で怒りを覚えながら首を振った。
「俺にもわかりません。ただ、俺には赤平先輩はそんな悪い人には見えませんでしたけど」
そう言った春樹に3人は苦笑いを浮かべた。
「あたしたちも、初めはそうみえなかったわよ」
春樹は失礼しますと掠れた声で言うと、部屋を出た。後ろを黙って要が付いてくる。
 確かに春樹も赤平のことをあまりよい評価で見てはいなかったが、あんな風に酷評されると、何か 自分が傷ついたような気分になる。
「あーあ」
「・・・赤平先輩が、思った以上に嫌な人だったってことにショック受けてる、とか」
「俺って、見る目ないのかな」
「誰かを評価するときに、周りの事なんて気にすることないのに」
「まあ、そうなんだけど。でもやっぱりショックはショックだろ」
「そうだね」
自分が赤平の死を実感できない一方で、赤平の死をあんなに簡単に受け入れしかもあっけらかんとして いる人間がいる。
 全ての人間が「惜しい人を亡くした」などと思うことは無理なことなのかもしれないが、春樹の見て いた赤平は一体なんだったのだろうと、虚しくなる。
「赤平さんの彼女は、大丈夫なのかな」
そういえばと、春樹は飛び出していった純子の事を思い出す。
「彼氏が死んだなんて・・・ショックだよな」
「そうだね」
春樹の知る朝霧純子は明朗で知的な女性だ。後追いなどするような人間には思えなかったが、あれほど までに打ちひしがれている姿を見ると心配になる。
 大切な人を亡くすというというのは自分の中の細胞が死んでいくようなものだと、要は言った。
 奥の大講義室の前に着くと、要が立ち止まった。
「ところで、進藤、今日の予定は?僕、今から、ココなんだけど」
「そう。この後、コンパイラの講義。4コマに共通がある」
「じゃあ、お昼学食行く?」
「ああ、いいよ。じゃあ、あとでな」
要とは講義室の前で別れた。


 学食は何時も通り込み合っていた。長い列を作って漸く席にたどり着く。一番窓際の席に春樹は要と 対面で座った。
 春樹達が席に着くと、早くも食べ終えた学生がけだるそうに席を立っていった。
「情報の連中に聞かれまくって、うんざりだった」
春樹は2コマ目の講義の時間に赤平の死について周りから色々と聞かれた。だが、春樹にしてみても事情 は知らないも同然である。薬物によるであろうという死因以外、赤平の死に関して何も知識を得ていない のだ。聞かれても答えようがなかった。
「事情聴取で何聞かれたのかとかさ、殺人事件なのかとかさ。俺の方が知りたいよ」
学食のカレーをほおばりながら、春樹は要に言った。
「大体、小林研の3年は俺だけじゃないんだから、他にも聞けってーの」
「そうなの?」
「いるよ、俺含めて3人。・・・まああの2人はちょっと変わってるから、話かけづらいのかもしれないけど」
「変わってる?」
「まあ、いわゆるオタクってヤツ」
情報系の学科には一般的な「パソコンオタク」みたいなもしくはその予備軍の存在が少なくない。彼ら は大集団というものを嫌うらしく、大勢の中にいては常に孤独なバリアを張っている。そのためか、自然と 友人の部類は少なく、同じ学科においても声をかける人間があまりいない。
 小林研のメンバーもまさにその部類の人間で、春樹でさえ滅多に話す事は無い。
春樹達が他愛のない話をしていると、隣の空いた席に新たに人が座った。春樹が横を振り向くと、
「あ、ごめん、ここ空いてるかと思って」
その人は慌ててトレイを上げようとした。
「いえ、空いてますよ・・・あ、日高先輩」
「ああ進藤か」
そう言って彼――日高大輔(ひだか だいすけ)は隣に座った。春樹は手短に小林研のM1だと要に紹介 した。要が軽く会釈する。
「友達?」
「はい、社会工ですけど」
「ふーん、そう。・・・やっぱりそっちにも噂行ってるの?」
赤平が死んだっていうやつ、日高は小声で付け足した。
「ええ、まあ多少は」
「そう」
日高はさして興味もなさそうにお茶をいっぱい飲む。しかし続けて出た言葉に春樹は耳を疑うことに なった。
「あいつが死ねばいいって思ってる人間は意外と多いんだろうな」
「日高先輩?!」
思った以上に大きくなった声に回りが一斉に春樹を見る。日高が苦笑いしながら首を振った。
「まあ、でも実際のところは、そんな殺人とかたいそうなものじゃなくて、ただの自殺なんじゃないの?」
そう呟いた日高の声はカラカラに乾いていて、春樹の耳を素通りして行った。





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